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360 :五月の冬 ◆gSU21FeV4Y:2011/05/08(日) 20:50:59 ID:/ej2yWxw
かなり急な坂道を自転車を引いて歩く。
自転車を引く手が汗で滑る。千葉 五月(ちば さつき)の住む町は坂が多く、交通のアクセスが悪い。近いからという理由で入試を受け、今年から通うことになった七里南高校まで、約一時間もかかる。以前までは十分ほどで通えるほどの近さだったが、引っ越したことで、かなりの距離を自転車で通う羽目になった。
一時は本気で違う学校に通うことを考えていたが、面倒な手続きが必要だったり、学校が受け入れてくれないなどの理由で、必死に毎朝自転車を引いて歩いている。

学校の自転車置き場に自転車を置き、鍵をかけたところで後ろから声をかけられた。中学で一緒だった、友人の槻田 愛(つきた あい)が俺に挨拶をした。
「おはよう、五月。もう一人暮らしは慣れた?」
「おはよう。料理はまだ慣れない。旨く作れなくて……」
「そっか、大変だね……なにか私にできることがあったら言ってよ?」
「うん、そのうちな」
そのうちは大抵の場合来ない。

愛は中学の時から世話焼きで、色々な人に世話を焼いていた。
俺も何度か委員会の仕事を手伝ってもらったことがある。
手伝ってもらったことがきっかけで、その後友人になった。
一緒の高校になったのは、入学式で顔を合わせた時に初めて知り、顔なじみがいないと思っていただけに少し嬉しかった。

「じゃ、またね!」
教室の前で愛と別れた。愛は隣のクラスだ。

入学式が終わり、普通の授業が始まってから二週間。
俺は友達を作らなかった。
あえて作らなかった。というより、作るだけの余裕がなかった。

学校は大体午後の四時頃に終わる。
午後五時から午後九時までバイトをし、夕飯を作って食べ、
風呂に入り、その日に出た課題を終わらせ、アイロン掛けを済ますともう十一時半になっている。
高校生の寝る時間としては普通じゃないか?と思うかもしれないが、
翌日のことを考えるとこれはかなりキツイ。

午前四時に起きてバイト先に向かう。
それからバイトをして七時にバイト先で着替えて、学校まで自転車で走る。朝食は食べない。
八時に学校に着くが、そのころにはもうくたくただ。
前日の疲れがほとんど残った状態で、以上のことをするのだから。


学校で話すだけの人間は居るが、それ以上親しくなろうとは思わない。
今日もいつも通り、自分の席に座ってただ何もせず前を見ていた。

俺も、好きでこんな生活をしているわけじゃない。
新しい友達を沢山作るぞ!と思っていたし、部活だって、やるつもりでいた。


友達も部活も遠ざかるのを見ているだけだった。俺は。


361 :五月の冬 ◆gSU21FeV4Y:2011/05/08(日) 20:54:28 ID:/ej2yWxw
俺には物心ついた時から母親がいなかった。
これを聞いたのは最近だが、母は父の頑固さに嫌気がさして出て行ったらしい。
嫌気がさすほど頑固かな、と俺は疑問に思った。
どちらかというと柔軟な人だと思っていたけど。

三月の中旬だった。高校が決まって、教科書も買い。
高校生活への準備が整った頃だった。
父親が脳卒中で逝った。
悲しかったが、それ以上に忙しく、泣く暇もなかった。
祖母はまだ健在なので、葬式に関してはまかせっきりだった。
そのかわり、集まった親せきに出す食事や、葬式後の片づけなどは俺がやった。

