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522 名前:忍と幸人 第六話[] 投稿日:2011/05/19(木) 21:34:29 ID:j9.VA8uo [12/17]

 私と顔を合わせた途端、「また貴女ですか」と言いたげな顔を見せた。案の定ではあるが、この間の件は相当彼には耳障りであったみたいだ。

 「偶然だな、針巣さん」

 気軽に声を掛けるが、針巣の顔色は晴れない。挨拶を返そうともしないばかりか、さっさと私の眼前から立ち去ろうとするので、それを体で遮る。細くて小さな体躯でこちらを見上げる彼は依然として小心者のそれだった。おどおどとして、唇をぼそぼそと動かすだけで、こちらにはっきりと物を言おうとしない。

 「ちょうど良かった、この間の事でまた話をしたいと思っていたんだ。一緒にそこらの喫茶店にでもどうだ?」

 あからさまに嫌そうな顔をする針巣は「この後用事があるので、御遠慮します」と身を屈めて脇を通り抜ける。逃がすつもりはないのでその手を強く捕まえ、「そんなに時間は取らせない」と強引に引く。彼としても黙って成すがままにされるのには我慢ならなかったのか、「ちょっと……」と私を突き離そうとしたが、少し彼に顔を向けたらすぐにおとなしくなった。
 通りに面した、少し洒落た喫茶店に入り、窓際の席に着く。とりあえずコーヒーを注文して一息吐いてから話を切り出した。

 「まだサユキとは関係があるのか?」

 彼は顔をしかめて視線をテーブルに落とし、お手拭きを弄りながら「それが何か?」と返事した。

 「サユキの事について少し調べてたら色々と分かった事があってな、それを知らせようと思ったんだ」

 彼は俯きながらも目だけチラッとこちらを見上げた。
 サユキは客の性格を見抜くのが得意な女だ。そいつがこの先有効な寄生先だと見抜くや、その被寄生体の弱みを握って、骨の髄までしゃぶろうとする。搾り取るだけ搾ったら、後はゴミとして捨て、また新しい寄生先を探す。
 サユキは金が何よりも大好きな女だ。その大好きな金を一手に巻き上げる事も、あの容姿を以てすれば十分可能な上、体を売っている内に何人かは心も欲する様になってくる事もあの女は知っている。そういった、多くの客の内の一部を食い物にする事であの女は私腹を肥やしてきた。

523 名前:忍と幸人 第六話[] 投稿日:2011/05/19(木) 21:36:53 ID:j9.VA8uo [13/17]
 勿論、針巣もそういった「食い物」の一人で、日頃の貢物の事を考えればここ最近においては一番のカモだろう。おまけにプレゼントの大部分は売り払ってしまっているというのだから、本当に良い様にされている。
 それらを話した上で訊いてみた。

 「サユキに何かプレゼントをして……その後彼女と会った時、それを身に着けていたか?」

 針巣はこちらに向けていた目を下げ、黙り込んだ。返す言葉が無いところを見ると、彼自身にも少しは心当たりがあったという事か。それにも関わらずサユキとの接触を絶たないとは、この男はどこまで愚鈍なのだろう。
 これだけ鈍いと、口でいくら言ったとしても頑なに拒み続けるだけで、時間の無駄にしかならなそうだ。

 「……ですか」

 次に進もうとした時、彼が何かを口にした。

 「何?」

 彼が恨めしそうにこちらを睨み、言い直した。

 「あなたに何が分かるというんですか」

 子供の姿が針巣と重なって見えた。その目は大人に抵抗する反抗期の子供が見せるものとよく似ていた。

 「さっきから知った様にベラベラ喋っていますが、貴女は僕達をどうしたいんですか。この前もそうやって口出ししてきましたが、一体何様のつもりで……。僕と彼女の事で貴女は何を知っているんですか。そんな訳を知った様な顔でさっきから……」

