962 名前:わたしだけの痴漢さん ◆yepl2GEIow[sage] 投稿日:2013/09/10(火) 22:32:13 ID:Vlr2axdQ [2/7]
その日まで、三崎狗矢(みさきこうや)は痴漢犯罪の犯人では無く、ごくごく普通の会社員だった。
より正確に言うならば、『ごくごく普通』、の頭に『少しダメな』、が付くのかもしれないが。
その日も、銀也は課長特製の栄養ドリンクを飲みつつ、彼にとっては大量の仕事を仕上げるべく、遅くまで残業していた。
「なに、気にすることは無いさ」
と、狗矢の残業が終わるまで1人待ってくれていた九石(さざらし)課長は言った。
「間に合わないのは困るが、焦り過ぎてミスがあるのはもっと困る。その点、キミは良くやってくれている」
そんな、尊敬する課長の温かい慰めを受けて帰路に着いた銀也だったが、それでも自己嫌悪を感じないわけにはいかなかった。
(課のみんなが、もうとっくに仕事を仕上げて呑みに行ってるような時間まで課長を待たせちゃったんだものなぁ)
溜息をつく狗矢。
(もっと仕事を早く出来るようになって、皆の足を引っ張らないようにしないと)
そうしたら、九石課長も慰めるのではなく褒めてくれるだろう。
九石のような人間には、褒めて欲しいと言うのが狗矢の本音だった。
九石は頭脳明晰、冷静沈着、才色兼備、そして何より大人の余裕を持った、理想の人物だった。
狗矢にとって九石は目標であり、憧れであり、そしてそれ以上の存在だった。
(そうだ。もっと頑張って、俺は九石課長の部下なんだって胸を張れるような男になりたい)
帰りの電車の中で、狗矢は思った。
やや遅い時間の電車だと言うのに、思いのほか人が多い。
自分のような残業組か、あるいは遅くまではしゃいでいた社会人や大学生か。
こう車内に人の多いと、仕事中の疲れや緊張を落ちつけるどころでは無い。
栄養ドリンクを相棒にして激務に追われた日にはなおさらである。
狗矢は、自然と仕事中の緊張感を持続しながら電車に乗ることになった。
電車の振動に呼応するように、狗也の心臓が鼓動を刻む。
電車が強く揺れる。
人も揺れる。
「……ん」
今の揺れで、スーツ姿の女性が狗矢の前にずれてきた。
髪を肩ほどまで伸ばした女性で、顔は見えないがそれでも不美人には思えなかった。
「ぁ……」
表情の見えない女性の声が聞こえる。
同時に、柔らかな感触。
狗矢は自分の手が女性の太腿に触れていたことに気がついた。
一瞬、息が止まりそうになる。
幸い、女性からのリアクションは無い。
(気付いてない……のか?)
そう思った瞬間、狗矢の鼓動が別の種類のものに変わった。
仕事中の緊張感から、男の性欲に。
(気付いていないなら、このままでも良い……よな)
もちろん、銀也の理性とモラルは警告を発し続けていたが、狗矢の本能は女体の魅力に呑まれていた。
それほどまでに、美しいポロポーションの持ち主だった。
理性を圧倒し、モラルを押しのけるほどに。
電車の振動を追い越し、心臓の鼓動は高まっていく。
太腿を触るだけではなく撫で、いつしか手の位置はもっと上の方に移動していく。
まるで、自分の手だけが別の生き物になってしまったかのようだった。
しかし、間違い無く狗矢に快感は伝わってくる。
対する女性は、「ぅン……」、「……ぁ」と小さな声を上げるものの、それ以外は何もしてこない。
女性の吐息がとても甘いものに聞こえて、銀也の興奮は加速する。
時間を忘れるほどに、それこそ電車を降りるのを忘れるほどに狗矢は女性の身体(具体的には太腿と尻)を撫でまわしていた。
963 名前:わたしだけの痴漢さん ◆yepl2GEIow[sage] 投稿日:2013/09/10(火) 22:33:12 ID:Vlr2axdQ [3/7]
そして、電車が1つの駅に着く。
扉が開き、外気が入って来る。
と、同時に銀也はグイッと手を引かれた。
狗矢の手を掴んでいるのは、眼前の女性。
表情は見えないが、
(これは、まずいんじゃなかろうか)
と、狗矢に思わせるには十分だった。
(って言うかなんっっっってまずいことやっちまったんだ、おれは!!)
狗矢、今更ながら大後悔。
(どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう!?)
