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809 :私は人がわからない:2012/08/22(水) 10:54:16 ID:/4kh.2c.
[1/12]
 遂に、ぽつぽつと雨が降ってきた。
徐々に雨量を増していく雨は、雨脚こそはまだ弱いが、これから激しくなっていくだろう予感を感じさせる、たしかな力強さを持っていた。降りしきる雨粒は遊歩道に黒い染みをつくり、通行人たちは慌てて傘を広げている。
 私はコーヒーカップをソーサーに戻すと、ぼんやりと雨に見入った。
「何を見ているんだ?」
 前田かん子が、角砂糖をコーヒーに入れながら問うた。
「いや、雨、降っちゃったなって」
「雨?」
 怪訝そうに目を細めてから、彼女も外を見やった。雨粒は窓を軽くノックし、水滴を張り付かせては落ちていく。
「雨が降ると、なにか不都合なのか」
「不都合。そうですね、不都合といえば不都合です。実は今日、傘を持ってくるのを忘れちゃいまして。このままじゃ濡れて帰ることになるなと危惧していたわけです」
「嘘だな」
 即座に否定されて、びっくりして対面を見返す。前田かん子はじっと私を睨みつけていた。嘘吐きを見る目だった。
「今のお前の返答は、通常よりも幾らか早かった。あらかじめ私がこの質問をするのに備えていたんだ。本当はもっと別の理由があるんじゃないか。雨が降るとマズくなる、別の理由が」
「……さすがに穿ちすぎですよ。別の理由なんてあるはずないじゃないですか」
 ゆるゆると首を振る。
「前田さんが私のことを嫌っているのはわかっています。ですが、そう何度も突っかかられるのは困りますよ。とても疲れてしまいます。お願いですから、多少の不快には目を瞑ってもらえませんか」
「嫌っているのはわかっている、ねえ……」
 角砂糖をコーヒーに入れながら、前田かん子は面白そうに笑う。
「ああ。たしかに私はお前を嫌っているさ。それもかなり。私はお前が嫌いで嫌いで仕方がない。鳥島タロウの全てが気に喰わない。特に、その喋り方。そのとってつけたような丁寧語は気に入らん。一人称が私の男子高校生だなんて、今まで見たことがないぞ」
 まさか口調を指摘されると思っていなかったので、少々面をくらう。しかしまあ、言われてみると確かに珍しいかもしれない。妙齢の男性でもないくせに一人称が私だというのは。だが、これはもう癖みたいなもので、すっかり馴染んでしまって今更どうこう出来る物ではなかった。
「すいません。言葉遣いに関しては、我慢してもらうしかありません。長年染み付いてしまったものなので、矯正は難しいかと」
 私がそう言うと、前田かん子は、チッと舌を鳴らして視線を外した。耳についているシルバーピアスが、オレンジ色の照明に照らされて鈍い光を放つ。

810 :私は人がわからない:2012/08/22(水) 10:56:18 ID:/4kh.2c.[2/12]
「なら、さっさと本題に入れ。キリエについて訊きたいことがあるのだろう?」
 すわ本題か。私は居住まいをなおし、腕を組んでしばし考え込むと、やおら口を開く。
「そうですね……じゃあ、まずは田中さんの簡単な個人情報、プロフィールを教えてもらえますか?」
「プロフィール……内容云々は、私の自己判断で構わないのか?」
「構いません」
「そうか。了解した」
 前田かん子は角砂糖をコーヒーに入れると、瞑想する時のように瞼を下ろした。どのようなことから話すべきかを考えているみたいだ。
 五分程度経つと、彼女はフゥと息を吐き、目を閉じたままの状態で滔々と話を始めた。
「氏名、田中キリエ。現在は父親と継母の三人暮らしで、兄弟はいない。ペットなども飼ってないが、唯一自室でサボテンを育てている。現在三年目。継母からの贈り物と聞いている。
 身長は百四十二・三センチで、体重は三十六・二キログラム・・いや、訂正だ。体重は三日前に二百グラム増えたから、正確には三十六・四キログラムだ。それと足のサイズは二十一・五センチ。
 性格は引っ込み思案かつ人見知り。けど、細かいところに目が届き気配りは上手。だから、キリエのことを悪く思うやつは一人だっていないはずだ。キリエは優しくて可愛いからな。アイツの陰口を叩いてる人間なんかいたら、殺してやるさ。
