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177 :わたしのかみさま ◆lSx6T.AFVo :2013/10/12(土) 14:40:36.60 ID:E3sCOcG7
 壁を通して聞こえてきた怒号に、「またか」と思う。
 自分のすぐ近くにある薄汚れた壁を見て、溜め息をつく。築三十年を越す安普請だけあって、壁などあってないようなものだった。お隣さんの生活音を聞くのに、コップを使って耳に当てる必要などない。
 お次は、肉と肉がぶつかり合う音だ。飛んできた生々しい音に、顔をしかめてしまう。何度も聞いてきた音だが、これだけは慣れる気がしなかった。一生物として受け付けられない、生理的な嫌悪感があった。
 俺はテレビの音量を上げ、コタツの上に置いていたカップラーメンの蓋をペリペリと剥がして、伸び始めている麺をすすった。
 が、あまり味がしない。胸中を渦巻くモヤモヤのせいだろう。仕方がないので、機械的にズルズルと胃に送り込む。
 現代の日本では、隣人トラブルが絶えないときく。あと、児童虐待も。
 隣の住人について、俺は深くは知らない。知っていることといえばせいぜい、母と娘の二人家族だってことぐらいだ。
 だが、その内情については嫌でもわかってしまう。否が応でも、理解させられてしまう。
 毎日、ひっきりなしに届く罵声と暴力の騒音。聞こえてくるのは主に母親のヒステリックな悲鳴だった。娘のほうは、たまにくぐもったうめき声を上げるくらいで、特に泣いたり叫んだりはしない。奇怪なほどに静かだ。
 たしか、娘はまだ幼児と呼称できるくらいに幼かった気がする。一度か二度、通り合ったことがある。
 が、じろじろ見るのも憚れたので、あえて目を逸らしていた。そのため、娘がどんな姿形をしているのかはわからない。
 母親の暴言は未だに続いていた。だけど、なぜだか娘の声が聞こえない。もしかして……と、嫌な予感が脳内をよぎるが、頭を振って余計な考えを振り払う。
 俺だって、隣の惨状を見てみぬふりで済ませたりはしなかった。
 過去に俺は、隣の部屋で虐待が行われている可能性があると大家に連絡したことがあった。
 最初こそ、あーだこーだと屁理屈をこねて動かなかった大家も、度重なる俺の連絡に辟易としたのだろう。
 ある日、遂にその重い腰を上げ、児童相談所(?)に連絡したらしく、スーツ姿の職員が派遣されてきた。実際に俺自身も、彼等から話を聞かれ、ありのままの惨状を答えた。
 だが、現状は変わらなかった。
 後から調べたことによると、強制的な児童保護にまで至るまでには煩雑なプロセスが必要らしい。
 戦前からの家制度がいまだ色濃く残る日本では、よそ様の家には安易に口出しをしない、という暗黙知があり、法律にもそれが反映されている。
 職員たちに出来ることといえばせいぜい、口頭での注意ぐらいだった。結果、虐待はまだ続いている。


178 :わたしのかみさま ◆lSx6T.AFVo :2013/10/12(土) 14:41:42.96 ID:E3sCOcG7
 こりゃ無理だな、と俺もいい加減に悟り、その後は徹底的な無視と無関心に徹した。我関せずの態度を貫き通し、隣の虐待に目を瞑り、耳を塞ぎ、知らんぷりをしている。
 世間の人々は、そんな俺のことを非情な輩だと罵るのかもしれない。が、誰にも文句を言わせない。言わせてたまるものか。
 そもそも、俺と同じ立場にたって、どれほどの人間が精力的に動くというのだろう。断言してもいい。大半の人間は不平不満をこぼすだけで終わる。むしろ、曲がりなりにもアクションを起こした俺のほうがマシであろう。
 と、どうやらお隣に進展があったみたいだ。
