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746 名前:子猫の願い[] 投稿日:2013/07/28(日) 14:37:10 ID:KnP.Loyw [2/8]
 これは、賭けだ。
 耕平はそう思っていた。
 現在の状況でミー子を助けるには、とにかく拘束を外して自由を得ないことには話にならない。ただ、それを成し遂げるには実力行使しかないという事も分かっていた。静音はもはや説得できる相手ではなくなっている。
 となれば、ミー子自身の能力に頼るしかない。今のままでは勝てないが、耕平の推測が正しければ、ミー子の力の源泉はその嫉妬心にあるはずだった。それを煽ってより以上の力を引き出す。単純で馬鹿馬鹿しい方法だが他に思いつかない以上仕方がない。
 だがミー子が自身の力を完全にコントロールできているわけでもなく、暴走してしまう可能性や、下手をすれば意気消沈して全てを諦めてしまう危険性もあった。そもそも嫉妬心が本当に引き金になっているのかどうか。
 それでも賭けたのだ。ならばどう転んでも責任はすべて自分にある。耕平はそう腹をくくった。
 一方の静音は接吻された直後、目を見開いて硬直した。自身に何が起きたのかを理解していないようであった。
 だがそれも本当に一瞬の事で、唇を合わせたまま耕平の頬を挟んでいた両手をそのまま頭と背中に回し、抱きかかえると舌を差し込んできた。
 耕平の歯、歯茎、唇の裏側に至るまで舐め回し、唾液を吸い上げて飲み込み、唇を唇で挟んで舌でなぞる。耕平は口を合わせたまま固く閉じていたが、それを執拗にこじ開けようとする。しかも一連の行為の間、静音は目を最大限に開いて瞬きすらせず、耕平を舐めるように見つめていた。
 なすがままにされ、耕平は視線を部屋の角にいるミー子に向ける。

 床にくの字に転がったまま、しかしミー子は見ていた。その接吻、というよりも耕平が静音になぶられるのを見ていた。
 元々白磁のように白かった肌が、血の気が引いて蒼白というに相応しい顔色になっている。
 黄色い右目と青い左目は、焦点を失ったかのようで耕平には両目とも灰色に見えた。
 美しい唇も青白く半開きとなり「あ……あ……あ……あ…………」という呟きを繰り返す。
「コーヘイがキスをしてる、コーヘイがキスをしてる……ミー子以外の相手と……なんでなんでなんでなんでなんで。おかしいおかしいおかしいおかしい。そんなの間違ってるよ、許されない……コーヘイが、コーヘイが、コーヘイ……」
 そしてやっと出たその言葉も、しばらく続いてはいたがやがて途切れた。
 数瞬後、静音が耕平の口を貪る音だけが聞こえていた室内に、ミー子の小さな、しかし地獄の番犬も尻尾を巻いて逃げだしそうになるほどの憎悪の声が響く。
「よくも……」
 ミー子の両目に雷火が灯った。
「よくもよくもよくもよくもよくもよくも! ミー子だってまだなのに! ぶっ殺してやる! この薄汚い鳥公が!」
 瞬間、部屋の中に竜巻が発生する。
 ミー子を中心に冷気が渦を巻き、突風となったのだ。
 家具や本など部屋中にあるものがそれに合わせるように暴れまわり、壁や天井に激突した。ベッドですら浮き上がり激しく動き出す。
 静音は異変に気づき、名残惜しそうに耕平との間に唾液の糸を引きながら唇を放して立ち上がると、その場でミー子に相対する。
 そしてその瞬間、宙に浮いていた物品は一斉に静音に向かって突撃した。常人では到底避けえない速度で。
 だがそれらはやはり途中で動きを止める。今度は静音の手前二十センチメートルといった所で固定され、そのまま落下した。
「学習しないわね。そんなもの無駄だって何回やれば分かるのかしら?」
 両手を腰に当て、小首を傾げた姿勢で心底呆れたように静音は話しかける。
「まあいいわ。貴女に付き合うのもこれが最後、本当に終わりにして……?」
 歩み寄ろうとした静音の動きが、なぜか言葉と共に止まる。
 そして、訝しげに眉を歪めると腰をかがめ、自分の両掌を目の前にかざし、それが僅かに震えているのを目にした。次に両足も震えだしたのに気付くと口元をだらしなく開き、嘔吐するような呻き声を出す。
 その足元で耕平は、静音の身体が異常に発熱しているのに気付いた。傍らにいるだけで暑さを感じる程の熱波が静音から放出されている。
 部屋の中はミー子の発した冷気が今だ渦巻いており、尋常でなく、それこそ冷蔵庫の中にいるのではないかと思える程に室温は下がっていた。それなのに……と、そこまで考えて耕平は思い出す。
 あの時もそうだった、ミー子が初めて力を発動させた時、その冷気が充満した部屋の中でビールが沸騰していた。
「ミー子、やめろ!」