 利き手は左だが、書き物をするときや食事などでは右手を使う。まあ、スポーツ等以外では左手を使わないから、実質右利きと言ってもいいのかもしれない。
 好きな食べ物は宇治金時で、嫌いな食べ物はトマト。趣味は料理に手芸。料理のほうは言うまでもなく絶品。小さい頃かずっと包丁を握っていたからな。経験だって豊富だ。休日にはお菓子なんかもつくったりする。
 手芸のほうは、大体冬が近づくととマフラーや手袋なんかを編み始める。キリエが今年つけているピンク色のマフラーも、自分で編んだものだ。キリエはピンクが好きだから、毛糸も必ずピンク色のものを使用する。ふふっ、ほんとうに愛らしい。
 それと、風呂に入ったときに最初に洗う箇所は左足の甲で次は・・」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ」
 堪らず声を上げてしまった。身を乗り出すようにして話を遮る。前田かん子は急に話の腰を折られたためか、不機嫌そうに此方を睨みつけていた。
「なんだよ、急に」
「あ、いえ、いきなり話を中断させて申し訳ないとは思うのですか……あの、いくらなんでも詳しすぎやしませんか?」
「はあ?」
 何を言っているのかわからない、といった風で首を傾げる。その態度があまりにも自然なものだったので、一瞬、間違っているのはこちらなのではと考えてしまう。けど、まさかそんなはずはないだろう。

811 :私は人がわからない:2012/08/22(水) 10:58:16 ID:/4kh.2c.[3/12]
「ですから、ちょっと田中さんについて仔細に知りすぎていますよ。身長や体重を小数点以下まで把握しているなんて、忌憚なく言わせてもらうとかなり異常です。ましてや、入浴時云々なんて言うまでもないかと……」
 そう指摘すると、前田かん子は呆れ顔になって、
「なあ、鳥島タロウ。お前には、親友と呼べる人間はいるか?」
「親友、ですか? いえ、お恥ずかしながら……」
 前田かん子は、やはりそうか、とでも言いたげにやれやれと首を振った。
「なら、理解できなくても仕方がないか。無知蒙昧なお前に教えてやろう。普通、親友ってのは相手のことをとてもよく理解しているものなんだ。とてもよく、だ。
 親友のいないお前にはイマイチ理解出来ないのかもしれんが、これしきの基礎知識、親友なら知ってて当然なんだよ」
「そ、そうなんですか」
 衝撃の事実だった。これまで私の考えていた親友像と、前田かん子の説明する親友像には、大きな隔たりがあった。まさか、親友なるものの心の距離感がここまで近いとは……。もはや密着と言っても差し障りがないではないか。
 ぶっちゃけ、今言った親友の定義は違っているのではと疑ったりもした。が、実際に親友を持つ者の言葉にはやはり重みがあった。白黒つけるまでもない。恐るべし親友。自分にもいつか、そんな存在が出来たらなと願う。
 ふむふむ、と感慨深く頷く。これでまた私はひとつ賢くなった。
「それで、次に訊きたいことはなんだ」
「次、ですか……次はですね、えと」
「どうした? 随分と考えあぐねているじゃないか」
 返答に窮していると、ここぞとばかりに攻撃してくる。意地悪な小姑のように、ネチネチと陰湿に。
「今日は訊きたい事が山ほどあったから私を呼び出したんだろう? なのに、質問内容をぽんぽんと繰り出せない今の状況はおかしいな。私にはとても奇異に見える」
「ですから」
 難癖をつけるのも大概にしてほしい。私は多少声を荒げて啖呵を切る。
「前田さんは疑りすぎなんですよ。ちょっとの間、言葉に詰まっていただけでしょう。それをなんですか。まるで私に腹蔵があるみたいに言うのは。そう気を揉まなくても、なんの裏もありゃしませんよ。
 今はただ、ほら、バイキング料理と一緒です。目の前にずらりと料理が並べられていると、どれから手に取ろうか悩んでしまうでしょう? そんな感じで、質問を決められずにいたのです」
「本当にそうかな」
 それでも揶揄する前田かん子に、身体の温度が上昇しかけるが、ハッと気付く。身に覚えがあった。こうやって、わざと私を苛立たせ、本性を暴こうとする手口には。

812 :私は人がわからない:2012/08/22(水) 11:00:14 ID:/4kh.2c.[4/12]
