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761 :黒い陽だまり ◆4kLn5BFD9Y:2011/09/06(火) 04:11:10 ID:.Omh9AAE
龍治さんと会ったあの日から三日後の日曜日。
僕は、電車の中で懐かしい揺れに身を委ねていた。
もしかしたら、中央線に乗るのは大学生の頃以来かもしれない。
正確に覚えている訳ではないけれど、それぐらい久しぶりに感じる。

目的の駅の改札を抜けると、そこにはほんの少し様変わりしたものの、かつての雰囲気をしっかりと芯に残した風景が広がっていた。
東京都とはいえ、随分と外れの方にある駅だ。
大学も偏差値の割に知名度が随分と低いうえ、学生数もかなり少ない。
そういったこともあって、開発の波がほとんど届いていないのだろう。
ただひとつ見慣れないものと言えば、駅の目の前に建てられた高層マンションぐらいのものだ。
高級住宅街として知られる駅の近くということで、僕が三年の頃から高所得者向けに工事が始まっていたことを覚えている。
周りに並ぶ建物は精々が10メートルちょっとなのに対し、その20階建てのマンションだけが、ひょろりと少し申し訳なさそうに聳え立っていた。
その姿は子供たちに囲まれて戸惑っている少し背の高い高校生のようにも、草原の中でどこへ向かうべきか途方に暮れている老いた旅人のようにも見えた。

龍治さんは、大学から少し歩いた所にあるマンションの六階に住んでいた。
決して野暮ったくはなく、かといって下品にならない程度には洒落ているセンスの良いマンションで、初めて見た時は龍治さんらしいな、と少し笑ったような気がする。
僕がインターホンを鳴らすと、笑顔の龍治さんが出迎えてくれた。
「よく来たね、亮文君。さ、入ってくれ」
以前に来たのは何年前だったか。
玄関の横の棚に載せられた水槽も、フランス旅行で買ったという色鮮やかなタペストリーも、内装は何一つ変わっていなかった。
それはまるで、この家自身があらゆる変化を頑なに拒んでいるようだった。
「部屋は変わっていないよ。希はそこにいる」
龍治さんは、一つのドアを指さしてそう言った。
確か、以前もそこが希ちゃんの部屋だったと思う。
龍治さんに促され、僕はそのドアを開けた。

そこは一見すると普通の、いわゆる女の子の部屋だった。
本棚には可愛らしい本と漫画が並んでいるし、ベッドの脇にはぬいぐるみがいくつか置かれている。
だけど僕にはどうしても、その部屋から生活感を感じ取ることができなかった。
かつては人の笑顔や涙があったであろう名残は何となく感じられるものの、今を生きる者の匂いは欠片も嗅ぎ取れない。
たとえるなら、古い病院跡のような、寂しげで乾いた雰囲気がそこには漂っていた。


762 :黒い陽だまり ◆4kLn5BFD9Y:2011/09/06(火) 04:12:32 ID:.Omh9AAE

「久し振りですね、亮文さん」
酷く聞き覚えのある声に視線を向けると、そこには行儀よく机に向かって座る希ちゃんがいた。
写真を見て覚悟はしていたものの、ほとんど彼女との相違点を見つけるほうが難しいぐらい、希ちゃんは彼女に似ていた。
髪型とか身長とか、でなければほくろの位置でもいい。
細かく探せば、それは違いがないわけではないんだろう。
しかし僕には、人が人を区別する上での、絶対的な何か。
彼女と希ちゃんのそれが、どうしようもなく一致しているようにしか思えなかったのだ。

「ああ、そうだね。しかし随分大きくなったな、希ちゃん」
僕は動揺を押し隠して、希ちゃんにそう言った。
「もう10年もたってるんです。子供扱いしないでください」
希ちゃんは本当に小さくだが、くすりと笑ってくれた。
その笑い方も彼女によく似ていて、僕は思わずどきりとした。
同じ瞳。
同じ顔。
同じ声。
その存在感は予想していたものよりずっと大きくて、いとも簡単に僕の平常心を粉々にしてしまった。
「あ、これ、クッキー。好きだったよね、確か」
まともな言葉が出てこない。
僕はあわてて、希ちゃんの好物だったクッキーを差し出した。
「覚えててくれたんですね。ありがとうございます」
彼女は表情をあまり変えなかったが、心なしか少し恥ずかしそうにしてそう言った。

