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135 名前:私は人がわからない[sage] 投稿日:2013/08/24(土) 14:43:29.34 ID:lcwKyq+5 [2/8]
 田中キリエの回想(一)

 足を引っ掛けられて、私は転んでしまいました。
 妙な浮遊感と共に迫ってくる地面に対して、咄嗟に手が出たのは僥倖だったと思います。前みたいに顔から倒れたりしたら、また眼鏡を割ってしまいますから。
「うぐっ」
 しかし、枯れ枝のように細い私の腕では転倒の勢いを完全に殺せません。私はしたたかに身体を打ち付けてしまって、苦悶の声を漏らします。
 そして、間髪入れずに次が来ました。
 突如、背中にかかった強い圧力。唐突な負荷によって、肺にたまっていた空気が一気に抜け出しました。苦しい。どうやら誰かに足で踏まれているみたいです。
「あー、ごめんね。葛籠木さん」
 頭上から降ってくる声には、言動とは裏腹に謝罪の念が全く感じられません。現に、踏みつけている足をどかす気配もなく、むしろぐりぐりと力を込めていました。
 やめてください、と私は懇願を申し入れようとしたのですが、背中を踏まれているので上手く発声が出来ませんでした。
 結局、出たのは踏まれた蛙のような奇妙な声で、「何を言っているの?」と馬鹿にした声が上から降ってきます。それは一人二人ではなくって、沢山の声でした。
 くすくすくすくすくすくす。
 せせら笑いが四方から降ってきます。私の視界には先程から床しかうつっていないのですが、教室内の様子は容易に想像出来ました。
 クラスメイト全員が、私を見て笑っているのです。恐ろしいことに、憐憫や同情の想いは全く感じられない、冷たい目をして。
 おそらく、当然のことだと考えられているのだとおもいます。私、葛籠木キリエがイジメられるのは正当な行為であると捉えているのでしょう。
 毛虫や蛾を無条件に気持ち悪がるのと同様に、そこにさしたるバックボーンはない気がします。
 ただイジメたいからイジメる。それだけなのです。
 じわり、と視界が水気を帯び始めます。私は、どうしようもなく悲しくなってしまいました。
「……やめてください」
 今度は、きちんと発音できました。そのせいかは知りませんが、背中にかかっていた圧力がフッと消えて、楽になります。どうやら、足をどけてくれたみたいです。
 私は両腕に力を込めて立ち上がろうとしたのですが、再び背中を強く踏まれて、地面に伏せてしまいます。
 瞬間、眉間に鋭い痛みが走りました。「ああ、やってしまったな」と、思った時には遅かったのです。
 地面に伏した私の側には、フレームの歪んだ眼鏡が転がっていました。どうやら、眼鏡は壊してしまったみたいです。
「葛籠木って、なんかウザい」
 次は頭を蹴られていました。
 眼前に白い閃光が爆ぜ、一瞬、思考が止まります。
 口の中にピリッとした痛みが走りました。口内を切ったのでしょうか。
 次いで、コーヒーカップに乗った時のような酩酊感がじわじわと襲いかかってきました。油断すれば、そのまま嘔吐してしまいそうです。
 私は耐えられなくなって、防御に備えるために身体を丸くしました。それを見て取ったのか、雨のように蹴りが降ってきます。
 私は亀のようにして、ひたすら耐えました。
 すんでのところで堪えていた激情が決壊して、ボロボロと涙が零れます。
 それでも、嗚咽だけは押し殺しました。それが、私、葛籠木キリエの最後の矜持だったのでしょう。

136 名前:私は人がわからない[sage] 投稿日:2013/08/24(土) 14:47:59.07 ID:lcwKyq+5 [3/8]
 私への攻撃は、次の授業の開始を告げるチャイムによって止まりました。
 今だ。
 私は素早く立ち上がると、脱兎の如く駆け出します。くらくらと再び嘔吐感が襲ってきましたが、それに耐えつつ、無我夢中で走りました。
