何かがおかしい。
 香山は眼前の光景を見て、そう思った。
 何て事はない、仲睦まじい親子。
そのはずなのに、何か違う気がしてならなかった。

 「ママ……」

 忍の胸元に顔をすり寄せる幸人。

 「ふふっ……」

 そんな甘えん坊な彼の頭を優しく撫でている忍。
 そして、その横のベッドで眠る小さな赤ん坊……。
 二人は眠る赤ん坊を見つめ、自分達の世界に入り浸っている。
 彼女達は随分と睦み合っている。幸人の年齢や、忍がしばらくの病院暮らしを余儀なくされる身である事を考慮しても、これを親子のコミュニケーションと言うにはあまりにも密接し過ぎではないか。
 蚊帳の外である香山は、赤ん坊の様子を見ながらそんな事を考えていた。
 幸人は十二歳の男の子だ。母親にゴロゴロ甘える年齢ではない筈だ。まして、忍は義理の母で、顔を合わせるや胸に飛び込むなんて以ての外だろう。
 喉元まで出掛かっているのに口にできないもどかしさ。香山は気まずさをも感じていた。

 「……ところでさ」

 空気を一変させたかった香山は、陶酔している二人に話題を振る。

 「この娘の名前、幸華っていうんだってね。幸人君が考えたみたいだね?」

 幸人は嬉しそうに笑顔を見せ、「うん! 良い名前でしょ?」と少し誇らしげに胸を張った。
 何故か忍は良い顔をしない。恐らく名前を決める際に一悶着あったのだろうと香山は思った。
 香山は幸人を褒め、そのまま赤ん坊を中心としたトークにシフトさせていった。
 むせ返りそうな空気は失せ、じきに赤ん坊――幸華が目を覚ました。
 か細い泣き声を上げて愚図り始めたのを見た忍が抱き上げて「よしよし」とあやす。
 改めて思う。あの忍が、こんな母親の顔を見せる日が来ようだなんて。
 彼女は如何なる時でもまなじり高く目を光らせ、不機嫌そうなへの字口をキュッと結んでいて、見る者を無言で退ける威圧感を漲らせていた。少しでも彼女を疎めようものなら、直ちに顔面を目掛けて拳が飛んできそうだった。暴力で物事を解決する事が多かったのもあって、その印象は揺るぎなかった。

452 名前:愛と憎しみ 第二話 ◆O9I01f5myU[sage] 投稿日:2011/07/26(火) 21:35:56 ID:fjqdnYYY [3/6]
 その反面で、意外と乙女心の持ち主でもあった。「どんなに粋がっていても所詮自分は女、将来男と添い遂げる日も来るだろう」と彼女は口にしていたが、香山からすればそれは着飾られた言葉。忍が恋そのものに憧れているのは明らかだった。大柄で、尖ったイメージが強い彼女も内面は女子高生のそれだった。
 そんな過去を目にしてきた香山だが、それにしてもここまで変わるのかと愕然としてしまう。
 胸の中に冷たい影が差す。
 忍は今、娘を抱き、愛おしそうな微笑みを浮かべている。幸人を抱いていた時と同じ様に。
 自分の子供なのだ、それは可愛いに決まっているだろうが……。
 彼女の隣に自分はいない。改めてそれを見せつけられる様だった。
 腑抜けた顔だ。あの頃の凛々しい彼女はどこにいってしまったのだろうか。披露宴にも呼んでくれずに、知らぬ間に子供まで作ってしまって。それで義理の息子である幸人の面倒を見てほしいとは、なんて体たらくだろう。
 渦巻く情念に胸を犯されていく。恋慕と憎悪の板挟みに、心臓が潰されそうだった。
 血が沸騰しそうな一時は過ぎ、面会は終わりを迎えた。今は幸人と蘇鉄の並ぶ歩道を歩き、自宅へ向かっている。

 「ママが早く退院できると良いね」
 「うん」

 取り止めのない会話。クールダウンはしたものの、まだ気分はすぐれない香山はこの程度の話でも億劫だった。口を動かすのもだるいが、無視するのも只気まずくなるだけだ。
 最近は幸人も随分と気が安らいだみたいだった。
 忍に陣痛が訪れ、病院に移ってからの彼は落ち着きが無かった。毎日忍の事を心配していたが、なかなか会いに行けないというジレンマ(幸人は学校があり、香山には仕事がある。香山は車の免許を取得していないので、移動の際には公共の交通機関を使うしかないという事情もあった)で悶々としており、香山もどうしたものかと思っていた。
 その内に出産に至ると、幸人はパニックに陥る。宥めながら急行し、もはや恐慌状態の彼とそれに振り回される香山に見守られながら幸華は無事に産まれ出て、ようやく一息吐けたといった次第だった。

