321 名前: ◆lSx6T.AFVo[] 投稿日:2017/11/02(木) 14:22:07 ID:fgdUzpOU [3/18]
 地獄のようだった初詣を、無事、終えることに成功した。
 常に毒の沼状態だった神社を抜け出せたものの、HPゲージは真っ赤で点滅状態。試合後のボクサーのようにグロッキーな僕を、横から支えたのはAだった。
「大丈夫?」
 今日は何かと密着する機会が多く、僕としてはすぐにでもひっぱがしたかったのだが、後ろでAの両親が優しく見守っている手前、そんなことはできそうにない。
 しょうがないので、二人で石段を下りる。
 意趣返しのつもりで容赦なく体重を預けてみるが、不平不満は一切でてこない。晴れ着姿で何かと動きづらいだろうに、我慢強いやつだ。
 なので、僕はほとんどAにおぶさるような体勢になっていた。そのおかげか、ゴリゴリ削られていたHPも回復傾向にあった。
 危なかった。後少し滞在時間が伸びていたら、僕はおそらく棺桶の中にいただろう。いや、神社だから燃やされて灰になっていたのか。でも神道って火葬だけじゃなくて土葬もあった気がする。ってことはゾンビになるリスクもあったわけか。おそろしや、おそろしや。
 Aの家族とは駐車場で別れた。これから親戚のところへ行くのだという。
 Aはニコニコスマイルで僕に手を振っていたが、無視して車に乗り込んだ。後部座席でシートベルトを締め、ようやく胸を撫で下ろす。
 ふぅ、やっとアウェイでの戦いから解放されたぞ。これでホームに帰れる。早くコタツの中で、のんびりお正月番組でも視聴しよう。見たい特番はたくさんある。お笑い、スポーツ、バラエティ等々。どのチャンネルにしようか悩んじゃうな、へへへ。
「まだ、帰らないわよ」
 エンジンが稼働し、父さんが車を軽快に走らせた直後、助手席に座る母さんがそんなことを言った。
「ん? 母さん、今、なんて言ったのかな?」
「だから、まだ帰らないって。今からヘビセンに行くんだから」
 ヘビセンとは、この地域で最大の規模を誇る複合型ショッピングモールのことである。郊外の広大な土地を余すことなく使用した、全国的に見ても最大規模のショッピングモールであり、他県から訪れる人も少なくないと聞いている。僕も、友だちとちょっとした遠出を楽しむ時はよくヘビセンを訪れる。
「どうしてヘビセンに?」
「あのね、ものすっごくお得な福袋セールがやってるのよ!」
 福袋。それはメインとなる目玉商品に売れ残った商品を抱き合わせ、少しでも高く売るという古来より行われてきた商法のことを指す。お得なんてのただの売り文句であり、実際は体のいい在庫処理に過ぎないというのに、なぜか消費者は愚かにも踊らされてしまう。これもまた元旦の魔力なのかね。
「わかった、付き合うよ」
「あら、ずいぶんと物分かりがいいのね。てっきり、またごねるのかと思ったわ」
「僕は契約更改に臨むオフシーズンの野球選手ではないからね。提示された条件には唯々諾々と従うのさ」
 僕は学んだのだ。運命(母さん)に対して、人はただ頭を垂れるしかないのだと。それに、もし反対でもしたら車から放り出されかねない(過去経験あり)。
 けれど、気が重いのもまた事実。Aの車で一緒に帰ればよかったかも、と思う。彼女ならば、きっと聖母のような笑みを浮かべて歓迎してくれるだろう。そして家に着いた後は、至れり尽くせりの扱いで僕をもてなしてくれたに違いない。

322 名前: ◆lSx6T.AFVo[] 投稿日:2017/11/02(木) 14:23:29 ID:fgdUzpOU [4/18]
 ――だけど。
 一瞬、脳裏によぎる初詣での一幕。握った手の感触。怪しく濁りゆく瞳。僕の知らない、もう一人のA。
「…………」
 わかっている。あれは、僕の見間違いに過ぎない。晴れ着姿で大人びてしまった彼女に、どこか他人を感じてしまったのだ。
 親しい間柄であると、しばしばこういうことが起きる。たとえば、一番の親友が自分の知らない人と仲良くしているのを見ると、どことなく不安になるものだ。それは嫉妬というよりも、知り尽くしていると思っていた人の、知らない一面を見てしまったことに起因する。築き上げていた人物像が揺らげば、誰だって不安になる。普段は優しい人が怒った時に恐怖が倍増するのは、その揺らぎに基づく。
 でも、だからって心配することはない。新しい一面を知ったのなら、その度に修正していけばいいのだ。それは終わりのないプラモデル作りみたいなもので、ちょこちょことカスタマイズを続けて、その時に応じた人物像を築き上げればいい。
 ――もっとも、時には、設計そのものの変更を余儀なくされることもあるのだろうけど。
 赤信号に捕まり、車は緩やかに停止する。シートに深くもたれかかり、窓の外を見る。
 空には太陽が昇っている。しかし、僕の視界の真ん中には、ちょうど電柱がそびえ立っていて、その姿は見えなかった。誰にでも平等に降り注ぐ光が、僕にだけ与えられない。
 なんてことのない光景だ。でも、僕には何かの兆候のように見えた。