 背後から上がる嘲笑。逃げ出した私を蔑む声。
 それを聞きたくなくって、私は両手で耳を塞いだ不格好な姿勢で走りました。
「あ」
 しばらく廊下を走っていると、曲がり角のところで担任の教師と出くわしました。
 定年間際の初老である彼は、最初こそ廊下を走る私を諌めようとしましたが、その生徒が私、葛籠木キリエであるとわかると途端に閉口しました。
 担任は無言で、そそくさと横を通り過ぎます。次の授業が始まろうとしているのですが、担任は何も言いません。私が授業に参加しようかしまいが、あまり関係ないようです。
 私は走るのを止めて、遠ざかっていく担任の背中を、教室に入るまでじっと見つめていた。
 目元に溜まった涙を拭ってから、私は考え始めます。
 これから、どうしましょうか。
 今更、ノコノコと教室に戻る気にはなれませんでした。かといって、校内をうろついていても他の教師に咎められてしまうでしょうし……。
 ウーム、としばらく悩んだ末に、私は屋上に向かうことにしました。
 屋上は、平時なら閉鎖されていて重い錠がかかっているのですが、最近は卒業生のアルバム作成に使用しているらしく、その錠が取り除かれているのです。
 それでも、屋上に立ち入るのはいけないことです。
 朝のホームルームでも先生が言っていました。「絶対に屋上には入るなよ」と。もし屋上に侵入したのがバレたら、私はこっぴどく叱られてしまうでしょう。
 でも、構うもんか。
 珍しく、今の私はやけっぱちになっているようです。バレたところでかまやしないさ、と破れかぶれな心境でした。
 私は他のクラスの授業を邪魔しないように、こそこそと忍び足で歩きながら、密かに屋上を目指します。
 道すがら、脳内にリフレインするのは先程の光景でした。
 どうして、こんなことになったのでしょうか。
 胸を占める想いは、それだけでした。
 少し前までは、こんな風ではなかったのです。私はクラスでもあまり目立たないほうで、いつも教室の隅っこで読書をしている暗い子でした。
 それでも、決してイジメられたりはしなかったのです。それどころか、少なくはあったけれど、友人と呼べる者さえいたのです。
 けれど、ある日突然、何かが違ってしまいました。
 今思えば、兆候はあったのです。
 最初は、クラスメイトの何人かの言動に小さな棘を感じるくらいでした。それがどんどん肥大していって、今ではこの有様です。
 言葉の暴力だけなら、まだマシなのです。なんとか耐えることが出来ます。しかし、肉体への暴力はキツイです。
 心の傷のほうが肉体の傷よりも重い、という風潮が世間にはありますが、それは間違っていると思います。やっぱり、殴る蹴るなどのプリミティブな暴力が最も恐ろしいです。
 心への攻撃なら、まだ耐えられます。確かに、心を強くするのは難しいですが、心を麻痺させるのは比較的容易いからです。
 徹底的に我を殺し、自分自身を俯瞰するような視点を持てばいいのです。
 当事者だけど、他人事。それを金科玉条にしていれば、まだ耐えられるのです。自分を殺せるのです。
 しかし、肉体のほうはどうしようもありません。身体を強くするといっても、細身で病弱な私にはやはり限界があります。やり返す気概だって持ち合わせていません。

137 名前:私は人がわからない[sage] 投稿日:2013/08/24(土) 14:50:08.44 ID:lcwKyq+5 [4/8]
 そもそも、私は暴力の類はてんで苦手なのです。
 仮に、彼等に対し自由にやり返してもよいという状況が生まれたとしても、きっと私は黙って俯いてしまうでしょう。
 暴力は恐ろしいのです。現在進行形でイジメられている私だからこそ、多少の説得力があると思います。
 でも、私が最も恐ろしいのは暴力じゃない。
 いい機会ですから、私は件のイジメについてとても恥ずかしい告白をしようと思います。もし誰かが聞いていたら、失笑を禁じ得ないような、とても恥ずかしい告白です。
 その告白とは、以下のことです。