453 名前:愛と憎しみ 第二話 ◆O9I01f5myU[sage] 投稿日:2011/07/26(火) 21:38:22 ID:fjqdnYYY [4/6]
 ここしばらくの香山の心労は募るばかりだった。相手は思春期の子供で、何かと複雑な時期にある。そこに来て、忍に対しての己の想いが加わっているのだから、彼女には相当の重い荷が圧し掛かっていると言える。忍と幸華が病院を出られる様になるまで時間が掛かる。その間この状態が続いたままとは、軽く眩暈すら覚えるところだ。
 それにしても、と思う。妻が命を賭して戦っていたというのに、夫はそれでも顔を見せない。
 一体彼女の夫は、育児も妻の精神ケアもすっぽかしにして何をやっているのだ。
 香山は思わず愚痴を零してしまう。
 はっとした時には遅かった。慌てて視線を移すと、幸人が俯いて口を閉ざしてしまっていた。
 咄嗟に謝る。彼は苦笑を浮かべ、ゴニョゴニョと音の混ざった言葉を呟いて返した。それを聞き取るのは困難であったが、恐らく「気にするな」といった感じかと香山は思った。とにかく、酷くばつの悪そうな顔だった。
 会話は途切れた。車の唸り声とバイクの嬌声、行き違う人々の世間話がするばかりで、二人の間は無音になる。
 何か話をするべきだろうかと思うが、どういった話題を振ればこの場を誤魔化す事ができるのか。香山は歩きながら考え込んでしまう。
 様々なワードが脳内を巡る。多数の言葉の羅列の中から、それは弾き出された。忍が腹を痛めて産んだ娘、「幸華」という名だ。
 どこかで聞いた事がある……そんな気はしていた。一体何時、どこでその名前を知ったのかを思い出せないでいたが、今、結びついた。
 佐原幸華(サワラ ユキカ)――忍の娘のフルネームだ。しかし、この名前を持つ人間がもう一人、香山の記憶の中にある。
 今から五年程前、ここからさほど遠くない市営団地にて殺人事件が発生した。部屋は滅茶苦茶に荒らされ、被害者は包丁で腹を滅多刺しにされたおまけに、顔面を激しく殴打されていた。
 顔は原型を留めておらず、「目が腫れた顔の中に埋もれていた」という被害者の状態から見て、激しい怨恨に駆られての犯行と警察は見ていた。その被害者も娼婦という身の上であったので、その線は極めて濃厚だろうと、当時ニュースを見ていた香山も思っていた。
 その被害者が、佐原幸華という名前だったのだ。

454 名前:愛と憎しみ 第二話 ◆O9I01f5myU[sage] 投稿日:2011/07/26(火) 21:40:17 ID:fjqdnYYY [5/6]
 随分な偶然だ。近場で殺された売春婦と同じ名前だったのだ。それに、その被害者には小さな息子がいたと週刊誌が報じていたが、幸人とおよその年齢が合っている。五年前と言えば幸人は七歳、その週刊誌には詳しい年齢は記載されていなかったが、小さな子供であるという事には違いない。
 忍が幸華という名前に嫌悪感を示していたのは、彼女がこの事件を知っていたからなのかもしれないと香山は考えた。きっと幸人ともそれで揉めた事もあっただろう。結局は忍が折れる形で了承したが、納得はしていない……という具合か。
 ここでもう一つの疑問が香山の頭に浮かぶ。子供の名前は基本的に夫婦が考える事だという一般的な意識のある彼女だから、これを不思議に思うのは必然であろう。
 どういう経緯で、幸人が赤ん坊の名前を付けられる権利を得たのだろう。
 子供の名前を付ける際は、両親の趣味の押し付け合いとなりがちだ。そこに義理の息子である幸人が入られる余裕なんてあるのだろうか。
 通常、跳ねられるのが常ではないか? 実の子供でも無理だろうに、拾われた子供がそれを許されるとは……。
 ……拾われたと言えば、あの佐原幸華の息子はあの事件の後、どうなったのだろう。佐原幸華は夫がいないらしく、親族も彼女を快く思っていなかったみたいなので、引き取り手を見つけるのは恐らく困難。となると、施設に送られたのだろうか。
 幸人は忍に拾われる前の事は一切話そうとしない。「記憶に無い」の一言を返すだけで、話にならなかった。
 香山もそれから経緯について訊ねる気を無くしていたのだが、再び興味が湧き起こってくる。何かがあるのではないかと本能が告げている様だった。
最終更新:2011年08月18日 23:40