 ヘビセンが近づいてくると、明らかに道路の混雑が目立ってきた。大小様々の乗用車は、のろのろと亀の歩みで公道を進んでいく。
 初詣の混雑を抜け出したと思ったら、今度は初売りセールの混雑だ。せっかくの初詣だってのに、自宅でのんびり過ごすという選択肢はないのだろうか。せっかくの休みだし出かけよう! みたいな世間の風潮は無くすべきだと僕は主張したい。
 結局、駐車場に車を停めるまで丸々一時間を消費した。
 車を降りて、大きく伸びをする。冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、肺に溜まった車内の淀んだ空気を吐き出す。うん。気分スッキリ。
「じゃ、僕は行くから」
 と言って立ち去ろうとすると、母さんに首根っこを掴まれた。ぐえっと喉が絞まり、ヒキガエルみたいな声が出る。
「な、なにをするんだ母さん。僕は鵜飼いの鵜じゃないんだぞ!」
「いやいや、なに勝手に行動しようとしているのよアンタは。一緒に行きましょうよ」
「嫌だ」
 ちょっと食い気味に返答する。

323 名前: ◆lSx6T.AFVo[] 投稿日:2017/11/02(木) 14:24:15 ID:fgdUzpOU [5/18]
 母さんの買いものに付き合うのはまっぴらごめんだった。女の買いものは長いというが、母さんもその例に漏れず、マイホームでも購入するのかってくらい時間をかける。付き合わされる側からしたら、たまったものではない。親の買い物にニコニコと付き合えるほど、僕は孝行息子ではないのだ。
 それにさ、家族と一緒にいるところを同級生に見られるのは、どことなく小っ恥ずかしいだろう? 今日は人も多いし、その危険性はかなり高い。故に、僕は単独行動をするのだ。証明終了。QED。
「○○のどこに同級生に見られて恥ずかしいなんて思う繊細さがあるのよ」
 即否定される。その通りなので何も言い返せない。
 母さんは片眉を吊り上げ、渋い顔をする。
「別行動していたら、合流するのが難しくなるでしょ。今日は元旦ですごい混んでいるんだから、大人しく付き合いなさい」
「問題ないよ。その辺はフィーリングでどうにかするから」
 誰にでも経験あるだろうけど、ショッピングモールなどで別行動をしている際に、特に示し合わせていなくとも、なんとなく合流できてしまうことが多い。お互いがお互いの行動パターンを熟知しているのが原因なのだろう。
「それに、もし首尾良くいかなかったらインフォメーションセンターに行くから」
 この年にもなって迷子の呼び出しをしてもらうのは、一般的には恥ずかしいことなのかもしれない。が、僕はそんなこと微塵にも思わない。使えるものはなんでも使う。それが僕のポリシー。
 母さんはまだゴチャゴチャと言っていたけれど、耳をふさいでスタコラさっさと駆けていった。
 三十六計逃げるに如かず、ってね。

 ヘビセンは、まさにお正月ムードだった。
 モール内に足を踏み入れると、暖房の効いた空気が僕をお出迎えしてくれた。コートのボタンを外しながら辺りを見ると、周囲がお正月的な要素で満たされていることに気づく。
 新年を祝う門松をはじめ、鏡餅や謹賀新年のしめ縄もあちらこちらで飾られている。天井のスピーカーからは箏と尺八の音色が流れていて、曲はもちろん春の海。うむうむ、このテンプレートな正月感。たまりませんな。
 この手の商業施設の節操の無さはスゴイ。ほんの一週間前までは、門松の代わりにクリスマスツリーが置かれ、春の海の代わりにジングルベルが流れていたかと思うと、その変わり身の速さには舌を巻くしかない。商魂たくましいよ、全く。
 モール内は多くの人で賑わってはいるものの、敷地面積が広いため息苦しさは感じない。先ほどの神社に比べたら、不快感は雲泥の差だ。
 やはり人口密度って大事だと思う。満員電車ほど非人道的な乗り物はないよ。脳内でドナドナの歌が流れるもの。子牛の気持ちになるもの。

