520 名前:愛と憎しみ 第四話 ◆O9I01f5myU[sage] 投稿日:2011/08/10(水) 21:26:20 ID:FKy5djYk [3/8]
4
月は沈んだ。バイクのエンジン音が部屋の中にまで聞こえてくる。
音が近づいてくる。回転数が低下し、アイドリング状態になる。少しして、ガチャンと郵便受けが届け物を知らせた。
音は再び唸りを上げて、遠ざかって行った。
朝は五時。辺りは暗く、日が昇るにはまだ時間が掛かる。これからも冷えてくるこの季節、夜明けは遠くなっていた。
季節の移行が肌で感じられる朝。蒲団が恋しく、二度寝、三度寝をしてしまいそうになる一時。例に違わず、幸人もまどろみに全身を委ねていた。起きるにはまだ早い時間であるし、朝食はママに代わって香山が用意してくれるので余裕がある。途中、幾度か目を覚ますものの、その都度眠り直す事ができる。
香山との生活も日数が経っている。もう慣れたもので、普段通りのライフスタイルと遜色ない。ママである忍がいない事による寂しさは時々のお見舞いで癒していたし、赤ちゃんと揃って退院できる日も近づいてきているのもあって、最初に見られた寂しがり屋の側面はすっかり鳴りを潜めていた。
もう少しで日常が戻る。家族が増えたのだから今までとは少し違った日常になるが、きっと幸せに満ちたものになると、胸に期待を膨らませていた。
ガチャッ。
玄関のドアが開く音がした。
布団に顔を埋めていた幸人はもぞもぞと顔を覗かせた。半分閉じた左目で壁掛け時計のぼんやりと光る時針を見ると、怪訝そうに首を傾げた。今まで香山がこの時間に外出した事はなかったからだ。
寝室のドアがそっと開かれた。電気の点けられていない部屋の中、戸口に立っているのは香山である筈なのだが、幸人の目には影法師にしか見えない。姿がはっきりと確認できなくてもそれが誰かなんて瞭然であるのに、幸人の中に正体の分からない恐怖が宿った。
恐る恐る、顔を起こす。声を掛ける勇気は湧かない。様子を窺うだけだ。
「幸人君……」
影法師が動く。ここが布団の中でなかったら、一歩退いていたところだ。
心臓が警鐘を鳴らし始める。まるで何かに憑かれているみたいだった。心が空白になった肉体を、幽霊が糸で手繰っている様に見えたのだ。
近づいてくる。具体的に何かをされると分かっているわけでもないのに、それでも怖い。
否、何をされるか分からないからこそ彼は恐れた。目の前の、香山の声を持つ影法師に。
521 名前:愛と憎しみ 第四話 ◆O9I01f5myU[sage] 投稿日:2011/08/10(水) 21:28:34 ID:FKy5djYk [4/8]
布団で身を固める彼の目の前にまで歩いてきたそれは、ゆっくりと屈み、手を伸ばしてきた。手は幸人の頬――視力を失った右目の下――に触れる。
冷たい。血の通った人の手の温もりが無い。彼女は今まで外出していて、それで体が冷えたせいなのだが、落ち着きを失っている彼がそれを理解できるわけがない。
視界いっぱいが影法師で埋まる。幸人は言葉も発せられないまま、彼女の声を待つ。
「幸人君は、自分のママが誰なのか、その人がどういう人だったのか、知っている?」
奇妙な事を言う。そう思いながらも、幸人は冷や汗を流しながらそれに答える。
「……僕のママはお姉ちゃんだって知っているでしょ? 僕のママは佐原忍。お姉ちゃんのお友達の……」
彼女はその言葉を遮る。
「そうじゃなくて。幸人君が忍ちゃんと会う前のママの事だよ」
実母の事について訊いているのだと彼は理解した。
彼に実母の記憶は無い。捨てられていたのを忍に拾われたと聞かされただけだ。
「……知らない」
彼は力無く項垂れる。忍と幸せな生活を送ってきたものの、自分の存在が実母に否定されたという事実はどうしようもなく重かった。
自問自答する事は多々あった。どうして実母に捨てられたのだろうかと。その都度に真剣に考え込み、気落ちする事もあった。でも、忍との生活がある今を思えば「まぁ良いか」と前向きになれた。自分の不安な気持ちを誤魔化す事ができたのだ。
今改めて、他人からそれを突き付けられた。脆い所をピンポイントで叩かれ、安定を失う。それだけ彼は動揺した。
どうして自分がこんなにも気が動転しているのか、彼には分からなかった。分かりたくもなかった。このまま彼女を無視して眠ってしまいたいとすら思えた。
無論、逃避なんて認めてはくれないだろう。幸人は彼女と向かい合う事を余儀なくされた。
「幸人君、貴方のママはね、汚らわしい人だったの」
心の底から震えあがるかと思う様な冷たい声で、香山はそう言い放った。
幸人は彼女の言葉を理解するに時間を要した。理解しても、相槌なんて打てなかった。
522 名前:愛と憎しみ 第四話 ◆O9I01f5myU[sage] 投稿日:2011/08/10(水) 21:31:18 ID:FKy5djYk [5/8]
「貴方のママはね、男の人に股を開く女だったの。裸になって、男の汚いおちんちんを愛撫してお金を貰う、社会のゴミクズみたいな女だったの」
こめかみに汗を滲ませる幸人。鼓動が嫌にうるさく聞こえる。
頭の中に直接心音が叩き込まれ、思考が歪み始める。灰色の砂嵐が、彼の脳内を著しく掻き乱していた。
その砂嵐の中、断片的な記憶が過る。感度の悪いテレビが途切れがちに映像を流すのと同じだ。何かがあるのに、その全容を掴む事ができない。
それを知りたいと思うか?
