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651 名前:子猫の願い[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 17:09:22 ID:elprpm6w [6/9]
 木曜日の残り寿命が二時間程になった頃、河原崎静音は自宅の応接間で来客を迎えていた。
 ずいぶん遅い時間の訪問ではあるが、なんのことはない静音がこの時間を指定したのである。
 都内某所にある河原崎邸は広く大きい。数代前の当主自身の設計で建てられたのだが、地上2階、地下1階で両手両足の指で足りないほどの部屋数があり、しかもその多くが一般的な家庭の一室の倍以上の広さがあった。今静音がいる部屋にしても二十畳を軽く超えている。
 二世帯どころか三世帯、四世帯が入っても持て余しそうな建屋なのだが、現在在館しているのは三人のみである。現当主である静音の父は数日前からヨーロッパに出張中で、母もそれに同行していた。
 静音が美しい唇を開いた。
「つまり、この女は先週から彼の部屋に同居し続けているという事でしょうか、林さん」
「はい、左様でございます河原崎様」
 薄いオレンジの色調で整えられた室内、大理石製のチェスセットが置かれたテーブルを挟んで、静音の向かい側に座るのが林と呼ばれた人物である。
 30代後半かと思われる鉤鼻をした痩身の男で、黒縁眼鏡の奥の切れ長の目に頭の回転の速さと抜け目のなさを感じ取る人もいるであろう。実際その通りで、静音から依頼を受けた分野に関しては非凡な男であった。
「日中はどこにも出かけておりません。また、こちらから電話をかけてもインターホンを鳴らしても全く反応なしでして。また、カーテンを閉め切っているので、中々様子をうかがうこともできませんでした」
 林の苦労話を聞きながら、静音は手の中にある写真の束をめくっていく。そのような単純な仕草さえ優雅で美しいが、今の当人にとってはどうでもいいことであろう。
 静音の心をとらえているのは、林から手渡された写真の束、そのどれにも写っている白・茶色・黒三色の髪と、黄色い右目と青い左目をした少女の姿であった。殆どが僅かに空いたカーテンの隙間から、体の一部分だけ、と言った有様であったが。
「他に親しい女はいないのですね?」
 写真をめくる手を止めずに静音が尋ねる。
「ございません。その女だけでございます」
 そう、とやや安心したような声を発した静音であったが、次の写真を目にした瞬間、猛烈な勢いでそれを握りつぶしていた。表情は変わらなかったが、こめかみに血管が浮き出ているのを林は確かに見ていた。
「ご苦労様でした、もうこの件に関しては調査を打ち切っていただいて結構です。ファイルもすべて頂けたようですし。請求書は私宛に後日郵送してください。加藤さん、林さんをご自宅までお送りして差し上げて」
 加藤と呼ばれたのは静音の後ろに無言で佇んでいた中年の人物で、二メートルに届こうかという長身、短く整えられた髪、彫りの深い顔をして骨太肉厚の体をしていた。
 上下黒のスーツをまとい、一見して用心棒かボディガードか、と思わせる風貌をしているが、勘の鋭い者ならなにかしら違和感を感じるかもしれない。より勘の鋭い者なら胸のあたりを見て真実に気付くかもしれぬ。
 この巨人は女性であった。
「いえ、その必要はございません。この後も別の依頼がございまして……」
 林は口と目を操作して完璧な作り笑いをして見せ、立ち上がると慇懃な礼をして退室する。
 商売繁盛で結構なことね、と静音は薄く笑い玄関までその姿を見送った。

「加藤さん、明日の事だけど」
 自室に戻りかけた静音は傍らに立つ女丈夫に声をかけた
「はい、お嬢様」
「少し予定が変わりそうだわ。また後ほど指示します」
 小さく頷いて静音に付き従う加藤であったが、ややあって遠慮がちに声をかけた
「それにしても、よろしかったのでしょうか」
「なにがですか?」
「吉良様の事です。吉良様とお嬢様は約束を交わされたのでは」
 薄暗く照らされた廊下を小気味よく歩いていた静音だったが、それを聞くと自室に向かう足を止め、耕平との会話を思い出した。

 ――今回の事はしばらく聞かないでいてくれませんか

 加藤のほうに振り返り話し出す。
「約束は破っていないわ。彼に聞いたりはしない。私が勝手に調べてるだけよ」
 罪悪感など全く感じさせない、むしろ弾んだような声でそう言う。静音は手の中にあった小さく握りつぶされて白い塊になった元は写真だった物を加藤に手渡し微笑した
「捨てておいて下さる? いえ、むしろ燃やして下さいな」

652 名前:子猫の願い[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 17:10:36 ID:elprpm6w [7/9]
 口調とは裏腹に目は笑っていない。それを見て取った加藤は恭しく礼をして、静音の倍以上はあるであろう逞しい手を差し出してそれを頂く。そして再び歩き出した静音が自室に入るまで見送った。
 加藤は静音の部屋のドアが閉まった後もしばらくそこに佇んでいたが、やがて踵を返して歩き出し、手を開くとその中にある写真を広げ、見た。
 