324 名前: ◆lSx6T.AFVo[] 投稿日:2017/11/02(木) 14:25:08 ID:fgdUzpOU [6/18]
 さて、それじゃあ僕も行動を開始しますかね。
 別行動を申し出たのは方便ではない。僕は僕で見たいものがあった。それは、これから懐に入るであろうお年玉の支出先である。
 子どもにとって、正月の一大イベントとは初詣ではない。ましてや、おせちでもお雑煮でも福笑いでも羽子板でも凧揚げでもない。それはお年玉である。というか、お年玉以外のイベントは全部オマケである。
 賃金労働が禁じられている子どもにとって、貨幣の入手機会はさほど多くない。毎月のお小遣いを除けば、お年玉はほとんど唯一無二のチャンスだ。今年のクリスマスプレゼントに商品券を願い、そして失敗した身にとっては、公明正大に現金がもらえるお年玉ほどありがたい行事はない。ビバ、お正月。
 ポケットからポチ袋を取り出す。新年の挨拶をした際に、Aの両親から受け取ったものだ。早速、中身を確認。
 おぉ……相変わらずA家は羽振りがいい。うちの両親とは大違いだ。今度、改めてお礼を言っておこう。
 一瞬、膨らみに膨らんだAへの借金について思い出す。あいつに借りたおカネ、どのくらいあったっけ? でも……まあ、借金返済は次の機会でいいだろう。うん。Aも、返すのはいつでもいいって言ってたしね。急ぐ必要はないって。それに無利子だしね、うん。
 浮かんだ思いは、うたかたの如く消え去った。
 しっかし、今年は直接お年玉を手渡してくれて本当に助かった。去年までは、お年玉は全て一旦母さんに預けて、必要に応じて引き出すというシステムを採用していた。けれど、母さんにお年玉を預けると、なぜかいつも金額が目減りしているのだ。あれかな? マイナス金利でも適用されているのかな? 消費を活発化させたいのかな? いや、そんなわけねえだろ。
 案内板を見つつ、目的の場所まで歩いていく。目指すのは、玩具やゲーム機などが販売しているゾーンだ。僕も現代っ子らしくゲーム好きなので、毎年、お年玉はゲーム関連に使うことが多い。
 その道中、とある雑貨屋で目を引くものがあった。
 それは、なんとも形容しがたい奇怪なぬいぐるみだった。基本はヘビをモチーフにしているのだが、あまりにリアリスティックなデザインのうえ、そこに無理やり幼児向けアニメキャラクターのようなポップさを付け加えているため、色々と破綻していた。一言で表すのなら、キモカワイイからカワイイを取り除いたキマイラだった。
 思わず、ぬいぐるみに足が引き寄せられていく。どれどれ……商品名は『非公認キャラクターヘビセンくん』か。さてお値段の方はっと……うわっ。お値段ウン万円? 誰が買うんだこんなもん。
 と、呆れ半分でヘビセンくんを眺めていたのだが、その手前にキーホルダーサイズのものがあった。小さくなれども、その異様さは健在で、まがまがしい邪神のオーラを放っている。値段もワンコインとお手頃なものになっていた。
 しばし逡巡し、購入することにする。ギフト用にラッピングしてもらい、雑貨屋を出た。
 一応弁明しておくと、別に僕はトチ狂っていない。確かに、狂気に片足でも突っ込んでいなければ絶対に買うことはないであろうキーホルダーだけれど、だからこそ使い道はある。
 購入理由はただ一つ、Aへの嫌がらせである。
 アイツのことだ。きっとプレゼントを受け取れば、雪が降った時の犬のように喜び回ることだろう。しかし包装を開けてみれば、現れるのは小さき邪神。喜びの山から悲しみの奈落へと急転直下。Aの笑顔も凍りつくに違いないぜ、へっへっへ。

325 名前: ◆lSx6T.AFVo[] 投稿日:2017/11/02(木) 14:25:58 ID:fgdUzpOU [7/18]
 それからは、適当にゲームを物色した。クリスマスプレゼントと初売りのダブルパンチにより、お目当てだった最新ゲーム機は入荷未定。仕方がないので、ゲームソフトの目星をつけるなどして時間を潰した。
 と、ここまでは順調に買い物を楽しんでいたのだが、暖房のせいで少し頭がボーッとしてきた。
 コートを車に置いてこなかったのは失敗だった。母さんから逃げることばかり考えていて、その暇がなかったから仕方がないのだけれど。
 火照った身体を冷やすため、一度モールの外へ出ることにする。
 ヘビセンは大きく分けて、室内施設と室外施設の二つが存在する。
 室内施設は近未来的なデザインの、スケルトン感あふれるいかにも今風で瀟洒なデザインなのだが、室外施設は真逆の時代に遡る。近代ヨーロッパをモチーフとしていて、レンガ敷きの遊歩道やガス灯をイメージした街灯などで場を彩っている。テナント側もそれに合わせて、店内をレトロに装飾していた。
 外に出ると、いつの間にか空は分厚い雲に覆われていて、辺りは薄暗くなっていた。街灯に明かりがつくのも時間の問題だろう。
 春や秋には多くの人々で賑わう室外施設も、今はまばらにしか人がいない。身も凍るような季節のせいだろう。冬には営業しないのか、近くにあるクレープ屋台には『CLOSED』の札が下げられていた。
 コートのボタンをとめてから、ぶらぶらと散歩を始める。
 さすがヘビセン。デザイン関係には結構お金をかけているようで、ちょっとした小物もかなり精巧につくられている。行き交う人々が欧米人だったら、本当にヨーロッパに来たと錯覚してしまいそうだ。某ランドもかくやというクオリティではないだろうか。いや、某ランドに行ったことないんだけどね……。地方はツラい。
 鼻歌混じりに歩いていると、遠くの方でまっ平らな土地が見えてきた。拡大予定の土地なのだろうか。奥の方には豊かな森林があることから、伐採して開拓した土地だということが見て取れる。