 なるほど。冷静に観察してみれば、彼女からは明らかに作為的な雰囲気を感じる。私の本音を白日の下に曝すために、意図的に因縁をつけているのだ。つまるところ、彼女と同じことをしている。茶道室に居座る、あの魔女と同じことを。
 そうとわかれば話は早い。
「さあ、どうですかね」
 一息入れ、道化のように肩をすくめてみせる。こういう相手に真面目に取り掛かってしまうのは逆効果でしかないのを知っていた。
 こちとら長いあいだ斎藤ヨシヱに煮え湯を飲まされ続けているのだ。この手の対応には、抜かりがない。
 前田かん子もこれ以上の揺さぶりは詮無しと悟ったのだろう。そうかい、と呟いたきりあっさりと身を退いて、変に突っかかるのをやめた。黙って角砂糖をコーヒーに入れ、訊きたいことは決まったかと再度訊ねる。
「それでは、田中さんの男性遍歴について訊かせてもらえますかね」
 私と付き合う以前、田中キリエがどんな恋愛をしてどんな別れ方をしていったかが気になっていた。
「ないよ」
「えっ?」
「キリエが男と付き合ったことは、今まで一度だってない。曲解されぬ内に言っておくが、女ともだぞ」
「へぇ、意外ですね。彼女って、中々モテるんじゃないですか? 容姿については問題ないですし、性格だっていいでしょう」
「ああ、モテたさ。キリエはクラスでもあまり目立つほうではないが、そのぶん密かなファンは多い。中学時代は言わずもがな、高校でだって何度か告白されている」
「なのに、どうして誰ともお付き合いを?」
「さあね。どっかの誰かさんを長年想い慕っていたからじゃないのか」
 挑戦的な瞳で私を見る。こういう言われ方をされてしまっては、何も言い返すことが出来ない。愚者を気取ってわからないフリをし、遠くを眺める。
「どうして、なんだろうな」
 急に、前田かん子が独白する。田中キリエの趣向は理解し難いとでも言いたげに、眉根を寄せていた。
「容姿はよくない。体格も華奢で頼りない。いつもへらへら笑ってて何を考えているかわからない。見てて不愉快だし、男性らしい魅力も皆無。少なくとも私には、ただの下賎な男にしか感じられない。なのに、なぜ、キリエはコイツに失望しなかった……」
 角砂糖をコーヒーに入れながら、何か考え込んでいる御様子。私を貶める発言が鼻につくが、それは寛容な心をもって流しといてやろう。

813 :私は人がわからない:2012/08/22(水) 11:02:34 ID:Lfmv7T16[5/12]
 それよりも、
「前田さん。いい加減、口を挟んでもいいですかね」
 彼女は私にちらりと目をやって、訊ね返した。
「口を挟むって、なににだよ」
「コーヒーです」
 私は、およそ液体らしい動きを獲得していないコーヒーを指差した。
「いくらなんでも砂糖を入れすぎでしょう。あまりにも量が多いもんだから、溶解しきってないじゃないですか。ものすごくじゃりじゃりしてそうです。というか、こんなの飲んだら血糖値がとんでもないことになりますよ」
「うん? 普通、砂糖はこれくらい入れるもんだろう。じゃないと苦いじゃないか」
「……いや、まあ、苦いかもしれませんけど」
 コーヒーとはその苦味を味わうものではないのか、と心中で突っ込む。
 前田かん子は小首を傾げながらも更に角砂糖を追加していたが、シュガーポットが空になったところで漸く手を止めた。そしてコーヒー(?)を口に含むが、どこか不満気な顔をしている。
 まさか、まだ砂糖を入れ足りないのだろうか。勘弁して欲しい。こちとら見ているだけで胸焼けを起こしそうだというのに。
 私は目の前の光景から目を逸らし、己のブラックコーヒーを口に含んだ。ねちゃねちゃとした甘ったるさを感じるのは、間違いなく錯覚だろう。
 私は豆の苦味を十全に味わう為に、咥内の液体をぐるりと掻き回したのだった。

 それから、私達はぽつぽつと言葉を交わした。
 会話の主な内容は、もちろん田中キリエについて。彼女の情報を取り入れる度、重要な情報、不要な情報を取捨選択し、頭の中のメモ帳に書き連ねていく。そうすることで、あやふやだった田中キリエ像に肉付けがされ、実体を伴っていく。
 前田かん子は面倒臭そうながらも、割りと誠実に質問に答えてくれた。やはり根は義理堅いのだろう。質問と返答の応酬は、滞りなく進んでいく。
 話の途中、彼女はライダースーツのポケットから煙草を取り出した。