女性にグイグイと手を引かれていくうちに、狗矢の中で後悔と自己嫌悪が加速していく。
彼女に手を引かれるがまま、車外に出て、ホームを抜けていき、駅を出る。
人波から逃れたところで、女性はクルリと振り返った。
何を言っていいのか分からない銀也より先に、女性の形の良い唇が動く。
「まずは、2つの幸運を喜ぼうか」
その美しい女性―――狗矢にとってとても見なれたその女性はそう言った。
「一つ目の幸運は、キミが警察に突き出されなかったこと。もう一つの幸運は―――キミが触れた相手がわたしだったこと」
肩ほどまでに切りそろえた黒い髪。
知性を感じさせる大きな瞳。
形の良い眉。
いたずらっぽい笑みを浮かべる、形の良い唇。
可愛いと言うよりも綺麗と言った方が適当な美貌。
「課長!?九石課長!?」
知的に笑うその女性に向かって、狗矢は思わず彼女の名前を呼んでいた。
964 名前:わたしだけの痴漢さん ◆yepl2GEIow[sage] 投稿日:2013/09/10(火) 22:34:22 ID:Vlr2axdQ [4/7]
こうして狗矢が連行されてきたのは、警察では無く九石更紗課長の自室だった。
キャリアウーマン然とした九石らしく、整然とした部屋で、ついでに言えば狗矢の安アパートに比べるといくらか高級そうな借家だった。
もっとも、狗矢としては自室と引き比べて嫉妬するでもなく、卑下するでもなく、ただ単純に「すごいなー」と思うだけだったのだが。
金銭欲や出世欲とは縁遠い狗矢だった。
それよりも、
「ぐぉめんなさぁぁぁぁい!」
部屋に通され、更紗に座るように勧められた瞬間、狗矢は全力で土下座していた。
「抵抗できない女性に痴漢行為を働くなどと男の風上にも置けない罪を犯した上に、しかも、しかも知らぬこととはいえ尊敬する上司に……!」
「顔をあげたまえ、三崎くん」
平身低頭謝っていた狗矢の頭上に、温かい言葉がかけられた。
「何も、キミを叱責したくて自宅に連行した訳じゃぁないんだ?」
「連行?」
「ああ、違った。捕縛?誘拐?監禁?軟禁?ああ、違った。招待だ」
ポン、と手を打つ更紗。
会社での颯爽とした姿しか知らない狗矢にとっては、意外とコミカルな仕草だった。
「すまんな、つい本音が」
「このたびは本当に申し訳ありません!」
「それはもう良い。……と、言うより、本当に気付かなかったのか、相手がわたしだと?」
「あ、ハイ。全然気づきませんでした」
「そうか……」
心なしか残念そうな更紗。
「と、言うより、顔が見えませんでしたし、頭の中も盛りのついた犬並みになってて、相手が誰かなんてまったく……。アレ、課長は俺の仕業だって気付いていたんですか?」
「当たり前だ。通勤時は電車の窓、手摺の反射、そうしたものも使って、周りはマメに確認するようにしているからな。相手がキミでなければ、足を思い切り踏み抜いていたところだ」
確かに、ヒールの靴で踏みつけられれば、足に穴があきそうなほど痛いことだろう。
その痛みは、罪の痛みだ。
狗矢は、自分のしでかしたことの大きさを改めて思い知った。
「それよりも、おれは取り返しのつかないことを……!」
「まぁ、そうだな。相手がわたしでなければ、警察に突き出されて、数か月の懲役か罰金。会社もクビ。キミの一生は軽くメチャメチャになっていただろう」
「クビにしてください!むしろ!おれみたいな性犯罪者!人間のクズ!」
土下座の姿勢に戻る狗矢。
「いや。キミが我が社からいなくなるのは、我が社にとっても、わたしにとっても大きな損失となる。それに分かっている。今回は出来心だったのだろう?」
更紗の優しい言葉に、狗矢は涙しそうになった。
曲がりになりも信頼(多分)していた部下から、下賤な仕打ちを受けたと言うのに、課長は何て寛大なのだろうか!
