539 名前:彼女にNOを言わせる方法[] 投稿日:2018/08/13(月) 19:29:49 ID:6gtm5gpM [2/11]
 目的もなく、炎天下の中を歩くのは阿呆のすることだ。
 子どもは外で遊びましょう! と喧伝する社会が一時的にメガホンを下げる季節に、難破船のように漂っている僕は間違いなく阿呆だし、ましてやオールがあるのに手に取ろうとさえしないのは擁護のしようがない。
 誰かが打ち水でもしたのだろう、コンクリートの道路は黒く濡れてテラテラと光っている。しかし、暑さ対策のための打ち水はかえって湿気が増す結果となり、涼しさより暑さに与する結果となった。
 いつもバウバウ吠えてくる、山本さん家のジョン(ゴールデンレトリバー♂)も夏バテのせいか、舌をベロンと出し、出勤前の父さんのような濁った瞳で明後日の方向を見ていた。室外犬と室内犬の格差に想いを馳せながら、いつもおっかなびっくり通る山本さん家の前を堂々と通り過ぎる。
「今年は例年以上の暑さです」
 今朝のニュースでは、そう言っていたっけ。でも、あの手のうたい文句って毎年言っている気がする。仮に一年で一℃上がっているとしたら二十年後には二十℃上がることになり、日本の夏の平均気温は五十℃近くになる。そしたら日本がチョコレートみたいにドロドロに溶け落ちるだろう。街路樹も、道路も、信号機も、家の塀も、無論、僕も。ドロドロと、チョコレートみたいに、ドロドロと……。
「だみだ……」
 暑さのせいで突飛な想像しかできなくなっている。ただでさえ空っぽな頭なのに、なけなしの知性にさえ見放されてしまったら何が残る。今の僕の頭を叩いたら木魚みたいな音が鳴るだろう。
 暑さでふらりと身体が傾き、支えを求めた右手が、白いガードレールに触れる。
「ギャッ!」
 真夏のトラップの一つ、卵焼きが焼けそうなほど熱せられたガードレールにまんまと引っかかってしまった。僕は右手に息を吹きかけながら、痛みと熱さを誤魔化すためにぐるぐるとその場を回った。
 こういう不意打ちじみた不幸は、あらゆる意欲を削いでいく。僕はしゃがみ込み、地面に向かって鬱積の息を吐く。
「ハァ……」
 何をやっているんだ僕は。
 太陽が、ジリジリと剥き出しの首元を焼く。熱射というストローが脳天に刺さり、体中の水分を吸い取っていく。
 熱中症で亡くなる人は、存外多いと聞く。そのことを考えると、今の状況はゆるやかな自殺と言っても差し支えはない。
 なら、なぜ僕は死のうとしているのか。こうして虚しさと格闘している時でさえ、日陰を選ぼうとしないで、真っ白な熱地帯を選ぶのはなぜなのか。
 わからない。
 わかっているけど、わからなかった。
「今日は、一日中甲子園を見る予定だったのにな……」
 股の下をアリの隊列が這っている。虫の死骸をどこかへ運んでいた。僕は顎から滴り落ちる汗を落として、アリどもを混乱に陥れた。八つ当たりをするにはあまりに矮小な対象で、かえって自分の小ささを強く自覚する結果となったが、それでも僕は汗を落とした。

