724 名前: ◆wzYAo8XQT.[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 20:40:25 ID:WaAYDk/E [2/9]
「香草さん!」
腕に確かな重さを感じる。体に確かな暖かさを感じる。
ああ、本当に君なんだね。本当に……
「ああああああ!!」
洞窟に響いた絶叫が僕と香草さんの間の安楽の時間を割いた。
ポポが、狂気走った目でこちらを見ている。
同時に走る寒気。
むき出しの殺気に、僕の肌が総毛立つ。ピリピリと痛む。まるで皮膚という皮膚に針を突きつけられたような恐怖。
「この畜生……私のゴールドに一体何をしたのよ……」
そこで僕の焼けた脳はようやく現状がいかに恐ろしいことになっているかに気づく。
半裸のポポに同じく半裸の僕。お互いの下半身はお互いの性の名残で汚れている。そして僕は酷く消耗している。そして洞穴に充満する性臭。
これを見て嫉妬と高慢の鬼である香草さんがただで済ますわけが無い。
「香草さん、もういい! もう終わったことなんだ! だからもう帰ろう!」
「ごぉるどぉ、なにいってるですかぁ。ごぉるどはぽぽとずっと……」
「そうね、さっと殺してぱっと帰りましょう。本当に気分が悪いわ。こんな気分になったのは生まれて初めて……」
今の彼女は正気とは程遠い。殺気だけで皮膚が裂けそうだ。
無差別に暴れださないのはまだ僕が抱きついているからだ。僕が彼女から離れたその瞬間、この殺意は爆発する。
「駄目だ! 僕は君に人殺しになってほしくない!」
「どうして? どうしてゴールドはソレを庇うの? だってソレは悪よ? ゴールドがずっと憎み続けてきた悪そのものよ? 殺さない理由が無いじゃない。私の言ってること、どこか間違ってる?」
確かにポポの今回の行いは悪そのものだ。それに、人を殺すなだなんて、ロケット団の幹部を感情に任せて殺してしまった僕には言う資格のない言葉だ。
「駄目だ! たとえ悪でも、僕は君に誰かを殺して欲しくないんだよ!」
それでも、僕は言う。罪を犯したのは僕だけで十分だ。間違っていたのは僕だけで十分なんだ。君は、君にはそんな風になってほしくない。
「あら、それでも私がソレを殺すのは許されるわ。だって――」
彼女が僕の背に這わせていた手をゆっくりと持ち上げる。
「だって、ゴールドは私のすべてより重いから」
処刑人の振り下ろすギロチンの刃ように、束ねられた彼女の蔦が正確無比にポポの首を狙って振り下ろされた。
刹那、閃光が走る。
血が跳ねる。
しかし以外にも、その血はポポのものではなく香草さんのものだった。
香草さんの肩口が切り裂かれている。そしていつの間にかポポは僕達の背後に回っていた。
ポポはねめつけるように香草さんを見る。
「ごぉるどをはなすですぅ、この虫けらぁ」
「正当防衛。……これで、誰の目にも問題なく、この害獣を殺せるわね」
駄目だ、もうこうなったら。
蔦を伸ばす香草さんに抱きつくと、僕はそのまま崖下に向け飛び降りた。 ……えっ?
僕は、僕達の体がこんなにもあっさり宙に投げ出されたことに困惑を覚えていた。
まさか満身創痍の僕が抱きついたくらいでこんなにもあっさり香草さんが落ちるなんて夢にも思うまい。
た、ただ二人の間に割って入ろうとしただけなのに!
「か、香草さんっ! どうして」
慌てて問うと、眼前の香草さんの顔が赤く染まっていた。血でも怒りでもない。照れている……のか?
「だ、だって、ゴールドがそうしてくれたんれしょ? これってぇ、わたしといっしょに死のうってことよね? いっしょに死んでくれるなんて、もう生きていたくもないほど辛い目にあったけど、それでも私とは永遠に一緒にいたいってことよね。嬉しすぎて、それで……」
か、香草さん!