「ですが、それでは俺の気が収まりません!この罪を償うためなら、いえ、課長に罪滅ぼしをするためなら何でもします!させてください!」
「キミがそこまで言うのなら……」
ズイ、と迫る狗矢に、更紗の口元がニヤリと邪悪に歪んだのが見えたような気がした。
「少し待っていたまえ」
そう言うと更紗は部屋の机に向かい、白紙に万年筆で何事かサラサラと書き始めた。
待つことしばし。
「よし、できた」
そう言って更紗の示した2枚の紙には、こんなことが書いてあった。
契約書
三崎更紗(以下甲)は三崎狗矢(以下乙)との関係で、以下の契約を締結する。
甲は乙から受けた公然わいせつ罪を生涯告発しないこと。
乙は、甲以外の女性の身体を生涯二度と触らないこと。
ただし、この契約が破られた場合にはその限りではない。
上記契約の証として、双方ともに署名捺印の上、各自一通ずつ保持するものとする。
甲:住所 ××都××市××区×-×-×-××
氏名 三崎更紗 印
乙:住所
氏名 印
965 名前:わたしだけの痴漢さん ◆yepl2GEIow[sage] 投稿日:2013/09/10(火) 22:35:07 ID:Vlr2axdQ [5/7]
「課長、コレって……?」
「見ての通り、契約書だ。キミとわたしの分のな。この後スキャナーでパソコンに取り込んで、20のバックアップを取る予定だ」
ニッコリと笑って答える更紗。
白紙に手書きの書面で、文章も明らかに即興だったが、更紗の達筆だとそれらしく見えるから不思議だ。
「こんなんで良いんですか、課長?」
「こんなんで良いんだ」
会社では見たことのないほど嬉しそうな笑顔の更紗に対して、どこか割り切れないものを覚える狗矢。
「さぁさぁ、サインしたまえ。ああ、印鑑は持っているか?」
「まぁ、二度と痴漢しないって言うのはお似合いと言うか当たり前と言うか……。あ、印鑑はカバンの中です」
「分かった、取って来る」
そうこうしている内に、2枚の契約書に署名が終わり、印鑑が押される。
「ああ、念のために言っておくが、文面は『痴漢しない』ではなく『女性の身体を触らない』だからな」
パソコンを起動し、契約書をスキャナーにかけながら更紗は言葉を投げかけた。
「はい?」
「だから、キミは二度と女性の身体を触ってはいけないんだ」
「何か違いがあるんですか?」
「大有りだろう!」
勢いよく狗矢の方に振りかえる更紗。
「それってつまり、その……女の人を抱くこと、とか?」
「それは当たり前だ!!ほかには!?」
こんなに声を荒げる更紗を、狗矢は初めて見た。
「ええっと、あれ、もしかして、肩が当たったり、指先が触れたりとか、そう言うのもアウト……とか?」
「そうだ!!」
「うっわ、思ってたよりキツいハンデだった!当たり前だけど!」
「当たり前に決まっているだろうが!わたしが何度、エレベーターでキミと肩に当たった女子社員や、書類を受け取る時に指先の触れた女子社員に嫉妬したか分かるか!?分かるか!?」
「ぐぉめんなさぁぁぁぁい!」
更紗の言葉の勢いに、全力土下座再び。
「分かればよろしい。しかし、アレだな……」
パソコンへの取り込みを終えた更紗は、頬を赤らめた。
「ほかの男なら兎も角、キミからあんな風に激しくされるのは……その……悪い気はしないな」
最後の言葉は、狗矢にようやく聞き取れるくらいの小声だった。
その、普段のキャリアウーマン然とした姿とはギャップのある乙女チックな仕草に、(課長、もしかして俺のことを……?)などと思いたくなる誘惑を、狗矢は振り払った。
自分たちはわいせつ罪の加害者と被害者で、自分は今、被害者である課長からお情けを受けているところなのだ、と思い直す。
心得違いをしてはいけないのだと。いくら尊敬し、敬愛し、憧れる上司だからと言って、更紗を女性として見ることなどあってはならないのだと。
だから、
「それは、何と言いますか。課長の寛大さに、俺としては、何と言うか……」
「続きをしても、良いんだぞ?」
更紗の言葉に、狗矢の思考は本日何度目かのフリーズを経験した。
「課長、今何ト仰イマシタカ?」
「だ、だから……」
茹でダコのように真っ赤になる更紗。
「も、もっとわたしの身体を触ったり、撫でまわしたり、揉んだり、だ、だ、だ、抱いてくれたりしても良いって言ってるんだ!!」
更紗の言葉を理解するのに、いくらかの時間を要した。
触っても良い?
更紗を?
尊敬する上司サマを?
この美人を?
さわさわしたり?
ぷにぷにしたり?