「君、智さんの息子さん?」
俺が大勢の親せきや知り合いにあいさつを終えた後、見知らぬ女性が話しかけてきた。
智というのは父親のことだ。
「はい、五月といいます」

「ここじゃ、なんだし。近くの店で話さない?」

「え、いや……通夜がありますし」

「遠慮しないで、奢るよ。まだ食べてないでしょ?
話って言ってもすぐ終わるから……ね?」

そういえば夕飯がまだだった。
通夜は少しの間だけ、祖母に任せておいても大丈夫だろう。

「じゃあ、お言葉に甘えて」
「うん、行こうか」

その女性に連れられて、近くにあるファミレスで食事をした。
彼女は黒いスーツに身を包んでいた。
背は高いほうで、170くらいあるだろう。
髪は綺麗な黒い髪を後ろで束ねてポニーテールにしていた。
色白で端正な顔立ちをしている。美人だ。


どこかで見た顔だけど……気のせいかな。

「えーと、お名前なんて言うんですか?」

ちょうどカルボナーラを食べ終わった彼女に尋ねた。
慣れてなくてずっと息苦しかったので、俺はネクタイを少し緩めた。
トンネルが開通したように、息苦しさが消えた。鼻から大きく息を吸う。


「あれ?言ってなかったっけ?名前」

「はい」

彼女は備え付けてある紙のナプキンで、口を拭い、話した。

「私は沢瀬 陽子(さわせ ようこ)。
よろしくね、五月くん」

知らない名前だ。

「父とは……どういう関係なんですか」

俺が疑問を投げかけると、彼女はばつが悪そうに左の頬をかいた。

「えーと、お父さんが亡くなられたばかりで……、
こういう話をするのは……その、あんまりしたくないんだけど」

「妙に渋りますね」

「あー、ごめんね」

彼女は気まずそうな顔をして、今度は右の頬をかいた。

「智さん。君のお父さんに、お金を貸してたんだ」

「借金ですか……」
思わずため息を漏らす。
そういう話は父から一度も聞いてなかった。
父にも何か事情があったのだと思うが、少し失望した。


362 :五月の冬 ◆gSU21FeV4Y:2011/05/08(日) 20:56:06 ID:/ej2yWxw
「そうなんだ。こういう時だし、あんまり話したくなかったんだけど……」

「それで……いくらくらい……」

「うん。ちょっとまってね」

そういうと鞄を手に取り中からファイルを出しページをめくった。
俺は、きっと大した額ではないと、高をくくった。
そうしないと不安でたまらなかったからだ。

「そうだねー。君のお父さん、かなり頑張ってくれてたから……、
だいぶ減ってるの」

パラパラとめくりながら、今度は鞄から電卓を出して素早く打ち始めた。

「うーん。そうだね。これくらい残っているんだけど……」
俺の目の前の皿をどけて、電卓を置いた。
「四、零、零、零、零……」
途中で読むのを躊躇った。零の数が多い。
「大体四百万くらいかな。端数はよけて」

胃が裏返しになったような感覚に陥る。のどがかさかさに渇いて、全身の毛孔から冷や汗が噴き出る。

俺が返すのか?

父さんはもう死んだんだ……。

「か……、返せるでしょうか……、俺に……」
「不可能じゃないとは思うけど……」

しばらく沈黙が続いた。
やっぱり、俺が払うのか……。

大きくため息をついて、コップの水を一気に飲む。
「毎月いくら払えばいいですか」
沢瀬さんは驚いた様子で俺を見た。
「払う気あるんだ」

「そりゃー……借りたものは返さないと」

「私はてっきり泣きついてくるかと思ったけど。
もしくは親族の誰かに払ってもらう気なの?」

「いや、自分で……払うつもりです。
他人に迷惑はかけられませんから」

本当は迷惑かけたい。自分でなんか払いたくない。
けど、そこまで迷惑をかけられる親せきは居ない。
というより、四百万もの借金をぽんと返してくれるような親切で金持ちの、なおかつ親しい親せきは居ない……。


