284 名前: ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] 投稿日: 2007/12/22(土) 19:31:20 ID:Dpu7A0J3
*****

「葵? 葵じゃん。何しに来たんだよ、こんなとこに」
 暇をつぶしにやってきた体育館裏には先客がいた。馴れ馴れしく私に呼びかけてくる。
 相手は、二年の愛原とかいう軽薄な男だった。
 入学して一ヶ月ぐらいしてから告白してきたから、かろうじて覚えている。当然、断ってやった。
 この手の下半身男は、たいてい私の体を目当てにして近寄ってくる。
 胸がでかければ誰でもいいんだろう。虫酸が走る。視界の隅に入り込むだけで不快になる。
 今の愛原がやっていることに対してもそう。
 人目につかない場所で一年の女子とじゃれ合っているなんて、変態の最たる行いだ。
 見ると、女子は上の制服を喉元までめくりあげていた。緩んだブラと乳の隙間に愛原の右手が入り込んでいる。
 左手は女子のスカートの中に入り込んでいた。ショーツは膝まで下がっている。
 女子は内股になって膝を寄せ、震わせている。立つこともできないのか、背中を壁に預けている。
 顔は紅潮していて、嫌がっているようにも、興奮しているようにも見える。
 無理矢理連れ込んだのか、それとも恋人なのかは知らないが、こんな奴に捕まった女子は気の毒としか思えない。
 気の毒には思うけど、私はめんどくさいから何も言わない。
 馬鹿二人となるだけ離れ、体育館の壁を背にして座り込む。
 好きにすればいい。愛を語らおうとセックスしようと、どうぞご自由に。

 今日はたまたま用事があって学校にやってきただけだ。
 そうじゃなきゃ、わざわざ日曜日に人がたくさん集まる文化祭になんかくるものか。
 自慢じゃないが、私は学校にまじめに通っていない。
 毎日学校に来ているけど、教室でやる授業なら出るけれど、ほとんど上の空で過ごしている。
 授業なんか聞き流していてもテストで点は取れる。中間テストなんか教科書を読み直しただけで七八割取れた。
 体育の時間は色々と面倒だから全て見学しているか、さぼっている。
 女も男も私の姿を残念そうに見る。胸が揺れるところでも見たいんだろ、思春期まっさかり。
 どだい、私には体育でやる運動なんて準備運動にもなりゃしない。
 自分ちでストレッチでもしている方がずっとマシだ。ぬるすぎてあくびが出る。

 あいつがこの学校に通わなければ、高校だって行くつもりはなかった。
 あいつと一緒に居たかったから、面倒な受験まで受けたんだ。
 なのに、受かってみたらこの通り。
 私とあいつは別のクラスになってしまうし、複雑な相手が一つ上の学年にいるし。
 それ以上に不愉快なのは、あいつが同学年の女子連中から人気があることだ。
 一緒のクラスにいる女子が、あいつの名前の付いたファンクラブに入った、と騒いでいた。
 ――はん。馬鹿馬鹿しい。
 好きならとっとと告っちまえばいいんだ。集まってワーキャー喚きたいだけならあいつに近づくな。
 本当は告白もさせたくないけど、どうせ軒並み断られるんだ。特別に許してやる。

 と、言っても。私も人のことは言えない。
 あいつと学校の中で二人きりになる機会は多いのに、一度も好きだと言ったことがない。
 向き合うと、緊張してどもってしまう。本来の自分とは違うしゃべり方になってしまう。
 そんな感じで接しているのに、あいつが私に会いに来てくれるのは――たぶん、私のことが好きだからじゃないか、と思ってる。
 あいつの方から告白してくれないか、ってのは都合のいい考えなのかな。

285 名前: ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] 投稿日: 2007/12/22(土) 19:32:05 ID:Dpu7A0J3
 なんとなく見ていた目の前の地面に、足が四本乗っかった。
 黒い制服に包まれた足が二本、白い素の肌をさらけ出した足が二本。
 見上げると、愛原と名前の知らない女の顔があった。
 愛原の目線は私の足下に向けられている。もう一人の女は、愛原の腕を抱いてすり寄っている。
 なんだ、こいつら恋人同士か。でもこの男だったら他にも女はいるだろうな。そこな女、ご愁傷様。
 だから私を睨むなよ。睨んだって私の機嫌を損ねるだけで、良いことなんか何一つ起こらないよ?
「おい、葵」
 愛原が何か言っている。あー、聞きたくないけど耳をふさぐのも億劫だ。
「体育座りなんかしてっから、パンツが見えてるぞ。見せてんのか? 誘ってんのか?」
 見せてるつもりはない。あいつが胡座をかくのはやめてくれって言うからこうしてるだけだよ。
 見たければ見ればいい。お前らは頭の中で私を好きにしてるんだろ? オカズになっていいじゃねえか。
 けど、私の体には一切触れさせない。あいつ以外の人間には、絶対に体を許さないと心に誓っている。

 隣に愛原が座ってきた。ヤニくさい臭いが鼻につく。立ち上がり、その場を後にする。
 体育館裏に来たのは、人に会わずに過ごせる場所だったからだ。
 目的に添ってさえいればどこだって構わなかった。この場所にこだわる理由は特になし。
 きっとあいつは、私がどこに行ってもなんのヒントもなしに見つけてくれる。
 たぶん、行動パターンを見切っているんだろう。
 いつも通りに行動してさえいれば、必ず見つけ出してくれる。今日だって、そうに違いない。

「おい、待てって。この間の話、考えてくれたか?」
 何の話かわからない。ついてくる愛原を無視する。ひたすら歩む。
「悪いようにはしないし、後悔もさせねえって。どうせ、いつも暇なんだろ?」
 こういう台詞を吐けば女が落ちるとでも思ってるんだろうか? ……思っているんだろうな。
 悪いのはお前の性格、後悔するのは頭のねじが緩くて腰が軽い女。突っ込みたいけど、余計な手間だからやらない。
 ま、暇っていうのは合ってるけどさ。あいつと一緒じゃない時の私はいつも暇を持て余している。
 ハア、あいつに抱きつくのに一生懸命になりたいなあ。
 しがみつきたい。甘えたい。くっつかれたい。抱かれたい――性的な意味で。
 
