599 :恋の病はカチカチ山をも焦がす ◆iIgdqhjO26 [sage] :2008/02/18(月) 07:09:18 ID:10oW+0H1
***
その時からか、兎は態度を一変させた。
あれほど執拗に悪戯や邪魔を仕掛けていた兎は段々と大人しくなっていき、
いつしか狸の傍らで腕を抱くようになっていた。
驚いたのは動物達だった。
動物達はあの愚鈍な狸が如何なる妖術を使ったのだろう、と噂した。
当然、その事で狸の待遇が特段変わるわけではなかった。
変わったことといえば、今まで以上に狸に対して距離感を置くようになっていることだけだった。
狸としては、まあ、こんなものだろうという調子だった。
狸が気に病んでいたのは、周囲の目では無かった。
どちらかといえば兎の、その態度が変わり過ぎたことのほうが気に病んだ。
一人の女性に愛されるくらいでは気質というのは変わらないもので、
狸は相変わらず何か企んでいるのではないかと脅えていた。
狸は釣りへと出かけた。
狸が水面を眺めていると、兎が後ろから声をかける。
狸は未だその声に馴れることが出来ず、相変わらず肩をびくっ、びくっと震わせた。
兎は後ろから背中へと飛びつき、そして頬ずりをする。
600 :恋の病はカチカチ山をも焦がす ◆iIgdqhjO26 [sage] :2008/02/18(月) 07:10:31 ID:10oW+0H1
「うわあ、兎さん、やめてくれ、その、恥ずかしいから」
狸は身が固まってしまう。
兎は狸の顔を覗き込む。
「狸さん、狸さん、お腹が空きませんか?もうそろそろ一緒に昼ご飯でも食べましょう」
特に狸には断る理由は無かったし、恐らく断ることもできなかっただろう。
気がつけば兎は狸の返事を聞くまでもなく、風呂敷を広げはじめていた。
風呂敷の中からは笹の葉で包んだおにぎりが出てきた。
おにぎりはまるまるごろごろとした形であり、正直不恰好ではあった。
にぎりが強すぎるのか炊き方が間違っているのか、少々ご飯が潰れて
もち状になっていた。
だが、前のように張り切って料理を作っては毒殺されかねても困るので、
それはそれでまあ、いいかと狸は思う。
狸は一つおにぎりを掴み、口へと入れる。
すると意外や意外にそのおにぎりはそれなりにおいしかった。
ほんのりとした塩味と梅干の爽やかな風味がちゃんと行き渡っており、
なるほどちゃんと味見を覚えたのか、と思いほっとする。
601 :恋の病はカチカチ山をも焦がす ◆iIgdqhjO26 [sage] :2008/02/18(月) 07:11:43 ID:10oW+0H1
「狸さんに恥ずかしいところは見せられないですからね」
と、少し頬を赤らめて言う。
狸は変わったな、と思う。
おにぎりを頬張っていると、竿の先がひくりひくりとなる。
狸は竿に手を取り直し、えいと引っ張り上げる。
飛沫を上げ、魚が鱗をきらきらと光らせる。
兎は目を見開き、口に手を開ける。
狸は糸を丁寧にたぐりよせ、最後のあがきをする魚を釣針から取り、魚籠へと入れる。
「狸さん、狸さん、この魚をどうするつもりですか?」
狸は少し考える。
「うー……娘さんのところへ持っていこうと思う」
その言葉を聞いた兎は少し口を歪ませ、軽蔑したような目付きで狸を見る。
「まだ……そんなことを言うのですか?
……私を抱いておいて、まだそんなことを言うのですね……」
602 :恋の病はカチカチ山をも焦がす ◆iIgdqhjO26 [sage] :2008/02/18(月) 07:12:57 ID:10oW+0H1
狸は焦る。
あれは不可抗力に過ぎないことだし、狸は自分に責任は無いと思い込もうとしたが、
そう思い込むには狸は繊細すぎた。魚籠の中で魚はぴちぴちと跳ねている。
兎は歪んだ口のままくすくすと笑った。
「もう、貴方は以前のようには上手くいかないのです。
形はどうであれ、一人の女性を抱いてしまった汚れた体なのです。
その体を持って、あのような清浄な娘を汚すのですか?」
狸の足元から力が抜ける。
狸は娘に操を立てていた。愛する以上は操を立てる当然の行為だと思った。
しかしその当然のことはあっけなく崩れるものなのだ、ということを認めざるを得なかった。
狸は、ただ口をぱくぱくと開け閉めするだけだった。
「狸さん、あんな"女"のことなど考えなくて良いのです。
ただただ、私だけを見て愛してくれればいいのです。
全く悪いことは無いですよ。私は以前の私ではありません。
ちゃんと反省し、誠意を尽くしているつもりです」
兎はかぶさるようにして狸を抱きしめた。
狸は悲しみに暮れていた。
603 :恋の病はカチカチ山をも焦がす ◆iIgdqhjO26 [sage] :2008/02/18(月) 07:14:28 ID:10oW+0H1
兎は当然、その姿を良しとしなかった。
兎にとって、狸が自らと付き合うことは幸せな顔をするべきだし、
悲壮な顔をするのは、他ならぬ自分が苛めた時であるべきだった。
そして、兎にとって一番の問題は
その悲しみの顔が他ならぬあの娘の思いによるものであったことだった。
しかし、兎は大丈夫だろうと思う。
直ぐに私に降参して、足元に平伏すだろうと。
あとは時間が解決してくれるだろう。しかし、そのようなことは無かった。
現実はもう少し残酷であった。