「ここ、全席禁煙ですよ」
 無理だろうなと確信しつつも、控えめに諫言する。
 うるせーちくしょーそんなルール私にゃ関係ねーんだよバーカ、ってな感じで素っ気なく跳ね除けられると大方予測していたのだが、存外、彼女は普通に従った。手中の煙草を、再びポケットに戻す。
 意外と規則は守る人なのかしら、と危うくギャップ萌えで好感度が急上昇しそうになるが、軒下に違法駐車されている無骨なバイクを見て正気に戻る。

814 :私は人がわからない:2012/08/22(水) 11:04:10 ID:Lfmv7T16[6/12]
 結局のところ、どこにでもあるただのダブルスタンダードだった。あれはいいけど、これはだめ。前田かん子の中にも、独自の線引きがあるのだろう。あぶないあぶない。危うく好きになってしまうところだった。
 そんなやりとりがあり、また質問を数個加えたところで、話が潰えた。
 ざあざあ、と力強さを露にした雨音を聞きながら、私達は同じ沈黙を共有する。彼女のコーヒーカップは既に空になっていた。私も残り少ないコーヒーを一気に煽って、同じく空にする。
 スッキリしないな、とカップの底をじいと見つめながら思った。
 違和感。そう、言うならば私は前田かん子に対し違和感を感じていた。田中キリエについて話す時の彼女は、その、何かが違うのだ。具体的にどう違うのかと訊かれたら困るのだが、とにかく、前田かん子は田中キリエ対し、特殊な感情を抱いているように見える。
 だから、私は訊ねていた。
「前田さんは、どうしてそんなに田中さんに傾倒しているのですか?」
 正直、返答は期待していなかった。私達は依然敵対関係を継続させているし、なにより前田かん子はプライベートな質問には答えないだろう。彼女が果たすべき義務は、あくまで田中キリエ関連の事のみなのだから。
 だから前田かん子が、わかったと言って小さく頷いた時には、私は心底驚いていたのであった。新種の生物でも発見したときのような、物珍しい感動を覚えていた。
「私とキリエが初めて会ったのは、中学校からだ」
 腕を組みじっと椅子にもたれたまま、彼女は小さいけれど、しかしはっきりとした声で己について語り始める。
 この時、言ってしまえば私は心構えが出来ていなかったのである。どこか異国にでも観光に来たような、いわばお客様のような気楽さで話に耳を傾けていた。だから、次に発せられた発言には、掛け値なしに仰天することになる。
「当時、私はイジメられていた」
「はっ?」
 横っ面を引っ叩かれたような衝撃。手にしていたコーヒーカップを落としそうになり、テーブルが硬質な音を立てる。
 待て。待ってくれ。彼女は今、前田かん子は今、なんと言ったのだ? イジメられていた? バカな、そんな、まさか。
「冗談でしょう?」
 今の発言が信じられなくて、若干、茶化すような口調で問いなおした。が、寄越された鋭利な視線で今のが嘘でないと確信する。
 ほとほと信じられない話ではあるが、彼女は過去、本当にイジメられていたらしい。現在の恐ろしい風体からでは、到底考え付かないことである。
「私は昔から、孤独を恐れていた」
 前田かん子は、静かに回顧を始める。

815 :私は人がわからない:2012/08/22(水) 11:05:46 ID:Lfmv7T16[7/12]
「とにかく独りになるのが怖かったんだ。周りに誰もいないという環境を異常なまでに厭い、沈黙ではなく喧騒を愛した。私はそんな人間だった。だから、学校ではいつも寄生虫のように特定のグループにくっつき、下手な相槌と愛想笑いを振りまいてコミュニティに媚を売っていた。
 今となっては反吐が出そうな毎日だったが、当時の私はそれなりに幸せだった。私にとって一番マズイ事態というのが孤独。極端な話、孤独さえ遠ざかっていれば全部満足だったんだよ。
 けど、まあ。そんな日常が続くはずもなかった。私はとてもつまらない人間だった。付和雷同をよしとし、常にイエスしか言わない人間。主体性も個性も欠陥した、大量消費品みたいな人間。そんな人間が、まず面白いはずがない。私は次第に疎まれ、イジメられていった。
 イジメが始まったときは、文字通り地獄だったよ。今まで散々イジメられないように生きてきたんだ。それが突然、独りぼっちに。嗚呼、まさに発狂もんだったね。最悪ってのは、ああいうのを言うんだろうな。