326 名前: ◆lSx6T.AFVo[] 投稿日:2017/11/02(木) 14:26:43 ID:fgdUzpOU [8/18]
 僕はその光景を見て、ヘビセンのとあるいわくを思い出した。
 元々この土地は、市主導で自然公園をつくるはずのものだったという。だが、突如判明した重役の献金問題で話がこじれ、計画は頓挫してしまった。
 そこで手を挙げたのが斎藤財閥だった。この国に住む者ならば誰もが知っている、ゆりかごから墓場まで僕らの生活にコミットする、あの大財閥だ。
 市も非難の的となってしまった土地を持て余しており、斎藤財閥の提案は渡りに船だった。莫大な経済効果を主張することによって積み重なったマイナスイメージを払拭できると目論んだ市は、斎藤財閥に積極的に協力した。財閥側もそれに合わせて間断なく広告を展開し、市民も喉元すぎれば熱さ忘れるというやつで、市への不満よりも新たな商業施設への期待の方が勝ってしまった。
 それからは全てがトントン拍子だ。着工から完成まであっという間に終わり、国内有数の商業施設が誕生した。
 けれど、事の発端となった汚職事件を仕組んだのは斎藤財閥ではないかともっぱら噂されている。
 元々、この土地は幹線道路が近くに通っているため、商業的な価値は非常に高かった。けれど市有地であることから、大財閥といえどもおいそれとは手が出せない。仮に手に入れることができたとしても、高額のカネが必要になるのは自明だ。市有地であること、地価が高額であること、この二つがネックになっていた。
 しかし汚職事件が起きた後は、全てが一変した。
 斎藤財閥は悲願の土地を二束三文で購入できたうえに、市との強いパイプまで手に入れてしまった。まさに一石二鳥。美味しいとこ尽くしである。
 これで疑うなという方が無理だ。大人の世界に疎い子どもにだって、おかしいことがわかる。
 が、この一件の厄介なところはそこではない。厄介なのは、結果として斎藤財閥が多くの市民に感謝されたという点である。
 自然公園とショッピングモール。レジャーの少ない地域において、どちらがより多くの市民を喜ばせるかは想像に難くない。そのうえ、オマケに莫大な経済効果までついてきた。長年赤字続きだった市の財政は黒字に好転し、互いに万々歳。ウィンウィンの結果になった。
 偏見抜きに見るのなら、斎藤財閥は正しいことをしたのだろう。経過は正しくなくとも、結果は正しかった。
 でも、それでも僕は、それを正しくないと考える。そして、そう考える僕は正しいのだと信じている。
 なぜなら――いつだって大人の汚いやり方にNOを突きつけるのが、子どもの役割だからだ。

327 名前: ◆lSx6T.AFVo[] 投稿日:2017/11/02(木) 14:27:35 ID:fgdUzpOU [9/18]
 ずいぶんと長い間、歩いていたらしい。ヘビセンの外れにあるフラワーガーデンにまでたどり着いていた。立地的な悪条件も重なってか、ちらほら見られた人影が、ここでは全く見られない。
 身体の火照りはとうに収まっていたが、せっかくなので観賞することにする。生憎と僕には、花を愛でるような心も、美しいと思うような感受性も持ち合わせていなかったが、貧乏性だけは持っていた。とにかく元を取ろうとする態度は母さん譲りだろうか。嫌なところだけ遺伝してしまったな……。
 入口のフラワーアーチをくぐると、一面に広がっているのは白い花畑だった。
 冬に咲く花は、白が多いのだろうか。それとも単に雪景色をイメージしているだけか。花壇に刺さっている札を見ると、種類自体は違っているのだが、見た目はどれも似たように映る。たとえば、このクリスマスローズという花も花弁が白い。というか、名前のもう過ぎ去ってしまった感が強い。……今だけは元旦ローズと名乗ってもいいんだぞ。
 フラワーガーデンは円形になっていて、順路としては時計回りに進んでいくみたいだった。矢印に従って歩いていく。
 そして気づいたのだが、どうやらここは迷路チックに設計してあるようで、歩いていて中々おもしろい。途中、行き止まりにぶつかって悔しい思いをした。僕みたいな芸術性のない人間でも楽しめるような仕組みになっているのはありがたかった。
 そんな感じで花壇迷路を楽しみながら、時計の針でいうてっぺん、十二のところまで進んだ。
 その一部分に、背の高い生垣に囲まれた休憩スペースがあった。
 この突き刺すような寒さの中、足を止めてのんびり休んでいたら凍え死ぬだろう。順路からも離れた場所にあったので、そのままスルーするのが利口な判断だった。
 だが、僕の足は不思議とそこに引き寄せられていく。その歩調はまるで、花の蜜に惹かれる蝶のようで、僕はこの間ほとんど無意識だった。
 後から考えても、この時の行動はうまく説明できない。例の貧乏性が発動したのか、それとも身体が一時の休息を欲していたのか。理由はいくらでも挙げられるが、なんせ初詣の後だ。もしかしたら、超常的な力によるものなのかもしれない。
 詩的な表現が許されるのならば――それはきっと、神様の導きだったのだ。
 休憩スペースはさほど広くなかった。ベンチが四つと、自動販売機が二つ。それと――ベンチに腰かける少女が一人。

