※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

666 :明日が来る!:2011/06/06(月) 21:51:01 ID:Q9vns0WY
初投稿です。

明日が来る!
プロローグ

その日は、蝉が鳴いていた。
小さな蛍が射し込む木漏れ日を見上げている。
二人の兄が歪んだ笑みを浮かべ、静かに蛍を見下ろしている。
「おらぁっ! 他人事みてえにボーッとしてんじゃねえぞ!」
二人の兄のうち、右側の方が、蛍の腹を蹴り上げる。
「ぅぐ……」
激痛に呻きながら、蛍は思わず膝を付く。吐瀉物の匂いが鼻を突く。じんわりと霞む視線の先に、涙を浮かべながらこちらを窺う冴の様子を捕まえる。
「立てっ!立たないかっ!」
左側の兄が蛍の胴着を引っ張り上げ、無理やり腰を上げさせる。
冴は身体が弱い。せめて、冴だけは守らなければ……
蛍は今日立ち上がる。二人の兄と向き合うことはしないけれど。
蝉が鳴いている。

涙が頬にべとつく。飲み込んだ吐瀉物の名残りが気持ち悪い。嗚咽は尽きることなく、蛍の胸を突き上げた。「今日はこれだ」
左側の兄が蛍にビー玉を突き出した。
右側と左側。並んで立つ二人の兄を、そう認識するようになったのはいつ頃からだろうか。
勿論、二人の兄には名前がある。しかし、二人の兄が「右と左」である。と名乗っても、蛍は別段驚きはしなかっただろう。
「うぐっ……はぁっ……」
兄の振り撒く恐怖に支配され、蛍は声にならない悲鳴を上げた。
「さあ、食べるんだ」
左が押し付けるようにして、蛍にビー玉を握らせる。

蝉が鳴いている。

世界はどこまでも残酷だ。そこまで考えて、蛍はそれを訝った。
特別世界は残酷なんかではない。関心がないだけなのだ。遠巻きに眺めることしかしない冴のように。
――いや、あるいは冴は心配しているかもしれない。絶対庇ってくれなくともだ。
しかし、この場合実際行動しないことは、これ以上ない罪悪のように蛍は思う。
ビー玉を口に含む。歯に当たって、ころりという音が耳にうるさかった。

蝉がうるさい。

射し込む木漏れ日が目に痛かった。


――限界が近かった。


668 :明日が来る!:2011/06/07(火) 01:11:47 ID:AAT5zjkU
遠くから父の声がして、二人の兄は逃げるようにして立ち去った。
「…………」
道場の裏手に蛍は立ち尽くし、尽きることない自らの嗚咽を、他人事のように聞いていた。
このように過ぎ行く蛍の幼年期は、決して明るい未来を指し示したりはしない。絶望と苦痛とで縛り付けるのみだ。
腹が軽く鳴る。
ビー玉では膨れることのない腹を、蛍はひたすらうらめしく思った。
きっと母が、昼食を用意しているだろうが、蛍はそれを当てにせず午後の日課であるランニングに向かう。
いつものコース。いつもの予定。
お腹が少し張っていて、妙な違和感がある。時折、こちりこちりと鳴る音に、蛍は口をへの字に曲げる。それでも、先日のアレよりは精神的ダメージは少ないように思われた。
大学病院に差し掛かり、駐車場の敷地から病棟の三階辺りを見上げると、いつものように手を振った。
(笑わなきゃ)
大袈裟なくらい元気よく手を振る蛍にあどけない笑顔で答える少年が『里村 静流』と名乗ったのは一月前のお話。
蛍は中庭の日光を避けたベンチに腰掛け、いつものように静流を待つ。
「おはようさん」
白く小さな少年。静流が、にこっと微笑みかける。彼……あるいは彼女なのかもしれない。蛍にはどうしても男女の区別がつかなかった。ただ、そうであればいいという理由から、静流のことを男の子だと思うようにしている。
「今日も、お願いしていいですか?」
のんびり言う静流は、蛍の隣に腰掛けて足をぷらぷらさせている。
「うん、そう……」
「冴は元気ですか? 最近、浮かない顔をしています」
(そっか、昨日は冴の通院日だったっけ)
と、つらつら考える。同時に、遠巻きに見つめる心配そうなあの目付きも。
「知らない」
そんなことより、と蛍は考える。最近、静流は一層、白く細くなって行く。ここで蛍が昼食を取るようになって一ヶ月が経とうとしている。そのことと密接な関係があるように思えてならない。
「胴着に血が付いています。訓練、ですか?」
蛍は首を振って否定する。いじめられて強くなったという話は聞いたことがない。
「そうですか。いつものように、治療行為をしても?」
静流は小さく首を傾げ、上目遣いに問いかけてくる。
蛍の返事は玉虫色だったが、静流はそれを肯定と受け取ったようだ。一つ頷いてベンチの下から薬箱を取り出した。


669 :明日が来る!:2011/06/07(火) 02:16:30 ID:AAT5zjkU
「…………」
蛍は肩を竦めた。静流が準備がいいのは昨日今日始まったわけではない。しかし、この場合、恵まれない自身の環境を気遣われての行動に思えてくる。
「今日は手品を見せてあげます」
静流は手慣れた様子で、血の滲んだ蛍の口元を消毒し、指の擦り傷に薬を塗りつけ、絆創膏を張り付ける。
「はい、動かないで……」
静流が人差し指で唇の端を撫でるようにして、軟膏を塗りつけてくる。
蛍はそれがくすぐったい。治療を受けながら、身じろぎする。ここまではいつもの光景だった。そして、白く小さな手を蛍の目の前でひらひらさせる。
何も握ってはいない。
それから左の手のひらを、ゆっくりと確かめるようにして、蛍の腹に押し付けてくる。
「な、なに……?」
狼狽えながらも蛍は、静流の手を振り払うようなことはしなかった。こんな小さな手に乱暴なことなどできない。よくできた大理石の彫像のようで美しくもある。それを振り払うなど思いもよらぬことだった。
「んっ……」
静流は、ぐいぐいと腹を押してくる。探るような動きだ。ややあって、ぱっと手を開く。
そこには、色とりどりのビー玉が7個握られていた。
「……!」
蛍は、ぎょっとした。何を言っていいかわからない。酷く狼狽える。
「蛍は、ビー玉が好きなのですか?」
静流は、また首を傾げる。
「ちっ、違うっ! そんなもの好きじゃないっ!」
どう説明していいかわからない。蛍はしきりに唇を舐め回し、
「それは……それは……」
と口ごもる。
「唇を舐めないでください。せっかく薬を塗ったのに、取れてしまいます」
静は、にこっと笑う。
「手品でした。驚きましたか?」
「……面白くない」
「はい。笑ったら、軽蔑するところです」
「……帰る」
「はい。さようならです」
蛍は踵を返し、その場を立ち去った。眉は根っこのほうが寄っている。
(何も持ってなかったはずだ。どこから……手品じゃないっ……」
そこまで考え、先ほどの静流を思い出す。
寝間着姿の静流は可愛かった。蛍はいつも癒される。
病院は、冴を治すことはできない。だが、蛍にとってはかけがえのない場所になりつつある。
「うふふっ」
蛍は笑った。それはいまだ幼い彼女なりの年齢にふさわしいあどけない笑顔だった。