747 名前:子猫の願い[] 投稿日:2013/07/28(日) 14:38:19 ID:KnP.Loyw [3/8]
 耕平がそう叫ぶと同時に、静音は両生類が潰される時のような醜い呻き声をあげると、一歩前に出て頽れた。口から涎を流し、全身から湯気を上げ、その肉体は白く変色し、さらに肌がめくれる様に剥がれ、ただれていく。眼球が白濁し泡立つのを耕平は見た。
 全身の体液を沸騰させられたのだ。

 自身の両膝と両手が軽くなるのを感じた耕平は、拘束が外れたのを覚ると、立ち上がりミー子の下に駆け寄る。
 部屋の角で力を使い果たしたかのように目を閉じ、倒れていたミー子の脇に膝をついて座り、体を仰向けにして頭の後ろに手を回し上半身を抱きかかえる。そして必死にミー子の名を呼んだ。
 何度目かの呼びかけをした時、ミー子は薄く眼を開いた。
「コーヘイ……」
「ミー子! 大丈夫か? 痛いところはないか?」
 その問いには答えずにミー子はそのまま抱き付く。耕平は背中に爪を立てられるのを感じた。
「許さないから……。コーヘイを苛める人や、コーヘイに近づく女は絶対に許さないから……」
 胸に顔をうずめて目を閉じ、ミー子はその言葉を繰り返す。
 それを聞いて「なんだか前にも似たようなことを言われた気がするな」と、そう思いつつも耕平はミー子を抱き返した。猫の体臭のような、しかし甘い少女の香りが鼻腔に広がった。

 だが次の瞬間、室内が直射日光を受けたかのように明るくなる。それに気づいた耕平はミー子から体を離し、ミー子も目を開いた。
 その光は二人の背後から、部屋中を彩るように伸びてきている。倒れた静音の体が強く発光しており、今や人間大の光の塊となっていたのだ。
 耕平は手を目の前にかざし、ミー子は耕平にしがみついたまま牙をむいて、威嚇の姿勢をとる。
 光の塊は今回も白い衣をまとった少女となり、そして羽を最大限に広げて立ち上った。目を血走らせ、こめかみに青筋を立てて美しい口を開く。
「やってくれたわね、この化け猫」
 ミー子を床に座らせたまま耕平は立ち上がり、進み出て天使と向かい合う。
「それが静音さん、貴女の本当の姿なんですか」
「はい、そうですわ。こんな形でお見せすることになるとは思いませんでしたが」
 薄っすらと頬を赤らめて天使が答えた。
「耕平さん、そこをどいて下さい。先ほども言いましたように、私はその化け猫を殺さなければならないんです。使命として、そして私自身の為に」
「お断りします」
 耕平は即答する。
「なぜですの?」
「ミー子を殺させるわけにはいきません」
「こういう事を言うのは心苦しいのですが、私を止められるとお思いですか?」
「……無理かもしれません。でも静音さんも相当ダメージがあるように俺には見えます。ミー子だけはなんとか逃がしてみせますよ」
 虚勢である。耕平にはミー子を助けられる自信はこの時、ない。そもそもミー子が大人しく逃げるとも思われない。
 とは言え最悪の状況は脱したのだ。ミー子が期待に応えてくれた以上、今度は自分がやらなければならない、そう思っていた。
 天使は両目に嫉妬の炎を宿す。
「耕平さん、よく考えてください。その猫が取り交わした契約は今速やかに死ぬことで解除されます。それ以外に方法はありません。そして、その魂が解放された後で貴方と私が結ばれる。それで皆救われるのですよ?」
「駄目です、お断りします」
「なぜですか?」
「俺の幸せはミー子が幸せになることです」
 そこで一拍置いて、言葉をつづける。半ばは自分に言い聞かせるためだった。
「多分俺の我がままなんでしょうけど、今ここで死ぬことがミー子の幸せだとは思えません。ミー子が不幸なら、俺も不幸です。だから俺自身のためにも静音さんの申し出はお断りします」
 天使の髪が比喩でなく逆立った。
 しかしミー子に対する嫉みの感情を激しくすると同時に、少年の純粋さと青年の覚悟が混じり合ったその言葉を受けて、またも天使は魅了される。
 目の前の男のやや癖のある髪、柔和であり秀麗と言ってもよい整った、しかしどこが悪戯っぽさを残した顔、整った体躯。その全てに酔いしれた。
 そして視線を相手の目に向けた時――その中にあるものを見た。
「……?」
 天使が口を開け、目を見開き、頭を両手で抱えて絶望の翳りをその表情に浮かべたのを耕平は見て、訝しげに思うと同時にやや警戒を解いた。明らかに様子がおかしい。
 声をかけようとしたが、天使が顔を上げてそれを遮る。
「耕平さん、それとそこの化け猫、二人とも動かないでください。心配しなくても危害は加えません」
 そう言って右手を耕平とミー子に向かってかざすと、目を閉じた。