 とっとと見つけてくれないかな、あいつ。

286 名前: ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] 投稿日: 2007/12/22(土) 19:32:49 ID:Dpu7A0J3
*****

 純文学喫茶の仕組み、および営業方針、並びに店員の業務内容について触れてみよう。
 まず、純文学喫茶とは、店内に大量の小説本を置き、客自らの手で本を手にとってもらい読んでもらうサービスを
売りにした喫茶店である。喫茶店であるため、軽食を注文することもできる。
 利用料金は六百円で時間は無制限。コーヒーと日本茶を常備している。ジュースは置いていない。
 利用料金とは別に、軽食にはお金を払わなければならない。
 チョコレート、クッキー、ビスケットのいずれかを注文できる。もちろん全て注文してもらっても構わない。

 喫茶店の営業方針は、お客様に快適な読書空間を提供し、一人でも多くの方に文学に興味をもってもらうこと。
 決して、担任の夢を叶えるためであるとか、担任に堂々と一日中読書してもらうためだとかではない。
 現在の客の入りを見ている限り、営業方針に添って喫茶店は稼働している。
 教室内が静かなので、町立の図書館よりも読書することに適している。
 時折ものを食べる音、陶器を机に置く音、ページをめくる音がするだけで、話し声は一切無い。
 客の回転率はすさまじく悪い。一日目もだったが、開店してから閉店するまでずっと入り浸る客までいた。
 中には十分と経たないうちに帰る人間もいる。葉月さんや担任やクラスメイトの袴姿を拝むだけの人間だ。
 ウェイトレス達と、ひたすら読書するだけの責任者がいなければ、赤字になることは間違いなかった。
 高橋と西田くんを始めとする男子が、給仕役は袴を着用してくれ、と頼み込んだおかげだ。
 男子、特に高橋は担任と共に純文学喫茶を正式にオープンしてもやっていけると思う。
 いっそのことそのまま二人でゴールインしてくれ。
 また一つ学校の伝説が生まれる。二人を主人公にしたドラマができてもおかしくないぐらいのサクセスストーリーだ。
 きっと、見晴らしのいい高台に建つ青山に永住しているような人生を送れるよ、高橋、篤子先生。

 給仕役の業務内容は、来店した客を席に案内し、店の仕組みを説明し、たまに注文された菓子を運ぶだけである。
 それ以外の業務はまったくと言っていいほどしない。むしろ、やる機会がないと言える。
 なにせ、トラブルが一切起こらないのだ。気まずさを感じるほどに静かなのだ。
 店内にいる客は誰もがじっと座り込んで本を読んでいる。
 ウェイトレスを呼んで菓子を注文しようにも、空気を震わせることが憚られて言えない、息の詰まる空間。
 控え室にいるクラスメイトも声を漏らさない。喫茶店の利益が黒字になっても、これでは楽しくない。
 文化祭でやる喫茶店って、もっとこう、ワイワイガヤガヤしつつやるもんじゃないのか?
 担任は指示を出さずに窓際の席に座り本で顔を隠しているし、高橋は時折ため息をつきながら担任の姿を
網膜に焼き付ける作業に没頭しているし、振袖姿のウェイトレスは半数以上が姿を消している。
 まじめに喫茶店の営業活動に取り組んでいるのは葉月さんを含んでも五人しかいない。
 かく言う俺は、クラスメイト全員から押しつけられた待機命令を律儀に守り、教室に残っている。
 手伝おうにも、そもそも客からお呼びはかからない。手伝おうとしたらなぜか葉月さんに止められる。
 昨日は皆の望んでいることだと聞かされて納得したが、もう限界である。

 逃げてやる。目指すは弟のクラスだ。
 俺のつくった衣装がいかに着こなされているか、この目で確かめに行かなければならない。
 制作者の一人として、確認する権利も、義務もあるはずだ。

287 名前: ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] 投稿日: 2007/12/22(土) 19:34:05 ID:Dpu7A0J3
 抜足でドアまでたどり着き、こっそりと教室から出ようとしたら、背後にいる男の声に止められた。
「どこに行くのかな、保護監察対象者」
 いちいち気に障る代名詞で呼びかけてくるのは高橋しかいない。
 振り向かずに返事する。もちろんドアに手をかけたまま。
「……トイレに行ってくる」
「それは許可できないな。君がトイレに行く時は私を呼びなさい、という葉月嬢のお達しを破ったら
 一体どんな目に遭うかわからない。彼女が『二番』に行っている以上、君を止めるのは僕の役目なんだ。
 よって、君の身勝手な行動を黙過することはできない。席に戻るんだ」
「我慢できないんだ。ここで間違いを犯すわけにはいかないだろう」
「確かにそうだ。ならば僕がついていこう。僕は男子だから、君がトイレの窓から飛び出さないか監視することもできるしな」
 こいつ、読んでいやがったか。
 変に気の合う友人の存在も考えものだ。裏をかくのが難しい。
 葉月さんが『二番』――トイレに行っている隙に俺が脱走しようとすることまで予測されていた。

 高橋の気を逸らすには、この男の恋愛対象である篤子女史をけしかけるしかない。
 だが、耽読状態にシフトした担任を動かすのは容易ではない。
 現に、ウェイトレスの一人が湯飲みを落っことして割った時も無反応だった。
 高橋が昼飯に誘ったときだって視線を微動だにしなかった。
 もしや、篤子女史は休日も今日のようにじっと本を読んで過ごしているのだろうか。
 俺でさえ模型作りしている最中は腹が減るから食事はとっているというのに。
 担任のエネルギーは無尽蔵か? 本から精気を吸い取って生きているのか?
 世界が食糧不足の危機に陥っても、担任は水と本だけあればつやつやした肌を保っていそうだ。
 なんという珍獣。道理で結婚できないわけだ。
 いや、担任を皮肉っている場合じゃない。
 
