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180 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/20(日) 10:22:00 ID:Czr6Onq7
第二十四話~逃亡~

「さあ、雄志様。参りましょう」
 かなこさんが一歩詰めてきて、手を差し出した。
 手を取ってくれ、ということか?
「どこ、に……」
「もう一度、共に私の屋敷に来てくださいませ。そこに、殺されるにふさわしい場所を用意してありますわ」
 自分の家に殺される場所の用意を済ませてから、ここにやってきたのか?
 死の覚悟は既に済ませているということなんだろう。でも、どうしてかなこさんは普段と変わらないんだ。
 少しも恐れを見せず、堂々として、澄ました顔でいられるなんて。
 かなこさんは死すら恐れないというのか? 
 俺を――たった今殺してくれと自ら頼んだ人間を、自分の死地へと連れて行こうとしている。
 死ぬことを恐れるどころか、望んでさえいる。
 さっき言っていたのは、もちろん俺の真の望みじゃない。
 きっと自分の望みを、俺の望みへと投影しているんだ。

「……死に急いじゃ駄目です。死ぬってことは、そこで、もう……」
「もちろん、理解しております。既にわたくしは一度死を迎え、それを越えているのですから」
 そこで、かなこさんが物憂げな表情になった。
「……胸を貫かれる瞬間に脳裏に浮かんだのは、雄志様のお顔でした。
 常に傍に寄り添い、共に日々を過ごしてきた、大切なお方。
 これでもう、雄志様と顔を向き合わせて喋ることも、不意に困らせてしまうこともなくなってしまう。
 そう思うと無性に寂しくなり、最期にもう一度お話ししたい、と願いました。
 体中から力が抜け、目を開けることすら精一杯になった頃、雄志様はやってきてくださいました。
 あのまま、一言も告げることなく離ればなれにならず、本当に、本当に良かったですわ。
 おかげで、こうして出会うことができ、そして望みに応えていただけたのですから」
 手を差し出したままのかなこさんが近づいてきた。
「さあ、手をお取りくださいまし。そして、あなた様の望みを達してくださいまし」
 この人は全てわかっているんだ。死の意味も、自分自身の望むことも。
 ただ、俺自身に関することだけはわかっていない。

「俺は、かなこさんを殺しません。
 誰かを殺したいなんて、これっぽっちも望んでなんかいませんよ。
 俺が、かなこさんを好きだったとしても」
 目を泳がせて華を見る。
 俺の言葉に大きな反応をせず、かなこさんを見ているだけだった。
 そのことに安堵して、続きの言葉を言う。
「好きだったとしても、殺したいだなんて絶対に思いません。
 誰が、好きな人を殺したいなんて願うっていうんです」
「わたくしにはわかります、雄志様のお気持ちが」
 ……まだそんなことを言うのか。
「少しばかり話が離れますが――わたくし、ふと雄志様のお命を奪いたいと思うときがあるのでございます。
 憎いから、ではありません。大事にされているお命を奪って全てを手中に収めたい、という考えとも少々違います。
 それ以外に、それ以上に想いを伝える方法が浮かばず、また、雄志様の想いを知る方法も考えに浮かばないのです。
 愛していると幾多の言い回しで伝える、体を重ね合わせて全てを委ねる、というだけでは足りないのです。
 抱きしめて、そのまま一つに溶け合う想像をしていると、最後には体を腕で潰してしまいます。
 その時は結果として雄志様を殺してしまうであろう――ということでございます。おわかりになりましたか?」
「…………なんとなくは」
「その想像の、わたくしと雄志様の立場を交換することで、お気持ちが理解できましたわ。
 愛するがゆえに、雄志様はわたくしを殺したいと望んだのだ、と」



181 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/20(日) 10:22:43 ID:Czr6Onq7