「そう、びっくりだな。正直」
沢瀬さんは俺の目を見て、微笑んだ。


363 :五月の冬 ◆gSU21FeV4Y:2011/05/08(日) 20:57:31 ID:/ej2yWxw


6時限目の終業のチャイムが鳴る。
「起立、礼」
がたがたと椅子を鳴らし、その場に立つ。
そしてため息をつきながら礼をする。
この一連の動作も疲れた体には辛い。
全身の細胞が鉛みたい、とは言いすぎだが体が重い。


「あのー……五月くん、これ」
教科書を鞄にしまって、帰る準備をしていると、クラスメイトの一人が話しかけてきた。
右斜め後ろの席の……稲葉さん、だったっけ。
手には折り畳みの傘が握られていた。

稲葉さんは女子にしては背が高いほうで、160代後半くらいある。
長いストレートの髪は、つやのある美しい黒をしている。
色白で綺麗な顔をしているが、少し幼さが残っている。

「ああ、稲葉さん。どうも。そういえば、貸してたっけ」
差し出された傘を受け取る。
「あああの、その、助かりました……ありがとうございます」
「いや、気にしないで……」
受け取った傘を鞄に突っ込んで、急ぎ足で教室から出る。

バイト先は住んでいるアパートのすぐ近くにあり、
学校からは遠いため時間に余裕がほとんど持てない。
自転車置き場まで行き、自転車の鍵を外す。
自転車にまたがり、ペダルに足をかけたところで呼び止められた。
「ねーねー、五月ー。一緒に帰ろう!」
「愛……」

ああ、そうしようか。と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
俺にそんな余裕はない。

「あー、ごめん、えーと、やることがあって……」
「そ、そっか。一人暮らしだと忙しいもんね!」
「ああ、ごめん。じゃ!」
足に力を入れる。ペダルを強く踏み、自転車を走らせる。
「あっ、じゃあねー……!」
愛の声が途端に遠ざかる。

「いつまで続くのかな……」
肺に溜まった煙を吐くように、溜息をついた。
少なくとも高校に通ううちは続くのだろう。

自転車のペダルをさらに強く踏み込み、速度を上げた。


364 :五月の冬 ◆gSU21FeV4Y:2011/05/08(日) 20:58:44 ID:/ej2yWxw
六時間目の終業のチャイムが鳴る。
「起立、礼」
いつも通りの動作をこなし教科書と筆箱を鞄に入れ、帰る準備を始める。
稲葉 冬子(いなば ふゆこ)は鞄の中に入っている折りたたみ傘をみて、小さく溜息をつく。

この傘は、私の左斜め前の席に座っている五月くんが一昨日、貸してくれたものだ。


一昨日、雨が降っていた。
朝は降っていなかったので、傘は持ってこなかった。
そしたら、昼休みに降り始め、六時間目が終わるころにはバケツをひっくり返したような雨になった。
この季節にこう、激しい雨が降るのは珍しいな……。
ほかの人は天気予報を見たのか、いつも用意してあるのか、
鞄から折り畳み傘を取り出し、あるいは傘立てから傘を取り、それらをさして帰っていく。
今度から天気予報は見るべきだな……。
私は下駄箱の前で外を見ながら溜息をつくと、思案に暮れた。