748 名前:子猫の願い[] 投稿日:2013/07/28(日) 14:39:36 ID:KnP.Loyw [4/8]
 十数秒後、耕平はまたしても天使の体が光りだしたように感じたのだが、これは間違いである。発光していたのは耕平自身と、その後ろから耕平に抱き付いているミー子であった。
 二人から発している光は白色で、周囲に半球を形作る。そして収束して一筋の光となり、直上に伸びてそのまま天井を突き抜けて上って行ったようであった。
 深夜ではあったが、この時耕平のアパートから闇夜を突き抜け、天に向かって走る光線を多くの人が目にしている。大多数は今の現象は何だろう、と疑問に思いつつも特に気にかけずに忘れてしまったが。
 続いて、今度は間違いなく天使の体が輝き、形を変えていく。そして黒いパンツスーツ姿の美女、河原崎静音の姿を取った。
 ミー子によって破壊される前の美しい姿を寸分の狂いもなく再現していたのだが、変身が終わると同時に静音は片膝をつくと、咳き込んで口からわずかに血を吐いた。
「この化け猫が……内臓までボロボロにしてくれたおかげで、完全に修復するには時間がかかりそうよ」
 青白い肌に口元から伸びた一筋血の流れが首筋まで垂れて、それが美貌を損なうよりもむしろ映えて妖艶な魅力を醸し出している。
「大丈夫ですか?」
 自分でも間が抜けてると思いつつ耕平は静音の体を気遣う。
 静音はそれに微笑で応えた。偽りなく本心から耕平は安堵して、静音に問いかける。
「ところで静音さん、さっき俺達に……」
「それについては今は知る必要はありませんわ。いずれ時が来ればお話しすることもあると思います」
 静音は体の埃を払いながら立ち上がり、ハンカチを取り出して口元をぬぐった。
「ただ、先程お二人に施した術式と、その前の負傷もあるので、今日はこれ以上力を使えそうもありません。残念ですが引き上げます。お邪魔いたしました」
 口調からは悔恨は感じさせない。静音は毅然としてそう言うと、耕平に向かって一礼し踵を返して玄関に向かう。
 ドアを開け、そこで一度動きを止めて振り返る。
「でも耕平さん、貴方は私のもの。必ず手に入れてみせます。待っていてください」
 凛として、耕平を真っ直ぐに見据えて一ミリたりとも迷いなくそう告げる静音を、耕平は素直に美しいと思った。もっとも、その静音を睨み、威嚇して耕平に抱き付くミー子の爪の痛みで直ぐ我に返ったが。
 軋んでドアが閉じ、静音が去っていく足音をミー子はじっと聞いていた。