540 名前:彼女にNOを言わせる方法[] 投稿日:2018/08/13(月) 19:32:35 ID:6gtm5gpM [3/11]
「アンタ、Aちゃんと何かあったの?」
 僕が地獄の業火へ歩みだす前の、夏の朝方。リビングで光る汗を振りまく高校球児たちを見ていると、母さんが唐突にそんなことを訊いてきた。
 テレビ画面ではちょうど、えぐるような内角のストレートにのけぞる打者がアップで映し出されていた。気分としては、僕もほとんど彼と変わらなかった。
「別に」
 そっけなく返事をしてから、失敗したなと後悔する。これでは、ほとんど何かあったと言ってるようなものではないか。もっと僕らしく、おちゃらけた感じで対応すればよかったのに。近すぎる距離ゆえに、かえって裏目に出てしまった。
 舌打ちしたい気持ちをこらえて、試合中継に集中する。でも、母さんの一言がノイズとなって、内容が全く頭に入ってこない。以前から注目していた投手が、一五〇キロを連発して球場は大盛りあがりだというのに、僕の心は冷蔵庫に入れられたみたいに、徐々に熱を奪われていく。
「何があったのかは知らないけれど、さっさと謝っちゃいなさいよ。どうせ、百パーセント○○が悪いんだから」
 事の顛末なんてちっとも知らないくせに、最初から僕を悪者扱いするのはどうなのか。僕への信頼感がなさすぎる。というよりも、Aへの信頼感が強すぎる。彼女が誤りを犯すはずがないという、城塞のような信頼感をひしと感じる。
 そして、悔しいことに全く母さんの言う通りだった。
 わかりきっていることを改めて指摘されるほど腹の立つことはない。僕は華々しい奪三振ショーを繰り広げるテレビ画面を黒くして、乱暴にリビングを出る。
「ちょっと、出かけてくる」
 足を鳴らしながら階段をのぼり、二階の自室から帽子を取ってきて、玄関で靴を履いていると、母さんがリビングから出てきて、さらに一言付け加えた。
「Aちゃんは優しい子だから、アンタが謝らなくてもきっと許してくれるでしょう。でも、それに甘えちゃダメよ」
 叱るようにではなく、淡々と言っているのは、なるべく子どもの領域には踏み込まないという母さんの心遣いだろう。ありがたい配慮だが、子どもの内面を知り尽くしている親への、ぬめりとした気持ち悪さを感じて、殊更乱暴に外へ出た。
 ドアを閉めると、熱気と湿気が社交ダンスをしながら僕の元へやってきた。一緒に楽しく踊りましょう、てな具合にくるくる回転している。ディス・イズ・猛暑日。今日も日本は暑かった。
 そのまま回れ右したい気持ちに駆られたが、暑さという点では家の中もさして変わらなかった。クーラー選手との再契約はまだまだ先みたいだし、それに飛び出してばかりでノコノコ戻るのは体裁が悪い。家出少年がその日のうちに帰宅するような情けなさといいますか……。
 行くか、戻るか。その逡巡が足元に出てしまい、不本意ながらダンスのステップを踏んでいるみたいになってしまった。羞恥を足の裏に張り付けて、我が家の敷居を抜け出す。
 道路に出て、そのままあてのない旅路に出ようとする直前、ちらりと隣の家を見る。
 が、錆びたネジのように中々首が動かなかったので、ぎこちなく足を動かして正面に見据えた。

541 名前:彼女にNOを言わせる方法[] 投稿日:2018/08/13(月) 19:33:15 ID:6gtm5gpM [4/11]
 僕の家よりも、一回り大きくて、一世代新しい家。人の気配はなかった。車もなかった。雨戸は閉ざされていなかったが、カーテンはピッタリと閉ざされていた。
 長く家を空けているのは明白だった。今なら空き巣入り放題だな、なんて思う。なんなら僕が入ってやろうか。クーラーを盗み取り、我が家に冷房の恩恵を取り戻すのだ。
「はっは……」
 浮き輪の栓を抜いたような、気の抜けた笑いが漏れ出る。あまりに僕っぽくない笑い方だったので、腰に手を当てて、さらに大きく笑ってみる。
「わっはっは」
 かえって虚しさが増したのは言うまでもない。苦々しく口元を歪め、路辺の小石を蹴り上げながら、灼熱の道を独歩する。
 現在、A一家はヨーロッパへ旅行に行っていた。期間は二週間。複数の国を周遊する予定らしい。
 出発は、ちょうど『あの日』の翌日だった。いつもなら、ご丁寧に出発の挨拶をしてくるであろうAが、何も言わずに出発していった。その事実が、結構こたえていた。
 出発の日を思い出す。
 僕はじっと自室のベッドに伏せて、索敵するかのように首を振る扇風機を凝視し、じんわりと発汗していくのを肌に感じながら、階下の電話が鳴るのを待っていた。
「お土産のリクエスト、訊くの忘れちゃってたよ」
 なんて、朗らかな声を電話越しに聞くのを期待していた。
 朝に開けておくのを忘れていた黄色いカーテンが、時折、思い出したように風に膨らみ、日の光が頬のあたりを照らすのを感じながら、階下の電話が鳴るのを待っていた。
 しかし、電話は鳴らなかった。
 そして一日、二日と経つが、未だに静寂は続いてる。
 母さんは、まるで僕とAがケンカしているかの如く言っていたが、断じて違う。そもそも、彼女とケンカをするなんて不可能なのだ。
 ケンカというのはつまるところ、意見の相違から始まる。
 たとえば本日の昼食を決める際に、一方が「カレーを食べたい」と主張し、もう一方が「ラーメンを食べたい」と主張したとする。そして、どちらかが妥協しなければ対立関係が生じ、いわゆるケンカに発展する。
 けれども、僕と彼女が対立関係になったことは一度もなかった。ただの一度も、だ。
 無論、意見が食い違ったことはある。なんせ品行方正の超優等生の少女と、要注意人物のレッテルが貼られた悪ガキの組み合わせだ。それも当然のことだろう。
 根っからの善人のAは、僕の目に余る非行を度々たしなめた。非常にもってまわった言い方で、「~しろ」という命令形ではなく「~したほうがいいと思う」という提案の形で、なんとか正しい方向に誘導しようとした。
 それを聞き入れることもあれば、撥ねつけることもあった。そして撥ねつけた場合、折れるのは必ず彼女だった。つまり、最終的には必ず「YES」が約束された八百長試合みたいなもので、これでは対立するわけがない。
『Aとケンカしている状態を想像してみよ』
 という問は、
『四角い円を想像してみよ』
 というくらい難題なのだ。

