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623 :忍と幸人 第八話:2011/05/31(火) 22:34:41 ID:Vg2DuJvY

 ――市営団地女性殺人事件・痴情のもつれか。
 ニュースを見ても、新聞を読んでも、今でもどこかにその記事は載っている。
 子連れの娼婦が自宅にて、無残な死体で発見されたこの事件は大々的に報じられた。娼婦が殺人事件に巻き込まれる事自体にそれ程の物珍しさは感じないが、「子連れ」であったという点がポイントだったのだろうか。自分の子供にも売春させていた疑いが露になるとその煽りは一層強くなり、熱中症関連のニュースはたちまち隅に追いやられた。
 警察の事情聴取――私達が現場の発見者である以上、捜査協力は免れなかった――には、私は直接見てはいないという事で当たりさわりのない回答をした。
 ――幸人とは公園で知り合ってから互いによく遊んでいる仲で、その家庭事情も知ってはいた。警察や役所で相談するべきだと思ってはいたが、母を愛しているらしい彼の様子を見ると憚られた。それでもやはり心配になって様子を見に行ってみたら怪しい男とすれ違い、何かと思って部屋を覗いてみたら、彼の母親が血を流して倒れていた……。
 警察からは早めの相談をしなかった事について注意はされたものの、凶器に残っていた指紋との不一致、現場を見ていた幸人の証言のおかげで疑いを掛けられる事はなかった。じきに犯人は針巣だと警察は踏み、指名手配に走る。
 事件が発生してから今日で二ヶ月経っている。針巣は未だに捕まっていない。今頃どこで潜伏しているのか、生きているのか死んだのか……それらはさっぱり分からない。ニュースでは日を追う毎に、針巣の同僚や関係者の弁によって、彼の人物像が公に明かされていくが、その当人の行方はというと誰にも答えられなかった。
 膝元でゴロゴロと甘える頭をそっと撫でる。気持ち良さそうにしている。
 サユキ――本名を幸華というそうだ。皮肉な名前だ――の親族は皆、関わり合いになるのを拒んだ。どこの馬の骨との子供なのか分からない幸人を引き取ろうとはしなかった。
 まぁ当然と言えば当然だし、私としても願ったり叶ったりだ。私は幸人を引き取りたいと訴え、幸人本人も「お姉ちゃんと一緒がいい」と希望してくれたので、すんなりと話は決まった。
 そして幸人は今、私と一緒にこうして暮らしている。悲願は果たされたのだ。


624 :忍と幸人 第八話:2011/05/31(火) 22:37:28 ID:Vg2DuJvY
 「お姉ちゃん……」

 猫なで声で甘える幸人の鼻先を指でつつく。

 「違うだろ、幸人。私の事はママと呼びなさいと言っただろう?」

 照れながらも彼は微笑んで、「ごめん、ママ」と言い直し、再び膝に顔を埋める。胸が満たされるのを感じながら、「よしよし」と髪の毛――あの後散髪したので、かつての長髪は無い――を梳く。

 「ママ、今日はオムライスが食べたいなぁ」

 昼の献立のリクエストだった。

 「そうか。分かった」
 それだけ返し、後は彼の甘えたい様にさせる。膝枕をして貰いたければ膝を貸し、胸に顔を埋めたいなら頭を優しく抱き込める。幸人も最初は遠慮がちだったのが、今では随分と甘えん坊になった。時間さえあれば私と密着したがり、肌の触れ合いを楽しんでいる。
 こうなっている時、彼は自分が満足するまで離れたがらない。私がトイレに立つのにも嫌そうな顔を見せるし、他の物事への関心も薄くなる。私と寄り添う事を何よりの喜びとしているみたいだ。
 私は幸人を心から愛している。そんな大好きな彼が私を欲しているのだ。これに喜々せずにはいられない。心がいっぱいになったその勢いで、ちょっとエッチなスキンシップに進んでしまうのも日常茶飯事だった。
 至る度にラインは後退していく。最初はおっぱいの愛撫だけだったのが、体を隠す衣は日を追う毎に取り払われていき、私は裸に、幸人も下着姿になって抱き合う形になった。おっぱいに吸い付くばかりの行為からちょっとしたペッティングになった訳だが、オーラルセックスに発展するのも時間の問題かもしれない。

 「ママ、それ貸して」

 将来を夢想していたら、幸人は何時の間にか膝から顔を上げて、こちらに両手を差し出していた。
 その意図が分かった私は笑って了承し、さっきまで肩に乗っかっていたそれを手渡す。

 「ママの匂いがする……」

 私が羽織っていた迷彩服を全身に包み、幸せそうにしている。
 これも最近の彼のお気に入りだ。どういう理由かは知らないが、幸人は私の迷彩服がお気に召したらしいのだ。頻繁に羽織っては、床に裾を引きずりながらパタパタと走り回っている。幸人はまだ体が小さいから、上着でもマントみたいな感覚なのかもしれない。足の具合も好調になってきたのもあって、良く振り回している。