328 名前: ◆lSx6T.AFVo[] 投稿日:2017/11/02(木) 14:29:01 ID:fgdUzpOU [10/18]
 僕は最初、それをヒトだと認識できなかった。
 違う次元の存在、たとえば絵画の中にいた人物が、何かの拍子で現実の世界に現れてしまった。そうとしか考えられなかった。この光景を額縁で囲えば、そのまま美術館に展示できるだろう。
 顔の造りについては、僕の拙いレトリックでは表現できそうにないので割愛する。ただ、先ほどのヨーロッパの街並みに相応しい容姿とだけ言っておこう。彼女の青い瞳が、それを象徴している。
 そして、何よりも鮮烈な印象を与えるのが髪だった。おそらく元は黒色なのだろうが、色素が非常に薄いため、銀色に輝いて見える。もし彼女がショートボブではなく、Aのような長い髪であったら、その印象はさらに強まっただろう。
 と、呼吸することを忘れていたせいか、喉の奥からヒュッと高い音がでた。放心状態から立ち直り、口から飛び出ていた魂を慌てて元に戻す。
 くっ、なんたる失態。男子たるもの、女子に見蕩れるなんてことはあってはならぬのに。たとえ気になる女子を目の前にしようとも「うっせーブス!」と悪態をつくのが男子なのに。僕の軟弱者めっ!
 頭を左右に振り、気を取り直すと、少女の元へ歩き出す。
「よう」
 手を挙げて挨拶する。が、無視された。聞こえなかったのかと思い、もう一度挨拶する。が、無視。もう完璧なまでの無視。視線を向けることさえしない。
 あまりの徹底した無視っぷりに、一瞬、僕が幽霊になってしまったんじゃないかと勘違いしそうになる。けれど、そんな映画じみたドンデン返しはありえないわけで。
 ハァ、と盛大にため息。
「相変わらずだな、サユリ」
 この色々な意味で人間離れした少女の名はサユリ。僕のクラスメイトだった。
「こんなところで会うとは奇遇だな。学校外で会うのは初めてじゃないか」
 と、手始めに会話のボールを投げてみるが、当たり前のように無視される。投げられたボールを目で追うことすらしない。もしかしたら、キャッチボールという遊びを知らないのかも。でも、別に知らなくても言葉のキャッチボールには影響しないよな……まあ、いつものことだから気にはならんが。

329 名前: ◆lSx6T.AFVo[] 投稿日:2017/11/02(木) 14:29:42 ID:fgdUzpOU [11/18]
 今一度、人形の如き少女を観察する。
 学校では基本的に派手やかな服装が禁止されているので、プライベートでおめかしするタイプの生徒もいるが、サユリはそうでもないらしく、いつも通りの装いだった。
 膝下まで伸びる黒のロングコートを羽織り、白のセーターとオセロ調のロングスカートで上下を固めている。黒いタイツに包まれた脚の先には、これまた黒のショートブーツがあった。一見するとシンプルな服装だが、ファッションに疎い僕でも高級だとわかる代物ばかりで、おそらく今年のお年玉の総額は、彼女の履くショートブーツの片方にも満たないだろう。
 外出先でクラスメイトと会ったからといって、特に感じるものはない。が、相手はサユリだ。レア度でいえば、集団からはぐれてしまったメタリックなスライムくらいはある。僕としてはそれが新鮮で、結構テンションが上がっていた。
「新年あけましておめでとう。終業式以来だけど、元気にしてたか」
 無視。
「僕は全く元気がでなくてね。ほら、いかんせん冬だからさ、雪でも積もらなきゃ外で遊ぶ気も起きないよ。この調子じゃ、今年も寝正月確定かな」
 無視。
「寒い日が続くし、できれば温泉地でゆっくりしたいんだけどね。僕の家は財布のヒモが度外れにキツくて、旅行のひとつにも行かせやしない。たまったもんじゃないよ」
 無視。
「もしサユリにどこか旅行に行く予定があるのなら、ぜひ僕を帯同させてくれ。個人的にはハワイ辺りをオススメしたい。芸能人だって、年末年始になるとやたらとハワイに行くだろう?」
 無視。
「寒い季節には暖かい場所へ、暑い季節には涼しい場所へ行くのが、生物としての正しい行動だよ。渡り鳥だって、そうしているんだし、人間もそうするべきさ。僕も風の向くまま気の向くまま、自由に生きたいよ」
 無視。
 無視。無視。
 無視。無視。無視。
 うーん、この気持ちのいいくらいのディスコミュニケーション。新年になっても変わらない対応で安心する。もう塩対応どころじゃないね、岩塩だよ、岩塩対応だよ。
 好きの反対は嫌いではなく無関心というが、全く以てその通りだと思う。立て板に水の僕に対して、サユリはその水も凍らせてしまうくらいの絶対零度。この凍傷しかねないほど冷え切った空気に、並大抵のやつは耐えきれないだろう。僕みたいな酔狂じゃなきゃ、近寄ることさえできないはずだ。