 下水道の隅を這うネズミが途端に活発になった。空気と入り混じった言葉は発音もしっかり正されて、賑やかな店内でも良く通る。
 針巣のその抵抗は胸中の燻りを煽るものだった。沸々と募る苛立ちが途端に燃え盛った。それが顔に出たのか、針巣も気押されている。

 「あの女が自分の子供にも売春させる奴だという事を知った上で付き合っているのか?」

 グラスの中を干す。それに映った自分の顔は酷いものだった。眉間に皺を寄せ、元々吊り上っている目がさらに鋭くなって、小さな瞳が蛇と見紛う光を放っていた。

 「え、ええ……。彼女が息子の幸人君にも……その、体を売る商売をさせているというのは知っています。彼女もその事については心を痛めている様で……その話題が出なかった日はありませんでした。何時も何時も幸人君には辛い目に遭わせてしまっていると……」

 脳が蒸発しそうだった。この男はそんな戯言を真に受けているというのか。

524 名前:忍と幸人 第六話[] 投稿日:2011/05/19(木) 21:40:52 ID:j9.VA8uo [14/17]
 いや、素面だったらそんな三文芝居に化かされる筈がない。この男がそれを鵜呑みにしているのは酔っているからだ。売春に身を落とした母子を自分がいずれ助けようという甘ったれた幻想に酔っ払い、現実から目を逸らしている。
 腕の中を巡る血が熱かった。許されるのなら、このドブネズミの四肢が千切れるまで踏み潰してやりたかった。内臓が、骨が、筋肉が、互いの境界線を無くして混ざり合うまで……。

 「彼女は時々、涙ながらに僕に話してくれます……。いつかは家族みんなで、穏やかに暮らしていきたいと……」

 テーブルが大きく音を立てた。この男の口から出てくる不快な吐息がピタッと止まると同時に、店内も一気に静まり返った。テーブルを叩き割る勢いで振り下ろした右手が観衆の視線を浴び、それまで和やかだった空気は痛々しさを伴うくらい冷たくなっていた。

 「……失礼、少し興奮した。どうか気にしないでいただきたい」

 客と店員に詫びる。何とも言えない、複雑そうな顔が並んでいるのは気まずかった。
 周囲が少しずつ元の雰囲気に直そうとし始めるのを見てから針巣と向き合う。彼は顔面蒼白になってこちらの様子を窺っていた。耳に障る戯言も、今では一言と発せそうにない事が分かると、胸の苛立ちが少し落ち着いてきた気がする。
 気を取り直して、迷彩服のポケットに忍ばせていたレコーダーを出し、彼の眼前に見せる。怯えながらも怪訝そうに関心を持ったのを確認すると、それを静かにテーブルに置いた。

 「これはレコーダーだ。中には何が入っていると思う?」

 物言いたげな彼の心中を察し、話を次々に進めていく。

 「この中には、私が幸人に頼んで(盗聴なので頼んだも何もないが)録音してもらった、サユキの本音が吹き込まれている」

 針巣の両目が見開いた。この男でも気が付いただろうか。私が今まで話していた内容は、この中身によるものだという事が。

 「お前があの女を心から信じているというのならこれを聞くが良い。そうすれば、今まで抱いていた甘い幻想が全て虚構だったという事が分かる。如何に自分が己を見失い、あの女に踊らされていたか、それを骨の髄から感じられるだろう」

 針巣は恐る恐る、レコーダーに手を伸ばした。再生ボタンに触れるのは大分躊躇していたが、その震える指は長く宙を漂うのに疲れたか、ゆるゆると下りていった。力無くボタンが押され、レコーダーは音声の再生を始めた。