香草さんの愛が非常に強いってことはよく知っていたけど、それでも自分が死ぬなんてときは躊躇しようよ!
しかしそんな僕達をポポがあっさり見逃してくれるわけが無い。
すぐに狂気染みた笑みとともにポポが追ってきた。
「私とゴールドの最高の最期を! 邪魔するんじゃないわよ!」
彼女はそういうと蔦を振りかざしポポを追い払う。
ポポは移動が制限される崖の傍だというのに、複雑に絡まる香草さんの蔦をすべて回避する。外れた蔦が、崖を抉った。
羽の端を掠めることはあるけど、しかし決して致命傷を食らわない。
その刹那の間にも見る見る地面との距離が近くなっていく。
ああ駄目だ。僕死んだ。
725 名前:ぽけもん黒 32話 ◆wzYAo8XQT.[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 20:41:28 ID:WaAYDk/E [3/9]
香草さんと一緒に死ねることは幸福なのか不幸なのか。
それを思う間もなく、僕達は地面にぶつかった。
爆音と共に派手に土煙が上がる。
視界はまったく無い。でも、これが頭から地面に激突した人間の視界ではないことは確かだ。
香草さんが蔦を蜘蛛の足のように広げ地面に着地した結果だ。僕には怪我一つ無い。
「……死体に集るハゲタカが。お陰で幸せになりそこねちゃったじゃない」
心底安心した。僕は死のうと思って飛び降りたんじゃない。
うすうす感ずいてはいたけど、僕は自分の命への執着がかなり強いらしい。
「香草さん!」
「ごめんねゴールド。私達の愛の結果が、あの薄汚いハゲタカに踏みにじられるなんて嫌よね。ごめんねすぐ気づかなくて。あ、でも気持ちはとっても嬉しかったよ、ゴールド。一緒に死ぬことが嫌とかそういうんじゃないから、か、勘違いしないでよね!」
「いやいいよ! 二人で死ぬより、二人で生きようよ!」
彼女は顔を本当に真っ赤にして、口をパクパクさせている。感情が言葉にならないみたいだ。
「……っ! 好き、大好き」
そう言って、僕と口付けを交わしたあと、彼女は中空を見る。
空には、僕達の様子を伺って旋回しているポポの姿がある。
「だから殺すわ。幸福な二人の未来のために」
両手から蔦を振りかざしてポポを睨む。
僕は香草さんに覆いかぶさるように飛び掛った。
「ポポ! 逃げるんだ! そして二度と僕達の前に姿を現さないでくれ!」
これが僕が君にあげられる最後の優しさだ。
残酷な行為だということは自覚している。だけど香草さんとポポ、二人が僕の傍にいることはもう不可能だ。交渉の余地も無い。ポポと香草さんの二者択一。……僕は、香草さんを選んだんだ! だから、だからポポ、早く消えてくれ。香草さんに殺される前に!
「ねぇゴールド……どうしてさっきからあの獣のことばかり庇うの? それにどうして、私のこと名前で呼んでくれないの?」
名前……? ああ忘れてた! そうだ、僕は香草さんのことをチコさんって呼ぶって約束してたじゃないか!
どうにも慣れずに、香草さんのことを頭の中で香草さんと呼び続けた弊害がここに表れた。
「ゴールド、どいて。害鳥駆除が出来ないわ」
口調こそ穏やかなものの、その言葉の裏には恐ろしい怒気が込められており、その澄んだ声に正気は無い。
「やっぱり私とゴールドは一秒も離れちゃいけなかったんだわ。私の失敗よ。もう二度と同じ失敗をしたりしない」
蔦が次から次へと巻きついてきて、身動きが取れなくなる。
「香草さ……チコ! だめだ! やめてくれ!」
視界も塞がってきた。
「大丈夫よゴールド。愛してる、永遠に」
視界が暗くなっていく。駄目だ、香草さん!