330 名前: ◆lSx6T.AFVo[] 投稿日:2017/11/02(木) 14:30:22 ID:fgdUzpOU [12/18]
 さて、ここらが潮時だろう。
 新年の挨拶は済ましたわけだし、これ以上せっかくの元旦に水を差すこともない。人間関係は常に引き際が大事であり、ましてや一筋縄ではいかないサユリみたいな変化球が相手なら、なおさら慎重に対処せねばならない。
「それじゃあ、サユリ。また新学期に」
 別れの挨拶とともに手を振るが、案の定、無視。肩をすくめて、歩き出す。
 フラワーガーデンに対する関心はとうに薄れていたので、残り半分は足早に進む。その間も、誰かと遭遇することはなかった。
 もしかして、あの氷の女王がここを貸し切って無人にしているんじゃ……と、バカげた想像が頭をよぎるが、そんなバカげた想像を一蹴できないのが、彼女の恐ろしいところである。
 フラワーガーデンを出た。室内施設へ戻るため、先ほど通った道をとんぼ返りする。
 その途中、前方からとある家族がやってきた。
 父親と母親、それに子供が二人の四人家族だった。子供は男の子と女の子の二人組であり、背丈も同じくらいなので、どちらが年長であるのかは判別つかない。仲良く手をつないで、笑顔で何かを言い合いながら歩いている。両親はその横で何も言わずに、ただ微笑みながら子どもたちを見ていた。
 その家族とのすれ違いざま、なんとなく名残惜しい気持ちになって振り返ると、視界の隅にフラワーガーデンが映った。
 そして、あることに気付き、心が揺さぶられた。
 ――サユリは、ひとりきりなのだ。
 彼女は、いつからあのベンチに座っているのだろうか。僕みたいに誰かと一緒に来て、たまたま単独行動をしているという感じではない。友だちと待ち合わせているという線は、もっとありえないだろう(そもそもあのサユリに友人がいるのかすら疑わしい)。おそらく、サユリはたったひとりでここに来て、たったひとりでフラワーガーデンのベンチに座っている。
 元旦に、ひとりきり。
 それ自体は、別に珍しい話じゃない。現に今も、ヘビセンではたくさんの大人が働いている。生活が年中無休かつ二十四時間化した現代において、元旦に子どもがひとりでいるのは決して稀有なことではない。特に、サユリの親御さんの特殊性を考えると、新年はかなり忙しいはずだ。

331 名前: ◆lSx6T.AFVo[] 投稿日:2017/11/02(木) 14:32:57 ID:fgdUzpOU [13/18]
 けれど、問題はそこじゃない。
 サユリは孤高の人だ。孤独ではなく孤高。この違いは非常に大きい。己の矜持を失わずにひとりでいることの難しさは、孤独になるまいと必死にもがく者が多い世の人々を見ればよくわかるだろう。
 社会からも集団からも一定の距離を置き、なによりも静謐を愛する少女。それがサユリなのだ。
 では果たして、以上のようなパーソナリティを持つ人が、ひとりで過ごす場所として、ヘビセンを選ぶだろうか。否。ヘビセンのように明るくて騒がしい場所は、最も忌み嫌うはずだ。しかも元旦によって、ヘビセンは喧噪の坩堝と化している。それは魚が水中よりも地上を選ぶようなものだった。
 なら、なぜサユリはヘビセンに、しかも、暖かくて賑やかなモール内ではなく、寒くて寂しい外れの場所に――
 ああ、やめろ。
 僕は今、愚かしい想像をしている。同情と憐憫が結び付いた、お涙ちょうだいのストーリーだ。仮に、それが当たっていたとして、なんだというのだ? 僕がサユリに手を差し伸べるのか? 氷の女王を憐れむ平民。なんてバカバカしい!
 僕とサユリの間には、常にある一線があった。僕は彼女にちょっかいをかけつつも、その一線だけは絶対に越えなかった。だからこそ彼女は僕を排除しようとせず、無関心の範疇に置いたのだろう。
 君子危うきに近寄らず。その言葉に従い、大人しくモール内に戻るべきなのだ。
 だというのに――僕はノコノコとフラワーガーデンへと戻ってきていた。
 サユリはひとりでベンチに座っていた。寒気で白くなった息を吐き、微かにあごを上げ、ぼんやりと曇天を見上げている。先ほどはあれほど美しいと感じた光景が、今では違って見えた。
 もう一度、彼女の前に立つ。僕の存在にはとうに気付いているはずだが、視線が向けられることはなかった。構わず、話しかける。
「あー……そのだな。さっきは言いそびれたんだが、実を言うと今、訳があってひとりでヘビセンをフラフラしていてね。なんというか、どうにも退屈なんだ。だから……良かったら一緒に回らないか」
 歯切れの悪い口調に、怖気が走った。なんだ、この歯に厚着をさせたような僕らしからぬ口調は。もっとサラッと、僕らしく誘えばいいだろう。
 誤魔化すように、慌てて続ける。