「どうしたんだ? トイレに行くんじゃなかったのか?」
 急がねば。葉月さんが戻ってくるまでもう時間がない。
「しょうがないやつだ。ほら、肩を貸してやる。だからここで、溜まっているものを爆発させるなよ?」
 俺に構うのをやめろ、高橋。篤子先生と同じ机に座りながら一方的に愛を語っていろ。
 ――ふむ? 今、何か面白フレーズが浮かんだような。
 高橋と、担任。二人の名字と名前がくっついたら。
 もしそうなったら……俺は面白い。そんな名前になった担任を想像するだけでクスリと笑える。
 高橋の意識を逸らすには弱いような気もするが、駄目もとで言ってみようか。
「なあ、高橋。意見を聞かせてくれないか?」
「うん? 別に構わないぞ。近々高騰するであろうオススメの先物から、君の子供の孫から見た祖父母の名前まで、
 なんでも占ってやろう。」
「そこまで大層なことじゃない。あのさ、高橋篤子っていい名前だと思わないか?」
「…………………………な?」

288 名前: ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] 投稿日: 2007/12/22(土) 19:35:34 ID:Dpu7A0J3
 高橋の顔が歪んだ。眼鏡の向こうにあるまぶたがいつもより大きく広がっている。
 どうやら、不意打ちは成功だったらしい。
 こいつだって、自分と担任が結婚したらどういう名前になるかを考えなかったわけでもあるまいに。
「な、に、を……言っているんだ。君ってやつは。はは。高橋……あつ、篤子先生。
 僕の後輩達が呼んで、同僚の先生方が呼びかけて、退職の挨拶の時に呼び出される、名前……」
 どこまで空想を飛ばしているのだろう。
 プロポーズのステップをすっ飛ばして名前が変わっているようだ。
 俺からすれば、高橋と担任が恋人同士になった画なんてまったく想像つかない。
 どちらも変人――あえて言えば担任がレベルが上――だから、一般的な恋人のようにはならないのかも。
 非凡な恋人関係ってどんなのだろう。
 わからん。……あ、わからないから非凡と言えるのか。納得した。

「ねえ、ポストにはなんて書こうか? 名字だけ? 僕は二人の名前を入れたいんだけど……」
 あと一分待っていれば子供の名前まで聞かせてくれそうだったが、今は聞いている余裕はない。
 時間に追われている。葉月さんがいつトイレから戻ってきてもおかしくない。
「また本棚を買うのかい? そろそろ床が抜けそうだからやめてもらえると……ああ、ごめん!
 謝るから怒らないでくれ! 出て行かないでくれ! 私にはニャーと鳴く猫がいればいいなんて言わないで!」
 高橋を残し、教室から出て音をたてないようドアを閉める。
 弟のクラスに顔を出すより妄想状態の高橋をからかっている方が面白いかも、と気づいたのは二階の階段を
降りている最中のことだった。


289 名前: ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] 投稿日: 2007/12/22(土) 19:36:56 ID:Dpu7A0J3
 一階に降り立つ。弟のクラスへと向かうため、右へ折れる。
 進行方向から、見慣れた人物像を確認した。弟を誰よりも愛していると態度で語る俺の妹である。
「あ、お兄さん。……こんにちは」
「おう。こんにちは」
 兄妹なのに他人行儀な挨拶をする妹。反射的に同じ反応をとってしまった。
 まるで道ばたでばったり会った親戚の従妹との会話みたいだ。喩えがぴったり嵌るのが嫌になる。
 他人行儀な喋りをするな、と説いてやろうかと思ったが、妹の表情を見て改めた。
 一見して不機嫌とわかる表情だった。しかし廊下で俺にばったり会ったことが原因ではなさそうだ。
 向かい合っている最中も、脇を通り抜ける人へと目を泳がせる。
 誰か探してるのか? って、妹が真剣になって探すような相手は一人しかいないな。

「弟と一緒じゃないのか? 向こうから来たってことは、あいつのクラスには行ったんだろ?」
「もちろん。だけどお兄ちゃんはいなかった」
「そういえばあいつ、今日はクラスの手伝いはしないって言ってたっけ」
「私だってそれは知ってる。だから、今日は朝からずっと歩いて探し回ってるのに、見つからない。
 お兄さんも……知らないよね。お兄ちゃんがどこに行ったか」
「予想を裏切れなくて悪いが、イエスだ。知らない」
 最初から期待していなかったのだろう。妹は表情を変えない。
 つい、と顔を逸らし横をすり抜ける。
「お兄ちゃんを見つけたら、ケイタイに電話して。じゃ」
 即座に言うべき台詞が浮かんだのだが、振り向いたときにはすでに妹の姿はなかった。
 頭の中の妹へ向けて告げる。同時に口でも喋る。
「お前は俺にアドレスはおろか番号すら教えていないだろう……」
 先に弟を見つけてしまったとして、また妹に鉢合わせしたら、どうして連絡しなかったのかと責められてしまうのか?
 反論したら、どうして妹の番号も知らないのよ、とか言われそうだ。
 そういや、なんで知ろうと思わなかったんだ。こんなんじゃ妹に冷たくされて当然だ。
 弟を見つけたら、忘れないうちに妹の番号を聞いておかないと。

 弟は今クラスにいない、と妹は言っていた。
 今日一緒に登校した点、学校をエスケープする人間ではない、という要素から鑑みて、弟は校内にいると考えられる。
 妹の弟探知能力を駆使しても見つからないということは、弟はよほど見つかりにくい場所にいるのだろう。
 それか、普段の弟からは考えられない行動パターンをとっている、だ。
 そもそも、今年の文化祭における弟の行動はおかしい。
 一日目だけクラスを手伝い、二日目は自由行動するところから変なのだ。
 何か隠しているのか? もしや、いつぞや口にしていた好きな女の子と逢い引きするつもりか?
 だとすれば、邪魔するのは野暮だな。
 兄として、弟にはノーマルでいてほしいのだ。
 両親のように、ご近所には決して教えられない関係を兄妹間で結んで欲しくない。
 そのためには、弟が妹以外の女の子と交際する必要があるのだ。最後には無事ゴールインまでしてほしい。
 木之内澄子ちゃん。葉月さんの一方的な猛攻を受けても無事だった。しかも今日は学校を休んでいない。
 タフなあの子なら妹を相手にできそうだ。しかも、弟に深く恋している。
 条件のみを見るならば、澄子ちゃん以上の逸材はいない。
 だけど――弟は選ばないだろう。澄子ちゃんはそれをわかっている。弟の真実を受け入れているから。