「あのー、俺使わないんで、もしよかったら使いませんか、傘」

横から、声をかけられた。
五月くんだ。私のこと気づいたのかな。
いや、この余所余所しい話し方はきっと覚えてないんだろう。

「いやでも……」

「いいからいいから、使ってください。
自転車乗りながら傘させないし……傘持ってるんですか?」

「いや、持ってないです……」

「じゃあ、はい」

紺色の折り畳み傘を手渡される。

「あっ、あの!」

五月くんは急いでいたようで、傘を私に渡すと走って外に出ていった。
話すタイミングを逃した。


雨の中を走る五月くんの背中を見つめる。
視線に気づいたのか、五月くんが一度立ち止まり、こちらを振り返った。
目が合う。
首をかしげ、またすぐに走って行った。



「あのー……五月くん、これ」
私は彼に借りていた傘を差し出した。

昨日はなんて話しかけるか迷っているうちに五月くんが帰ってしまって、傘を返せなかった。

「ああ、稲葉さん。どうも。そういえば、貸してたっけ」

名前で呼んでくれないことに少し寂しさを感じる。
私のこと、気づかないのかな……。

五月くんが私から傘をとるとき、五月くんの手が私の手に触れた。
無意識に体が跳ねる。心拍数が急に上がり、顔が熱くなった。
動揺を必死に隠し、口を開く。

「あああの、その、助かりました……ありがとうございます」

何度も何度も会話をシミュレートしておいたのに、
頭が回らない。うまく言葉が出ない。


「いや、気にしないで……」


私が予想外の出来事にしどろもどろしているうちに、
五月くんは傘を鞄に入れて教室から出て行ってしまった。

ああ、五月くん……。
不意に胸を力いっぱい掻き毟りたい衝動に駆られたがこらえる。

大きくため息をつき、私も下駄箱へと向かう。



私は小学生の時、いじめられていた。
やり口が陰湿で上靴や持ち物を隠されたり、陰口を言われたり。
今となっては思い出すと鼻で笑ってしまうような事ばかりだったが、
当時は泣いてばかりだった。

泣きながら隠された物を探している時、一緒に探してくれた。
泣き止まない私を慰めてくれた。
友達がいない私と遊んでくれた。
私を好きでいてくれた五月くん。

何度、持ち物を隠されても、陰口を言われても、
五月くんと一緒にいるだけで幸せだった。

子供の私は五月くんとずっと一緒だと思い込んでいた。


小学四年生の時、親が離婚した。
理由は私にはわからない。
ただ、離婚することを母親から知らされたとき、
まったく驚かなかった。なんとなく、納得してしまった。
父も母も私との会話はあるけども、お互いはあまり会話をしてなかったように思う。

お父さんとお母さん、どっちが好き?
そう聞かれた時すぐにこっち、と答えることをしなかった。
私は、お母さんはここに住むの?と聞いた。
母は言った。
「ううん、もっと都会の町に行くの」

「お父さんは?」
一言も言葉を発さない父に代わって母が答えた。
「お父さんはね、ここに残るんだって」

母が私の肩を両手で抱き、ゆっくりと言った。
「冬子、よく考えて答えて……。
お父さんとお母さん、どっちと一緒に住みたい?」

私は…………。


「お父さん」


365 :五月の冬 ◆gSU21FeV4Y:2011/05/08(日) 21:00:00 ID:/ej2yWxw
私はこの町に残る父を選んだ。
特別、父と一緒に住みたいとは思っていなかった。
この町に残るのであれば、選ぶのは父でも母でもどちらでもよかった。
五月くんと一緒にいたかった。
ただそれだけだった。


「冬子、引っ越しをするぞ」
母が出て行ってから、少したってからのことだった。
父が嬉しそうな顔で私に言った。

「この町から出るの……?」
私は嫌だった。
せっかく、五月くんのために父と暮らすことを選んだのに……。
五月くんと離れなくてはならないのか。

「ここから少し離れたところの、新しくできたマンションに決めたんだ」

「そっか……なら……」

「冬子はこの町が好きか」

「えっ……ああ、うん」

それから少しして、移住先に荷物を運んだ。
父は近くに小学校があるからそこに通うように。もう手続きも済ませてあるからと、私に言った。
その話を聞いて愕然とした。

私は五月くんと一緒にいたいから、父とともに暮らすことを選んだのに。

引っ越しが終わった後すぐ、五月くんに電話した。

今までのお礼、親が離婚したこと、転校すること。
話している途中で泣き出してしまった。そんな私を五月くんは、電話口越しに優しく慰めてくれた。

泣いて何度もしゃくりあげながら、五月くんに言った。

最後になるかもしれない、会って話したい……。

元の家から、移住したマンションまで、高校生になった今となっては大した距離ではない。
しかし、子供の私は子供ながらに、子供だからこそ分かっていた。
違う学校の子と友達でい続けることのむずかしさ。
同じ町の、遠い距離。