332 名前: ◆lSx6T.AFVo[] 投稿日:2017/11/02(木) 14:34:56 ID:fgdUzpOU [14/18]
「見たところ、サユリも今、ひとりなんだろう? なら、ちょうどいいじゃないか。出かけた先で友人と出会い、流れで遊ぶなんて、ありふれたことだぜ。あ、そもそも僕とキミが友人と呼べる関係じゃないなんて野暮なツッコミはするなよ」
 言葉は、重ねれば重ねるほど軽くなっていく。水を水で薄めたような、希釈化された会話。いや、会話ですらないのか。一方通行的な、虚しい通知だ。
「ゲームだって、ひとりでやるよりも友だちと対戦している方が盛り上がる。日常における遊びだって同じだ。鬼ごっこだって、缶蹴りだって、ひとりじゃできない。ひとりでする遊びよりも、みんなでする遊びの方が多いのは、まさにそれが理由であって……」
 話が脱線しかけている。本当なら、一緒に遊ぼうの一言で十分だったのに、無理に意味を付け加えようとするから冗長になり、軽薄になっていく。わかっている。わかっちゃいるが……。
 なしのつぶてだった。サユリは心底興味がないらしく、曇天を眺め続けている。何が面白いのか、僕も試しに見上げてみるが、コンクリート色の形の悪い綿菓子が空に広がっているだけで、こんな陰気な空を長時間眺めていたら気が滅入ってくる。
 僕は、この空模様にすら負けているのだ。そう考えると、なんだかむかっ腹が立ってきて、僕は無理やり彼女の視界の中に入り込んだ。
「サユリ、僕は冗談じゃなくて本気で言っているんだ」
 青い瞳が、初めて僕に向けられる。
 彼女の認識の対象になること自体、これが初めてのことだった。そして、氷もかくやという冷たい瞳から読み取れたのは――明確な拒絶だった。好意の欠片もない、ただただ辛辣な厭悪。
 何かが割れるような音がした。陶器を割ってしまった時のような、もう元に戻らないのだという、諦観の念を誘うあの音が。
 ――やってしまった。
 これで、僕と彼女の関係は決定的に変わってしまった。
 サユリはもう、僕が話しかけることを許さないだろう。今までは雑音として処理されてきたが、その内面にまで踏み込んでくるというのなら話は別だ。
 冷たい風が吹きすさぶ。その風は、僕と彼女の間に決定的な亀裂が生まれてしまったことを知らせる合図だったのかもしれない。
 僕がとるべき行動はただ一つだ。このまま回れ右して、彼女の前から去るのだ。そして新学期が始まった後は、他の生徒がしているように、遠巻きに見て、恐れていればいい。
 元々、サユリに固執する理由はさしてなかった。失っても別に痛くはない関係性であり、なりふり構わず取り戻そうとするほどの情熱は、当然生まれない。あってもいいけど、なくてもいい。その程度なのだ。

333 名前: ◆lSx6T.AFVo[] 投稿日:2017/11/02(木) 14:37:31 ID:fgdUzpOU [15/18]
 だから――だからこそ、僕はニヤリと笑う。そして図々しくも、サユリの隣に腰かけた。
 サユリが僕を睨む。見るのではなく、睨む。おお、恐い恐い。ちびってしまいそうだ。
「なんだよ、その目は。別におかしなことは言ってないだろう。クラスメイトとウインドウショッピング。実に自然な話じゃないか。それともあれか、もし誰かに見つかって噂されたら恥ずかしいとでも言うのか? わっは。おいおい、氷の女王がそんなこと気にするのかよ」
 僕の本質とは何か。言うまでもない。アイアム小悪党。サユリとの関係にヒビが入ってしまったというのなら、それを修復するのではなく、いっそ徹底的に壊してしまうべきだ。一度崩れた積み木を、再度積み直す根気が僕にあるとでも?
 そもそもさ。僕みたいなクズに、サユリの心情を慮りながら優しくフォローするなんて芸当ができるはずないでしょ。さっきのやりとりを見てみなよ。あまりの僕らしからぬ感じにサブいぼが立ったでしょ? 僕が誰かに優しくするなんて無理無理無理無理。成績表に『性格に難あり』と書かれた男だぜ?
「ま、僕としては嬉しい話ではあるけどね。なんたって地元の名士の娘とお近づきになれるんだ。うまい具合に事が運んで玉の輿に乗れれば、僕も権力者の仲間入りかね」
 この一言は、クリティカルだった。今までとは、明らかに場の空気が変わる。隣から感じる怒り――いや憤怒と言ったほうが適切かもしれない――により、ひりつくような緊張感が生まれていた。青いはずの彼女の瞳が、赤く染まって見えた。
 家族の話が、サユリにとって最もセンシティブなものであることは、なんとなく気づいていた。絶対に越えてはならない最終防衛ラインを越えたのだ。
 さすがの僕も、恐怖する。氷の女王の名は伊達じゃない。相手は同学年の女子だというのに、射すくめられただけで泣きそうになる。この年でこの威圧感を出せるのは、やはり只者ではないということなのだ。彼女はやはり、女王だった。
 だけど僕は、あえて微笑みかける。
「僕は、キミを憐れんでいる」
 この一言は、不意打ちになったらしい。ほんの一瞬のことだったが、サユリの青い瞳にさざ波が起きた。
 虚を突くことに成功したことを悟った僕は、一気に畳みかける。
「だって、そうだろう? 元旦なのに親類と過ごさない、友人とも過ごさないだなんて、なんとも泣かせる話じゃないか。そりゃ憐れみたくもなるさ」
 堰を切ったように、言葉は溢れ出す。