幸人の中で懸命に訴える恐れは、それを拒否していた。
その内に、頭痛と吐き気の症状が表れてくる。彼の心の必死な抵抗故か。
「時には何人もの男に囲まれて、膣は勿論、口やお尻まで……穴という穴を嬲られていたり……」
息が乱れる。呼吸のリズムが分からなってきた。吸って吐くの単純運動のやり方を忘れてしまった事に激しく狼狽する。
「口で言うのも憚られる様な、変態的なセックスもしていたそうだし……」
やめてくれ。
腹の底から叫びたかった。なのに、できない。
息が戻らない。乱れがどんどん大きくなる。
苦しい。息が続かなくなりそうだ。
幸人の明らかな異変。闇に包まれた個室の中でも、彼が過呼吸を起こしているのは簡単に分かる。
「天下の往来で、男と絡んでいた事もあったんだってさ」
それでも香山は淡々と話を続けている。幸人の様子が分からない筈がないのに。
彼が胸を抱えてもがいているのを只見つめている香山。
地面に転がる虫の死骸を眺める、温度の感じられない瞳。うずくまる子供の人影に向けられていたのは、そういった視線であった。
「……そうそう」
わざとらしい、下手な演技の掛かった声だ。
別の話題にシフトするつもりなのか。
それを察すると、幸人の胸のざわめきが一層大きくなった。
今までのは軽い牽制。今度のは……。
「貴女のママはね、本当に酷い女だったんだよ?」
自分を串刺しにする、鋭利な剣。
「なんて言ったねぇ……」
その切っ先を向けて。
「自分の息子に……」
勢いを付けて。
「売春をさせていたって言うんだから」
真っ直ぐに、突き出してきた。
523 名前:愛と憎しみ 第四話 ◆O9I01f5myU[sage] 投稿日:2011/08/10(水) 21:33:47 ID:FKy5djYk [6/8]
「……あっ……」
砂嵐の中に過る記憶。
化粧の濃い女。
多数の大人達。
森の中。
被服を破られて。
力づくで組み伏せられて。
露出した下半身にそそり立つ物が視界いっぱいに埋まって……。
「う……ぁぁっ……」
灰色の砂嵐が流すスライドショー。それは、今まで忘れていた、過去の自分の記憶だった。
涙が止まらない。思い出したくないのに、次々と忘れていた事が蘇ってくる。
雪崩れ込んでくる記憶。悪夢の氾濫。
幸せに満ちていた日常がひび割れていく。美しく咲いていた花が根を断たれ、萎れていくのと同じ様に。
「ねぇ、幸人君……」
香山は茫然自失の幸人を荒々しく突き飛ばした。彼は無抵抗のまま、布団に倒れた。
「大人達の慰み者になるのって、どんな気分なのかなぁ?」
仰向け倒れになった彼に馬乗りし、幸人のパジャマのズボンを乱暴に剥ぎ取った。勢い余ってパンツまで一緒に脱げ、彼の大切な所が露になると、香山はそこを潰さんばかりの握力で握った。
力の抜けた幸人の体が、びくんと跳ね上がった。視力の無い右目まで、まるで目玉が零れ落ちそうな程に大きく見開き、口は顎が外れる勢いであんぐりと広がっている。言葉にならない悲鳴を全身で上げている。
内蔵を直に握られる痛み。滲みだす脂汗が止まらない。汗ばむ体がぷるぷると細かく震えている。
急所を掴まれている香山の手を何とか振り払いたかった幸人だが、下手に動けば指がますます睾丸に食い込む。反抗しようとすれば、彼女が握力を尚強めるだろう事は明らかだ。
痛みに体をよじらせ、口から儚げな呻き声を漏らす。ここが明かりの下にあれば、それは扇情的な求愛好意にも見えただろうが、灯りの無いこの部屋では、尾の短い大蛇がうねっているとしか形容できない。
握力がふと緩んだ。腹の中を絞められる不快感と痛みが止み、思わず安堵の息を吐く。
部屋が明るくなった。香山が電灯のスイッチを入れたのかと、幸人はその方向を見る。
スイッチはドアの脇にある。蒲団から離れたそこの位置に彼女がいるのなら、とりあえず抵抗するだけの体勢は取れるかもしれないと思った。
もはや今の彼女は幸人が知っていた香山ではなくなっている。自分の身が危ういと生存本能が騒ぎ立てている。
524 名前:愛と憎しみ 第四話 ◆O9I01f5myU[sage] 投稿日:2011/08/10(水) 21:35:36 ID:FKy5djYk [7/8]
少し乱暴でも彼女を退けて、ママの所に逃げ込もう。
齢十二の小さな体躯が、女性とは言え成人している香山をやり過ごす事ができるかどうか。彼の頭はそこまで回っていなかった。それだけ必死だった。
それだけ必死であったのに、明るみに出た彼女の顔を見た瞬間、体中の筋が硬直してしまった。
痩せ細った重病人を髣髴とさせた。頬はこけて、青白くて、陰気な目を不気味に光らせている。その瞳は幸人を真っ直ぐに見据えているが、その目の裏では何が映っているのかは恐ろしくて想像できなかった。
何があったのか、幸人に知る術は無い。たった一晩でここまで変貌してしまうのかと驚嘆する程、彼女は変わっていた。
彼女が近寄ってくる。ほっそりとした手が顔に掴み掛かってくる。依然として、幸人は動く事ができないでいた。
最終更新:2011年08月18日 23:41