待ち合わせ場所を決めると、すぐに五月くんが来てくれた。

公園のベンチに座って、二人で話をした。
涙は少しおさまっていたが、五月くんを見るとすぐに目からだらだらと涙があふれた。
電話口で話した時と同じように、泣いてしゃくりあげる私の背中を撫でながら五月くんは私を慰めた。

もう泣かないで、冬子……。

うん……。

小学校がちがくなっても、中学校で一緒になれるよ……。

中学校もちがったら……?

その時は高校で一緒だよ……。

うん、そうだね……。

また一緒に遊べるよ……。

うん……。

約束しよう……指切りだ……。


366 :五月の冬 ◆gSU21FeV4Y:2011/05/08(日) 21:00:53 ID:/ej2yWxw
それから二年……転校先の小学校を卒業し、中学校に入学した。
中学校で五月と一緒になることはなかった。
近くに中学校があり、そこに通うことになった。
入学する前に、父に近くじゃないほうの学校に行きたいと言ったが、
近くにあるのになぜわざわざ遠いほうに通いたいんだと尋ねられた。
父を納得させられるだけのまともな理由を言えなかった。

母が出て行ってから、父は再婚することなく仕事一筋だった。
父は仕事のため、家事ができない。
そのため自分が家事をしていた。
通学に時間を取られると、家事が大変になるし、勉強もできなくなるだろうと諭され、泣く泣く近くの中学に入学することを承諾した。


中学に入った後何度か、五月くんに電話しようと思ったけど、踏ん切りがつかなかった。

以前のように話せるか……?
以前と同じように接してくれるのか……?

時間がたてばその不安は積もった。

高校で一緒になる。彼の言葉を思い出した。
中学校で一緒じゃなかったら、その時は高校で一緒。

高校で一緒になることを決心したその日から、私は変わった。不安も次第に消えていく。

五月くんがどの高校を受験してもいいように、勉強の量を増やした。
そのおかげか、学年トップには届かなかったが、三年間は常に十位以内をキープした。

いつか、五月くんに食べてもらえるのを夢見て、料理の練習もした。


勉強や料理の練習より、ずっと厄介だったのは肝心の五月くんの志望校。
これを探るのが一番手間がかかった。

中学三年時の、冬。
五月くんと一緒に下校する友人達。その集団の後をこっそりつけ、別れた五月くんの友人の一人の後をまたつける。

頃合を見計らって話しかける。
そして、志望校を聞き出した。

「あの、五月に用があるなら俺から伝えてあげようか?」

そう言う彼に、私は嫌悪感を覚える。
あからさまに私へ媚びた口調と媚びた目。
本人に悪気はないのだろうが、何とも私はこの媚びた姿勢が嫌いだった。

「いや、結構です。ただ約束してください。
私のことを絶対に、絶対に五月くんに話さないで」


私はそれだけ言うともと来た道を戻った。
やっと、志望校が分かった。
やるだけのことはやった。もし、これで高校が違っていたら……。

その時は、五月くんのことを忘れよう。

いつからだろう。初めて会った時からか、あるいは彼に会えなくなった時からか。
呆れるくらいに一途。私は五月くんのことが好きだ。


ずっと片思いだった訳だ、この五年間。
しかも、一度も顔を合わせなかった。

五月くんが私を忘れていても……無理はないかもしれない。


367 :五月の冬 ◆gSU21FeV4Y:2011/05/08(日) 21:02:04 ID:/ej2yWxw
早くに起きて、バイト先に行き、それから学校へと向かう、授業をこなし、バイト先に行き、家に帰って寝る。
この生活にも慣れてきた。