 力を込めて抱きしめても、好きだと言っても想いが全て伝わらない。
 愛しいと思う気持ちを感じとってくれないかもしれない。言葉はいくらだってごまかせる。
 いっそのこと、自分の思うまま、相手がどうなろうと気が済むまで好きにしたい。
 そうすることで相手も気持ちをわかってくれるのではないか、と思ったことはあった――かもしれない。
 なんとなくだけど、同じ気持ちを想像することができる。
 それでも、やっぱり俺の考えは変わらない。
「さっきから言っているじゃないですか。俺は、かなこさんを殺しませんよ。絶対に」
「では、なぜ今朝、わたくしを殺そうとなさったのです?」
「それは……」
 正直に理由を言いそうになったところで、口をつぐむ。
 かなこさんを目の前にしたら暴力を振るいそうになる。これが理由だ。
 もし、そのことを言ってしまったら、どうなっていたか。
 自分を殺してくれと頼んでくる人間が、今の俺の状態を利用しないはずがない。
 今のこの状況だからわかる。この衝動は、たった一発殴るだけじゃ収まらない。
 全力で腕を振り回して、相手が動かなくなるまで止まらない。
 頭は冷静なままなのに、腕がぶるぶると震えている。
 すぐに駆け出せるほどに脚の筋肉に力が漲っている。
 全ての力の向きが目前のかなこさんへと向けられている。
 これが本物の、純粋な殺意なのか。
 今までの人生で経験してきたどんな怒りよりも、強力に思考を熱くさせ、理性をかき乱して走り回る。
 頭の中がドロドロしているのに体だけは恐ろしく醒めていて、どんな無理でも利きそうだ。

 これは俺の憎しみじゃない。かなこさんを憎んだりしていない。
 じゃあ、一体何が原因だ? あの本と、前世が関わっている?
 今抱いている憎悪は、あの本が与えたもの?
 ああくそ、俺自身がもう一人憎たらしく感じる奴が出来た。
 どこのどいつだ、あの本を作り直した迷惑な人間は。
 あんなものがなければ難題を抱えずに平凡に暮らせていたんだ。
 就職先を探しつつバイトして、華の料理にびくびくしつつアパートで過ごして、香織と親友――いや、それ以上の関係でいられたのに。

 駄目だ。流されてしまう。
 今朝以上に誘惑が強い。力を振るいたくて仕方がない。
 拳が力を持て余している。ぶつける先を求めて暴走しそうだ。
 爪を手のひらに食い込ませながら、口を開く。
「あの時は……かなこさんを止めようと思っただけです。あのままだと、香織の命が危なかったから」
「なるほど、そういうことでございましたか。それでは、あの女の命を先に奪うといたしましょう」
「なんっ……?!」
「そういたしますれば、怒りに我を忘れた雄志様が、その気になるかもしれません。
 それに、あの女には恨みもございます。わたくしの居ない隙に横から奪おうとした女など、死んでしまえばいいのです」
 香織を、かなこさんが? 香織は無関係なのに。
 そんなことをさせるわけにはいかない。絶対に。
 ここでかなこさんを強引にでも止めなければ香織が危ない。
 今はあいつに近づくことはできないけど、それ以外にもできることはあるはず。



182 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/20(日) 10:23:47 ID:Czr6Onq7
 ――俺が今するべきこと。それは、
「それでは雄志様。わたくしは天野香織の命を奪って参ります」
 ――この、人を殺すことをなんとも思っていない人を、
「次にお会いするときは、その証を持って参ります。それまでにどうか、覚悟をお決めになってくださいまし」
 ――■すことだ。止めるんじゃなくて、■すこと。
 この人は止めたって無駄だ。動けないようにしてやらないと、絶対に諦めない。
 感情に流されている気がするが、そんなことはどうでもいい。
 脳裏に浮かんでくるいくつもある手段のうち、どれかをとればいいだけだ。
 どれも簡単だ。呼吸のタイミングや肉と骨に伝わる感触まで想像できる。

 単純に後ろから殴り倒す、これで行こう。
 歯を噛みしめ、標的を捉える。
 弾けるような快感と、力を解き放つ開放感を味わう。
 かなこさんが背中を向けた。その背中へと睨みを飛ばす。拳を固める。
 体の重心を前傾させ、地面を蹴ろうとする、その直前。
 目前の光景が一変した。

 まず左側から何かが素早く視界に入り込み、かなこさんの後頭部へ向けて走る。
 直撃する前に、かなこさんはしゃがんでそれを躱した。
「ちっ!」
 飛来したものは、華の放った右の回し蹴りだった。
 振り抜いた右足の勢いをそのままに回転して、しゃがんでの足払い。
 これをかなこさんは前転で回避する。振り返ってお互いに向き合い、にらみ合う。
 俺はその様子を離れた位置から見ていた。
 気づけば抱いていた殺気は不気味なまでに霧散していた。
 まるで、歯を抜き取られる悪夢から目覚めたときのような爽快感が残っている。