525 名前:忍と幸人 第六話[] 投稿日:2011/05/19(木) 21:44:35 ID:j9.VA8uo [15/17]
 喫茶店内はすっかり賑わいを取り戻していた。こちらに向けられていた視線も今は無く、楽しげな一時からこの区画だけが完全に隔絶されている。同じ空間におりながら、この席だけは流れる空気が異質で、体中の繊維一本一本にテンションが掛かってくる。自分のすぐ後ろの席からは温かく、楽しげな談笑がするというのに。
 流れる音声が針巣の顔を見る見る内に変貌させていく。レコーダーから流れるサユキの音声は幸人からの質問に答える形で進行しているのだが、そのどれもが針巣への好意を微塵にも感じさせず、むしろ、針巣が盲目的に己を慕うその姿を揶揄する始末だった。無情な現実だった。
 針巣は顔を覆い、テーブルに突っ伏し、何も言わなかった。
 レコーダーの再生が終わると、彼は丸めた体をガタガタと震わせた。それが悲しみによるものなのか、怒りによるものなのかは私に判断する術は無い。そんな些細な事、知ろうとも思わない。

 「これが、お前が愛していた女の本性だという事だ」

 役割を果たしたレコーダーを仕舞い、コーヒーをゆっくり傾ける。コーヒーは少し温くなっていた。

 「これに懲りたら、少しは女を見る目を養う事だな」

 私の声が針巣の耳に入っているとは思えないが、選別の一言を残し、席を立った。彼はやはり顔を上げようとしなかった。
 「ここは私の奢りにしておこう」と伝え、会計をさっさと済ませる。店を後にする際に横目で針巣の後ろ姿を盗み見ると、まるで何かに憑かれている様で、印象的だった。
 蘇鉄の並ぶ歩道を歩く中、彼の困惑に歪んでいく顔を思い浮かべる。一瞬とは言えども私に啖呵を切ってまで見せた男があそこまで砕け散っていくのは酷く愉快だった。
 痴情のもつれとは、往々にして創作物のネタになりやすい。心のコンディションのアップダウン――葛藤――があるからだ。
 その心の揺さ振りがドラマを一つ一つと生み出していき、レールを組んでいく。そして、情念はジェットコースターの様にその上を落ち続けたり、駆け昇ったりと、忙しなく飛び回る。今の針巣は、グングンと上昇していたコースターが突然絶壁に差し掛かり、急下降をしている……といったところだろう。レールを踏み外して地表に激突……大事故となるか、再び上昇するか、それは本人次第だ。

526 名前:忍と幸人 第六話[] 投稿日:2011/05/19(木) 21:47:29 ID:j9.VA8uo [16/17]
 もし事故に繋がるとしたら、加速度を増した勢いそのままにぶつかるのだから、無事では済まない。上へと続くレールへ乗る事ができれば、下降時の加速を活かして一気に駆け上る事も不可能ではないが……。
 針巣の鎮痛な様を思う。直後に「まぁ不可能だろう」と結論した。あの男が逆境に堪えられるとは到底考えられなかった。
それで良い。後は針巣がどう動くか。がっかりさせないでほしいのだが。
 夕焼け空の下、烏の声を耳にしながら家に帰り着く。
 部屋をざっと見渡す。ここは居間と自室を兼ねた一室、私一人だけの空間。ここに幸人を招いた時は手狭に感じたものだった。
 この狭い一室で、私と幸人は濃厚な一時を過ごした。
 その時の情事を思い出す。物に囲まれた中で睦み合い、幸福の絶頂へと達したあの時の記憶は私の体を火照らした。
 妄想が湧きあがってくる。いくらでも幸人の一つになれる、愛と肉欲の日常。自分より二回り近くも下の少年を抱く日々。倫理の一切が排されたインモラルの生活……思い浮かべただけで疼いてくる。これでもかと言うくらい、たくさん幸人を愛してあげよう。
 が、狭い部屋だ、住居も変える必要が出てくるかもしれない。その時は幸人の希望も取り入れてあげたいと思う。勿論、すぐに実行に移せるわけではない。どれ程の時間を要するかは分からないが、何時かは叶えてみせる。
 気持ちが逸る。鼓動も勢いを増している。家事も思う様にはかどらず、足取りも怪しい。完全に、妄想に神経を犯されていた。