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252 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/28(月) 21:38:58 ID:xf3pEIi4
第二十五話~逃亡不可能~

 腕を組んで窓の外を眺めつつ、思考を巡らせる。
 横にいる華が財布を取り出して、中身を覗いていた。
「バス代、持ってないのか?」
「それぐらい持ってますよ。全部でいくらあるか確認してるだけです」
 華の財布を覗き見る。ほう、千円札が二枚か。なるほど……勝った。
 見えないように手を強く握りしめていると、視線を感じた。
 他に乗客がいない以上、俺に視線を向けることができるのは華しかいない。
「なんだ、その目。ああ、別に哀れんでいるわけじゃないぞ。気を悪くするな」
「言っておきますけど、私はおにいさんよりお金持っているはずですよ。無駄遣いしませんから」
「持ってるって言っても、せいぜい五桁だろ。良くて六桁に届くかどうかって――」
「たしか軽自動車って、新車でも日本円で七桁あれば買えるんでしたよね?」
 なに? 
「だとすると、私は少なくとも三台は買える計算になりますね。それでも結構余りますけど」
 ちょっと待て。
 えーと、七桁というと、一、十、百、千、万、十万……の上だよな?
 そんな馬鹿な話があるか。いくら華がしっかりしているからって、そこまで貯めているはずがない。
「貯金に三をかければ、八桁を軽く越えますね」
「……」
「それで、おにいさんはいかほど?」
「……良くて六桁に届くかどうか、です」
 さっきの台詞にふさわしいのは言っている俺自身だった。
 ここまで自信たっぷりに貯金の話ができるやつなんか見たこと無い。
 どうやら華の資金管理方法は、俺とは大きく違うノウハウであるようだ。
 手持ちは五千円あるけど、今の会話の後では安っぽい金額にしか思えない。

「やっぱり無駄遣いしていたんですね。昔からそうでした、おにいさんは。
 お小遣いをもらうと同時に本屋に行って漫画を大量に買っていました。
 で、いつもいつも私よりお金を持っていませんでした」
「なんでそんなことを覚えてやがる」
「私はおにいさんに毎日会っていたんですよ? それぐらいのことは知っていましたし、
 毎月同じパターンが繰り返されるから、年月が経っても忘れたりできませんよ」
「それならお前だって……」
 華の弱点は料理の腕ぐらいだけど、それ以外となると――何も浮かばないから困る。
「言っておきますけど、今はお金の話をしているんですからね」
 俺の考えまで読んでいるし。
「それで、お前だって、の続きは?」
「……いや、なんでもない」
 こうなっては口ごもるしか俺にできることはない。
 たかがこれだけのやりとりで華にしてやられるなんて、自分が情けなくなってくる。
 ため息だって吐きたくなる。



253 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/28(月) 21:40:55 ID:xf3pEIi4
「携帯電話は持っていますか?」
 突然、話の流れを変えられた。
 ジーンズの後ポケットを探ると、四角い物体の感触があった。携帯電話は持っている。
「あるぞ」
「では、財布の中にクレジットカードやキャッシュカード、身分証明書などはあります?」
「いつも入れっぱなしだから今日も入れて……いるな。うん」
「アパートの火の元の管理は?」
「ガスの元栓は閉めてる、暖房器具はハロゲンヒーターだけ、それも電源切ってる」
「なら、大丈夫ですね」
 いきなりそんな台詞で会話を締めくくられた。
 なにが大丈夫なんだ? 持ち物とアパートの心配?
 いったいどんな意図があってであんな質問をしてきたんだ。

「お前、何を考えてる」
「このまま隣町の駅に行って、電車で実家のある町に帰りますから」
「……は」
「このまま行っても大丈夫か心配だったんですよ。
 もし忘れ物をしていたら取りに戻らなきゃいけませんし。
 でも、私は大事なものはほとんど持ち歩いています。
 おにいさんがどうなのかわからなかったので、聞いたんです」
「ちょっと待て。話を勝手に進めるんじゃない」
 片足を座席の上に乗せて、体ごと華に向き合う。
 華は平静な顔つきで、顔を向けているだけ。