「ごぉるど、絶対に助けてあげますからねぇ」
ポポは宙を舞いながら、涙をボロボロと流す。
彼女は心の底から悲しんでいる。本心から、香草に囚われ、蔦の中で眠るゴールドを救おうと思っている。
「アンタは取り返しのつかないことをした。アンタが今後何をしても許せないし許す気も無いわ。でも、アンタはここで殺す。殺さなきゃだめだから」
うわ言のような死刑宣告を終えた香草は、いたずらを思いついた子供のようにくすりと微笑んだ。
「そのくっさい子宮引きずり出してすり潰しでもしたら、少しは気が晴れるかしら」
ゆっくりと宙を踊っていた香草の蔦が、唐突に弾丸のような速度で伸びた。
その魔弾の群は、一つの例外もなくポポの元に向かっていく。
そして、そのすべてが強かに彼女を打ち据えた。
香草チコは勝利を確信する。
その瞬間、一つの影が通り過ぎた。
その影は触れることも無く香草の蔦を解き、中からゴールドを救い出し、抱きかかえるとそのまま宙に舞った。
虚を突いた一瞬の早業。それゆえ、それを防ぐことの出来るものはいなかった。
哄笑と共に、ゴールドを抱きかかえたやどりは空を翔る――
726 名前:ぽけもん黒 32話 ◆wzYAo8XQT.[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 20:41:56 ID:WaAYDk/E [4/9]
――――――――――――
それは一瞬の隙だった。
勝利を確信した瞬間の心の緩み。彼女の慢心、油断。
その傲慢が、私に付け入る隙を許した。
いや、私には最初から分かっていた。
香草チコは必ず油断をする。必ず隙が出来る。
だから私は最初からその隙を待っているだけでよかった。
あの二人のように殺しあう必要など無い。戦わずとも、勝者は私に決まっているのだから。
蔦の中から愛しいゴールドを救い出すと、彼を抱いて宙に逃げる。
まだ死んでなくとも、あの攻撃を受けたらまずただでは済むまい。瀕死のポポに、私を追う力はない。
香草など言うまでもない。鈍い彼女は永劫地べたを這うのみだ。
こうしてゴールドは私のものとなった。あの二人は、ゴールドに永遠に届かない!
あの洞穴の惨状を目の当たりにしたときは、思わず怒りのままに何もかも台無しにしてしまうところだった。
しかしそれを押さえたから、冷静さを失わなかったから、今ここに私の勝利がある。
ゴールドを両腕で抱きしめ、存分にその存在を堪能する。
歓喜で全身の細胞が震える。気が変になってしまいそうだ。
力の制御が利かない。跳ねるように私は宙を舞う。
ああ、私は間違いなく浮かれていた。
まだ彼女達の姿の見えるうちにこの浮かれっぷりなど、愚かにもほどがあるが、しかしもう勝利は確定しているのだ、これくらいは許されよう。
思いっきり息を吸い込む。胸いっぱいにゴールドの匂いが広がる。
もう何日も体を清めていないであろう彼の濃厚な匂い。脳天まで痺れてしまう。余計なメスの臭いが混ざっているのが気に食わないが、まあもう終わったことだ。今後いくらでも彼の匂いは堪能できる。
私は勝った!
ゴールドを手にした瞬間、内心、私はほくそ笑んでいだ。
確かに、多少のイレギュラーはあったものの、状況はおおむね、私の望んだとおりのものとなった。
ポポはゴールドを攫った。そして愛が生まれるより前に実力行使に出た。
彼女が強烈に愛に飢えていることは早くから分かっていた。そして目の前にあるご馳走を、我慢できないような愚昧であることも。
彼女は取り返しのつかない失敗を犯した。償えない罪を犯した。
彼女はもう生涯ゴールドから愛されることはない。
香草チコはこれからポポを殺す。彼女はゴールドに愛されていたのに。愛しすぎて物事の判別がつかなくなり、彼が、ゴールドが何よりも忌み嫌う、自らにとって親しい者を殺すという大罪を犯す。
彼の歪な正義感が、彼女を許すことは永劫無いだろう。
彼女はもう生涯ゴールドから愛されることはない。
残ったのは私一人。もう誰も彼の傍にはいない。寄らせはしない!