 “私がクラスメイト全員にイジメているという事実”です。
 嗚呼、ダメです、ダメです。考えただけで、赤面してしまいます。きっと今の告白を誰かが聞いていたりしたら、きっとこう言うでしょう。
「被害妄想も大概にしろよ。クラスメイト全員が、お前をイジメているはずがないだろ。被害者意識が大きすぎる」と。
 ええ、ええ。全く以ってその通りです。世に遍在する通常のイジメであれば、加害者はせいぜい四、五人。クラス規模のイジメでは、その人数が限界なのです。
 そもそも、一クラス単位の人間が、皆同じように、たった一人の人間に対し悪意を抱くなど不可能なのです。人の気持ちは十人十色、文字通りバラバラなのですから。
 イジメに達するほどまで人を嫌うには、それなりのプロセスがあります。降って湧いたように、自然発生的にイジメが生まれるはずがないのです。
 はい、はい、言いたいことはわかります。声の大きなオピニオンリーダーに従わざるをえず、不本意ながらイジメに加担するというケースだってあるだろうと言いたいのでしょう。
 だけど、それならそういう空気を発するものなのです。自分は本当はこんなことしたくないんだ、という空気がどうしても漏れ出てしまうのです。
 そして、イジメを受ける張本人がそれに気づかないはずがありません。ああ、この人はそんなに乗り気ではないんだな、と加害者の心の機微を感じ取れるのは自明です。
 ――嗚呼、もう、いいです。ヤケクソです。羞恥心なんかはあさっての方向にでも投げて、私はあえてもう一度いいましょう。
 “私、葛籠木キリエはクラスメイト全員から、等しく悪意を持って、等しくイジメられている。そこに強制の気配は皆無である。彼等はあくまで自発的に、自らが進んでイジメを行なっている”


 屋上に着きました。
 人が入ることを想定されていないためでしょう、屋上にフェンスの類はありません。背の低い縁が周囲を囲っているだけでした。
 私は顔を上に向けます。空模様は、生憎よろしくありませんでした。梅雨時というのもあるのでしょうが、厚い雲が空を覆っていて太陽の姿すら視認できません。
 でも、気分は悪くありませんでした。曇天模様の空が、現在の私の心境を現しているようで、なんとなく嬉しくなったからです。
 空という非生物的な存在ではありますが、やはり自分に同調してくれるというのは嬉しいものです。
 私は屋上の中心まで歩いていき、その場に腰を下ろしました。
 六月の生温い風が、髪を揺らします。グラウンドからは下級生と思しき幼い声が、元気に発せられています。気の早いアブラゼミが、控え目にミンミンと鳴いています。
 心地のよい時間です。久しぶりに訪れた平穏でした。
 そのためでしょうか。私の心はいい塩梅に緩んでしまって、気づかぬ間にハラハラと落涙していたのです。
 最近は、改めて意識することがありませんでしたが、私は、葛籠木キリエは、とても、辛かったのです。
 正直に申し上げますと、私はクラスの人たちを恨んでいませんでした。
 別に聖人君子を気取っているわけじゃありません。これは偽りのない、本心からの言葉です。
 原因は全くわからないけれど、私はたぶん彼等を不快にさせるような行いをしてしまったのでしょう。でなければ、そもそもイジメなどが起こるはずがありません。
 なら、仕方がないのです。そのような結果が生じるようなことをしたのは紛れもなく私なのですから。それでクラスメイトを憎んでいい道理にならないでしょう。そこだけは決して履き違えてはなりません。
 だけど、ただ教えて欲しかったのです。私の何がいけなかったのかを。何が悪かったのかを。
 実際に、彼等に問うたこともありました。が、クラスメイト達は侮蔑の表情を私に向けるだけで、何も教えてはくれなかったのです。
 問題点がわからなければ、それを正すことは出来ません。
 私はそれからも必死にイジメの原因を探っていますが、未だにそれは見つかっていません。
 私は、どうしてイジメられるようになったのでしょうか――?