 そして、次第に私は自殺を考えるようになった。辛い日常に疲れていたんだ。目の前でちらつく死が、とても甘美な麻薬のように思えた。だから、死ぬことにしたんだ。
 死に場所は学校の屋上を選んだ。学校の屋上飛び降り自殺。そっちのほうが、自宅で首を吊ってるよりもセンセーショナルな事件になると思ったからだ。
 自分の死によって、アイツらに少しでも罪悪感を感じさせれれば、そんな復讐も兼ねていたのかもしれない。笑っちまうよな。加害者が被害者に対して申し訳なかったと思うことなんて、ありえないのに。
 そして、私は恨み辛みを書いた遺書を持って、屋上に行ったんだ。ちょうど、今ぐらいの季節だった。寒い寒い冬の日。そこで、出会ったんだ。キリエに。田中キリエに。
 夕日をバックにして立っていたキリエは、なんというか、ひどく非現実的な人物に見えた。まるで異世界に足を踏み入れてしまったような錯覚に陥った。我ながら陳腐な表現ではあるが、そのときは本当にそんな気がしたんだ。
 私は驚いてしまって、何も口にすることが出来なかった。キリエも同じで、突然の来訪者に驚いているみたいだった。互いに顔を見合って、妙な牽制をしあっていた。
 こんにちは、と機先を制したのはキリエだった。アイツは柔らかい笑みを浮かべて、こう訊ねてきたんだ。どうして屋上に来たのって。
 悲劇のヒロインに酔っていた私は、無粋な部外者に水を差された気がして、とても気分が悪かった。別に貴女には関係がないでしょ、とか、つっけんどんなことを言った気がする。
 けど、キリエはあくまで柔和に、優しくのんびりと接してくれた。久しぶりの温かい気遣いに、じんわりと胸に心地よいものが広がるのがわかった。私達は初対面だったが、自然とキリエに愁眉を開いていった。

816 :私は人がわからない:2012/08/22(水) 11:08:53 ID:gEXkxocY[8/12]
 キリエは、夕日を見に来たのだと言った。学校の屋上から見る夕焼けはとても綺麗で、だからたまに此処へやってくるのだと。そして、よければ貴女も一緒に見ないかと誘われた。断るはずがなかった。私は黙ってキリエの横に並んで、夕日を見た。
 綺麗だった。赤い夕日、紫色の千切れ雲、微かに光る星屑。空なんて今までに飽きるほど見てきたけど、私はあんなに美しい夕日を見たことがなかった。感動で胸中がぐちゃぐちゃになって、気付けば泣き出していた。
 そして、全てを吐き出していた。孤独が怖いこと、イジメられて悲しいこと、屋上には自殺しに来たこと。私が吐露したモノを、キリエはそっくりそのまま受け入れてくれた。私の全部を受け入れてくれた。話を終えた後、アイツは私にそっと言ってくれたんだ。
 なら、私と友達になりましょうって。それなら前田さんは独りじゃないでしょうって。
 世界が変わった気がしたよ。喩えるなら、灰色だった世界に色がついたんだ。息苦しかった空気が爽やかなものになって、身体がとても軽くなっていた。生きているっていう実感が、初めて沸いたんだ。
 でさ、触れたんだよ私は。私は真理に触れたんだ。キリエさえ居れば、他のことなんてどうでもいいんだっていう、至極簡単な真理に触れたんだよ。私にとっての世界は、キリエと、その他の有象無象なんだってことがわかったんだ。
 大衆など必要ない。賑やかのなんていらない。私にはキリエ。ただ隣りにキリエさえいればいい。それなら孤独だって怖くないって。キリエさえいれば、世界なんて滅んだっていいんだって」
 前田かん子は、私がいることなど忘れてしまったかのように、機械的に話しを続ける。口元は歪に曲がり、時折哄笑を漏らす。瞳は暗く濁り、此処ではない遠い世界を見据えている。
 話はまだ終わっていないようだったが、もう十分だった。私はトリップしてしまった彼女を、冷ややかな視点で見ている。
 違和感の正体にやっと気付いた。というか、気付くのが遅すぎたくらいだ。やはり自分は感情の推し量りが不得手なのだなと、つくづく実感する。
 私はずっと、前田かん子が田中キリエに対して抱いているのは友情だと思っていた。けど、違うのだ。それは友情とは程遠いものだった。
 彼女が抱いていたのは、ただただ歪曲し、狂気すら宿した、愚にもつかない愛情。おぞましさすら感じてしまう、井戸の底のように暗い感情だった。