「ミー子」
「なに?」
「これ、どうしようか」
 部屋の中でミー子と二人、ベッドで横になりながら周囲を見回して耕平は尋ねる。
 まさに台風一過というべきか、ミー子の力によってありとあらゆる家具、物品、衣服に至るまでが散乱していた。今二人がいるベッドにしても普段の位置にはなく、ほぼ部屋の中央にある。また、冷蔵庫が逆さまになっているのを見た時にはさすがに絶句した。
「うー……」
 ミー子は両手の人差し指を合わせ、困ったように耳も垂らして唸った。その頭を撫でてやりながら、耕平は微笑む。
「まあ幸い明日は……もう今日だけど、休みだしな。二人で片付ければ割と早く終わるんじゃないかな」
「ニャ!」
 嬉しそうにミー子は鳴くと、耕平に抱き付いて首筋を胸元にこすりつける。それをしばらく続けていたが、やがて胸元からせりあがると、そのまま耕平に覆いかぶさる格好となり、顔を正面から見つめた。
「コーヘイ……」
「ミー子……」
 目を潤ませ、発情の色を肌に表わしてミー子は顔を近づける。そして、唇が重ねられようとしたその時、耕平は口を開いた
「交尾ならしないぞ」
「ニャ!?」
 その言葉に上体を起こしてミー子は抗議の声を上げる
「なんでだニャ!? いますっごく盛り上がって、愛が頂点に達した感じになったニャ!」
「なんだそれは。静音さんが言ってたろ、ミー子と恋人になると悪魔に魂が取られる事が決定するから駄目」
「そ、そんニャ!」
 今度は発情ではなく悲嘆のあまり目を潤ませると、ミー子は縋り付いてくる。
「じゃあ先っちょだけでいいから」
「駄目」
「じゃあ指二本だけでも」
「駄目」
「じゃあ指の第一関節まで」
「駄目ったら駄目」
「じゃ、じゃあせめてキスだけでも……」
「それも駄目」
「なんでだニャ!?」
 キスしたら俺が我慢できなくなる、とはさすがに言えず、耕平は「とにかく駄目」とだけ繰り返した。
「生殺しだニャー!」
 ミー子の悲痛な叫びが部屋の中に響き渡る。それを聞いた耕平はミー子の頭を抱えて両手で抱きしめると思考の海に沈んだ。
 色々なことがありすぎたが問題は解決しないどころか、余計ややこしくなった気がする。

749 名前:子猫の願い[] 投稿日:2013/07/28(日) 14:41:00 ID:KnP.Loyw [5/8]
 やるべきことは、ミー子の魂が悪魔に取られることを阻止する事。その為にも契約が終了するのは避けなければならない。それがこれからの第一目標となるが、さて、自分自身どこまでミー子の誘惑に耐えられるだろうか。全く自信がなかった。
 こうなったら、自分も地獄へ行く方法を探した方が早いかもしれないな、と、そう考える。そうすればミー子の傍に居られるし、二人一緒ならどんな環境でも少なくとも寂しくはないのではないか。
「今度静音さんに会った時にどうやれば地獄へ行けるか聞いてみようか。素直に教えてくれるとは思えないし、正直に言えばしばらくは会いたくないんだけどね……」
 その独白は小さすぎてミー子の耳にも届かなかった。

 ――――――

 加藤の運転するアウディで帰宅した静音は、玄関の敷居をまたぐと真っ直ぐに自室へと向かう。
 入室直前、付き従っていた加藤に声をかける
「朝まで、私への取次ぎは一切不要です。誰一人入らないように」
「かしこまりました」
「今度裏切ったら容赦しないわよ」
 ドライアイスの剃刀で切り付けるようなその声音に加藤は大量の冷や汗を流し、最敬礼して静音が入室するのを見送った。