 そんなことを考えながら、鳥のさえずりに耳を傾け、瞼を下ろしました。

138 名前:私は人がわからない[sage] 投稿日:2013/08/24(土) 14:52:31.28 ID:lcwKyq+5 [5/8]
 いつの間にか、眠っていたみたいです。
 空はすっかり紫色を帯びて、夜を迎えようとしています。校内の喧騒も、もう聞こえて来ません。完全下校時刻を過ぎてしまってるのでしょう。
 こんなに長く授業をサボタージュしたのは初めてでした。破れかぶれな心境も鳴りを潜めていたので、さすがに罪悪感がわきます。
 ですが、今日はもうイジメを受けることがないという事実にもホッとしました。
 今日も、なんとか乗り越えることが出来た。
 そんな小さな達成感に、私は安堵の息を漏らしてしまうのです。
 その時でした。異変を感じ取ったのは。
 先の集団暴力で眼鏡を壊してしまったので、私の視界は依然ボヤケています。必然、鮮明に物を見ることが出来ません。
 しかし、その朧気な視界の中でも、しっかりと捉えることが出来たのです。
 屋上の縁に立つ、男子生徒の姿は。
 息を呑みました。
 脳裏にチラつくのは自殺の二文字です。彼はもしかして、今から死のうとしているのでは――。
 そう思い立った途端、ダメだ、と強く思いました。
 私自身、イジメを受けていると死にたくなることがあります。
 暴力に身を曝されている時、「このまま死んでしまえたら、どれだけ楽なのだろう」と、絶望に身を委ねかけてしまうこともあります。
 けど、ダメなのです。死ぬのは、ダメなのです。
 どうしてダメなのかを、論理的に説明することは出来ません。が、自殺だけは絶対にダメなのです。人は、生きるのを諦めてはいけません。
 もしかしたら、その道のほんのさきに幸福が転がっているかもしれないじゃないですか。この先には絶望しか有りえないと、誰が証明出来ましょうか。
 だから、イジメを受けている私だからこそ、男子生徒を止めなくてはならないと思い立ちました。
 そうとなれば行動に移しましょう。
 本当は今すぐにでも声をかけたかったのですが、そうしたら彼は驚いてしまって、それで転落してしまうかもしれません。
 だから私は、自分の存在を誇示するためにわざと大きく足を鳴らして、男子生徒に近づいていきました。
 距離が縮まるにつれ、男子生徒の姿も鮮明になってきます。
 男子生徒は私に背を向けるようにして立っているので、表情は伺えません。私に見えるのは、わりかし細い彼の背中だけです。
「……!」
 だけど、その後ろ姿だけで十分でした。彼の発する不安定な雰囲気を察するのには。
 私は足を止めました。なんといいますか、よくわからなくなったのです。
 男子生徒が死ぬ気でないのは、すぐにわかりました。
 彼からは自殺者特有の(私自身もよく発してしまうのですが)厭世感のようなものが感じられませんでした。
 どうやら自殺云々については、私の思い違いだったみたいです。
 だけど。
 男子生徒は、とにかく危うかったのです。
 下手な喩えで申し訳ないのですが、歩き始めたばかりの子供に交通量の多い道路を横断させるのを強制的に見せつけられるような、しかもその道路には信号すら備え付けられていなくって、そのうえ、走行するのは大型の車ばかりで……。
 ああ、いけません。我ながら支離滅裂ですね。
 不思議なことに、彼を見ているとどうしても思考が固まらないのです。思考が散漫になって、不安定になってしまう。
 不安定。そう、彼はとにかく不安定でした。
 私は、当初の目的すら忘れて硬直していました。
 すると、背後にいる人物の気配に気づいたのでしょう。男子生徒はやおら振り向きました。
「あっ……」
 そこで私はようやく、目の前の男子生徒が自分と同じクラスメイトということを知ったのです。

139 名前:私は人がわからない[sage] 投稿日:2013/08/24(土) 14:56:20.73 ID:lcwKyq+5 [6/8]
「鳥島くん……」
 鳥島タロウくん。
 彼は私と同じクラスで、いえ、クラスだけじゃなくって、この市立N小学校で一位二位を争う有名人でした。
 鳥島くんはとても明るくて、男女の区別や学年の差異などもお構いなしに、誰にでも話しかける太陽のような人なのです。
 N小学校の誰もが彼のことを慕っていて、それこそ教師さえも含めて、頼りにしているのです。
 ――いえ、この場合は「でした」と言い換えたほうがよいのかもしれませんね。
 振り向いた鳥島くんの表情は想定通り無機質で、目は虚と見間違えるほどに虚ろでした。