彼が私を愛するようになろうとなるまいと――もちろん、彼自身から愛されないことを思うと恐怖で体がばらばらになりそうになる。息が乱れて、彼以外の何も考えられなくなる。それだけは、断じて避けなければならない――、彼の隣にいるのは、生涯、私ただ一人だ。
しかし、勝利の歓喜と、最もほしいものが手に入った愉悦と同時に、寒気も覚える。
……私は、浅ましい。彼に愛されるには、あまりにも醜悪すぎる。
私は、あの二人のように、ゴールドのために我を忘れることができなかった。
本当に欲しくて欲しくてたまらないのに、それでも私は恥も外聞も無く、後先を考えることも忘れて彼を欲するということが出来なかった。
だからこそ彼が手に入った。
しかし、これは決して美点などではない。
私には、彼女達が羨ましかった。理性も立場も何もかも捨てて、彼を愛するその姿が。彼を愛するだけに命を燃やす、その輝きが。その姿は美しくさえあった。そうはなれなかった、醜い私とは違う。
私には、彼女達のように、後先もなくすべてをかけることが出来なかった。彼をそこまで愛していなかったからではない。愛していたからだ。だからこそ、彼を得られない恐怖に勝てなかった。怯えてしまった。足がすくんで動かなかった。
だから策を巡らせた。巡らせざるを得なかった。これは選択ではなくただの消去法だった。
これが私の本性だ。欲しいのに。何よりも、自分自身よりもそれを欲しているのに、それでも、わが身可愛さに身動きすら出来ない。惨めな私。愚かな私。利己的な私。
彼は、私のこんな醜い本性を知ったらどうなるだろうか。
そうなったら、彼は決して私を愛してはくれないだろう。
彼と私は似ているところがある。
727 名前:ぽけもん黒 32話 ◆wzYAo8XQT.[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 20:42:26 ID:WaAYDk/E [5/9]
過去に酷いトラウマを抱え、それがどこまで行っても醒めた心を失わせることを許さない。それぞれ、愛を、正義を望みながら、自身がどうしようもなく歪んでいるから、その歪みが、欲して止まない愛や正義まで歪ませてしまう。彼も私も、どうしようもなく、歪だ。
だから彼は自分のことを愛さない。嫌悪してさえいる。
そんな彼は、彼女によって救われた。香草チコ。忌々しい恋敵。
いえ、彼女にとって、私は敵ですらない。ただの傍観者。路傍の石。
彼の歪んだ正義。その根底にある自己否定。彼は自分で自分自身を許すことが出来なかった。断罪を求めていた。ロケット団撲滅なんてものは、結局はただの自殺願望の延長に過ぎない。彼は語ってくれた。幼き日の苦い思い出を。それを聞いて私にはすぐに分かった。彼が真に求めているのは、復讐でも、正義の鉄槌でもなく、あの日の贖罪だと。彼は自分自身のことを一番罰したかったのだ。死に向かうほどに。
しかし、そんな彼を、彼女は許した。不器用に、それでも一心不乱に、彼のすべてを愛した。そのとき、初めて本当に彼は救われたのだ。彼のすべては肯定されたのだ。
彼は、いえ、私達は、自分で自分を救うことが出来ないのだ。誰かに救ってもらわねば、救われることすら出来ないのだ。
彼女達とは違う。彼女達のようには、なれない。
そう、そういうところで、彼と私は、とても似ている。
だからこそ、彼は気づくかもしれない。私の浅ましさに。自らのうちに渦巻く歪みにとても良く似た、私の醜悪な姿に。最愛の人を喪った失意の中で、その考えに至ってもおかしくは無い。
そうなったら、私は彼を永遠に失う。
それを想像するだけで、怖くて息もできなくなる。
歓喜と恐怖で、それだけで私は壊れてしまいそうだった。
そのせいで。
そのせいで、思考が一瞬、ほんの一瞬鈍った。だから、一瞬、ほんの一瞬、判断が遅れた。
そして、それが致命的な差となってしまった。
その浮かれた心が、悪魔に付け込まれる隙となった。
私の中心で、何かが爆発したような音が聞こえた。
ゴールドを手に入れたときとは正反対の、冷たい爆発。おぞましい、嫌悪してしょうがない、冷たさ。