「そろそろのはずだけど……」
 静音は個室としては広すぎるその部屋の中央で、スーツ姿のまま何かを待っていた。
 天蓋付きのベッドを始めとしてピンクで色調が整えられた家具類や、花形をした窓があるその部屋は、本来であれば訪れる者に女性らしい柔らかさと可愛らしさを感じさせただろう。だが今は照明が落とされ、全ては漆黒の闇の中にある。
 やがて部屋の隅に蝋燭の炎ほどの光が現れた。
 それはあっという間に強さと大きさを増し、激しく輝く光球となると姿を変え、翼を生やした少女となる。
 外見は静音の正体の天使とよく似ていたが、それよりも年長で10代後半程度に見えた。その少女は、翼を羽ばたかせ浮き上がるとゆっくりと移動し、静音の前で着地する。
 静音が声をかけた。
「お久しぶりね、リントラ。お元気そうで何よりだわ」
「ああ、まったくもってしばらくぶりだ。君も元気……というかそんな姿になっているとは。人間と同化したのか、それは」
 リントラと呼ばれた天使は眉根を寄せてそう答える。
「これについてはまた後ほど説明するわ。それより、私が依頼した件について、報告を頂けるかしら」
「随分と性急だな。まあいいだろう。サリュ……」
「その名前は必要ないわ。私の事は静音って呼んでいただける?」
 リントラは今度は片眉を上げ、静音に説明を求めた。
「この体と同化しているからかしら。そう呼ばれた方がこう、しっくりくるのよ」
 子供の悪戯に付き合う大人のようにリントラは苦笑いをしたが、素直に静音の要求を受け入れた。
「分かった、君がそう言うならまあいいだろう。じゃあ静音、依頼のあった二人が死後どうなるかを知りたい、という事だったな」
 静音は首肯し続く言葉を待つ。
「まず、君が言う所の化け猫だが。魂は悪魔に取られるから地獄行きだな」
「やはりね。しかし、悪魔との契約はまだ終了してないわ。今すぐ死んだとしたらどうなるのかしら?」
「君が分からないとは思えないが」
「今の天国の正確な判断を知りたいのよ」
 リントラは肩をすくめる。
「今すぐ死んでも悪魔によって化け猫、つまりは妖魔にされてしまっているからな。地獄行きだ」
「契約が終了しようとしまいと関係ない、という事ね?」
「そうだ。正確に言えば死んだ後、直ぐに魂が悪魔のものとなるか、しばらく地獄を彷徨うか、その違いだけだな。不浄なものを天国は受け入れるわけにはいかない」
 その言葉を飲み込むように静音は頷く。
 ミー子はどうあがいても地獄に落ちる。そうと知れば、耕平は恐らく静音がミー子を殺そうとするのを、先刻以上の覚悟で阻止しようとしただろう。事実を伏せておいた理由はそれであった。
「ではその次、吉良耕平という男だが……」
 静音の鼓動が高鳴る。
「これも地獄行きだ」
 その場に人がいれば、空気に霜が走ったように感じられたかもしれない。そして氷結したように固くなった静音の唇は数秒後に開いた。
「……間違いはないのかしら」
「ない。この男は妖魔に魅了されてしまって、魂は既に汚れている。いい素質を持っていたようだが、惜しいな。とは言ってもこの妖魔のためなら神様にすら逆らいかねん、そこまで染まってしまっている」
 リントラの目の前で静音は姿勢も表情も微動だにしない。その口だけが動き続ける。
「天国に行く方法はもうないのかしら?」