「…………」
 鳥島くんの無言に、私はアッと乾いた息を漏らしてしまいます。
 やはり、鳥島くんを見ていると心がざわつくのです。彼に気圧されてしまい、訳の分からない焦燥感に駆られました。
 とにかく何か話さなくてはと思い、
「あ、の、こんなところで、どうしているんですか?」
 当たり障りのない質問を投げかけましたが、返ってきた反応は無でした。
 彼は私をチラリと見やっただけで、興味も湧かないのか、そのままフラフラと不安定な足取りで屋上を出ていきました。
 ギイィバタン、と金属が軋む音と共にドアが閉まりました。
 それと同時に、私は溜め込んでいた空気を一気に吐き出します。額には、じんわりと脂汗が滲み出ていました。
「こわかった……」
 思わず、声に出してしまいます。それほど、さっきの鳥島くんの視線は怖かったのです。
 上手く、言葉では言い表せないかもしれません。
 鳥島くんの視線は、一言でいえば徹底的な黙殺。ひたすら私を見ないようにしているようでした。
 それだけなら、只のシカトで済むのですが、彼の場合は違いました。シカトなんて生易しいレベルではありません。まるで人を人と捉えていないみたいな、病的なまでの無視でした。少なくとも同じ人間に向ける視線ではないでしょう。
 あのような視線をぶつけられて動揺しない人間がいましょうか? 間違いなくいないと断言できます。それほどまでに、彼の視線は異常だったのです。
 しかしながら、不思議です。
 確かに、先程の鳥島くんは非常に機械的で非人間的な様相を成していましたが、瞳だけは少し違っていたのです。
 向ける視線こそは別格でしたが、その根源にある瞳は、何故かとても人間らしかったのです。
 そして、ソレは私もよく知っているもので、よく慣れ親しんでいる感情なのでした。
 だけど、ソレが何かがいまいちピンときません。喉に小骨が刺さったようなもどかしさに、私は苛まれてしまいます。
 ――鳥島くんは何を思って、あのような視線を人に向けるのだろう?
 と、私が思考を更に展開させようとした、その時でした。
 私はボヤケた視界の中で、ある物を見つけます。
 手帳です。
 量販店ならどこにでも置いてありそうな安っぽい手帳が、縁の近くに落ちていたのです。位置からして、どうやら鳥島くんが落としていった物みたいでした。
 私は恐る恐る縁まで近づいて、手帳を拾い上げます。
 それなりに使い込まれているようでしたが、それ以外にはなんの変哲もない手帳でした。
 しかし、そのなんの変哲もない手帳が、どうしようもなく私の好奇心をくすぐるのです。
 ――ある日、突然豹変してしまった鳥島くん。その謎が、ここにあるのではないかしら?
 私はゴクリと喉を鳴らしてから、辺りを見回します。
 当然、自分以外に誰もいません。屋上にいるのは、正真正銘私一人です。
 悪いと思う気持ちはありました。ですけど、それ以上にこの手帳が気になってしまったのです。
 私はしばらく逡巡した後に、思い切ってエイッと手帳を開きました。
 私が鳥島くんの謎を解明してみせよう、そう息巻きながら開帳したのですが……
「全然、読めないよ……」
 結論からいえば、手帳を読むことは出来ませんでした。
 ページを満たしている文字の全部がとても癖が強く、どう頑張っても解読が出来なかったからです。
 自分さえ理解出来れば構わないといった感じの、他人が読むことを全く想定していないような文字。
 鳥島くんはいつもこんな字を書いているのか、と少し新鮮な気持ちになりました。

140 名前:私は人がわからない[sage] 投稿日:2013/08/24(土) 14:58:37.50 ID:lcwKyq+5 [7/8]
 でも、もしかしたら――。
 と、私は少し見解の幅を広げてみます。
 これは、もしかして“あえて”こういう文字にしているのではないのだろうか、と私は推察したのです。
 たとえば、こうやって“誰かに拾われたとしても中身を読まれないように”と。
「……さすがに穿ち過ぎかしら」
 自分の極端な推理に呆れて、私は肩をすくめてしまいます。
 それからも、パラパラと惰性でページを捲っていたのです、最後の書き込みがしてあるところで手を止めました。
「ここ、読めるかも……」
 ページの下部にある書き殴り。そこだけは唯一、辛うじて理解出来る文字列を成していました。
 私は必死にそこだけを注視し、声に出しながら解読を試みます。
「そろそ、ろ……か、んさつを……さい、かいす、るべき……だろう……?」