 気持ち悪い。私は対面に座る前田かん子を見て、そう思った。気持ち悪い、と。
「以上で、私とキリエの話は終わりだ」
 話が終わると、彼女の瞳にも漸く光が戻ってきた。放棄していた正気を手繰り寄せつつあるのだろう。怖気立つような不快な感じが、徐々にではあるが消えていく。
 ホッと胸を撫で下ろした。あの気持ち悪い前田かん子には、二度と会いたくないと思った。

817 :私は人がわからない:2012/08/22(水) 11:10:36 ID:gEXkxocY[9/12]
「いやぁ、そんな過去があったのですね。色々と意外な事実も露呈して、とても興味深く話が聞けました」
 話をしてもらった礼儀として、質問をひとつする。
「ところで、結局イジメはどうなったのでしょうか?」
「ああ、あれからイジメていた奴等全員、学校に来れなくした」
「へぇ……」
 具体的なことは訊かずにおこう。
 と、不意に、フラッシュを焚いた時のように窓の外がピカリと光った。数秒して、ゴロゴロと天が唸り声を上げる。
 私と前田かん子は、ほぼ同時に通りに目をやった。いつの間にか、外はとても暗くなっていて、通行人はものの見事に一人もいない。店内の客も全て消えていて、カウンターの店員さんだけが、ちらちらとこちらを盗み見ていた。
「…………」
 もう頃合いだなと、これより先のことは断念する。内心、満足していない部分もかなりあったが、人事は全うしたのだ。後は、天啓を待つのみなのだろう。
「最後の質問です」
 前田かん子を見据えて、言葉を続ける。
「どうして、田中さんは私のことが好きなのですか?」
 これだ。何があろうと、最後にこれだけは訊いておこうと決めていた。長年の疑問。田中キリエが、なぜ鳥島タロウを好いているのか。
「あなたの口ぶりだと、田中さんが私を好きになったのは、どうやらもっと昔のことのようです。しかし、私と田中さんが初めて出会ったのは、高校からのはずだ。少なくとも私はそう認識しています。
 なのに何故、田中さんは私に恋心を抱いていたのか。ずっと疑問だったんです。前田さん、教えてもらえますか?」
 また雷が落ちた。前田かん子の顔が、青白い光に照らされる。轟音で窓が震え、キシキシと嫌な音を立てる。彼女はコツコツ、と人差し指でテーブルを叩いている。
「私も詳しく聞いたわけじゃない」
 と、前田かん子はあらかじめ前置きをした。私は首肯して、先を促す。今から事の真相が、暴かれる。
「キリエは昔、市立N小学校に通っていた」
 市立N小学校という単語を聞き、心臓がどきりと跳ね上がる。
「市立N小学校って……」
「そうだ。キリエはお前と同じ小学校に通っていたんだ」

818 :私は人がわからない:2012/08/22(水) 11:12:15 ID:gEXkxocY [9/12]
 要は私と同じだよ、と自嘲的な響きを含めて、彼女は説明する。
「当時、たしか小学五年生だったか。キリエはイジメに会っていた。原因はわからない。アイツは優しい人間だから、自分からは絶対にイジメの原因を作り出していないはずだ。ほぼ一方的に危害を加えられたに違いない。
 それだけでなく、家でもかなりの不和を抱えていたと聞く。さっき家族構成を説明した時、私は母親でなく継母だと言ったよな。アイツの実の母親は、もう既に亡くなっているんだ。自殺だったらしい。
 キリエ自身が、特に母親のことは話したがらないから、これはあくまで憶測なんだが、おそらくキリエは実母から虐待を受けていたように思う。言葉の端々から、なんとなくそんな匂いがした。少なくとも、母親とは決して良好な関係ではなかったはずだ。
 つまり、内でも外でも、キリエの世界はボロボロだったんだよ。嗚呼、可哀想に。キリエは、あの時が人生で一番辛かった時期だと言っていた。とても、ひとりで耐えられるものではなかったと」
 ふっと、彼女の顔から憐憫の念が消え、憤怒に取って代わった。
「だけど、だ。憎たらしいことに、私にとって、最も不快な事実があったんだ」
 激情をおさえきれなかったのだろう。彼女は唐突に握りこぶしでテーブルを叩いた。身体はやるせなさで震え、歯をぎりぎりと噛み締めている。羨望と憎悪が混ざり合った瞳の先には、当然のように私がいた。