750 名前:子猫の願い[] 投稿日:2013/07/28(日) 14:43:44 ID:KnP.Loyw [6/8]
「無理だ。君の方がよく分かっていると思うが、一度妖魔に魅入られたらそれで終わりだ。だからこそ君にしろ他の天使達にしろ悪魔や妖魔排除の任を負っているわけだが」
 聞いた静音は目を閉じ長嘆息する。そして上を向いて目を見開き天井を、さらにはその先にあるものを見つめていた。
 長い時間そうしていたのだが、やがて顔を正面、リントラの方に向ける。この時静音は決心していた。
「分かったわ。じゃあもう報告は結構よ」
「そうか。それで、これからどうするんだ?」
「天国に帰るわ」
「なに?」
 その言葉は驚愕の叫びであった。
「ちょっと待て、言っていることが分かっているのか?」
「ええ、分かっているわ」
 リントラの動揺に対比して、静音は氷塊のように冷徹に答える。
「分かっているなら再確認させてもらうが、君の報告にあった化け猫、こいつは妖魔だ。そしてそれを見つけたのは君だ。つまり……」
「私はその化け猫を退治しなければならない、その使命がある、かしら?」
「その通り。そしてそれを成し遂げず天国に帰るとなると……」
「……私は神様の命令に背いたことになるわね。罰として地獄に落とされて堕天使となるわ」
「そこまで分かっていてなぜ?」
 それが望みだからよ、と静音は心の中で思う。
 それ以外に方法はないのだ。耕平が地獄に行く、それを阻止する手段がないというのなら、自分が地獄に行くしかないではないか。そしてそこに最後の希望があった。
 静音にとっては痛恨の極みだが、耕平とミー子、あの二人は遅かれ早かれ結ばれるだろう。
 だがそうなれば死後ミー子の魂は悪魔の物となるが、耕平の魂は地獄を彷徨い、離ればなれとなる。そして耕平の魂を堕天使となった自分が手に入れるつもりだった。
 そうなったらもう二度と離しはしない、永遠に手元で愛し続ける。
「人間と同化したり、どうも色々無茶をしすぎたようだし、情状酌量の余地があるとも思えん。まず確実に地獄行きだぞ?」
「分かっているわ。何度も言わせないで、私は天国に帰る」
 毅然としたその言葉に、リントラも説得の余地がないことを悟る。今度は彼女が長嘆息した。
「人間として生活しているのなら、家族もいるだろう。その人達にはどう説明するつもりだ?」
「説明なんかいらないわよ、元々死んでいる予定の人間だし。明日倒れているのを見つけて騒ぎにはなるでしょうけど」
 冷然と突き放し、静音は肉体から自身を解き放つために目を閉じ両手を胸の前で組んで瞑想を始めた。
「じゃあ善は急げじゃないけど、この体ともさようなら、ね」
 そしてかすかに口元を動かす。リントラは何かを言おうしたが、結局諦めてその姿を見守っていた。
「……?」
 静音が口を閉じ、眉をしかめる。
「どうした?」
「……引き留められたのよ、この体に」
 瞑想をやめて目を開け、正面を見据えた静音がそう答えた。
「なに? 君以外には魂は入っていないのだろう?」
「ええ、勿論よ。だからこれはただの抜け殻、のはずなんだけど……」
 静音は自身の両掌を見つめた。
「出れないのか?」
 困惑から恐怖へと自身の心が移り変わりつつあるのをリントラは感じていた。有り得ないことが起きている。
「いいえ。強引にやれば問題はなさそうだけど……でも気になるわね。ちょっと時間を頂けるかしら?」
 無言でうなずいたリントラを横目に見て、静音はベッドに歩み寄りそこに腰かけた。
 額に右手の人差し指と中指をあて、再び目を閉じると人間には聞き取れない音階の声を発した。カーテンがそれに反応したように揺れる。
「ちゃんとこの体は精査したのだけれど……もう一度やり直してみるわ」
 静音の全身が淡く光る。その光の各所に光度の強い球形の部分があり、それは機械仕掛けのごとく身体中を走り続けていた。
「足、手、胴体、心臓、その他内臓……それ以外も問題ないわね。となるとやはり脳か」
 静寂した室内に静音の言葉だけが続く。
「深層まで潜り込まないとダメかしらね」
 走っていた光が静音の右手に集まり、そのまま額から頭部に吸い込まれる。
 その瞬間、静音の脳裏に肉体が持つ過去の記憶が次々と再現されていった。それらは次第に過去へ、過去へと遡り続ける。
 静音に見える景色はしだいに朧げになっていき、所々掠れて見えないような箇所も発生していく。そうしてひたすら井戸の底に落ちていくような作業を続けていたが、かなり深い所で固い箱のような記憶にぶつかった。

751 名前:子猫の願い[] 投稿日:2013/07/28(日) 14:44:14 ID:KnP.Loyw [7/8]
 静音の意識がそこに集中する。
 中身を確認しようとしたが、その箱は容易に開かなかった。そこで光を集め、ありとあらゆる手段を用いてこじ開けようとする。
 箱はそれでも抵抗を続けていたが、やがてひびが入るような感覚があり、破裂した。