 母親が猿みたいな金切り声で叫び、部屋を出ていった。カンカン、と階段を降りる音がこちらにも聞こえてきた。
 やれやれ。やっと数少ない平穏な時間が訪れたというわけか。俺はカップラーメンの容器をゴミ箱に捨て、タバコを吸おうとポケットに手を入れた。が、
「切らしてやがる……」
 どうしようか、と考える。外に出るのも面倒なので、我慢するのが金銭的にも得策だ。だけれど、食後という時間帯もあって、身体がニコチンを切に欲している。隣の虐待は無視できても、己の嘆願は無視できまい。
 仕方がないか。
 俺は近くのコンビニまで行くことにした。畳に放り投げてあったコートを取り、玄関でサンダルを履き外に出る。
「寒い」
 夜のしんしんとした冷気がコート越しにも伝わってきた。十一月に入ってからというものの、急に冷え込みだしてきやがった。今年は夏の余韻が長引いていたので、寒さ嫌いの俺にとっては歓喜の日々が続いていたのだが……。
 ブルリと身を震わせて、俺は歩き出す。
「ん?」
 そして、気づいた。隣のドアが開いていることに。
「不用心だな……」
 あの母親が果たして何処に行ったのかは存じないが、ドアすら閉めぬとはどういう了見なのか。激情のせいで防犯意識が希薄になったとはいえ、それくらいのことは普段から心得ておけと忠告したくなる。
 まあ、隣人のせめてもの情けとしてドアぐらいは閉めてやるか。
 そう思って、お隣さんの古くなった木造ドアを手で掴んだのだが、
「……」
 見るつもりなど無かった。なのに、つい、部屋の中の様子が目に入ってしまった。
 玄関の奥にある六畳間の狭い部屋の中で、俺はぐったりと倒れている人影を見てしまった。電気は消されているのでよく視認できないが、その人影はピクリとも身動ぎしていない。
 最悪の事態が頭を過ぎる。俺は弾かれるようにして土足のまま室内に飛び込み、人影に近づいた。
「大丈夫か」
 近くまでくると、はっきりとその姿を確認できた。闇に浮かび上がる小さな身体。長い黒髪を地面に散らばせ、うつ伏せに倒れていた。
 俺はその身体ひっくり返し、四体を観察した。よかった。暗いのでよくは見えなかったが、きちんと胸は上下していた。生きている。俺はよっぽど安堵した。


179 :わたしのかみさま ◆lSx6T.AFVo :2013/10/12(土) 14:42:51.94 ID:E3sCOcG7
「おい、起きろ」
 意識があるかを確認するために、頬を軽く叩きながら呼びかける。すると、歳幾ばくもない女児は緩慢に目を開けた。
「あなたは」
 聞き逃してしまいそうなほどの、か細い声だった。これだけで、女児の薄弱さが知れた。
「隣に住む者だ。勝手に部屋に入って申し訳ないと思っている。それはさておき、どうだ。どこか痛むところはあるか?」
「ありません。平気です」
 女児は淡々とそう言うが、どう見たって平気ではない。俺は彼女を抱きかかえると、自分の部屋まで運ぶことにした。
「やめてください」
 道中、女児は身をよじって抵抗したが、その抵抗すらも弱々しかった。そこらの小型犬のほうがもうちょっと動き回る。
 俺は彼女を自室まで運び終えると、畳の上に横たえた。そして明かりを点け、普段は使わない電気ストーブも動かす。
「きゅうきゅう車は呼ばないでください」
 これだけは譲れないという口調で女児が言ったので、俺は仕方なしに救急車を諦めた。それでも応急処置ぐらいはするべきだろうと、俺はタンスの上で埃を被っていた救急箱を手に取り、女児の横に座り込んだ。
 それにしても……。
 先は暗闇のせいでわからなかったが、こうして明るいところで見ると、女児の浮世離れした美しさが奇特に目立った。