「誰が実家に戻るって言った?」
「おにいさんは言っていませんね。でも、私はこのまま戻った方がいいと判断しました」
「なんで」
「わかりませんか? さっきの菊川かなこの様子を見て何も思わなかったんですか?
 あの女、絶対におにいさんを諦めませんよ。きっと自分の望みを叶えるまで追ってきます。
 望み通りにしてあげるのがいいと私は思ったんですけど、おにいさんはそれを止めました。
 ならばどうするべきか? ……他には逃げるしかないじゃないですか」
 こいつ、あっさりと決めつけやがった。
 かなこさんを止める方法が無い、って断定してる。
「私も考えてみたんですよ。なるべく手荒な真似はしたくありませんから。
 あの女を殺さずに止める方法があるはずだ、それは何かないだろうか、って。
 図書館で二人が話をしている間にずっと考えていました。
 その答えを出したうえでとった行動が、あれですよ」
「お前がかなこさんを、……ってか」
「ええ。おにいさんに手を下させるわけにはいきませんから」
「それは、俺だって同じだ。お前にそんな真似をさせるなんて、絶対に」
「もちろんそのことも分かっています。あの女を排除した罪で逮捕されるなんてまっぴら御免です。
 さっきのあれは、あの行動の目的は、力ずくで諦めさせるのが目的でした。
 できるならば意志を折る。それが駄目なら骨を折る。それでも駄目なら感覚を一つ二つ消す。
 殺意がなかったかというと、否定はできません。けど、人生まで終わらせる気はありませんでした」
 そういうことを平然と言うのはどうかとも思うが、たしかにそれも一つの方法ではある。
 強引に諦めさせる、行動できないようにしてしまう、いわゆる暴力的な手段。
 俺も説得して諦めさせるのは無理だと判断していた。
 かなこさんは俺の言葉の真意を誤解して受け取っている。
 でも、できるなら荒いことはしたくない。



254 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/28(月) 21:41:55 ID:xf3pEIi4
「本当に……他には一つも浮かばなかったのか? 止める方法」
「無いことは、無いです。あります」
「あるのか?!」
「そもそも、菊川かなこはおにいさんを求めて行動しているわけです。
 ならば、その行動理由が無くなってしまえば?」
 理由?
 かなこさんは俺に接触してくる。俺の居るところにやってくる。手を下させるために。
 そうできないようにするには。やる意味を無くしてしまえばいい。
 やる意味。つまり――俺が居なくなればいい。
「お前……」
 ちょっとだけ華と距離をとる。怖くなったわけじゃなく、半分冗談で。
「やるわけがないでしょう。たとえばの話ですよ」
「……まあ、そうだよな」
「ただ、菊川かなこがおにいさんの存在を確認できないようにする、というのはいいと思いますよ。
 おにいさんを、どんな情報網を辿っても突き止められない場所に連れて行くか、
 この世界のどこにもいないように思わせるか。
 偽装してみます? 法的に死んだように思わせれば、諦めるかもしれませんよ」
「俺が頷くと思うか?」
「いいえ。頷くはずありませんよね。そういう危ない橋を渡るのは、嫌いでしょう?」
「当たり前だろ」
 下手したら罪に問われる。それにそんなことできるほど俺は頭が回らない。
 死んだ人間として振る舞うなんてできるか。

「なら、もう手段はありませんね。行きましょう。実家に」
「なんでお前はそこまで実家に帰りたがるんだ……」
 俺はあんまり帰りたくない。
 両親との仲が悪い訳じゃないが、以前帰ったときに小言の応酬を食らわされたことを思い出したら、
積極的に帰ろうという気は失せてしまう。
「なんだったらおにいさん、私の家に来ますか?
 おじさん達の家に帰りたくないんなら、しばらく泊めてあげますよ」
 ……絶対に嫌だ。
 実家に帰るよりずっと気まずい。なんて言って挨拶すればいいんだ。
 おじさんもおばさんも基本的に温厚な人だけど、
この歳になってから泊まりに来た甥を見て何も思わないはずがない。
 華のことだから恋人がいるなんて言ったことはないだろう。
 ということは、華と一緒に帰ってきた俺との関係を疑う可能性もある。
 誤解とはいえ、親戚にそう思われるのは好ましくない。
「いっそのこと、ずっとうちに住んでくれてもいいんですよ」
「冗談に聞こえないからやめてくれ」