290 名前: ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] 投稿日: 2007/12/22(土) 19:37:56 ID:Dpu7A0J3
 弟は一体誰に恋しているんだろう?
 ヒントは、年上、同じ学校に通っている、俺の顔見知り、の三つ。
 条件にあてはまる対象は葉月さんか、篤子先生に絞られる。だが、どっちも考えにくい。
 葉月さんを好きだったら、俺と葉月さんの仲を応援しないはず。
 担任に恋していたら、うちのクラスに顔を出すはずだ。
 どちらでもないとすると、もう俺にはお手上げだ。
 俺と弟に共通の知り合いは残りゼロ。弟の同級生は何人か知っているが、中には留年している者はいなかった。
 俺が昔知り合っていて、今では忘れている人間、とかじゃないよな。
 最近、弟妹に揃って自分の健忘ぶりを遠回しに、あるいは直接言われているから有り得る。
 『妹をいじめないで』、という台詞を聞いて恐怖を思い出すこと。
 昔の俺が妹をいじめていた、という妹からの告白。
 でも弟が言うには、昔の俺は弟と妹をかばっていたらしい。
 頭がこんがらがる。弟か妹、どちらかが嘘をついていなければ、つじつまが合わない。
 ――――弟かな。嘘をついているのは。
 あいつは優しい。小さい頃の俺が犯した間違いを悟らせまいと、かばっているのではないか。
 聞かないとわからない。けど、聞ける勇気は俺にはない。
 情けない願いだけど、弟の方から教えてくれないもんかな。
 本当に馬鹿なことをしでかしていたのなら、拳骨で教えてもらいたい……ってのも甘えだな。

 弟のクラスを見るつもりだったが、気が変わった。弟探しに目的を変更する。
 校内の地図を頭に広げ、弟になった気分で行動をトレースする。
 今日は文化祭が開かれている。どこかの教室に入るだけでも身を隠せる。例、二年D組の純文学喫茶。
 だが、ひとところに留まっているならば既に妹が見つけている。
 午前中から探していたのなら全ての出し物を見て回ったはずだ。
 電話をかけても繋がらない。ということはメールを送っても返信しないだろう。
 お手上げじゃないか。校内のどこにもいないってどういうことだ。
 世界的に有名なボーダーを来たおっさんだって本のどこかに隠れているんだぞ。
 妹に見つけられないなら、俺に見つけられるはずがないじゃないか。
 でも意外と、こうやって歩いていると見つかったりして。
 ただ、兄妹が絶妙なニアミスを繰り返していて巡り会っていないだけ、だったりしてな。
「兄さん」
 そうそう。ちょっとコースを変えてみれば、こんな感じに弟に声をかけられたりだって……へ?

 歩きながら思考していたら、校舎と体育館を結ぶ渡り廊下にたどり着いていた。
 正面には妹が血眼の目を剥いて(イメージ)、必死に探し回っている弟がいた。
「兄さんは出し物を見て回っているところ?」
「あー、うん。まあ、そんなところかな。ははは……」
 いいのか、こんなに簡単に見つけてしまって。
 妹の立つ瀬がないじゃないか。あいつ、あんなに弟を好きなのに、かすりもしないだなんて。
 可哀想になってきた。慰めようがないから声もかけられない。
 弟と妹の仲を認めないつもりではいたけど、兄妹で仲良くするのは構わなかったのに。
「お前、もしかして妹のこと嫌いじゃないよな?」
「ううん。全然。嫌いな相手なら一緒にお風呂に入ったりしないよ」
「そういや、そうだよな。いや、すまん。なんとなく聞いただけだったんだ。気にするな」
 思春期を迎えた兄妹で風呂に入るのも変な話だが、仲が良いのは兄として嬉しい事実だ。
 これからも二人でそうやって仲良くして――――欲しくはないな。

291 名前: ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] 投稿日: 2007/12/22(土) 19:39:08 ID:Dpu7A0J3
 仲良く風呂に入るな、風呂に。
 弟は妹を前にして全裸をさらけだしているのか?
 俺には絶対無理だ。高橋と銭湯に行ったとしても局部だけは桶で死守する。
 血の繋がった家族とはいえ、女に見せるなんて恥ずかしくてできん。
 妹も弟と同じだ。ひょっとしたら弟を興奮させるためにやっているのかもしれないが、俺は許さんぞ。
 お前ら二人が風呂に入っているとき、あえぎ声でも聞こえてきたら即飛んでいって止めてやる。
 その後で妹の手によって半殺しの目に遭うかもしれないが、ともかく、駄目だ。
 しかし、弟は何で妹と風呂に入っているんだろうな。強硬に断れば、妹のことだから諦めてくれそうだが。
 あえて自分をさらけだすことで父性をアピールしているつもりか? 逆効果だぞ、弟。

 話題を変える。風呂については別の機会に会議を設けるとしよう。
「どこに行ってたんだ? 妹がずっとお前のこと探してたみたいだぞ」
「ああ、実は人を探していたんだ」
「人、っていうと……」
「今日はその人と一緒に見て回るつもりだったからさ。
 約束もしてたんだけど、会う場所を決めてなくてずっと探していたんだ」
「ははあ……例の、コレか?」
 右手の小指を立てて弟に見せる。弟は平然と答える。
「うん、そうだよ。前に兄さんに聞かれて答えた、僕の好きなひと」
「へ、へえ。そりゃすごい。うん、すごいよ、お前……」
 堂々と好きな人がいるって告白できるって、かっこいい。すごい。
 葉月さんへの気持ちに自信が持てない俺とは大違いだ。
 俺とは違って恋愛経験が豊富なのかも。だから、好きだっていう気持ちに自信が持てるのかもしれない。

 咳払いを一回。声の調子を整え、呼吸を落ち着ける。
「それで、お前の想い人は見つけられたのか?」
「まだ。行きそうなところはあちこち探し回っているんだけどね。あっちこっち行き来してるみたいで見つかんない」
 こういうところ、兄妹そっくりだ。好きな相手は見つからないのに、探すつもりのない俺とは簡単に遭遇する。
 くじびきでハズレたときにもらえるティッシュみたいだな、俺。
「特徴を教えてくれないか? 俺で良ければ一緒に探すよ」
「えっ……兄さん、が?」
「ああ、別に困ったことなんかないだろ? 安心しろ。見つけたらすぐに立ち去るから」
「んー、うーん……」
 弟が悩んでいる。俺の協力を拒むか受け入れるかという問題ごときで悩むのか?
 ポイントがずれてるだろ。もっと別のところで悩め。妹の積極的なアタックをどうやって断ろうか、とか。