以前、祖母に一人暮らしをすることを話したら、家賃だけ負担してくれることを約束してくれた。
これによって月々の返済に余裕ができた。
もし、家賃も自分で払うことになっていたらバイトの時間がもっと増えていたことだろう。
本当に助かった。祖母に本気で感謝したのは後にも先にもあれっきりだ。

ロッカーを閉め、床に置いた鞄を取り、更衣室から出る。
裏口から出て、停めておいた自転車にまたがりいつもの通学路を走る。

頬を撫でる風もすっかり暖かくなり、春の匂いが鼻をくすぐる。
もう四月も末だ、もう少しで黄金週間がやってくる。
以前までは飛んで喜ぶくらいだったが、今年は、今年からは安易に喜べなくなった。
バイトだ。少しでも早く借金を完済するため、時間がある今のうちに少しでも多く金を稼いでおく。
仮にも高校生だ。テストで赤点を取ったら追試を受けなければならないし、その追試も逃したら留年もある。

だから、テスト直前だけはバイトを減らしてもらうように約束してもらった。


急な坂を自転車を押して歩く。
ここら辺は本当に坂が多い。一日の消費カロリーのうち半分はこの道を使っての登下校に消えていると思う。

今日は銀行に行って振込みをすませようかな……。

坂の頂上、自転車に再びまたがり、今度は一気に下る。

父の借金を知った日に、振込先を沢瀬さんから教わった。
特に何日と決めないから、月に一回振り込んでほしい。完済したら知らせるから。
と言われ、口座番号をかいた紙を渡された。

いつになったら完済できるのかな……。

最近、溜息が習慣づいてきた気がする。吐き出しかけた溜息を無理やり飲み込んだ。

自転車に鍵をかけ、教室に向かう。
朝食を食べないことは慣れたが、昼食が圧倒的に足りない。空腹だ。
ぐーぐー唸る腹を抱え、上靴に履き替える。

「おはよう、五月っ! 今日も元気かな!」

空腹に愛の声が響く。

「ああ、おはよう……元気だよ」

「どうしたの?どう見ても元気なさそうだよ」

「いや……ちょっとな」

そういうと階段を上ってさっさと教室に行く。

「ところでゴールデンウィーク暇?」

愛が俺の顔を覗き込んで尋ねる。

「えーと、そうだな……」

二日くらい午後だけバイトの日があったな。
時間足りるかな……。
ああ、でも買い物行かなきゃ。
課題も出るだろうしなー……。

考えてるうちに教室の前に来た。

「あっ、じゃあ後で暇な日メールしてねっ!絶対だよ?」

「はいはい。じゃ、また」

別れを告げると教室に入り、いつもの席に座る。
空腹がピークを過ぎ、幾分か楽になった。
大きく息を吸い込んで、吐く。肺の中の空気を入れ替える。

貧乏暇なしって本当だな……。


368 :五月の冬 ◆gSU21FeV4Y:2011/05/08(日) 21:03:36 ID:/ej2yWxw
四時間目の数学は非常に眠くなる。
俺の席は窓際の一番前で、春の日差しが差しこんでくる。
ぽかぽかしていい気もちだ……。
睡眠の世界にぐいぐい引き込まれる。
抗うことのできない眠りの快感に俺は身をゆだねた。

はっとなって目を開けると、授業は既に終わっていたようで、
皆グループで集まって昼食を食べ始めていた。

下手したら昼休みが終わるまで寝ていたかもしれない。

座ったまま伸びをし、大きく欠伸をする。
少し疲れているのかもしれないな……。

パンを探って鞄の中を引っ掻き回していると、目の前に稲葉さんが立っていることに気づいた。

「あの、五月くん……」

「どうかしたの?」

「その、もしよかったら一緒に食べませんかっ!」

彼女の手には弁当が二つ。赤いチェック柄の布に包んであるのは彼女のだろう。
もう片方の紺色の布に包んだ弁当は……彼女が両方食べるのだろうか。
彼女は見かけによらず大食いなのかな……。