 華の後ろ姿を視界に収めながら、かなこさんを見ると、なんとも恨めしげな目をしていた。
「今のは、どういうつもりでしょうか?」
「わかりませんでしたか? あなたの望む通り、殺してあげようっていうんですよ、私が」
 華の言葉を聞き、さらに表情の険が強くなる。
「わたくしはあなたではなく、雄志様に殺されることを望んでいるのですよ。話が難しくて、理解できなかったのですか?」
「難しくはなかったですけど、理解不能でしたね」
「まあ……一体どの辺りが?」
「まず、おにいさんがあなたみたいな女を愛している、というところからです。
 話を聞いていないんですか? それとも耳の穴に汚れでも溜まっているんですか?
 おにいさんは、あなたのことなんかちっとも好きじゃないんですよ。むしろ…………、言わなくても、わかるでしょう?」
「雄志様は素直になれないお方です。ならば、こちらが想いを察するべきである、とわたくしは考えます」
「ふうっ……」
 華が馬鹿でかいため息を漏らした。
「あなたの自分勝手な妄想に付き合っているだけで、こっちまで疲れてきちゃいますよ」
「それならば早々にお引き取りを。雄志様とわたくしの間にあなたが割り込むことそのものが間違いですわ」
「ですね。面倒なことは省いて――手早く片づけてあげますよ」



183 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/20(日) 10:25:12 ID:Czr6Onq7
 頭一つ分だけ華の背が低くなる。
 重心を落とした状態から駆け出し、三歩目で跳躍。右の跳び蹴りがかなこさんの頭部を襲う。
 腕で防ぐことはできていたが、威力は殺しきれず体が傾ぐ。
 続けて、至近距離からの右拳を受けてかなこさんの体が後ろへと勢いよく倒れた。
「つっ……」
「ふん、たいしたことのない。これなら十本松あすかの方がずっと手強かったですよ」
 腹を押さえて苦悶の表情を浮かべる様子を、華は見下ろしていた。
 今のは手加減抜きの攻撃だった。ということは、今ので殺すつもりでいたのか?
 いけない。華に人殺しをさせるなんて、それを見ながら何もせずにいるなんて、できない。
 誰も死ななければいいんだ。ただそれだけでいい。
 なら、どうすればいい? 
 二人を近づけさせないようにするには――――できる。簡単だ。
 根本的な解決にはなっていないけど、この場をしのぐことは出来る。

「それじゃあ、そのまま惨めに、勘違いしたままで亡くなってください」
「…………誰が、あなた、などに」
「言っても無駄です。とっくに詰めの状態になっているんですよ、この勝負は。
 じゃあ、さようなら。元大学の先輩で、無力なお嬢様」
 華の足が高く上がる。踵の位置が頭の頂上まで達している。
 それがかなこさんへと振り下ろされるより早く、俺は動く。 
「んん?! ……わわわっ!」
 腕を伸ばして襟を掴み、華の体を後ろに倒す。
 振り向くと同時に、倒れつつあった体を脇に抱えて、そのまま走りだす。

 俺がとった選択肢は、かなこさんの前から逃げ出す、というもの。
 こんなことをやってもいつかは見つかってしまうかもしれない。
 だが、現状でかなこさんを説得する材料を持ち合わせていない以上、それは不可能。
 なら、逃げる以外の選択肢はない。



184 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/20(日) 10:27:56 ID:Czr6Onq7
 ただ一心に足を動かし続ける。どんなペースで走っているのかも把握できない。
 左腕に振動。華が腕の中で暴れている。落とさないよう、抱え直す。
「なんで逃げるんですか! せっかくのチャンスだったのに!」
「あんなのチャンスでも何でもない!」
「ここで仕留めておかないといつかおにいさんに危害が及びますよ!」
「その時は、その時だ」
 俺に危害が及ぶぐらいなんてことない。死なない限りは。
 だが、かなこさんや華や、香織が死んでしまうかもしれないなら、それを回避するべく動く。
 別に理由も何もない。見知っている人に死んでもらいたくないと思っているだけ。
 たったそれだけの簡単なことが、さっき目の前で破られようとしていた。
「お前も簡単にああいうことをするな! 後先を考えろ!」
「後先なんかどうだっていいんですよ。今が大事なんです、私には。
 もう…………居なくなって欲しくないんですよ。寂しいのは御免です」
 ん? 何か今、小声で言ったような……。