『そろそろ観察を再開するべきだろう』
 ページには、そう書いてあったのです。
「?」
 しかし、文字は読めても事情の読めない私には、何が何だかわかりません。
 結局、この手帳を呼んで得たものは鳥島くんに対する罪悪感だけで、彼に関することは何もわからなかったのです。
「手帳、明日ちゃんと返してあげなくちゃな……。それと、勝手に中を見たこともキチンと謝ろう」
 私は手帳のシンプルな表紙をぼんやりと眺めながら、明日の予定を決めました。
「それにしても、鳥島くんか……」
 私は彼の不安定な姿を思い出し、若干の身震いをします。
 鳥島くんは、変わってしまいました。
 彼は、昔はこうじゃありませんでした。絶対に、あんな怖い視線を向けるような人じゃなかったのです。
 鳥島くんはある日突然、己の有していた幅広い交友関係を全て断ち切りました。そして、自ら進んで独りになったのです。
 最初こそは、親しい友人たちも鳥島くんを心配して、彼に積極的に関わろうとしていました。
 が、誰もが彼の普通でない様子に恐れをなして、誰もが離れていきました。
 今では、誰も鳥島くんに話しかけたりしません。彼は、恐怖の対象なのです。
 それに、鳥島くんは己が意図してそうしているのかはわからないのですが、存在感がとても希薄なのです。気をつけて観察していても、何処にいるのかわからなくなる時があるほどです。
 さっきだって、幽霊のようにいつの間にか屋上に居ましたし……。こういう言い方をすると、悪口みたいになってあまり好かないのですが……私は以前の彼ならまだしも、今の彼はどうしても好きになれませんでした。
 鳥島くんは、とても怖い人なのです。
「あ……」
 しかしその時、私はある重要な事に気がついて、瞳を目一杯に広げたのです。それは非常に大きなショックを伴っていて、思わずよろけてしまいます。
 どうして、どうして私は今まで、こんな大事なことに気が付かなかったのでしょう。
 灯台下暗し、とは正にこのようなことを言うのだと殊更に実感しました。
 だって、こんな事実を見落としていいはずがない。

141 名前:私は人がわからない[sage] 投稿日:2013/08/24(土) 15:00:44.90 ID:lcwKyq+5 [8/8]
 ――彼は、鳥島くんだけは、
「鳥島くんだけは、私をイジメない……」
 恥の上塗りだとは重々承知しているのですが、前述したように私は現在“クラスメイト全員にイジメられています”。
 しかし、鳥島くんだけは違ったのです。
 勿論、彼自身が腫れ物扱いされているというのもあるのでしょうが、鳥島くんだけは私をイジメたことが只の一度もありません。
 ナイフのように冷たい暴言を吐いたことも、私の身体に青アザをつけたことも無かったのです。
 その事実に気づいた時、フッと心が軽くなりました。
 まるで重荷を一つ置いていったような、縛る鎖が一つ無くなったような、そんな開放感に包まれたのです。
 尤も、鳥島くんが私を助けてくれた訳でもありません。それこそ、同情さえもしたことがないでしょう。
 彼からすれば、私の存在など路傍の石に過ぎないのです。それどころか、彼の無関心さを考えれば、私がクラスでイジメられているという事実さえ知りえないかもしれません。
 だけど、
「それでも、やっぱり嬉しいな……」
 私の顔は、自然と綻んでしまうのです。
 闇に差し込む、ほんのちょっと光明。それが、私にとっての鳥島くんなのかもしれません。自分の置かれている立場が完全な闇でないというのがわかるだけでも、私にとっては大きな救いに成り得るのです。
 それが、嬉しかった。
 私の中にある鳥島くんに対する恐怖は相変わらず消えませんが、それでも感謝の念だけは湧きました。
 私は大きく伸びをして、空を見上げます。
 空は、本格的に夜を向かい入れようとしていました。夕日は隅に追いやられ、光る星はあちこちに散在しています。
 普段よりも、幾らかマシな気分でした。イジメによる傷の重い痛みも、今はあまりきになりません。
 明日もまた頑張ろう、素直にそう思えました。
 ――けど、本当にそれだけだったのです。
 今日は鳥島タロウくんという微かな光を再確認しただけで、私の周囲は真実、何も変わっていませんでした。
 現在、晴れやかになっている私は、鎮痛剤によって一時的な逃避をしているだけに過ぎません。
 私、葛籠木キリエの現状はこれっぽっちも、どうしようもないほどに、これっぽっちも変わっていなかったのです。
 それは、そう遠くない未来に、すぐに思い知ることになりました。