「そんな絶望のさなかにいたキリエを救ったのが、鳥島タロウだという事実だ」
 今にも噛み付かんばかりの表情で、最後を締めくくった。
 かちり、と頭の中で歯車が動き出した。私は剣呑な様子の前田かん子には意にも介さずに、じっと考え込む。 
 そうだ。私は知っていた。小学五年生の時に、そのような少女がいたのを知っていた。かちかちと、歯車が噛み合わさっていくのを感じる。だが、何かが足りない。ジグソーパズルのワンピース。後一つ、最後にそれが埋まりさえすれば全て思い出せるのに。
「前田さん」
 私は目を閉じて、眉間の辺りを強く揉んだ。かちかちかちかち。歯車が回る。
「当時、田中さんは苗字が違ったんじゃないですか? 田中キリエでない、もっと難しい名前だったはずだ。そうだ。私はその少女を知っている。けど、田中キリエではなかった。もっと違う。違う名前」
 おぼろげながらも、少女の姿が浮かんでくる。しっかりと意識を向けなければ消えてしまうほどの儚い幻想だったけれど、確かに私の中に少女はいた。
 そうだよ、と未だ興奮の抜けぬ声色で前田かん子は言う。
「アイツの親父は婿入りだったから、離婚時に苗字が変わっている。小学生の時、キリエは田中キリエでなかった。当時のアイツの苗字は・・」

819 :私は人がわからない:2012/08/22(水) 11:13:47 ID:gEXkxocY [10/12]
 最後のピースを手渡してくれた。
「葛篭木だ。小学生の時のアイツの名前は、葛篭木キリエだ」
「ツヅラギ、キリエ・・」
 かちり。全ての歯車が噛み合わさり、からくりは動き出す。フラッシュバックする情景。ストロボをたいた時のように、眩い閃光と共に記憶が浮かび上がっていく。
 雨。校舎。昇降口。たたずむ少女。弱い。死んでしまいそうな。傘。失くした物。探索。結果。帰り道。水溜り。虹。そして、少女の瞳に宿る……。 
 靄が晴れていくように、さっと疑念がきえていくのがわかった。心に一陣の風が吹き、清涼剤の如き爽やかな気分が胸中を占める。やっとだ。わからないという気持ちの悪い状態から、やっと解放されたのだ。
 葛篭木キリエ、いや、田中キリエはあの時の少女だったのだ。
「ありがとうございます」
 テーブルに手をついて、深々と頭を下げた。自分にしては珍しく、それは正真正銘の心からの感謝だった。
「質問はこれで全て終わりました。前田さんのおかげで、これからうまくやれそうです。本日は御協力、誠に感謝いたします」
「ふん」
 前田かん子はつまらなそうに鼻を鳴らしてから、すっと腰を上げた。自分の責務は果たした言わんばかりに、きっかりと私への関心を無くす。そして、ポケットの中から小銭入れを取り出した。
「支払いは結構です。今日は私が払いますよ。そもそも呼び出したのは此方ですし、そこまでしてもらうわけにはいきません」
「断る。お前に妙な借りはつくっておきたくない」
 そうして乱暴に硬貨を投げる。三百十五円。ブレンドコーヒーちょうどの値段だった。
「それと鳥島タロウ。携帯電話を貸せ」
「携帯電話?」
 誰かに連絡をとるつもりなのかしら、と疑問に思いつつも、私は古びた携帯電話を彼女に差し出した。すると、パキン。携帯電話が真っ二つに折られた。そしてそのままテーブルの上に放り投げられる。
「これからは二度と私に連絡をとろうとするな。わかったな」
「……はい」
 意気消沈の返事をしながら、二つに分離した携帯電話を左右それぞれの手で拾い上げる。断面から赤いコードが、内臓のようにだらしなくはみ出していてグロテスクだった。
 まあ、前々から機種変更をしようと思ってたし、別にいいんだけどさ。けどさ、そんなの口で言えば済むことじゃない。なにも物理的破壊に躍り出なくたって……まあ、いいんだけどさ。本当に気にしてないんだけどさ。別に、携帯電話くらい、いいんだけどさ。
 はあ、と溜め息を一つ。携帯電話をテーブルに置き、つんつんと指でいじる。

820 :私は人がわからない:2012/08/22(水) 11:15:04 ID:gEXkxocY [11/12]
 と、それで立ち去るだろうと思っていた前田かん子が、なぜかまだ前方に立っていた。
「まだ何か?」
 点燈することのない液晶画面を覗き込みながら、いじけた口調で訊ねる。が、返事は返ってこない。