「それじゃあ、協力してもらおうかな。でも、見つけたらすぐに僕に教えて。そして脇目もふらずに逃げて。
 絶対に振り向いちゃ駄目だよ。僕のことは置いていっていいから」
 なに、この死亡フラグを立てるような台詞。
「そんな言い方をされるとものすごく気になるんだが。一体どんな化け物なんだ。
 ――あ、すまん。化け物って言い方は失礼だな」
「気にしないでもいいよ。でも、会いたくない相手という意味では同じことなのかもしれない」
「さっきからすっきりしない言い方だな。はっきり言ったらどうだ? 名前は? 髪型とか身長はどんな感じだ?」
「引かないでね、特徴を聞いても」
 ああ、と返事する。弟は静かに口を開く。

292 名前: ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] 投稿日: 2007/12/22(土) 19:41:14 ID:Dpu7A0J3
「髪は金色。金髪だよ」
 ほうほう、金髪ね――え、黄金色? 
「ああ、欧米からの留学生なのか。地毛で金色なら仕方ないよな」
「違うよ。染めてるんだ。誰がどうひいき目に見ても金色だから、わかりやすいと思うよ。
 身長は兄さんと同じぐらい。あと、無口。話さないとわからないけど」
 つまり、弟の好きな女性は、ふりょ――良くない人? 
 ビッグリーグに所属し、アメリカはニューヨークに本拠地を置くかの有名なチームと同じ名前の属性?
 待て待て、早とちりするな。
 ただ髪を金色に染めることにひとかたならぬこだわりを持っているだけかもしれないじゃないか。
 あれ、そんなタイプの人間を不良とか呼称するんだったっけ?
 いや、弟が好きだというなら、あえて何も言うまい。
 付き合ってみればどんな人間にもいいところが見えてくる、と言う人もいるし。

「それで、名前は?」
「名前、名前は………………やっぱり、言えないよ。ごめん、兄さん」
「なんで言わないんだ? 別に教えてくれてもいいだろ」
「でも、それは。せっかく兄さんは忘れているんだから、思い出さなくてもいいかもって……」
「なあ、いい加減に教えたらどうなんだ。俺が昔のことを忘れているとかなんとかってやつ。
 大事なことならはっきり言え。そういうもやもやした感じ、苦手なんだよ」
「前も言ったとおりだよ。兄さんは忘れたままの方がいい。だから、やっぱり探すのは無しにして。
 お願い。この通りだから」
 弟が両手を合わせて謝った。そこまでして教えたくないのか、昔のことを。
 くそ、謝られたら余計に気になったじゃないか。
 やっぱり、弟が嘘をついているのか? 妹の言っていたことが真実なのか?
 俺が妹をいじめていて、弟が妹をかばっていたのか。
 弟の好きな女の子。彼女はそのとき現場にいて、俺が妹に乱暴するところを見ていたとしたら。
 気を悪くさせないため、俺と彼女を会わせないよう、弟が苦心するのは当たり前だろう。

 弟に問い詰めてまで過去の罪を思い出すべきか悩んでいた、その時だった。
「……見っけ」
 背後から、短いつぶやき声が聞こえた。
 振り向くと、眩しい金色の髪を伸ばした女子生徒が立っていた。
 金髪、俺と同じぐらいの身長。この子が弟の好きな女子に間違いない。
 ただ、弟はひとつだけ伝え忘れていることがあった。
 女子生徒はやけに体の発育がよかった。特に胸部。
 自己主張する胸の膨らみを制服で無理矢理押さえつけている。しかし押さえきれていない。
 むしろ、しわが浮かんでいるせいで二つの円形をはっきりと意識してしまう。
 失礼にならない速度で顔を背ける。見続けていたら下へと目線が移動してしまいそうだった。
 だが、ちらっと見た限りでは胴は細かった。足にはニーソックスを履いていた。
 きっと、未だに一度も目にしたことのない絶対領域がそこにある。
 一歩下がり、弟と並ぶ。この子を相手にするのは俺の役目じゃない。
「どこ行ってた? ずっと」
 女子生徒の台詞は弟には理解できるらしい。快活な声で答える。
「ずっと探してたよ。朝からずっと」
「……そか。なら良い」
 見ていないからわからないが、声から察するに金髪の子は機嫌を直したようだった。

293 名前: ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] 投稿日: 2007/12/22(土) 19:43:22 ID:Dpu7A0J3
 彼女は警戒していたほどの危険人物ではなさそうだ。
 気とられぬうちに立ち去ろうとして、振り向く。
「花火はどこにいたんだ? どこにもいなかったじゃないか」
 そして、弟の声を聞き固まった。
 女子生徒がどんな返事をするか聞きたかったわけじゃない。
 名前だ。花火、と弟は言った。
 何の脈絡もなく夏の風物詩の行方が話題に上るわけがない。女子生徒の名前は花火だ。
 ――花火。
 聞いたことがある、気がする。
 昔、小学校からの帰り道が楽しくて仕方がなかった頃の光景が頭に浮かぶ。
 俺と、弟と、妹と、あともう一人、誰かがいる。一緒に遊んでいる。
 女の子の名前を聞いて、昔を思い出した。
 ということは、この子が俺たち兄妹と遊んでいたもう一人なのか?