255 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/28(月) 21:43:36 ID:xf3pEIi4
 そんなことを話しているうちに、バスが路肩に寄って停車した。
 バスの乗り口は真ん中にあるため、当然のようにそこは開いた。
 が、どういうわけか先頭の降り口の扉までも開いていた。
 このバスに乗っているのは俺と華だけ。他の乗客はいない。
 俺たち二人が降車ボタンを押していない以上、降り口は開かないはずだ。

 なんとなく見つめていると、先頭から誰かが乗車してきた。
 いったいどんな常識知らずの人間だろうか。その人の容姿を観察する。
 頭は白髪のオールバック。
 年齢の重なりを他人に意識させるしわの浮かんだ顔には、力強く開いた目がくっついている。
 着ている服はタキシード。一見して老人には見えないほどの威容を誇っていた。
 背筋はまっすぐに伸びていて、動きの一つ一つに洗練された優雅さがある。
 そこまで考えてから、乗り込んできた人の正体が分かった。
「室田、さん」
「……室田?」
 華のおうむ返しの声が横から聞こえた。
 座ったままでいると、一番前の座席近くにいる室田さんがおじぎをしてきた。
「遠山様、ご無礼をお許しください」
 よく通る声は、何メートル離れていようが耳に入ってきそうだった。
「まことに不躾ではございますが、今から私めがこのバスを運転いたします。
 向かわれるつもりだったところへは行きません。ご了承ください」
 そう言うと、後ろを振り返り、バスの運転手と話し始めた。
 声は聞こえなかったが、一分も話さないうちに運転手が降りていったところから見て、
説得に成功してしまったらしい。

 なんだ、これは。
 室田さんがどうしてここにいて、バスを運転することになっているんだ?
「ちょっと、おにいさん。あのお爺さん何を言ってるんですか? あの人誰です?」
「あの人は、かなこさんの執事だ」
「執事、ってことは……あの女の仲間じゃないですか! まずいです、早く降りないと!」
 そう。室田さんがここにいるということは、とてもまずいこと。
 きっとあんなことをしているのは、本人の意志じゃない。
 誰かに命令されないと室田さんはあんなことをしないはず。
 そして、それが出来る人は、一人だけしかいない。

「降りますよ! 早く!」
 華に手を引かれ、腰を浮かされた。
 華には分かっているのだろう。すでに自分たちが危機的状況に陥っているということが。
 だが、もう遅い。室田さんがここにやってきた時点ですでに遅いのだ。
 俺はあの人――彼女の執念を甘く見ていた。バスに乗るところを、きっと目撃されていたのだ。
 リムジンを飛び越しても、追跡をかわせてはいなかった。
 屋根やボンネットに足跡がついたところで車が行動不能になるわけではない。
 俺たちが乗ったバスを追跡し、しばらく走らせた後でそれを停める。
 車体を使って強引に停めたのではなく、運転手になんらかの手段で連絡を入れてそうしたのだろう。
 どこまで菊川家の力が世間に及んでいるのかは知らないが、こうも簡単に移動中のバスを
止められるということは、俺の想像の範疇に収まらないぐらいに強くはあるようだ。
 なんにせよ、これで俺たちはバスというある意味で密室になっている空間に閉じこめられた。
 このまま走り出せば飛び降りるのも難しくなる。
 昔自転車に乗りながらスクーターに掴まって走り運悪くこけた時の痛みから想像するに、
骨の一本ぐらいは覚悟しなくてはいけない。
 だけど、俺達にはその行動をとることすら許されない。
 なぜなら、たった今乗り口から姿を現した女性がそれを許さないだろうから。



