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810 名前:幕間:『やがて洪水が』 ◆wzYAo8XQT.[sage] 投稿日:2015/02/22(日) 22:22:47 ID:1WomEku6 [2/3]
 彼女は一言で言えば、秀でた子供だった。
 小学校に上がるころには九九をすっかり覚えていたし、自分の名前を漢字で書けた。
 足も速く、徒競走ではいつも学年で一番だった。
 大人から見ればそれらはささやかで可愛らしい、才能ともいえない些細な差に過ぎない。
 しかし子供の世界において、その僅かな能力の差というものは歴然かつ圧倒的である。
 まだ子供だった彼女にとって、周囲より数歳分能力が秀でているということは、彼女にとって絶対の優越性を示していた。

「かなちゃんすごーい!!」
 彼女の周囲の者はみな、媚びるような笑顔で、常に彼女に賞賛の言葉を送る。
「だってわたしは完璧なんだもん!」
 その結果、彼女はそれらの賞賛を当然のものとした。
 自らが優れた生き物である。だから、成功も賞賛も当たり前のものであると、当然のように享受した。
 彼女は、彼女の王国の王だった。

 彼女を称える、子供の王国の外に、一人の少年がいた。
 目立たない、そして自分の王国に加わろうとしない男の子。
 世界から祝福された彼女にとって、その彼はとるに足らない路傍の石だった。
 
 自らの王国に参しない少年への傲慢な怒りと興味。
 王が民に施しを与えるように、勝者が敗者を慰めるかのように、少女はごく当然のように少年に接することにした。
 それが彼女の思う王としての責務であり、優れた者の義務だった。
 自らに向けられる賞賛に慣れ、飽いていた彼女にとって、異質な存在への興味が微かな好意へと変わるのに時間はかからなかった。
 彼女には悪意も、ゆえに罪の意識も皆無だった。
 だから彼女にとって、その言葉は晴天の霹靂だった。
 
「もうこれ以上いじめないで……」

 彼女は初め、その言葉の意味が理解できなかった。程なく、言葉の意味を理解した彼女はまず真っ先に憤慨した。それは彼女にとって、飼い犬に手をかまれたどころか、羽虫がぶつかってきたようなことと同義だった。
 せっかくこの私が、こんな取るに足らない相手に気をかけてやったのに。それをいじめだなんて。
 そうか、彼がそれを望むなら――
 一息に潰してやろう。
 彼女の思考はそれに似たものだっただろう。
 しかし、その傲慢が実現されることはなかった。
 彼女は、周囲から妬み嫉みを買いすぎた。
 そして才気あふれる彼女は、その才気ゆえに周囲をかんがみることなく、そしてそれに気づくことが無かった。
 周囲より聡く、周囲より早熟であった彼女は、しかしそれでもただの少女に過ぎなかった。
 知恵はあっても知識が足りない。知性はあっても経験が足りない。
 彼女は知らなかったのだ。
 人が何で動くかということを。
 周囲の非才が徒党を組み、反旗を翻したらどういうことになるかということを。
 そして、陰湿ないじめが始まった。


 それは才気あふれる少女がぶつかった、人生初めての挫折だった。
 『優等生』の彼女には、頼れる人間などいなかった。
 本来であれば頼るべき大人たちが彼女に求めていた役割は優等生の少女であり、いじめを受ける問題児ではなかったからだ。
 さらに不運は重なった。
 いじめのきっかけとなった少年の突然の死。
 彼女は、未熟な好意を抱いていた相手と謝罪の機会を、同時に永遠に失った。
 
 それらのことは、彼女の精神を決定付けた。
 彼女の顔から愛くるしい笑顔はすっかり失われ、その顔に感情と呼べるものは存在しなかった。
 世界から祝福されていた彼女は、いまや独りになっていた。


 数ヶ月が過ぎても、制止する者のいないいじめは止むことはなかった。
 そして少女はある表情を取り戻す。
 その表情は、彼女の人生で一度として浮かべたことがないもの。
 そしてその表情は、今まで彼女の周囲のものが彼女へと向けてきたそれと同一のものだった。