「てゆうかおにいさん、さっきからどこに手を回してるんです!」
「何が? どこか変なところでも触ってるか?」
 ただ華の胴に腕を回して、その状態で走り続けているだけなんだが。
「こんな、誘拐犯みたいな抱え方をするのはやめてください!」
「やろうか? 姫だっこ」
「やり方の問題じゃなくって……ああもう、自分で走れますから! 放してください!」
 一際強く暴れられたので、立ち止まって華の体を解放した。
 目を合わせた時の華は、あからさまに不機嫌そうで、照れてなんかいなかった。
 小言を言われる前に走り出す。
 後ろから制止の声が聞こえてきたが、もちろん立ち止まらずに走り続ける。
 かなこさんの声や、車の追ってくるような音は一切聞こえてこなかった。



185 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/20(日) 10:31:04 ID:Czr6Onq7
 路地が左右に分かれている。普段ならば右へ向かうが、今はそちらへは行かない。
 速度を落として華にスピードを合わせる。手を強引に引き、左へ折れる。
 この先をまっすぐ走れば、国道沿いの歩道に出る。
「ちょ、どこに行くつもりですか! アパートは反対側ですよ!」
「だからだよ!」
 右の道はアパートへ帰宅する際に使用するルートだ。いつもなら迷わずそっち側に進んでいる。
 だが、アパートに逃げ込んでも、すぐにかなこさんは行き先を突き止めてやってくるだろう。
 もしかしたらすでに誰かが待っているかもしれない。
「じゃあ、どこに行く気なんです?!」
「……わからないけど、とにかく逃げるしかないだろ!」
 とりあえずバスか、タクシーにでも乗って、時間を稼ぐしかない。
 行方をくらまし、落ち着いた場所で、これからの行動を決めよう。

 華の手を引いて歩道を走り続けていると、後ろから車がやってきた。
 追い越した車は、かなこさんと初めて会った日に見た、でかい黒リムジンだった。
 リムジンは次の電柱の傍で路肩により、停止した。
 この路地は一本道。左右にも道はあるが、どれも誰かの家に向かうだけ。
「止まったら駄目ですよ!」
「わかってる!」
 あの車には、おそらくかなこさんが乗っている。運転しているのは執事の室田さんか、他の誰かか。
 待て。だとしたら通り過ぎるときにドアを開けられでもしたら、足を止められる。
 道の幅は二メートルくらいだから、リムジンが左右どちらかのドアを広げでもしたら通れない。
 ドアを飛び越す――のは、無理だ。あの車高、俺の首よりも高い。
 運良く窓が閉まってる、なんてご都合主義な展開はないだろうし。どうすれば。
「おにいさん、手を離します!」
 突然、華が俺の手をふりほどき、前に出た。
 考え事をしていたせいで俺のスピードが落ちたのか、と疑ったが、そうじゃなかった。
 華は俺より速く走っている。走り続ける俺の進路に割り込み、リムジンの背中へ一直線に進んでいく。
 ぶつかる! と思った瞬間。

「――――ぇ」

 跳んだ。
 スペースの少ないリムジンのトランクの上に着地し、続けてルーフに飛び乗る。
 なんてことするんだ! と、叫びたくなった。
 だって、こんな高そうな、俺じゃあ一生かかっても買えそうにない、それこそ宝くじで夢を叶えなければ
手の届かない車に華の奴は飛び乗ったのだ。
 乗ったということは当然靴で踏んづけている。足蹴にしている。
 気が引けて、同じ行動をとれない。靴跡をつけただけで数十万請求されそうな気がする。
 トランクの手前で足を止めると、上から怒鳴りつけられた。