256 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/28(月) 21:45:30 ID:xf3pEIi4
 かなこさんは図書館で会ったときの格好のままだった。
 ただし、白いセーターの右腕は図書館で華に倒されていたせいで少しだけ砂が付いていた。
 立っている位置は扉のすぐ近く。まだ扉は開いたままになっているので降りることはできそうだった。
 だけど、かなこさんを前にしてはすんなりいきそうにない。
 華はそれでも立ち止まることなく歩き続けた。
 おそらく強引に突破する気なんだろう。
 かなこさんは避ける気配を見せない。むしろ迎え撃つかのように悠然と立ち尽くしている。
 自然、二人の顔は向き合うことになった。華が口を開く。
「……ここまでやりますか、あなたって人は」
「大したことではありませんわ。
 上の方に一言告げただけのこと。お願いを聞いていただいただけですわ」
「降ろしてくれませんか? これから行かなければいけないところがあるんですよ」
「ならば、一人でお降りください。雄志様にはこれから、わたくしの屋敷へと来ていただきます」
「お断りです。二人で降ります。
 おにいさんはあなたみたいなブルジョワなお嬢様の住む屋敷に上がるのにふさわしい人間じゃありませんので」
 断る理由に俺を使うな。おまけにさりげなく貶すな。
 言っていることは正論だが、だからこそ何も言えなくて、はがゆい。
「それを決めるのはあなたではありません。わたくしです。
 雄志様には屋敷へと来ていただきます。が、一名招かれざる客がいるようです。
 誰のことかお分かりですね? 現大園華」
「あなたの家に行くなんてこっちから御免ですよ。
 いくら頭を下げられたって行きたくなんかありませんね」
「では、即刻このバスから出てお行きなさい」
「だから、おにいさんと一緒じゃないと降りないって言っているでしょう。
 ……本当にイライラしますね、あなたって人は。
 言うことを聞かないんなら、力ずくで押し通しますよ」
 華の両手が拳の形になっている。臨戦態勢だ。
 さっき、図書館ではかなこさんが倒されて、とどめを刺される寸前までになっていた。
 そこから考えても、華の方が荒事に慣れていることが知れる。
 こうなっては、かなこさんの方が不利だ。

 ――と、俺は思っていたのだが、対するかなこさんはたじろぐ様子を見せなかった。
 何か、違和感がある。絶対に無視してはいけない類のものが。
 図書館で会ったときとのかなこさんと、今のかなこさんは同じ人間なのか?
 氷壁を通して見た時みたいに輪郭がはっきりしない、底が知れない。
 短時間でここまで変われるものなのか?
 いや、そうじゃないな。
 きっと、元からかなこさんはこんな雰囲気を持っていたんだ。
 今まではただ抑えていただけで、やろうと思えばいつでも今のような感じになれた。
 それなら、この違和感の原因も説明がつく。
 穏やかな人柄の仮面が外れた、今のかなこさんが本物なんだ。

「物騒な女でございますこと。宜しゅうございますよ。できるのならば」
「……いいでしょう。望み通りにしてあげますよ。
 あなたをそこの扉から叩き落として、ついでに執事の人も同じようにしてやります」
「おい、ちょっと待て」
 華の肩に手を置き呼びかけると、振り向かれずに返事された。
「なんです?」
「やめとけ。無理に戦おうとするな。逃げた方がいい」
「逃げる必要なんかないです。わかりやすく力で教えてあげた方が、この女のためですよ」
「……たぶん、できないぞ」
「はい? 何言ってるんです。見たでしょう、さっきの無様な姿。
 温室育ちの脆弱なお嬢様に何ができるっていうんです」



257 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/28(月) 21:47:38 ID:xf3pEIi4
 それが誤解なんだ。
 危険な空気がかなこさんの方向から流れてきているのを感じる。
 豹変した姿を何度か目にしたが、そのいずれよりも危ない。
 体の防衛本能が強く警告してきている。
 図書館で会ったときはそれこそ無防備で、華の言っているように非力な印象だった。
 傷つけまいと、こっちから身を引かねばならないほどだった。
 それが、今はどうだ。
 透明なガラスの細かな破片を混ぜたような空気がかなこさんを覆い、近づけまいとしている。
 一歩動くことさえ慎重になる。
 これはもしや、俺の勘が鋭くなったとか、そういうことなのか?
 それともただの気の迷いなのか?
「すぐに終わらせます。一分じっとしててください」
 華はそう言うと、俺の手をどけて一歩踏み出した。