「おい、お前」
 不意に、ぶしつけな声によって現実に引き戻された。
「そこの一年、お前の葵の何だ? 彼氏?」
 弟の前に立って睨んでいる男がいる。名前は――愛原だったと拙く記憶している。
 うちのクラスの西田君と並んで女子生徒の間で有名な男だ。
 ただし、西田君は女子全般から好かれているが、愛原は違う。
 悪い方面でよく噂される。愛原に振られたとか、愛原に触られたとか、他にもよくない噂を色々聞く。
 葉月さんも愛原に告白されたことがあるらしい。すぐに振ってやったが、しつこく話しかけてくる、と言っていた。
 まとめると、スケベなところが女子から嫌われている男、ということになる。
 それでも顔が良いので、やはり愛原の周りに女子は集まっている。
 不条理な。男は顔じゃない。どの部位が肝心なのかは知らないが。

 弟は愛原に詰め寄られている。襟を掴まれ、弟が目を細める。
「僕は花火の彼氏じゃありません。花火に聞いたらわかるはずです」
「だったら、なんでこいつのこと呼び捨てにしてんのよ? 俺が言ったらニラんでくるのに」
「それは、僕が……花火と、昔から友達だったからです。小学校に入る前から」
 弟と幼なじみだった。ということは俺、妹両方にとっても幼なじみになる。
 さっきの回想に出てきたもう一人は、やっぱり花火という名の少女だ。
 だが、さっきから愛原は彼女を葵、と呼んでいる。ニックネームか何かか?

「ちっ、面白くねえ。なあ、彼氏じゃないんなら、こいつに近づくのやめてくれねえ?」
「な……っにを」
 愛原と弟の顔が近づく。鼻と鼻が触れそうな距離で、二人の双眸が正面からぶつかり合う。
「俺、こいつのこと狙ってるから、お前みたいなやつがいると邪魔なんだ。だから、諦めてくれよ。な?」
「そんなの……」
「いいから、言えよ。もう二度と近づきません。だから花火もボクに近づかないでくれ、って――――」
 愛原の言葉が最後まで続くことはなかった。
 喉を締め付けられていたのだ。横から割り込んだ手によって。

294 名前: ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] 投稿日: 2007/12/22(土) 19:44:45 ID:Dpu7A0J3
「名前を呼ぶな」
「お……ぇ、ぅ…………ぁ、ご、ぃ……」
「お前には、許可していない」
 弟の制服が解放された。愛原は首を持って引きずられ、地面にはたき倒された。
 続けて、無防備な腹が踏みつけられる。一回一回の音が重い。手加減無しだ。
「ご、ぐっ、がぁ! おい、や、めぇっ! う゛げ、……が」
「顔だちは普通だな」
 踏みつぶす目的で行われていた蹴りが止んだ。愛原は既に声も出していない。
 腹を両手で押さえ、空を仰いだまま口を開閉する。
 女子生徒が、口を開く。足は愛原の頬を踏みつけている。
「こんな目に遭いたくないだろ。だから台無しにしてやる」
 愛原の顔がまたたく間に焦燥に彩られる。だがもはや、強者の目には映らない。
 何の言葉もなく、膝が上がる。愛原の目が閉じる。
 足が振り下ろされる。踵が直撃する――直前に、動作が止まった。
 弟が彼女を抱いて止めていたのだ。
「やめてくれ、花火! お願いだから、もう……こういうことをするのは」
「この男、お前を掴んだ。襟……」
「平気だって! 制服なんかどうでもいいから。だからやめてよ……ね?」
「わかった」
 あっさりと少女が足を下ろした。腰に巻き付いている弟の手に自らの手を添える。
「…………ん」
 微笑んでいた。ようやく得られた温もりを堪能するように、目を閉じる。

 隙をついて愛原が逃げ出した。ただし、中腰の姿勢で、何度もつまずきながら。
 姿が見えなくなったところで、ようやく俺は周りに意識を向けられた。
 文化祭の最中に起こった暴力沙汰を教師や生徒を始め、来校者に見られてはまずいことになる。
 しかし、幸いにも周りに人の姿はなかった。その場に残されたのは俺と、抱き合った二人の男女だけだった。

 抱擁を解いたのは弟だった。二人揃って名残惜しそうな表情になる。
「もう落ち着いた? 花火」
「ああ。でも、もう少し」
「それは、ちょっと…………」
「遠慮なんか要らないぞ」
「いや、だって……人前じゃちょっと」
 弟が俺を見た。言っているとおり、やはり俺の前で抱きついているのは恥ずかしいようだ。
 揚げ足をとるようで悪いが、俺の前じゃなければまだあの状態でいたのだろうか。
 どうなんだろう。女の子の方も満更ではなさそうな顔だったけど。

「……ああ、確かに」
 金髪の女子が、樹木に向けるような目で俺を見た。本当に忘れていたらしい。
 この子、最初からずっとぽつぽつとしか喋らないな。
 これほど無口な少女を相手に弟は会話を成立させていたのか。
 髪の毛の強い印象のせいで判別できないのかもしれないが、やはりこの子は見たことがない。
 ――あ、今気づいた。女の子の右頬に肌色の絆創膏が貼られている。
 頬全体を覆い隠しているせいで、整った顔の形がどこか不格好に見える。

295 名前: ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] 投稿日: 2007/12/22(土) 19:46:00 ID:Dpu7A0J3
 俺の視線が気になったのか、女子生徒は顔を顰めた。後ろにいる弟に振り返り、短く言う。 
「悪い。ちょっと話がある。二人で。だから」
「……やっぱり、こうなっちゃったのか」
 弟の口からため息が漏れる。
「ごめんね、花火」
「謝るな。悪くなんかない」
「兄さん、ごめん」
 また謝られた。今度は合掌していないが、表情が見える分、より謝罪の念が伝わった。
「なんで謝るんだ? お前にとって幼なじみだっていうなら、俺にとっても幼なじみだろ」
「そう、だけど。いろいろとごめん。これから何が起こるかわかるけど、僕には止めることはできないから。
 花火。君がどうしたいか、僕は知ってる。でも……止めない。止めないから、あんまり」
「大丈夫。軽いから」
「うん。…………兄さん、また家で」
 言い残すと弟はきびすを返した。校舎の方へと向かっていく。
 
 弟の姿を見送って、俺は女子生徒と向き合った。
 そしていきなり、左から殴られた。
 体が傾く。倒れる寸前で膝に力を入れて持ち直す。
 舌で鉄の味を味わわされた。頬の裏を舐めると鋭い痛みが走る。傷が長い線を描いていた。
「お前! 何をす、るんだ………………」
 憎しみの籠もった目は、妹に向けられて慣れているつもりだった。
 だが、俺は甘かったようだ。誰も、目の前の女の子のように、一心に強い負の感情を向けてくることはなかった。
 怨まれている。俺の存在そのものを憎んでいる。彼女の目が俺に、消えろ、消えてしまえ、と叫んでいる。