 どこから撮ったのであろうか。帰宅してドアを開ける耕平とそれに飛びついて抱き着くミー子の姿が写っていた。

 ――――――

「じゃあ行ってくる」
 金曜日の朝、そう言って出勤しようとする耕平のスーツの裾をミー子が細く白い手を伸ばし引っ張って引き止めた。ちなみにこれでこの日三回目である。
 呆れつつ振り向いた耕平はそれでも限りなく優しい声で再度説得を始めた
「ミー子、分かってるだろう? 今日は行かなくちゃいけないんだ」
「でも……ニャ」
 涙目で上目づかい、胸の前で組んだ両手、と必殺技をいくつも繰り出して引き留める。
 それを見た耕平も白旗を上げたくなったが、感情を理性で叩きのめしてミー子に告げた。
「心配しないで。必ず今日中には帰ってくるから。約束するよ」
「うん」
 その耕平の言葉でやっと諦めると目を閉じて唇を差し出してキスをせがむ。
 怯んだ耕平は一瞬悩んでいたが、ミー子の期待する場所ではなく、帽子を脱がすとその額に己の唇を当てて、その肩を両手で抱いた。
「じゃ、じゃあ行ってくる」
 顔の赤さを自覚し、急いで踵を返すとドアを閉め出発した。

 耕平を見送ったミー子は不安の中にいたが、約束してくれたのだから大丈夫だ、と言い聞かせて自分の心を落ち着かせた。
 ベッドの上に寝転がり、耕平に買ってもらったピンクストライプの寝間着のまま膝を抱えて丸まり、早く夜が訪れることを願う。
 しかし、そこから次から次へと負の感情が襲ってきた。それは耕平が自分から離れる事になるのではないかという恐怖であり、耕平の身になにか危機が迫っているのではないかという漠然とした不安であった。
 普段から耕平の出勤後、帰宅までにミー子がやることは、食事と睡眠以外では(たまにはテレビを見たり、パソコンでネットをやったりもするけれど)耕平の事を考える、それだけである。
 いつもならそうして耕平の事を考えて帰宅を待つのは楽しい時間であるのだが、しかし今日は違う、思うことは悪いことばかりであった。
 耕平はああ言っていたが大丈夫であろうか、あの女に取りこまれはしないか、やはり自分もついて行ってこの手で始末したほうが良かったのではないか……といった物騒なことも考えつつ悶々として待つしかないのだ。
 ふと時計を見る。まだ耕平が出て行ってから十分しかたっていない。今なら追いかければ間に合うかもしれない、と寝間着のままベッドから降りて飛び出しかけたが、耕平の言葉を思い出して自重した。
 そしてまたベッドに寝転がり白い天井を見上げる。見慣れた光景のはずなのに、押しつぶされそうな圧迫感を感じ、ミー子は大きな息の塊をはいた。
 今度はうつ伏せになり何も見ない、聞かないようにしてただ時が過ぎるのを待つ。
 そうしてひたすら恐怖に耐えて、もう夜が訪れたのではないか、と顔を上げた。
 が、まだ日は高く、時は先程から半時も過ぎていない。絶望して泣き叫びたくなるのを必死にこらえて、ただただ耕平の名前を呼びながら嗚咽を漏らし、丸まって世界を拒否する。
 そんなことを繰り返して、いやになるほど繰り返しているうちに、疲れ切ったミー子はいつの間にか眠りに落ちていた。

 コーヘイは食事をくれるし、気持ちのいい暖かいベッドで寝かせてくれるし、先にフワフワのついた棒で遊んでくれるし、愛してくれる……

 いつか見た夢を見たような気がしてミー子は目を覚ます。半身を起こすと周囲を見回した。そして部屋の暗さ、カーテンから透けて見える星空、外の静けさからついに夜の訪れを知った。
 耕平はまだ帰宅していない。
 時計を確認すると日付が変わるまであと僅かしか残っていない。それに気づいて両手で頭を抱え絶叫したが、ミー子の肉体、特に声帯がその感情に耐えきれず、僅かに息が抜ける低く乾いた音が漏れただけだった。
 ベッドにうずくまるミー子の周囲に冷気が渦を巻く。部屋中の家具が軋み、振動する。殺意の塊と化しつつあるミー子だったが、その時、常人をはるかに凌駕する五感がアパートの前に車の止まる気配を捉えた。
 もしや耕平がタクシーか何かで帰宅したのだろうか、と、ミー子は怒気を収める。
 しかし、車のドアが開き、降りてきた人間の気配は耕平のそれではなかった。
 再び絶望した時に、ミー子は異変に気付いた。降りて来た人間がアパートのどの住人でもない。その足音、壁と空気を伝わってくる振動にミー子は覚えがなかった。

653 名前:子猫の願い[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 17:11:00 ID:elprpm6w [8/9]
 いや、住人でなくてもその来客かもしれないのだが、しかし、その人物はよどみない足取りでアパートの階段を上る。201号室の前を通過し、その隣も通過し、203号室、ミー子のいる部屋の前で止まった。
 誰だ? 耕平ではない、それは確実である。
 ミー子はベッドから脱兎のごとく飛び出すと、玄関の前に立つ。相手が扉をこじ開ける気なら、全力で阻止するつもりだった。

 しかしそうはならなかった。ドアノブに鍵が差し込まれる金属音が響き、あっけなく解錠されたからである。
 ミー子は驚愕した。この部屋の鍵を持つのは耕平だけである、ミー子ですら――出かけないのだから当たり前だが――持っていない。
 それなのになぜ、と考えている途中でミー子は気付いた。相手の足音、あれはハイヒールという靴のものではないのか。それは女性専用の靴のはずだ。という事は、今ここに侵入しようとしているのは……。

 軋んだ音を立ててドアが開く。そして小気味良い足音を響かせて入って来たのは、招かれざる来訪者。
 ――黒く澄んだ大きな目、ロングの黒髪、そして黒のパンツスーツを隙なく着こなした掛け値なしの美女――

 「ミー子さん、とお呼びすればよろしいかしら? こんばんわ、河原崎静音と申します」

 普段は他者に暖かい印象を与える口元が、この時は両端が吊り上がり、三日月型になっていた。