 その時、不意に襲いかかってきた悪寒が、脳裏にイメージを作り上げた。
 首から血を吹き出して倒れる、華の姿。
 世界が暗くなり、音が消える。目にしているもの以外何も知覚できなくなる。
 吹き出した血が床を濡らし、空中に広がり、俺の顔にかかる。
 青い座席も、縁の汚れた窓も、靴のすり切れた跡の残った床にも。
 悶えているうちに、天井にまで血が飛散した。
 力尽きた体は床に膝をついて前のめりに倒れた。
 うつろな眼差しはまだ信じられないように、右に左に動いていた。
 ほどなくして、その動きも止まる。まぶたがゆっくりと閉じられた。
 その想像を俺は咄嗟に否定した。強く、はっきりと。

 跳ねるように動く。
 コートの背中を引っ掴み、力任せに引っ張った。華の体が勢いよく後退。
 間髪入れず、さっきまで華の首のあった辺りに一本の線が走り、空間を引き裂いた。
 唐突に現れ、華の首を狙って走ったそれは、かなこさんが右手に持っている短刀だった。
 左手には鞘。右手は真横にまっすぐに伸ばした状態だった。
「……避けられてしまいましたか」
 穏やかな声が流れる。少しは残念に思っているのか、かなこさんは眉を伏せていた。
 まだ華は呆然としていて、目をぱちくりさせていた。
 見えていたのだろうか。いや、それ以前に、今の攻撃を予感していたのだろうか。
 もしさっきの閃きが起こらなかったらと思うと……あのイメージ通りになっていた。
 意識を短刀に集中させ、警戒しながら話しかける。
「今、もしかして……」
「お察しの通り、殺すつもりでございました。
 いつまでもその女に目の前でうろうろされては迷惑でございましょう?
 油断して近づいてきたところを、と思っていたのですが、まさか雄志様に阻止されるとは。
 つくづく、運に恵まれておりますわね」
 かなこさんは華を見て、小さく笑った。
 右手で掴んでいたコートの生地が動く。
 華が飛びかかろうとしていることがわかったので、今度はより強い力でコートを引っ張る。
「やめろ、華! 今本当に危なかったんだぞ!」
「わかってますよ、そんなこと!
 ……さっきはただ油断していただけです。今度は隙なんか見せませんから」
 力任せに手を振りほどかれた。
 その時、華は俺の顔を見ていた。後ろにいるかなこさんから目を逸らしていた。
 注意までは逸らしていなかったかもしれないが、その動きは油断や隙と言えるものだった。
 その隙をついて、かなこさんが距離を詰めた。
 警戒を断っていない状態だから気づけた、瞬間の動き。
 体がついていかない。
 短刀が華の心臓めがけて突き進むのが見えていても、それを止めることができなかった。
 刃が、華の体に突き刺さるのが見えた。
 悲鳴が聞こえてくるのを、俺は覚悟した。