334 名前: ◆lSx6T.AFVo[] 投稿日:2017/11/02(木) 14:40:16 ID:fgdUzpOU [16/18]
「しかもさ、よりにもよってこんな寂しい場所にひとりでいるんだぞ? 笑っちまうぜ。不幸なワタシかわいそうアピールするクラスの女子かよ。感傷に浸るってんなら誰にも見られないところでひとりでやっていればいいんだ。ズバリ推理してやろう。キミは寂しかった。今日、何か事件があったんだろう。おそらく、家庭の事情によるものだ。サユリの家はいかにもややこしそうだからな。そしてその事件が、珍しく氷の女王に寂しいという感情を思い出させた。寂しくて、寂しくて仕方がなくなった。ひとりでいるのは耐えきれない。だから人の多いところへ行こう。雑踏の中にいれば、なんとなくひとりじゃない気がするからな。けれど、いざ来てみたらそこにいるのは元旦で浮かれて幸せそうな人たちばかりだ。キミはかえって辛くなってしまった。傷ついた時に求めるのは、他人の幸福じゃなくて他人の不幸だからね。こんな幸せオーラが充満した場所には耐えきれない。一刻も早く立ち去ってやる。でも、立ち去ったらまたひとりになってしまう。寂しくなってしまう。だから完全に立ち去ることもできず、折衷案を採用した。寒くて寂しいフラワーガーデンに逃げ込むという折衷案をね。そんなところだろう」
 僕は何を言っているのだろうか。
 最初は、相手の家のベルを鳴らし、顔を出したところでアッカンベーして逃げるくらいのつもりだった。ささいな反撃ができればそれで十分だった。
 なのに、今は相手の家に土足で入り込むばかりか、口角の泡を飛ばして喚き散らしている。明らかに、僕は興奮していた。けれど、その興奮の原因は何なのだろうか。わからない。ただ、一時の感情ではないことは確かだった。常日頃からサユリを見てきて、ずっと感じていたことが、積もりに積もって、今、噴出している。
「勘違いするなよ。たしかに、僕はサユリを憐れに思ったからこそ、こうやって戻ってきて、遊びに誘った。けど、それはあくまできっかけで、第一の理由じゃない。僕が声をかけたのは、もっと単純明快な理由からさ」
 そりゃそうさ。僕みたいな阿呆に難しく考える頭があると思うのか。僕の行動理念はいつだってシンプルだ。快か不快かの二項しかない。そして快なら向かうし、不快なら避ける。そして今、快の予感があるからこうしている。
 ベンチから立ち上がり、サユリの真正面に立って、手を差し出す。
「僕はサユリと遊びたい。だから、一緒に遊ぼうぜ」

335 名前: ◆lSx6T.AFVo[] 投稿日:2017/11/02(木) 14:41:58 ID:fgdUzpOU [17/18]
 だって、そうだろう? この際立った個性を持つサユリと遊ぶだなんて、いかにも楽しそうじゃないか。同じようなやつらで集まって、ワイワイするのも確かに楽しい。だけど、それはぬるま湯に浸かっているようなもので、心地は良いが刺激はない。
 サユリは僕みたいな凡百とは感性も価値観も百八十度異なっている。予測不可能な相手と遊ぶのは、きっと楽しいのだ。
 サユリはじっと、僕のことを見つめていた。意外にも、その瞳には先ほどの憤怒は感じられず、凪のように静かだった。けれど、そのせいで感情らしい感情が読み取れず、何を考えているのが全くわからない。緊張する。
 サユリが立ち上がる。曇り空の中でも輝く銀色の髪が、清流のように流れる。
 心臓が一際、大きく脈打つ。
 そして彼女は僕の手を――掴むことなく、そのまま横を通り過ぎて行った。
 差し出した手は、虚しく空を掴む。
 そりゃそうだ。
 氷の女王が平民と戯れるわけがない。身分を越えての交流など夢想に近く、シンデレラのような物語は現実では成立しない。
 そんなことはわかっていた。わかってはいたが、やはり遊びの誘いを断られるのは、ちょっとだけ悲しい。
 がっくりと肩を落とす。
 でも、満足だった。これでよいのだと胸を張って言える。腹の中を洗いざらいぶちまけられたのは爽快だったし、いい学びにもなった。今回の一幕は、甘酸っぱい青春の一ページに記録されるのだろう。
 へっくしょい、と大きなくしゃみをする。長い間外にいたせいで、ちょっとシャレにならないくらい身体が冷えていた。このままじゃ風邪をひく。気持ちを切り替えて、早くヘビセンの中に戻ろう。
 そうして振り返ると――そこにはサユリが立っていた。二メートルほど離れた辺りで、コートのポケットに手を入れて立っている。
 ……?
 これは……どう受け止めたらいいんだ? あれか? 僕のような平民ごときに動かされるのは癪だから、まずはお前から動けということか? いや、それならそれでいいんだけどさ……。
 なるべくサユリの方を見ないようにして、休憩スペースを出る。しばらく歩いて、振り返ってみる。二メートルほどの距離を置いて、サユリが立っている。
「…………」
 試しに、サユリの方へ一歩踏み出す。すると、サユリが一歩分離れた。もう一度、サユリの方へ踏み出す。もう一度、サユリが離れる。踏み出す。離れる。踏み出す。離れる。
 一定の距離を置いて、僕らは向き合っている。
「ははは……」
 乾いた笑いとともに、頭を掻く。
 何が決定打となったのかはわからない。
 だが、人は誰しも一万回に一回くらいは向こう見ずな気まぐれを起こすものだ。そして、今回がその一回なのだろう。それを僥倖と捉えるべきなのか、それとも新たな災難と捉えるべきなのか。
 ただ、
「RPGの仲間かよ」
 という僕のツッコミを、彼女が理解できたのかはわからない。
 なぜなら、サユリはいつものように無反応だったからだ。
「にべもないなぁ」
 苦笑して、歩き出す。
 彼女がついてこれるように、なるべく歩調を緩やかにして。
最終更新:2019年01月14日 19:57