***
その夜は満月だった。
兎と狸は布団を並べ、身を寄り添うようにして寝ていた。
狸は眠れなかった。狸は、娘のことを考えていた。
兎は寝言で狸を呼んでいた。
狸は一人、布団の中で考える。
ああ、今頃どうしているだろうか。
俺が、俺が不甲斐ないばかりに操を守り通すことが出来なかったと、
狸は自分を責めていた。
自分を責めれば責めるほど眼が冴える。
少し夜風にあたり落ち着かせようと狸は外へ出る。
604 :恋の病はカチカチ山をも焦がす ◆iIgdqhjO26 [sage] :2008/02/18(月) 07:16:45 ID:10oW+0H1
さわさわと草木が揺れ、狸を撫でる。
狸は少しの散歩のつもりだったが、何時しか娘の家が視界に入ってくる。
娘の家は灯りがゆらゆらとゆれており、恰も狸を待っていたかのようだった。
狸は頭を振るった。
今、娘の前に姿を現したら自らの誓いが崩れてしまいそうな気がした。
この汚れた体を近づけないつもりであった。
しかし、狸がそのように頭で考えようとも、足は一歩一歩、距離を近づけていた。
狸は、ふすまを開けなければ大丈夫だろう、と思った。
ただその姿が見えればいいと思った。
何の因果か解らないが、狸が直ぐ傍まで来ると、襖がすうと開き、娘が出てきた。
狸は驚いてしまった。まさか狸は娘が出てくるとは思わなかった。
確かに望んではいたものの、いざ対面すると、狸は無様に混乱してしまって
体を動かすことが出来なかった。娘は裸足で狸に近寄り、そっと抱きしめる。
「寂しかった、寂しかったよ、狸さん」
娘は改めて狸の顔を見る。
哀しそうな顔をして、娘を見つめている。
605 :恋の病はカチカチ山をも焦がす ◆iIgdqhjO26 [sage] :2008/02/18(月) 07:18:21 ID:10oW+0H1
「ねえ、狸さん、なんでそんな哀しそうな顔をしているのですか?
こんな時間に、偶然でも会えたのですよ?もう少し楽しそうにしてくれなきゃ、
私も悲しくなります」
狸は力無くぼそり、ぼそりと呟いた。
「俺は、俺は、汚れちまったんだよ……
兎に、兎に迫られて、いやいや……その……事に運んでしまったんだよお……」
狸は我慢していたかのようにわっと泣き出した。
狸の瞳からは土砂降りのような涙があとからあとから出てきた。
娘は背中に手を添えた。
「狸さん……落ち着いてください……
家のものがおきてしまいます……
どうしたんですか、無理矢理事を結ばされたというのはどういうことですか……」
狸はひっくひっくと背中を震わせて、呟く。
「関係ねえよお……俺は不甲斐ないからこういうことになったんだよお……」
606 :恋の病はカチカチ山をも焦がす ◆iIgdqhjO26 [sage] :2008/02/18(月) 07:19:43 ID:10oW+0H1
娘は厳しく問い詰める。
「関係ないことありません、ねね、正直に言ってください、
そうしないと、私のほうが胸が張り裂けそうです」
狸はその夜のことをつっかえつっかえながらに話した。
娘は黙っていて聞いていた。黙って頷く。
何時しか狸は無言になる。沈黙の後、娘は優しく語り掛ける。
「狸さん……狸さん、あまり自分を責めないで下さい、
狸さんは何も悪くないですよ……」
狸は顔をゆっくりと上げる。眼が真っ赤に充血していた。
「狸さん……何も悪いことは無いですよ……
もし、狸さん、貴方の体が汚れているとするならば、
私が一緒になって洗い落として差し上げます。
もし、貴方の体で私が汚れてしまうとするならば、私もまた一緒に汚れてあげます、
ですから……もうあんなことは言わないでください……
私は貴方が離れることが一番辛いことなのですよ」
狸は再び泣いた。それは嬉し泣きだったのかどうかは解らない。
***
兎はふと、目を覚ました。
隣の布団に目を向ける。そこには狸の姿は無かった。
女性の勘というものがあるのか解らないが、多分あの"女"のところへ向かったのだろう、
と兎は思う。
607 :恋の病はカチカチ山をも焦がす ◆iIgdqhjO26 [sage] :2008/02/18(月) 07:21:29 ID:10oW+0H1
兎は棚へと向かい、隠しておいた壷を取り出して、その壷の表面をなぞる。
「狸さん、狸さん、貴方はここまでしても、
あの人の元へと行ってしまうのですね」
兎はくすくすと笑った。
「狸さん、あの"女"がいなくなれば、私だけのものになってくれるかしら?
私だけに頭を下げてくれるかしら?私だけに身を投げ出してくれるかしら?
私がいなければ生きられないようになるかしら?
私を求めて求めて止まないほどになってくれるかしら?」
兎は壷を撫でる。そして笑った。穴倉に響き渡るように笑った。
「あははは……もうすぐ、もうすぐ……
まだ時期を待たなきゃ……あの"女"を始末する為に、貴方には役に立って貰うよ、
高い金銀を出して買ったものだもの……いずれ来るわ……近いうちに、近いうちに、
貴方には役に立ってもらうからね」
その夜は満月であった。
夜空を飲み込むほどの満月だった。
これほどの満月であるならば、恐らくは理性も藻屑となってその中へと消えていくに違いない。
そんな満月の夜だった。
最終更新:2008年02月19日 21:05