 ともすれば不気味とさえ感じてしまうほどに、顔の造形が並外れて整っている。薄汚れた服を着ているのだが、それさえも美しさを引き立てるアクセントになっているから驚きだ。
 正味、四・五歳といったところだろうか。余分に見積もったとしても、小学校低学年あたりだ。
 普通なら美しいではなく可愛いという形容詞がつく年頃なのだが、不思議とそうは感じなかった。やはり、この女児には可愛いではなく美しいという言葉が似合う。
 と、今はそんなことを考えている場合ではなかった。とにかく治療を優先しなくては。
「今から応急処置をするから、特別痛みがある箇所を教えてくれ」
 小さな傷はあちらこちらに見られるのだが、ぶっちゃけ素人にはどこから取りかかればいいのかがわからない。なので、最も傷の酷いところを訊いたのだが、
「ひつようありません」
 息も絶え絶えという状態ながらも、女児はきっぱりと拒絶した。
 救急車を拒否し、そのうえ簡素な治療さえも拒むとは……。さすがに、女児のとっている態度は不自然だった。


180 :わたしのかみさま ◆lSx6T.AFVo :2013/10/12(土) 14:44:10.06 ID:E3sCOcG7
「ちょっと失礼するぞ」
 もしやと思い、俺は女児の着ている服の裾を掴んだ。
「やめてください」
 女児の年齢不相応の美しさのせいだろう、年端のいかぬ児童が相手だとはいえ、裸体を見るのには些か抵抗があった。が、今はそんなこといってられない。俺は構わず女児の服を捲った。
 そこにあったのは、本来の肌色が見えぬほどの大量の青アザ。その上に、痛々しい切り傷やミミズ腫れが走っている。中には化膿している傷口もあり、早急な治療が必須なのは明白だった。
 さすがに、限界だ。俺は携帯電話を手に取ると、救急車を呼んだ。女児は何か言いたげに虚空に手を伸ばしていたが、やがて諦めたのだろう。伸ばした手を下ろして、今はボンヤリと天井を見つめている。
「わたしは、すてられてしまうでしょう」
 通報を済ますと、女児は子供らしからぬ諦念を帯びた力無い声で言った。
「これから、どうすればいいのでしょうか」
 今思えば、それはただの独り言だったのだろう。自分の置かれた状況を確認して、そう遠くない未来に想像の枝を伸ばしただけだ。無論、彼女の傍に座り込んでいるだけの俺に質問した訳ではない。
 しかし、俺は盛大に勘違いをしてしまった。それが自分に向けられた質問だと思い違えて、女児の呟きに真剣に考えを巡らしてしまった。あーだこーだと頭の中で意見をこねくり回し吟味してしまった。
 粘土を形作るように私見を固め、俺はゆっくりと意見を述べた。
「あまり、悲観するな」
 女児は弱々しく頭を動かし、黙って俺を見つめた。
「自分の近くにドデカイ絶望があると、ついそればかりに目がいって、他のことは何も考えられなくなってしまう。そのまま視野狭窄に陥り、止めときゃいいのに最後にゃその絶望を選び取ってしまうんだ」
「…………」
「そしてお前は今、その状態だ」
 女児はあまり俺の言っていることを理解している風ではなかった。だけど、楽観的な見解であるとは感じ取ったのか、思いのほか強い口調で訊いてくる。
「なら、どうすればいいのですか」
「泣いて喚けばいい。お前はまだガキなんだからよ。世間ってのは子供に優しいように出来ているから、お前がわんわんと泣いていれば、きっと誰かが助けてくれる」
「泣くと、お母さんにおこられます」
「そういうところを視野が狭いっていうんだ。母親ってのが皆が皆、無条件に子を愛するわけじゃない。時には、子供の側から見切りをつける必要がある。いつまでも自分の母親に縛り付けられるんじゃない」


181 :わたしのかみさま ◆lSx6T.AFVo :2013/10/12(土) 14:45:13.87 ID:E3sCOcG7