君、いつも図書館にいるね。
突然、彼女がそう言いそうな気がした。図書館で本を読んでいる僕に、初めて話しかけた時のように。
私も本が好きなんだ。
本当にそんな声が聞こえた気がした。けれどもちろん、そんなはずはなかった。

僕は出来る限りの平静さをかき集めて、半ば形ばかりの指導を始めた。
指導は、思ったよりも随分と順調に進んだ。
龍治さんからは勉強がかなり遅れていると聞いていたけど、決してそんなことはなかった。
高校二年生ということを考えれば、十分なくらいだろう。

希ちゃんはあれ以来、一体どういう10年を過ごしてきたのだろう。
龍史さんから指導を頼まれて以来、僕は時折そんなことに思考を廻らせていた。
結局はどの想像もいまいち形をなさず、まあ会えば分かるか、と僕は安易な結論で満足していた。
しかし僕の目の前にいる希ちゃんは、どんな過去を想像することも固く拒絶していた。
表情の変化が少ないことも原因の一つだけど、もっと根本的なところで彼女は過去と乖離しているように見える。

放課後に、友達と笑い合いながらアイスクリームを食べる希ちゃん。
昼休みに、教室の片隅でひたすら本に目を落とす希ちゃん。
明るい姿も、暗い姿も似つかわしくない。
それでいて、その姿は怖気がするほど美しい。
三日前までどこか僕の想像もできないような文化を持つ国で生きてきた少女が、日本人のモデルに乗り移ったと言われれば、僕も少しは納得できたかもしれない。
希ちゃんは今の自分に馴染めておらず、今の自分は希ちゃんを馬鹿にしているようだった。

もう少し歳を重ねれば違うのかもしれない。
今の希ちゃんは、自分の美しさを持てあましているように僕には見えたのだ。
といっても、過去を拒絶した少女が、これから過去になっていく月日となら上手く妥協していけるなんて保障は、どこを見渡してもなさそうだったけれど。


763 :黒い陽だまり ◆4kLn5BFD9Y:2011/09/06(火) 04:14:01 ID:.Omh9AAE

「ごめん、ちょっとトイレ」
僕はそう告げて部屋を出た。
嘘だった。
過去しか感じさせない部屋で、過去を感じさせない少女と今この時を過ごす。
その違和感が、目に見えない圧迫感となっていた。
一息つく暇が欲しかったのだ。

僕は便座にズボンをはいたまま座り込むと、軽く息をついた。
無性に煙草を吸いたくなったが、持ってきていないし、持っていたとしても他人の家の中で吸う訳にもいかない。

 希ちゃんに、以前の溌剌さは残っていないようだった。
冗談を言えば笑いもするし、怒られればしゅんとする。
そういうまともな反応は返してくれる。
それは容易に予想できる。
なのにどうしても、お互いにガラスで隔てられたところで会話をしているような、妙な感覚が付きまとう。
希ちゃんは、無意識の内に自分の中の何かを外部に出すことをシャットアウトしてしまっているようだ。
この10年間の、何が希ちゃんにそうさせるのか。
今度、龍史さんに聞いてみる必要がある。

もうひとつ気がかりなのは、希ちゃんの瞳だった。
全てを伝えることを拒否したような表情の中で、瞳だけは時折何かを伝えてこようとしていた。
それは捉えようによっては、彼女が無意識に押し止めている何かが、脱出口を探した末に人体最上部の孔から少しずつ漏れ出しているようにも思えた。