 そして唐突に静音の眼前に鮮やかな光景が広がる。
 そこは市街地にあるブランコと砂場だけの小さな公園で、そこで幼い静音は一人の少年とおもちゃを広げて遊んでいた。
 当時の静音と同年齢と思しき少年を見て、静音――天使はそれが誰かをすぐに覚って喫驚した。自身の最愛の男の幼児時代の姿がそこにあった。
 だがしかし、それは初めて見る姿でもあった。耕平の母親が死去する前なのであろうか、と、そう考える。
 二人は仲睦まじく遊んでいたが、やがて幼い静音が何かを耕平に話しかける。その言葉は聞こえない。おそらくもう記憶に残っていないのだろう。
 耕平はそれを聞いて、決意に満ちた強い口調で答え、微笑んだ。幼い静音もそれを見て笑う。
 そして二人は小指を出し合うと、指切りをして、何かを約束していた――

 そこで記憶が途切れ、静音は我に返る。
 しばらく茫然としていたが、やがて唇を酷薄な形に曲げて笑った。
「そんなに大事な約束だったのかしら? 貴女ですら忘れていたのに」
 その言葉を聞いて、横で眺めていたリントラが声をかける。
「どういう事だ?」
「いいえ。リントラ、貴女の事ではないわ……。ふん、先約を主張する気かしらね、この体」
 静音はそこで一呼吸置いて立ち上ると、視線をリントラに向けて告げた。
「天国に帰るのはもうしばらく後ね。まだ人間として生活させてもらうことにしたわ」
 困惑も極まって途方に暮れていたリントラだったが、その言葉を聞いて生き返ったように喜び、静音の手を取った。
「そうか! 思い直してくれたか!」
「そういう訳でもないけどね」
 静音は思う。
 今回の自分の計画はことごとく計算外の事態によって邪魔され、阻止され続けて来た。挙句耕平の地獄落ちにまでなってしまったが、それによってどうも自暴自棄になっていたらしい。
 確かに今は、耕平を手中に収めるには地獄へ行くしかないように思える。だがそれも自分の計算に過ぎない。計算外の事が起きる、それが今の人間界だ。
 それなら自分には見えないだけで、現状から逆転する方法もあるのではないか。なにしろただの抜け殻だった肉体が自分を引き留めたのだ。こんな事天国にいる天使の大半が信じないだろう。
 ならばやってみせる。ミー子を地獄に落とし、耕平と人間界で結ばれ、その死後は天国で永遠を共にするのだ。
 それが高望みだとしても、地獄まで耕平を追いかける気持ちは微塵も変わっていない。
 その覚悟がある限り何でもできる。
「これからどうなるかまだ分からないけど、結果については貴女に最初に伝えさせてもらうわ」
「分かった。今回の君の報告は私の所で止めておく」
 それを聞いて静音は久しぶりの柔らかな微笑みを浮かべた。
「感謝するわ、借りができたわね」
「気にするな。いずれ利子を付けて返してもらう」
 世の男性達が見れば一撃で籠絡されそうなウインクをしてリントラは答えると、羽を広げた。
「ではさようならだ。早く妖魔を退治して帰ってきてくれよな」
 そして巨大な光の球に変身すると、急速に収束していき、小さな炎のようになってそのまま消えた。
 見送った静音はスーツ姿のままベッドに寝転び、枕を抱えて独り言ちる。
「あの化け猫は殺せない、殺せば私は地獄に行く方法を失う。生かしておけば契約が終了し、死ぬと同時に魂は悪魔のもの。耕平さんが地獄に落ちても再会できる可能性はほぼゼロだわ。でもその為には二人が結ばれる必要がある……」
 静音は無意識のうちに手の内に会った枕を引きちぎっていた。中身の白い羽毛が部屋中に飛び出す。
「まあ、私の話を聞いた耕平さんならしばらくは手を出さないでしょうけど。耕平さん……耕平さんの魂を天国に迎え入れる方法を見つければ……」
 そうすれば自分はミー子を遠慮なく抹殺し、使命を果たした天使として天国に帰れる。耕平の死後も天国で共に暮らすことができるのだ。
「難解なパズルだけどね。必ず見つけだしてみせるわ、正解を」
 部屋中に舞い上がる羽毛は雪のように降り、それは自分の未来を祝福してくれているように静音には見えた。