その上……
「抱く、と言うのは、ハグの方で?」
「……………………………………もう一つの意味の方で、頼む」
狗矢の思考がフリーズすること、さらに数秒。
「ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!?」
天地がひっくり返る勢いで狗矢は叫んだ。
「いやか!?そんなにいやなのか!?」
「いやいやいやいや。だって契約書が」
「ちゃんと書いただろう!?『私を除いて』って。良く読め!」
「本当だ!」
差し出された契約書には、確かに『乙(更紗)を除いて』、と書かれていた。
「で、でも、俺は、課長にひどいことしたんですよ!?」
「もう、許した」
「俺、性犯罪者ですよ!?」
「わたしだけのな」
「いや、でも……」
言葉を探すのに、狗矢は随分と手間取った。
「良いんですか、俺なんかで」
「キミ『が』、いいんだ」
そう言って抱きついてきた更紗の柔らかな感触に、そして髪の匂いに、狗矢の理性は完全に切れた。
本能の赴くまま、更紗の唇を、狗矢は衝動的に奪っていた。
更紗もまた、狗矢の唇に、むさぼるようなキスをする。
そして、2人は互いを激しく求めあっていった。
夜はふけていく……。
966 名前:わたしだけの痴漢さん ◆yepl2GEIow[sage] 投稿日:2013/09/10(火) 22:35:51 ID:Vlr2axdQ [6/7]
こんなに上手くいくとは思わなかった。
薄暗い部屋の中、行為の痛みと余韻が抜けない身体をベッドに横たえ、九石更紗は思った。
競争社会の縮図である企業の中で、更紗は常にギラギラとした視線にさらされ続けていた。
自分を蹴落とそうとする者たちや、自分を従えようする者たちの欲望に満ちた視線に。
そんな中で、「課長、課長」と、欲望も下心もなく素直に着いて来てくれる、否、ずっと着いて来『続けてくれる』狗矢の存在は、更紗にとって大きかった。
会社の悪い部分に染まることなく働き続ける狗矢の姿は更紗にとって魅力的であり、救いだった。
いつしか、彼を愛してしまうほどに。
だから、なるべく彼には社内で女性を近づけないようにしていたし、仕事をちょっとだけ多く割り振って2人きりになれる時間を増やしたり、同じ電車に乗って帰ったり―――スッポンの生き血やニンニクのたっぷり入った手作り『栄養ドリンク』を毎日のように振る舞ったりした。
……きちんと精力以外に栄養の摂れるものも入れてあるので、嘘は言っていない。
唯一の誤算があるとすれば、興奮した彼が直接自分に襲いかかるのではなく、相手が自分と知らずに痴漢行為に走ったことだろうか。
(その相手が他の女で無くて、本当に良かった)
それが最大の幸運だと、更紗は思った。
そうでなければ、狗矢の手とその女性は、この世にお別れを言わなければならなかっただろう。
そんなことを考えていると、シャワールームからバスローブを着た狗矢が戻って来る。
「課長、シャワーありがとうございます。課長もどうぞ」
「『課長』は止せ、こういうことをした後に。シャワーはもう少し後にさせてもらうよ。まだ、痛みが引かなくてな」
体を少しだけ起こして、更紗は答えた。
「申し訳ありません……九石さん」
「良いさ。会社では人を扱う立場にあるわたしだ。激しく扱われるのも、悪くない」
激しくも愛おしい行為を思い出して、自然と嬉しくなる。
お互い経験が無いので(狗矢に女性との交際経験が無いのは事前に調査済みだ)、勝手が分からないところもあったが、激しく愛し合えたのは確かだった。
「ああ、そうだ」
恥ずかしさをこらえ、何でも無い風を装おうとしながら、更紗は言った。
「何ですか、か……九石さん」
銀也の素直な瞳に背中を押されたような気がして、更紗は続ける。
「言うのが遅れたが、三崎くん。いや、狗矢くん。わたしはキミを愛している。結婚を前提に、交際してくれないか?」
「ええ!?」
狗矢の驚きに、更紗の心臓は一瞬止まりそうになった。
「良いんですか、俺なんかで!?」
「キミ『が』良いんだ……って二度も言わせるな、恥ずかしい!」
半ばパニックになりながらも、更紗は応じる。
「それで、どう、なんだ?キミは……」
「ええっと」
と、言葉を探す狗矢。
そんな姿さえ愛おしい。
「まだまだ至らぬ点もありますが、末永くよろしくお願いします」
狗矢がペコリと頭を下げると、更紗の周囲が(薄暗い室内だというのに)輝きだしたような気がしてくる。
「こちらこそ、不束者だが、よろしくお願いします」
こちらも頭を下げ、そして唇を狗矢の方によせる。
その意味に気がついた狗矢が、更紗と唇を重ねる。
「ああ、そうそう。恋人になっても先の契約書の内容は生きているからな」
「マジですか」
「ああ。これからもよろしく」
わたしだけの痴漢さん
最終更新:2013年09月14日 23:30