「弁当? 別にいいけど……」

俺がそういうと、彼女は自分の席から椅子を持ってきて俺の机のそばに置いて、それに座った。

鞄の中からパンを取り、封を切ってかじりつく。

「今日もパン一個ですか……」

少々呆れたように、彼女が言った。
本当は弁当を用意してガッツリ食べたいけど、いかんせん時間がない。

「ああ、そうだけど……。
ところで稲葉さんはそれ、どっちも食べるの……?」

俺は彼女が机に置いた二つの弁当を指さして言った。

「え! あ、その、これは……」

途端に顔を真っ赤にし、しどろもどろになった。
大食いのこと気にしてるのかな……。
だとしたらまずいこと言ったかも。

空になったパンの袋を鞄に押し込んで、彼女に向き合って弁解する。

「ごめんそういうつもりじゃなくて……、
ただ気になって聞いただけだから……!」

そういうと、彼女はきょとんとした後、突然にんまりと笑って。

「ああ、もしかして、食べたいんですか?」

「え、いや、そういうんじゃなくてね……」

「あげますよ、一個。和風と洋風、どっちがいいですか」

「ん…………。和風で……」

「じゃあ、はいどうぞ」

彼女はにこにこしながら、紺色の布に包んだ弁当箱を僕の前に置いた。
まともな昼食は実に三週間ぶりだ。
弁当箱を開ける前から、俺は大量に分泌される唾を飲んだ。

「ありがとう……」

「ふふ……。いいんだよ。五月くん、食べて……」

「じゃあ、いただきます」

「……ッ! こ、これはァ!」

一言で言うと、彼女の弁当は美味しかった……。
中までしっかり味が通っているのに煮崩れを起こしていない肉じゃが。
その上、味の加減が絶妙で辛すぎず、薄すぎず、それでいて甘い。
きんぴらごぼうもごぼう特有の泥臭さがなく、旨味が生かされぱりぱりとした触感と胡麻の香りが素晴らしかった。
だし巻き卵のふわふわとした触感。塩焼きにされたアジの歯ごたえ。

これらをおかずに口にほお張る白米。少し涙が出た。
食事って偉大だ……。


「ふー。ご馳走様でした……」

「お粗末さまでした、ふふっ……」

「ありがとう、すごくおいしかった」

「本当?」

本当だ。空腹は最高のスパイスというが、それを抜きにしても彼女の弁当は美味しかった。

「うん、本当においしかった。久しぶりにあんなおいしいの食べたよ」

「ならよかった、口に合うか心配してたんですけど……」

「え……?」

「ああっ、いや、なんでもないです」

この弁当、もしかして……、俺に作って持ってきたのかな?


369 :五月の冬 ◆gSU21FeV4Y:2011/05/08(日) 21:04:54 ID:/ej2yWxw
四月も末。
日差しが暖かくなり、風も穏やかだ。

五月くんの席は窓際の一番前。窓から差し込む日光がぽかぽかと、暖かくて気持ちがいいのか、
こっくりこっくり居眠りをしていた。
疲れているのかと少し心配するのと一緒に、彼の眠る姿に愛おしさを感じた。

四時限目終了のチャイムが鳴る。
先生が出ていくと、皆仲のいい人と集まって一緒に昼食を食べる。

入学してからすでに三週間。五月くんはまだ誰とも一緒に昼食を食べていない。

しかも毎日、お弁当ではなくどこかで買ってきたパンを一つだけ食べる。
そのため、五月くんの昼食はとても早くに終わる。
食べ終わった後は、ただ座っているだけだ。


今日は、朝早くに起きてお弁当を作ってきた。
自分のではない。五月くんにだ。
彼も毎日の昼食がパン一個じゃあ物足りないだろう。
きっとお弁当を作ってくれる人が家にいないんだ。
話すいいきっかけになると思ったし、私の作った料理を食べてもらえる。私は一石二鳥だと考えた。