力が、私の念能力が消えていく。頭部を損傷したんだ。
この爆発の名は、死。
「あ、あ……」
落ちて、消えていく視界の中で、私は私がもう助からないことを、そして私が決定的に、永遠に敗北したことを悟った。
――――――――――――――――
それは彼女の執念だった。
決定的な敗北を目の前にしても諦めることの出来ないその妄念。
その妄念が、香草チコに彼女の実力を大きく超える力を引き出させた。
香草チコが放ったもの。
それは、ただの小石だった。どこにでも転がっている、ただの。
しかし問題はそれが放たれた速度だ。
その速度は実に音速の三倍以上。
最高速のポポでも避けられない速度で。
その小石は、彼女の念障壁を突き破り、しかもぶれることなく、彼女の頭部にまっすぐ突き刺さった。
その一撃は間違いなく致命の一撃だった。
「やどりさん!」
二種類の、音が聞こえた。一度目は、何かを何かで素早く叩いたような、乾いた音。その刹那の後に、聞こえてきたのは、人の頭部が爆ぜる音。
728 名前:ぽけもん黒 32話 ◆wzYAo8XQT.[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 20:42:49 ID:WaAYDk/E [6/9]
――――――――――――――――――――――――
小鳥の鳴く声で目が覚める。
そこはいつもと変わらぬ、森の中の小さな小屋の中。
広くない部屋には簡素な調度品と保存食が置かれている。
人から見たら、侘しい部屋だと言うだろう。
だけど、私にとってこの部屋はどんな豪邸も比べ物にならないほど価値があるものだ。
何故なら、ここには彼がいるから。
眠っている、愛しい彼に今日も口付けをする。
そうすると彼は決まってゆっくりを目を開け、微笑みながら私を抱きしめてくれるのだ。
「おはよう、やどり」
その音の振動が私の思考を溶かして消す。
顔が熱い。きっと私の顔が真っ赤になっているだろう。
彼は追撃とばかりに私にキスをしてくれる。
「やどりはいつまでたっても慣れないね」
こんな幸せ、慣れることができるわけが無い。
私は内心そう思いながら、強く抱きつく。
ゴールドに出会う前。私には、何も無かった。
私が持っていたものは、すべて奪われて失われた。
両親をロケット団に殺された私は、村からも離れて、ただ死を待つだけの日々を送っていた。
悲嘆の涙を流すうち、私の感情は少しずつ失われていった。
私を襲いに来たロケット団を返り討ちにしたときでさえ、何の感情も沸かなかった。自らが傷つくことにも、何の恐れも感じなかった。相手は憎き仇の仲間だというのに、打ち倒しても何の感慨も無かった。止めを刺すことすら億劫だった。私の中は空虚だった。
私はそのとき初めて、私の人生にはもはやなんの意味もないことに思い至った。
だから死のうとした。
目の前にあったドブの汚さが、酷く自分に似つかわしく思えた。だから、ここで死のうと思い、ドブに浸かって、死が私を終わらせるのをただ待っていた。
そんなとき、私の前に彼が現れた。
彼は私を見るなり、ドブの汚さを意にも介さず飛び込んだ。
そうして、初対面の私の身を、無警戒に、しかし真剣に案じてくれた。
その様子があまりにも必至だったから、私は死のうとしているだなんてとても言い出せなかった。すべてがどうでもいいと思っていたのにも関わらず、私は「怪我が治るのを待っていた」なんて滑稽な嘘を吐いてしまった。
彼のその真摯な態度を見ていると、自殺を選んだ私が、酷く恥ずかしく思えた。
どうしてだろう。感情なんてとっくに失ってしまったはずなのに。もはや何者にも心動かされなくなっていたはずなのに。
それなのに、どうして彼はこんなにも眩しい。
私は、一目で恋に落ちてしまった。
人生に絶望し、つい先ほどまで死のうとしていた人間が恋とは。あまりの軽薄さに笑ってしまう。
それでも、私は自分のこの気持ちを抑えることができなかった。
ああ、私はただ愛されたかっただけなのだ。
ただ、手を差し伸べて欲しくて、小さくなって震えていただけだったのだ。
彼は、ドブの中から私を救い出してくれたのだ!