186 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/20(日) 10:33:44 ID:Czr6Onq7
「何ぼけっとしてるんです! 早く!」
「いや、だってこれ」
「いいんですよ! 下にいるこいつらが悪いんですから!」
「そりゃそうだけど、やっぱりどうも――」
「ああ、もう! こんなのただの四輪車じゃないですか!」
 ただの四輪車、て。どう見たって三千万は下らないぞ、この車。
「傷つけられたくなければこんなところで止らなきゃいいんですよ!」
 とか言いながら、持ち上げた右足でルーフを踏みつける。
 踏みつけられてもまぬけな音が鳴らない。冷水を浴びせられたみたいに俺の心が震えた。
「早く乗ってください! これだけやったんだからこれ以上やったって同じですよ!」
 説得になってない! こいつはなんでこんな頭の痛くなることばっかり!
「あー…………」
「早く!」
「くっ……でぇえい!」
 もうヤケだ! 既にかなこさんから逃げてるんだから、塗装費の請求からも逃げ切ってやる!

 バンパーに足をかけ、トランクを踏み台にして、ルーフに乗る。車の上に乗ったのは今日が初めてだ。
 ルーフに乗ったと同時に、華はボンネットを踏んづけて地面に降りた。
 俺もそれに続く。結構大胆に着地したつもりだったが、足裏はボンネットの硬質な感覚だけしか覚えない。
 どれだけ堅いんだろうか、とか確かめる間もなく、歩道に着地。
 待ちきれなかったのか、華は俺の手を握って走り出した。
 もつれる足の運びを直しながら、後ろを少しだけ振り返る。
 リムジンは追ってくることもなく、止った場所で佇んでいた。



187 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/20(日) 10:36:18 ID:Czr6Onq7
 国道の前に出て、近くにあったバス停で待っていると、焦る気持ちが進まないうちにバスがやってきた。
 行き先は隣の市になっている。どこでも行き先は構わなかったので、迷わずそれに飛び乗った。
 他に乗客は一人もいない。一番後ろの座席に向かい、倒れ込むように座った。
 左側に華が座る。それを待っていたかのように、バスが動き出した。
 大きく息を吸い、首をうなだれながら吐く。同じ動きを三回繰り返すと、ようやく気持ちが落ち着いた。
「そんなに疲れました?」
「……おー」
「だらしない生活を送っているから、たったあれだけの距離でバテるんですよ。まったく、もう」
「あー、すまん悪かったごめんお前が正しい、だから静かにしてくれ」
 手をひらひらと振って言うと、華は眉根を寄せたが、黙ってくれた。
 今は相手をする気力がない。確かに俺はバテている。それは認めよう。
 だが、その原因は走ったからではなく、追われていて心が焦っていたから。
 もう一つは逃げるためには仕方がないとはいえ、結果的に二人してリムジンを足蹴にしてしまったからだ。
 最高の高級車の塗装代っていくらだろう。全塗装したら百万じゃ足りないよな、間違いなく。
 これで、かなこさんと塗装代の請求、二つから逃げ切らなければいけなくなってしまった。
 どちらに捕まっても俺はとても困る。いや、別々じゃなくて、セットになっているか。
 つまり、もし捕まりでもしたら、とても手の届かない金額の借金を背負い、かなこさんに自分を殺してくれと迫られる。
 金の問題は、地道に返していけばなんとかなる。解決できる類の問題だ。
 しかし、かなこさんを諦めさせることは、時間を置いて解決するようなものじゃない。
 何か、諦めさせることができる材料でもなければ。
 数日のうちは逃げ続けることができるだろうが、いずれかなこさんは強硬手段に出て、俺に手を下させようとするだろう。
 たとえば、香織や華、もしくは俺の家族や知り合いの誰かを人質にとって、殺すことを強要してきたり。
 他にも、いくつか手段はあるはずだ。

 かなこさんを殺す以外で、問題を解決させる方法。
 それを見つけ出さなければいけない。
「……んだけどなあ」
「何か言いました?」
「いや、独り言」
 方法が見つからない。
 このままかなこさんから逃げ続けることなんかできっこないのに。
 もし次に会ったときもまた逃げて、その次も逃げて、その次も……なんていつまでも続けていられない。
 このバスが目的地に着くまでに、いい方法が浮かべばいいんだが。