 これは本格的におかしいぞ、と不安を感じながら顔を上げると、彼女は今まで見たことのない、なにやら難しい顔をして私を見下ろしていた。
「まだ、言わないつもりなのか」
 低い、しわがれたハスキーボイスでそう言った。
 はてなにやら。こちらとしては首を傾げるしかない。
「言わないもなにも、今日は訊きたいこと全て訊けましたし、私にはもう言うことはありませんけど」
「違うっ」
 即座に言い返される。まだ惚ける気なのか、と前田かん子は詰問調で口火を切った。
「あまり私を舐めるなよ。気付いていないとでも思っていたのか。今日、お前は私と会ってからずっとそうだ。何を言うにも、薄皮一枚挟んだような嘘くさい物言いばっかしやがって。
 違うんだろう、鳥島タロウ。お前の本当の目的は、キリエの情報を訊くことではない。そうなんだろう」
「…………」
「言えよ。なにが狙いだ。電話でなく、わざわざこんなショッピングモールの喫茶店にまで呼び出して、私とくだらない会話を交わした理由はなんだ。なにを企んでいるんだ。吐けよ、洗いざらい吐けよ。気味が悪いんだよ、お前」
「……くくく」
 自然と、笑い声が漏れ出ていた。いやいや驚いた。前田かん子、コイツは私が思っているよりも、よっぽど鋭かった。野生の勘などではなく、冷静に私を観察しての結論なのだろう。彼女に対する評価を、改めなくてはならない。
「ええ、その通りです」
 私はお手上げだとばかりに万歳して、降参の意を表した。
「たしかに、私が前田さんを呼び出したのは、田中さんのことを訊くだけではありません。それはあくまで名目上の理由です。隠された、真実の目的があります」
 一呼吸置いて、十分な間をつくって空気を張り詰めた。そして、あくまで慇懃な口調で、ゆっくりと真意を告げた。

821 :私は人がわからない:2012/08/22(水) 11:16:25 ID:gEXkxocY [12/12]
「私が前田さんを呼び出したのは、ひとえに言って好感度を上げるためです。田中さんとの個別ルートを進めつつ、前田さんとも親密になり、そしてゆくゆくは両手に華エンドという壮大な目的が・・」
 雨音に負けないほどの乱暴な騒音。いつの間にか目の前から前田かん子は消えていて、出入り口のドアに付随していたベルが床に落ちた。店員さんは仰け反るようにして、恐怖でブルブルと震えている。
 エンジン音がして、外に目を移すと、彼女はちょうどフルフェイスヘルメットを被っているところであった。そして前田かん子は私を一度も見ることなく、大雨の中をバイクで駆け抜けて行った。目を見張るほどの猛スピード。事故らなきゃいいけど、と不必要な心配をする。
 猛獣の唸り声が遠ざかっていき、完全に消滅したところで、私は漸く身体の緊張を解いた。
「……怖かったなあ」
 呟く。正直、かなり怖かった。身体中が間断なく震えている。終始わざと余裕な態度をつくっていただけに反動が凄い。深い呼吸を何度か繰り返し、私はなんとか平常心を取り戻した。
 さて、今日の計画はうまくいったのだろうか。残念ながら、それはわからない。百点満点とは云えないだろうが、それでも及第点ぐらいは取れたはず。少なくとも赤点は免れた。
 まあ、詳しいことは何も判明していないけど、今はそれでよしとしよう。
それよりも、
「まさか、田中キリエが葛篭木キリエだったとはねぇ……」
 合縁奇縁。人の繋がりとは妙なものであると、殊更に実感する。いや、中々どうして。忘れていたフラグを今になって回収するとは、自分も結構主人公やってるじゃないか。笑ってしまう。
「…………」
 これから、どうしよう。私はぽつねんと残された店内で一人、呆けたように座っている。
 店の外では、相変わらず強い雨が地面を跳ねていた。冬本番のこの季節。この雨の中に出て行ったら、間違いなく風邪をひいてしまうだろう。明日からまた学校だし、体調を崩してしまうのは得でない。
「ふむ」
 少し悩んだ末、私はまだカウンターで怯えている店員さんを呼んで、コーヒーのおかわりを注文した。雨脚が弱まるまで、もうちょっと店内で粘ろうと思ったからだ。
 その時だった。
 ・・君さ、傘持ってる?
 不意に、まだ幼い頃の己の声が再生されて、私は思わず苦笑したのだった。
 そうだ。葛篭木キリエと初めて話したあの日。あの日も私はこうして傘を忘れて、雨が止むのを待っていた。