鞄から紺色の布に包んだお弁当を
そっと取り出し、大きく息を吸い込んで五月くんの席まで行く。

「もしよかったら一緒に食べませんかっ!」


370 :五月の冬 ◆gSU21FeV4Y:2011/05/08(日) 21:08:24 ID:/ej2yWxw

…………。


「ご馳走様でした……」

「お粗末さまでした、ふふっ……」

五月くんに私の作った料理、食べてもらえた!
嬉しくて、つい笑みがこぼれる。

「ありがとう、すごくおいしかった」

「本当?」

五月くんが洋風と和風、どちらを選んでもいいように両方、腕によりをかけて作っておいた。
でも、もしも口に合わなくて、彼が気を使っているのではないかと少し疑う。

「うん、本当においしかった。久しぶりにあんなおいしいの食べたよ」

「ならよかった、口に合うか心配してたんですけど……」

「え……?」

「ああっ、いや、なんでもないです」

思わず口に出た言葉を、訂正する。
あなたのためにお弁当を用意しました。なんてこと言えない。

ふと気が付くと、彼が私をじっと見ていた。
恥ずかしさから顔が熱くなる。

「どうかしましたか……?」

「いや、どっかであったっけ? 前に」

「傘借りました」

少しいじわるをしてみた。
五月くんの困った顔に胸がきゅんとなる。

「んー……それより前にさ」

「んふふ。どうでしょうか」

私は牽制するように笑う。
五月くんのほうから私を私、冬子だと気付いてほしい。
あと、もう少しで気づいてもらえるかもしれない。興奮からか、少しドキドキしてきた。


371 :五月の冬 ◆gSU21FeV4Y:2011/05/08(日) 21:09:10 ID:/ej2yWxw
彼女をじーっと見ると彼女は視線に気づき頬を赤く染め、もじもじとした。

「ど、どうかしましたか……?」

俯いて、上目づかいでそう言う彼女。

「いや……どっかであったっけ? 前に」

弁当を作って持ってきてくれるような知り合い、俺の周りにはいない。はず。

「傘借りました」

「んー……それより前にさ」

「んふふ。どうでしょうか」

彼女が悪戯っぽく笑った。

過去に、俺は互いが中学、もしくは高校で一緒になることを約束した女の子がいた。
名前は沢瀬 冬子

中学の入学式の日。

まっさきにクラス表の中から彼女の名前を探した。
何度探しても彼女の名前は見つからなかった。

中学三年へ進級するころにはもう、約束のことを忘れかけていた。
彼女の名前がクラス表から見つけられなかったときに、無意識にもう会うことはないんだろうな。と思った。

高校へ入って、クラス表から彼女の名前を探すことはしなかった。

ちらっと、彼女と彼女との約束について思い出したが、きっと別の高校に行ったと思ったし、なにより五年間も連絡ができなかった。
向こうから連絡が来ることもなかったので、冬子は俺のことを忘れたのだと、自分の中で結論を出した。

そう思っていたら、同じクラスに冬子がいた。

子供のころの面影が残っている。冬子だ。
俺は確信した。あの約束をした冬子だ。

しかし苗字が変わっていて、話し方がよそよそしかった。
別人か、はたまた俺を忘れたのか。

いま、確かめる。

「冬子か……?」

これだけで伝わるか?
俺の言いたいことが。


372 :五月の冬 ◆gSU21FeV4Y:2011/05/08(日) 21:10:49 ID:/ej2yWxw
彼はしばらく考え込んだあと、口を開いた。

「冬子か……?」

私はにっこり微笑んで答える。

「……やっと一緒だね」

それを聞いた五月くんは、微笑んでつぶやいた。

「五年間、長かったな……」