でも、彼のとなりには常に余計なものがいた。
私が愛した彼の優しさは、常に目障りな鳥に向けられ。
私が愛した彼の眩しさは、常に目障りな雑草に向けられた。
どうして。それを向けるのが私ではないのだろう。
煩悶した朝があった。懊悩した昼があった。そうして、満たされなかった夜には一人こっそり咽び泣いた。
どうして私が彼と一番最初に出会うことが出来なかったのか。
ロケット団に両親が殺されたあの日以来。自らの運命を呪うのはこれで二回目だ。
滑稽にもほどがある。両親の死も忘れ、愚かにも恋する乙女に成り果ててしまった私を見て、彼らはなんと思うだろうか。
だけど、それでも私は、その両者を押しのけてゴールドに自分をアピールすることが出来なかった。
恐ろしかったのだ。ゴールドに拒否されることが。自分が傷つくことが。この浅ましさを見透かされることが!
この期に及んで、私はまだわが身が可愛かったのだ。
ああ、醜い。浅ましい。こんな私なんて、消えてなくなってしまえ。
――だけど、だけども彼はこんな私を受け入れてくれた。
こんな私を愛しているといってくれた。すべてを失った私の命を救ってくれたばかりではなく、私に未来をくれた。
ぽけもんリーグを制覇するという旅の目的を達成した後は、私の田舎に戻り、私と二人で暮らしている。
729 名前:ぽけもん黒 32話 ◆wzYAo8XQT.[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 20:43:10 ID:WaAYDk/E [7/9]
両親と私の三人では狭かった我が家。私一人には広すぎた我が家。そこに私と彼は二人で住んでいる。
あの暖かだった家庭はもう二度と帰っては来ない。それでも、私は先に進めた。
すべて彼のお陰だ。もう私はこの家で一人孤独に震えることは無い。いくら浴びても尽きせぬ幸福がそこにはある。
意識を取り戻す。まだ思考は霞がかかったようにぼやけ、体にはじんわりとした快感が反響している。
朝から盛ってしまった。
でもそれを後悔することはない。
私達には無限のような時間があり、そしてゴールドは私の前から逃げやしないからだ。
今日は何をしようか。
畑の手入れでもしようか。それとも湖に釣りにでも行こうか。久しぶりに街へ出てもいいかもしれない。そうだ、ゴールドの研究で、何か手伝えることはないだろうか。
もちろん、何をするにもゴールドと一緒だ。
この小さな家に、ゴールドと二人。私の人生はゴールドなしでは始まらない。
私の愛しい人。私を救ってくれた人。
そこは私の望んだ世界。私の幸福な夢。
――――――――――――――――――――――
落ちてゆく世界で、私が覚えたのは、やはり歓喜と恐怖だった。
命が失われる恐怖。ゴールドと離れ離れになる恐怖。ゴールドと永遠に決別するという、耐え難い、身を裂かれるような酷い恐怖。
しかし、これで私の醜い心根がゴールドに知られることは永劫なくなった。私が、ゴールドに嫌われることは永遠にありえないこととなった。そのことに、私は心から安堵する。
それに、これなら。
これならゴールドは、絶対に私を忘れることは無い。私は、ゴールドの中で、最後まで一緒にいられる。綺麗なままで。ゴールドの最期まで。
それは、とても素敵なことだ。ゴールドと二人いっしょにいられることの次に、だけれど。
最終更新:2013年07月22日 13:15