258 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/28(月) 21:48:49 ID:xf3pEIi4
 しかし、声より先に人を殴る音が聞こえた。目の前では実際に一人が殴られていた。
 殴ったのは華で、殴られたのはかなこさんだった。
 華の胸に短刀は刺さっていなかった。代わりに左肩に深々と、根本まで刃が突き刺さっていた。
 それを信じられない気持ちで見ていると、かなこさんの体が揺れた。
 胴体に華の拳が突き刺さっていた。
 休む暇もなく放たれた追撃をかなこさんは後退して避ける。
 短刀から手を放していなかったので、同時に華の肩から血糊がべったり付いた刃が抜けた。
 華とかなこさんの間を、小さな血の点が連なり結んでいた。
「ち……意外と、深い……」
 華の口から呟きが漏れた。
 着ているものが黒ずくめだから血の色は目立たないが、左手から床へと滴り落ちる紅い血は隠せていない。
 右手はまだ固く握りしめられたままで、構えを解いていなかった。
 かなこさんは唇から垂れる血を確認するかのように、左手の指先を当てた。
「しぶとい女ですわね。どうして今のを避けることができたのでしょう。
 確実に、絶対に仕留められるという確信を持っていたというのに」
「あんまり、私を……舐めないでくださいね。そして、過信もほどほどにするべきですよ。
 ちょっとは刃物の使い方には慣れているみたいですけど、ね」
 苦しそうな表情を浮かべながらも華の口調は変わっていなかった。
 表面を紅く染めた刃が、標的へと向けられる。先にいるのは華。
 構えているのは鋭く目を尖らせたかなこさんだ。
 短刀の刃先から血が落ちる。床に着くとそれは弾けて拡がった。
「二度はありませんわ。次こそは必ずや、心の臓を貫きます」
「ふ……ふふ。次こそは、って言ってる時点で終わりです。
 さっき仕留められなかったのが致命的なミスです。
 次に終わるのは、あなたの方ですよ」
 それは、違う。
 できないんだ。華じゃ、かなこさんを退けることはできない。
 さっきから悪寒が消えない。空気が停滞して凝り固まったみたいに動くのが難しい。
 止めなければ、かなこさんを。守らなければ、華を。
 今やり合えば華が死んでしまうという想像が頭から離れない。
 それはさっき頭に浮かんだものの残滓ではなく、二人を見て冷静に判断して出した答え。
 軽自動車と大型トラックが衝突した結果を浮かべるように、鮮明に画が浮かび上がった。
 俺はそれを否定する。絶対にそんなことにはさせない。
 この状況、扉を開けたまま走り出していない状態のバスで、華を生き残らせるには。
 そして二度と二人を会わせないようにするためには。
 ――ああするしか手はない。



259 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/28(月) 21:52:30 ID:xf3pEIi4
「覚悟なさい、現大園華。あなたが名前を呼ばれるのは、これが最後になりましょう」
「菊川かなこ。あなたにその役はふさわしくありません。
 今の台詞があなたの遺言です。誰にも伝えません。私はすぐに忘れます。
 惨めに、無念を遺したまま、死になさい」
 かなこさんは短刀を逆手に、華は右手を貫手にして構える。

 緊迫した空気が肌を襲う。
 二人はきっかけを待っていた。すなわち、何かが合図を送り、スイッチを入れることを。
 風の音が強く耳に反響した。
 今日の風は勢いが強く、向かい風が吹いてきたら目を細めなければならないほどだった。
 寒風がバスの中に吹き込んでくる。
 運転席の後ろに貼ってある広告のチラシが浮く。

 ――風が凪ぐ。

 二人のうちどちらかが動くのが、限界まで広がったセンサーで感じ取れた。
 それは走り出すために膝を軽く折り曲げる程度の動きだったろう。
 だが、俺にはそれだけで十分。スイッチは入った。
 二人が動きだすまでの刹那をさらに短く切り取り、初動をとる。
 華の膝裏をつま先で蹴る。そのせいで頭の位置が少し下がった。
 間髪入れず、華の頭上を短刀の一閃が走った。
「えっ?!」
「な、……雄志様?」
 大きく踏み込む。手心を加え、腕を振り切ったかなこさんの腹部を掌底で打つ。後退した。
 打撃のフィードバックを利用し、腰を中心にして上体を跳ね返らせる。
 首を向けるより早く、目だけで華の顔を見る。
 そこには、俺が加勢したことによる喜びではなく、単純な驚きがあらわれていた。
 俺にこんな動きができるなんて、意外だったのだろう。
 だけどできてしまうのだ。
 目的を強く意識して体を動かせば、頭で考えるよりも早く、最適な動きを行える。
 右肘を華の胴体の打ち込む。
 華の体がくの字に折れ、肩に顎が乗った。
 顔から拳一つ分も離れていない場所に、華の横顔があった。
 リボンで一纏めにされた髪の束が、鼻先まで近づいた。
 髪の毛の艶は、いつもとは比べられないほどに無くなっていた。
 昨日からの騒ぎで手入れする暇もなかったのだろう。
 俺と華の二人だけに聞こえる声量で言う。
「悪い、華。こうするしかないんだ。お前を助けるためには」
「そ、んなの……って。おにいさん、の…………ば……か」
 かすれた声で呟き、華は脱力した。