 ようやく思い出した。
 目がそっくりそのままだ。俺が最後に見た彼女の瞳の色から、少しも翳っていない。
 金髪の女の子の名前は花火。俺が知っている彼女は昔黒髪だった。
 触り心地が良くて、何度もいじった。いじる度にはたかれた。
 右の頬。本当は左頬と同じように、傷一つ無かった。今では絆創膏を貼っている。
 絆創膏の下にあるものが何か、見せてもらわなくても想像がつく。

296 名前: ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] 投稿日: 2007/12/22(土) 19:46:52 ID:Dpu7A0J3
 もう、疑う余地はない。
 昔と違い、かなりイイ感じに体が成長しているが、間違いない。
 ――こいつの名前は、葵紋花火だ。
 弟とは、半身を分けたように仲の良い幼なじみだった。
 俺にとっては、妹以上に可愛く思っていた妹的存在だった。
 すでに過去のことだ。取り返すことも、やり直すことも、修復することもできない。
 過去の俺がやったことは、花火との仲に決定的な亀裂をいれた。
 花火の体と人生を、最悪の形で台無しにしてしまっていた。

 花火の右手が、右頬を完全に覆っていた絆創膏をおもむろに剥がしていく。
 隠されていた肌が、顎から鼻へ向けて少しずつ露わになっていく。
 花火の顔が自由になる。右手が下る。左手が頬に当たる。
 左手の人差し指が、頬の傷痕を撫でた。右目の下から顎へ向けて一直線に伸びている。
 それをやったのは俺だ。花火の頬に残された創は、俺がつけたものだ。

 五寸釘を打ち込まれたように、脳が痛む。あふれだした膨大な情報量に耐えかね、頭が悲鳴をあげた。
 両手に感触が甦る。包丁の柄の感触だ。俺が、――を傷つけるために、持ち出した包丁だ。

 視界が脳裏に浮かんだ光景と切り替わる。
 妹が自らの肩を抱いて震えている。弟が妹を包むように抱きしめている。
 母が口元を両手で覆い床にへたり込んでいる。父はしゃがみ込み、何か叫んで、いや、呼びかけている。
 父が呼びかけている相手は、――だ。小さい頃の俺がもっとも嫌悪していた相手だ。
 ――は倒れたままで、自ら起きる気配を見せない。小さい俺が、ざまあみろ、と呟いた。
 ふと振り返る。視線の先に花火がいた。
 横向きに倒れ、右の頬を両手で押さえている。流れ出す血が絵の具を薄めた水みたいだ。
 花火が泣いている。痛みと、あと、俺が恐ろしかったからなんだろう。
 血と涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、花火が呟いた。
 小さな体に沸いた、堪えきれない憎悪を滲ませながら――この、ひとごろし、と。

 包丁を取り落とした。床が急速に近づく。逃れられず、鼻をぶつけた。

 回想から目が覚めた。俺は自分の膝に手をついて、どうにか立っている状態だった。
 吐き気が脳を不安定にさせる。気を緩めたらそこで終わりそうだった。
 たった今思い出した過去の情景。それを血で彩ったのは俺だ。
 どうして包丁を持ち出したのか、なんで妹のように思っていた花火を傷つけたのか、いったい誰を憎んでいたのか、
細部は少しも思い出せない。だけど、俺がやったことだけは間違いない。
 首を持ち上げて、花火の顔を見上げる。
 不自然に浮いた傷痕は、すでに絆創膏によって覆い隠されていた。

297 名前: ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] 投稿日: 2007/12/22(土) 19:47:37 ID:Dpu7A0J3
*****

「久しぶり。アニキ」
 アニキ――本名は口にもしたくない――は、今にも倒れそうなほどふらふらになっている。
 私に殴られたダメージを引きずっているわけじゃなさそうだ。
 昔自分のしでかしたことを思い出したらしい。私の傷を見た途端に体をぐらつかせたのが証拠だ。
「なんとか言いなよ。久しぶりとか、元気だったかとか。喋れないほど口の中、切れてないだろ?」
 アニキは口を少しだけ開けた。けど、半開きのまま固まった。
 何も言いたくないのか、言うべき言葉が無いのか、言うべきか躊躇っているのか。
 じゃあ、こっちから一方的に言わせてもらおう。
「よくも私の前に顔を出せたね。しかも、今更。何年も経って、ようやく会う決心がついた?
 赦されている頃だとでも思っていた? 無いよ。絶対に無い。アニキが赦されることなんか無い。
 私の傷は消えないんだから、それぐらいの仕打ちは当然だろ。歯を根こそぎへし折られないだけマシだと思いなよ。
 それより、まだ兄貴面してアニキの役を演じてるわけ? 気持ち悪いよ――なんで生きていられるの?
 ああ、そういえばあいつ、言ってたっけ。アニキは昔のことを忘れているって。だからまだ生きてんだ」
「俺は――」
 アニキがようやく口を開いた。ただし、顔は俯いたまま。
「お前に傷を負わせた。その、右頬に」
「ようやく思い出したね。じゃあ次は、言い訳してみる? なんで私に傷をつけたのか」
「わからない。俺は……誰かを嫌っていて、それで」
「そのとばっちりで、私の頬を切ったんだ。憎んでもいない女の顔にねえ。
 アニキってさあ……汚いよね。私はあれがあったせいで一年も学校を休んだ。誰にも顔を見せたくなかったから。
 なのに、普通に学校行って、あいつとちっさい妹の兄貴分をやってる。自分が恥ずかしくない?」

 唐突にアニキが頭を下げた。続けて言われるだろう台詞が私の頭に浮かぶ。
「すまない! いや、ごめん!」
 ……ほら、予想通りだった。
 アニキみたいに空っぽな人間の頭なんて、何回下げられても誠意を感じられないよ。
「赦さないって言っただろ。何の真似?」
「謝らせてくれ! 俺は、ひどいことして、ましてや自分でやったことを忘れていて!
 今の今までずっと謝っていなかった。だから……ごめん!」
 ――遅いよ、アニキ。
 なんで今更謝るんだよ? 全部手遅れだよ。
 すぐに謝ってくれていれば、同じ気持ちを持ち続けていられたのに。
 アニキとあいつとちっさい妹と私の四人、ずっと仲良しのままだったはず。