気がつけば10分もたっていた。
希ちゃんを随分長く待たせてしまったことになる。
僕は少しあわててトイレから出た。
トイレの正面には、何故か希ちゃんが立っていた。
「終わりましたか」
責める風でも、待ち望んでいた風でもない。
終わったという事実を、ただそのまま口にしたようだった。
「ああ、ごめん。希ちゃんもトイレ?」
それ以外には、希ちゃんがそこにいる理由が思い当らなかった。
「いえ」
「いえ?」
「晃文さんがこのままどこかに行ってしまうんじゃないかって、心配だったんです」
淡々と彼女は言った。
「え、てことは僕がトイレに入ってからずっと出てくるの待ってたの?」
「はい」
それが何か、と言わんばかりに彼女は言いきった。
家庭教師がトイレに行くのにこっそりついていき、そのままどこかに行ってしまわないかを心配して10分間トイレの前で黙ったまま待つ。
そんな十分に「何か」な行為を前にしても、こう言い切られてしまうと、変に思う自分の方がおかしいのかとさえ思えてくる。

「まあいいや、待たせて悪かったよ。戻ろう」
「はい」
希ちゃんはそう言ったものの、直立不動のまま動かなかった。
どうやら、希ちゃんの後ろに僕がついていく形だと、僕を見ていられないから不安で嫌なようだ。
逃げる気もなければ逃げる理由もなかったけれど、そうまで不安に思う彼女の方に興味がわいた。
それは、他と比べて明らかに過剰な反応だったのだ。


764 :黒い陽だまり ◆4kLn5BFD9Y:2011/09/06(火) 04:14:41 ID:.Omh9AAE

「まあ、今日はこんなもんかな」
終りの時間が来た。
結局、僕らの間に彼女の話は出てこなかった。
僕からそれを避けたつもりは無かったけれど、わざわざこちらからその話をするのもはばかられた。
希ちゃんも、その話をしようとはしなかった。
それが故意だったのか、考えにものぼらなかったからなのかは分からない。
「ありがとうございました。次もよろしくお願いします」
語尾を軽く強調してそう言った後、希ちゃんは無言のまま、折りたたまれた小さな紙片を僕のズボンにねじ込んできた。
僕が眼で疑問を示しても、彼女は表情を変えなかった。
言葉にしない以上、希ちゃんにもそれなりの考えがあるのだろう。
僕はそう考えて、そのまま何も言わずに部屋を出た。

「終わりましたよ」
「ああ、おつかれ」
指導の終了を告げると、龍治さんはリビングで僕に紅茶を勧めてくれた。

「で、どうだったかな」
リビングのイスに腰をおろし、紅茶を飲みながらしばし取り留めもない話をした後のことだった。
一瞬だけぶつかった視線を外し、窓の方を見ながら龍治さんは聞いてきた。
さりげない聞き方だったが、それは計算されたさりげなさのようにも思えた。
「思ったより勉強はできるみたいですね。これなら十分追いつけると思います」
彼が聞いているのがそう言うことではないことを分かった上で、僕は返答した。
「ああ、そうか。それはよかった」
彼は少し面食らったような顔をした後、にこやかにそう告げた。
おそらく彼も気づいたのだろう。
この家で話せば、希ちゃんに何かの拍子に聞かれないとは限らないことに。

「では、失礼しました」
「ああ、来週も頼んだよ」
僕は龍治さんの家を出て、帰路についた。

駅へと続く道、横から風が吹いた。
さわやかな風だ。
もうすぐ、夏が終わる。
そして、静かに秋が来る。
過ぎゆく夏にも、訪れる秋にも、彼女はいない。
僕は、いる。
龍治さんだって希ちゃんだって、僕の家族だっているだろう。
人は生まれ、生き、そして土に帰る。
そんな当たり前のサイクルを、彼女は終え、僕らはその途上にいる。
そう言ってしまえば、それはごく自然なことにも思えた。

駅に着いた所で、僕はポケットに希ちゃんからもらった紙片が入っていることを思い出した。
くしゃくしゃになったそれを開いて見てみると、そこには「明日 午後六時 ○○公園」と書かれていた。会社の近くにある公園の名前だ。
おそらく、龍治さんから僕の会社の場所を聴いていたかどうかして、事前に近くの場所を調べていたのだろう。

ここに来てくれということなのだろうか。
そこで、何の話をするつもりなのだろうか。
僕はそのまま紙片をポケットに戻し、電車に乗り込んだ。