 俺の言葉を受けて、女児は深く考え込んでいる様子だった。やはり本質的に頭のいい子なのだろう。子供にとっては絶対の存在である母親が否定されても、彼女は取り乱したり反論したりせず、客観的に思考を広げているようだった。
 だが、その子供らしからぬ態度が少し目に余った。子供とは、良くも悪くも愚かであるべきだ。女児の年齢を鑑みても、些か達観し過ぎているような気がする。
 そんな女児を賢い子だと捉えるべきなのか、それとも壊れている子だと捉えるべきなのかは、今の俺には判断出来なかった。
 ややしてから、女児が問いかけてくる。
「どうして、あなたはわたしを助けたのですか」
 今までの主旨からは大きく離れた唐突な話題転換に、少し面を食らった。まさか俺の方に疑問の矛先が向くとは。
 けれど、その質問に答えるのは簡単だった。俺は即座に返答する。
「別に助けたくて助けたわけじゃない。今だって、正直に言えばかなり不本意な状況なんだ。俺は一生、お前たちと関わるつもりはなかったんだから」
 それは偽りのない本心だった。俺は別に、親切心から女児を助けたわけではない。本当に、なんとなく流れでこうなってしまっただけだ。だから、彼女は俺に感謝をする必要もないだろうし、俺もして欲しくなかった。
 だから、わざと突き放したような言い方をした。
 が、
「でも、助けた」
 女児は再度、理由を訊ねる。
「確かに、結果的にはそうなった。でも、仕方がなかった。俺は臆病者だった。衰弱したお前を見捨てる勇気がなかったんだ」
「あなたは、わたしを助けたくなかった」
「ああ。これっぽっちも助けたくなかった。むしろ、面倒事に巻き込んだお前を恨んでいるくらいだ」 
「…………」
 女児は再び沈黙した。
 俺のつっけんどんな物言いに気落ちした、という風でもなかったが、俺はなんとなく居心地の悪い思いをした。
 子供相手に、しかも虐待を受けている子相手に辛辣すぎやしなかったかと後悔する。これでは、俺まで虐待に加わっているみたいではないか。


182 :わたしのかみさま ◆lSx6T.AFVo :2013/10/12(土) 14:46:20.59 ID:E3sCOcG7
 もっと建設的な話をしよう。
 俺は殊更明るい口調で、間を繋ぐために言葉を続ける。
「そうだな。お前はこれから宗教でも持てばいい。新しい心の拠り所になるかもしれない」
「しゅうきょう」
 女児は宗教の意味がわからないみたいだった。なので、俺はもっと噛み砕いて説明する。
「要するに、神だ。お前にとっての神様を見つければいい」
 その時の女児の変化を、俺は一生忘れられないだろう。
 外見上に顕著な変化があったわけではない。半開きだった瞳を大きく見開いたくらいで、他には何もありゃしなかった。しかしその中身、内心の揺れがとんでもなく大きかったことはわかった。
 先程までの女児は、この世の全てを諦めているような澄んだ瞳をしていた。が、その瞳がドロドロと濁り始め、差し込む蛍光灯の光さえも飲み込み始めている。
 息を呑んだ。
 一体、彼女の中でどのような神経衝動が起きたのだろうか。
 と、俺が目を丸くしていると、突然、女児が身体を起こそうとした。
「無理するな。横になっとけ」
 しかし俺の言葉を無視し、痛みに顔を歪ませながらもなんとか上半身を起こす。そして、その濁った瞳で俺を見つめた。
 それは不思議な視線だった。無邪気なような邪悪なような、嬉しいような悲しいような、なんとも形容しがたい感情を伴っている。俺はなんとなく目を離せなくなり、長いこと二人して見つめ合った。
「かみさま」
 遂に限界が来たのだろう。女児はそれだけ言うと横になり、そのまま意識を失ってしまった。
 遠くでサイレンの音が聞こえた。