 なんか、馬鹿馬鹿しくなってきた。
 いつまでもアニキなんかにこだわってたら、あいつと遊ぶことができなくなる。
 声をかけず、その場を後にすることにした。
「待ってくれ! 花火!」
 呼び止められた。しかも名前まで呼ばれた。
 ま、いっか。アニキと会うのはこれっきりだ。二度と会うこともないだろう。
 足を止めて、振り向かずに言う。
「……なんか用? 私今から用事があるんだけど」
「俺がお前にできることは何か、ないのか? できることなら、なんでもやる」
「じゃあ、逆に聞くけど、アニキは何ができる? まだ高校生だろ。自立してもいないじゃん。
 できることが限られている人間にそんなこと言われても、私が得することなんかないよ」
 そういう意味では、私だって人のことは言えない立場だけど。
 私があいつにできることは、ずっと傍にいてやること。
 あと、あいつが求めてくることに精一杯応えること。それぐらいだ。
「そうだね、一つだけあるかな。アニキにできそうなこと」
「ホントか?!」
「ああ。――今日を最後に、二度と私の前に姿を見せないでくれ。それだけ。じゃね」
 言い残して、立ち去る。アニキが追ってくるような足音はしない。
 最後のアニキの顔、どんなんだっただろ。
 傑作な泣き顔になっていたら嬉しい。でもむせび泣く声は聞こえなかった。
 声を殺して、涙ぐらいは流してたかもしれない。

298 名前: ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] 投稿日: 2007/12/22(土) 19:48:20 ID:Dpu7A0J3
 校舎の角を曲がったところで、あいつは待っていた。
 私の姿を確認して、複雑な顔をしながら近づき、目の前で止まる。
「花火。…………もう話は終わった?」
「うん」
 声で返事した。でも聞こえなかったかも。一応、頷きもしておく。
 こいつと話すとき、私はどうしても声を張れなくなる。
 だから今のように、言葉を短く切って喋らなければいけない。
 アニキに対して普通に話していたのは、嫌われてもかまわない相手だからだ。
 でも、こいつは違う。こいつに嫌われたら、私はもう生きていけない。
 一年間のひきこもり状態から外に出た日。久しぶりに見たこいつの顔にどれほど癒されたことか。
 あの笑顔を一年間も見ていなかったことは、私の人生にとって大きな損失だった。
 こいつは、それからも事あるごとに世話を焼いてくれた。もはや一生尽くしても恩を返しきれない。
 返しきれないけど、生きているうちはこいつのためだけに動こうと決めている。
 アニキに近づくなと言ったのは、こいつのためでもある。
 いつまでも兄弟だからって一緒にいたら、悪い影響を受けるに決まってる。
 こいつの邪魔になる者や心を汚す者は、すべて排除する。
 奪おうとする人間は消してやる。私は絶対にこいつを放さない。こいつから離れない。

 肩を並べて歩く。こうやってゆっくり過ごすのは久しぶりだ。
 文化祭の準備とかでずっと会えなかったから、もう二週間ぐらいになる。
 だから、二週間分今日は甘えようと思う。と言っても、腕を組んでひたすら歩き続けるだけ。
「いいか? 腕」
「うん。もちろん」
 許可をいただいた。腕をとって、両腕で抱き込む。胸に埋め込むつもりで強く、強く抱きしめる。
 この時だけは、自分でも邪魔に思うくらい大きい胸に感謝したくなる。
 こいつだって表情こそ平静だけど、しっかり反応している。顔は紅くなるし、歩き方もぎこちなくなる。
 可愛いよなあ。私、こいつが好きだよなあ。
 早く私をモノにしてくれないかな。いくらでも汚してくれて構わないからさ。覚悟はとっくに済ませているんだ。

299 名前: ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] 投稿日: 2007/12/22(土) 19:49:03 ID:Dpu7A0J3
「どこか行きたいところとかある?」
「いいや」
「なら、今から学校を出よう。妹がこんな姿を見たらものすごい剣幕で怒るに決まってる」
「…………わかった。いい」
 ちっさい妹。まだお前はこいつを狙っているのか。
 昔からそうだったな。ずっとこいつにくっついていた。そういや、あの頃はアニキにも懐いていたっけ。
 もう諦めるんだな。私とこいつの間に割り込めるスペースは一切残されていない。
 風呂にも一緒に入っているらしいな。話の最中に口を滑らせたとき、しっかり耳にしたよ。
 何もされていないんだろう? 全裸を見せても、押し倒されたことはないだろう?
 当然だ。所詮、妹。欲情の対象にはならない。
 私の胸の柔らかさを知っているこいつにとっては、ちっさい妹の体など小学生にしか見えない。
 ロリコンだったら話は別だが、これまた残念、こいつの性的嗜好は私の体にマッチしている。
 大きい胸、くびれたウエスト、整った尻、なめらかな足。全てを私は併せ持っている。
 年々成長しているから、まだまだ差はつくぞ。

 誰にも声をかけられることなく、校門を出た。
 これからずっと、制限時間までくっついていられる。
 けれど、時間はあっという間に過ぎていく。こいつといると、いつもこうだ。
 時間が止まってしまえばいいのに。時間制限なんか無視して、くっついていられればいいのに。
 ――制約を強いるやつらなんて、全員いなくなってしまえばいいんだ。

「花火」
「なんだ」
「こんなお願い、ずるいんだけど」
「ん?」
「僕のこと、嫌いにならないでいてくれるかな?」
「……もちろん」
 何があったって、私はお前を嫌ったりしない。命の続く限り、お前を愛する。
 お前が死にそうなときは私の命を分ける。もし死んでしまったときには、自らの命を絶って添い遂げる。
 私はお前と一緒にいたい。いつだって願いは変わらない。
 お前も、もし私を好いていてくれるのなら――ずっと、一緒にいてくれ。
最終更新:2008年03月01日 12:04