625 :忍と幸人 第八話:2011/05/31(火) 22:40:16 ID:Vg2DuJvY
 「ママ、何時かこれ、頂戴?」

 一頻り遊んでから、この一言を添えて返してくるのがお約束だ。

 「幸人がもう少し大きくなったらな」

 私がずっと身に着けていた物を今度は幸人が使う……悪い気はしない。私もこのジャケットを気に入っているが、幸人が欲しいのなら惜しみなく譲るつもりだ。只、今はまだジャケットの方が大きすぎて、服として使うには重い――冬服なので生地も厚い――だろうから渡せられないが。
 迷彩服を返してもらった時、テレビのニュースが忌まわしい画面を映し出したのを傍目に見る。素早くリモコンを取り、テレビの電源を落とす。
 幸人が「どうしたの?」と不思議そうに訊いてくる。私はそれに「散歩に行こうと思ってな」とはぐらかせると、彼も察する事なく乗ってくれた。

 「ちょうど良い腹ごなしだね」
 「そうだな」

 手を繋いで外へ出る。
 テレビの内容に感付かれなかった事に安堵する。さっきの画面には、あの事件に関する続報が流れていたのだ。せっかく幸人のショックが薄れてきているのに、それを下手に掘り起こしたくはない。

 「今日も暑いねー」
 「まだしばらくは暑いままだ。水分は忘れずにな、幸人」

 照り返しの強いアスファルトからは熱が立ち上がり、上からは直射日光が降り注ぐ。熱に包まれたこの中では、やはり何よりも冷たい飲み物が欲しくなる。この季節の自動販売機は本当に魅力的だ。
 何時もの公園に着く。定位置は販売機脇の、あのベンチだ。
 木陰に覆われたこのポイントで一息吐く。販売機で買ったコーラが熱い体によく沁みた。
 ふと砂場を見てみると、かつて幸人が一人で山を作っていたそこは、子供達で賑わう様になっていた。男の子も女の子も一緒になって、楽しそうにはしゃいでいる。
 幸人は何も言わず、黙ってコーラを飲んでいる。
 幸人はここ最近、実の母親である「あの女」の話題を出さなくなっていた。あの女に関わる事の全てが記憶から抹消されたのかと思う程だ。
 本当に彼が忘れてしまったのか、それとも忘れようとしているのか、どちらかは分からない。はっきり言えるのは、以前に口を滑らしてあの女の名前を出した時、彼は反応らしい反応を見せなかったという事ぐらいだ。


626 :忍と幸人 第八話:2011/05/31(火) 22:42:45 ID:Vg2DuJvY
 彼には「スイッチを切り替える」という心の防衛機構を備えていた。これと似た防衛機構の働きによって、本当に記憶が部分的に消えてしまったのではないかと考える事はできるが、これについては究明しようと思わない。忘れているのならそれに越した事はないし、忘れようとしているのであれば黙って見守るまでの事だ。あんな女が自分の母親だったなんて、早く忘れてしまった方が良いに決まっているのだから。
 大切なのは昔より今だ。今は私と幸せに暮らす事だけを考えていれば良い。

 「……あっ、そうだ、ママ」

 コーラを飲み終えた幸人がこちらを振り向いた。
 「何だ?」と答える。

 「僕、もし引っ越すんだったら……富士山が良く見える所がいいなぁ」
 「ほう?」
 「随分前の事だけど……クラスの子が旅行に行ってきた時に富士山を見たんだって。凄く綺麗で大きくて……テレビで見るのとは全然違うって言ってたの」

 幸人と暮らし始めて日々思う事の一つは、部屋の狭さだ。彼を迎える前から分かっていた事であったが、どうにも余裕が無い。幸人も欲しい物がいっぱいあるだろうに、部屋の狭さを気遣ってか遠慮してばかりだったので、彼に引っ越し話をしてみたのだ。どこに引っ越すかは幸人の希望にできる限り答える事も付け加えてだ。
 すぐに答えるのは難しいだろうと返事を急かす事はしなかったのだが、割と早かった。もしかしたら、前々からの夢だったのかもしれない。

 「何時かそうしよう。すぐには無理だが……」

 あの女が母親だった時は、そんな夢を一言呟くだけでもう折檻だっただろう。欲しい物は買ってもらえないし、身嗜みも許されない劣悪な環境に長くいた彼は本当に不憫だ。私に対して僅かに遠慮を残しているのもその名残かもしれない。

 「本当に良いの?」
 「ああ。まぁ気長に待っていろ」

 幸人の肩に手を回し、胸元に顔を持ってくる。
 ベンチから伸びる影を見下ろす。二人の影は互いの境目を越え、掛け合わせられている。
 私達は今、一つになっている……。
 言い様のない幸福感に頭がクラクラする。倫理も禁忌も存在しない、欲望と情念の混沌に犯される快楽は脳を刺激し、肌を震わせた。汗ばむ肌が一瞬冷え切り、鳥肌が立つくらいに……。


627 :忍と幸人 第八話:2011/05/31(火) 22:44:09 ID:Vg2DuJvY
 恍惚としたまま視線を見上げる。時計はもうすぐ正午を知らせようとしていた。
 静かに、ゆっくりと一息吐いてから、「行こう」と幸人の腕を取る。彼は「お昼ご飯の時間だね」と席を立つ。
 のんびりとした歩調で家に帰る。家に帰れば食事の一時だ。家族水入らずでオムライスを味わって……その後は床に寝転びながらお互いにじゃれ合うか、ゲームに興じるか。どちらでも良いが、さてどうしよう。
 こんな生活がこれからずっと続く……なんて素敵な世界だろうか。
 熱くなるこの感覚に、思わず舌舐めずりをするのであった。