542 名前:彼女にNOを言わせる方法[] 投稿日:2018/08/13(月) 19:33:54 ID:6gtm5gpM [5/11]
 では、ケンカでないとしたら、今の状態はなんなのか。
 こんな風に、じわじわと喉元を締め上げられるような、息苦しい関係性になったことは過去になかった。参照すべき事例がないため、僕はどう動くべきなのかわからず、スリープ状態のPCよろしく待機するばかりだった。
 解決するためには、あの日の出来事は何を意味するのかを、しっかりと考えなければならないのだろう。そして多分、やろうと思えば、その正体を突き止めることは可能だった。
 でも、できなかった。正直、恐かった。
 バラエティ番組でよく見られる、何が入っているのかわからない箱に手を突っ込むような恐怖感があった。もしかしたら、その中には大量のムカデが這っているのかもしれない。そう考えただけで、躊躇してしまう。そんな向こう見ずな勇気は、僕の中にはなかった。
 けど、これでは互いの溝は深まるばかりだ。なんとかしなくてはいけない。が、なんとかする方法がわからない。時間は粛々と時計の針を進め、夏はさらに勢いを増していく。
 そして、何より――僕はまだ自分に嘘をついている。最も本質的な問題から目を逸らしている。けれど、自分から動こうとはせず、何か超越的な力で万事が解決することを望んでしまっている。奇跡ってやつが偶然ポケットの中に入り込むような、天から神様がやってきて「えいっ」と指を振って万事解決するような。
 そんなこと、有り得ないというのに。

 そして真夏の路上に戻る。
 アリの隊列は既に去り、道路に残っていた汗の黒い斑点も蒸発してしまった。
 暑さ対策にかぶっていた野球帽を脱ぎ、髪に溜まった水分をワイパーみたいに手で跳ね除ける。体感、一リットル分の汗はかいた。でも飲み物はない。自動販売機を頼るにも小銭がない。ゲームオーバー。残機ゼロ。
「……うん」
 決めた。
 やっぱり帰ろう。
 今更、体裁の悪さなんか気にするもんか。どうせ、僕にはプライドらしいプライドなんてない。母さんの白い目に耐えながら観戦する甲子園も悪くないだろう。今の僕に必要なのは心の糧よりも身体の糧だ。
「うっし」
 さあ帰ろうと立ち上がった時だった。
「ん?」
 遠くの路地に、何かがいる。棒のようにひょろ長く、それでいて奇妙に揺れている、メトロノームを思わせる物体だった。
 目を細める。
 最初は陽炎か蜃気楼かと思ったが、それにしてはシルエットがハッキリとしている。それに、ユラユラと左右に揺れる姿にはどこか見覚えがあるような……。
 好奇心が鎌首をもたげ、UMAを見つけた探検隊のような慎重さでそろそろと近づいていくと、
「やあやあ、キミは僕のクラスで一番頭が良くて、委員長も務めている近藤くんではないか」
「……いきなり現れるなり、どうして説明口調なんですか」
 我が級友である近藤くんは、心底げんなりとした声と共に僕を睨んだ。歓迎感はゼロだった。ここが京都ならお茶漬けを出されているだろう。

543 名前:彼女にNOを言わせる方法[] 投稿日:2018/08/13(月) 19:34:14 ID:6gtm5gpM [6/11]
「しょっぱい対応をしないでおくれよ。僕と近藤くんの仲じゃないか」
「いや、ぼ……ゴホン。おれたち、別に仲良くないでしょう」
「何を言いますか。夏休みに近藤くんと会えるだなんて、給食にアセロラミルクが出てくるくらい嬉しいよ」
「アセロラミルクって……それは、うーん」
 思いのほか嬉しさのレベルが高かったせいか、リアクションに困っていた。紙スプーン負けするほどカチカチに冷えたアセロラミルクが給食に出てきたら、そりゃ誰だって嬉しい。
「会うのは終業式以来だけど、元気にしてた?」
「少なくとも、今は元気じゃありませんね……暑さにはだいぶ弱いものでして……」
 そう言いながら、ハンカチで額を拭う。同年代だとは思えない堂の入った仕草だったが、実際は老け込んだ印象の方が強く残った。なんていうか、疲れたサラリーマンっぽい。気苦労が多いのかしら。
「気苦労なら現在進行形で増えていますけどね」
 まあ、この暑さだ。気苦労が増えるのも無理ないだろう。うん。
 こうやって親し気に話しかけている間も歩みは止まらず、彼はフラフラと前へ進んでいく。
 僕は横にピッタリと並んで帯同し、
「近藤くんは一体全体どこへ向かっているんだい? もしかしてラジオ体操の帰り?」
「ラジオ体操の時間はとっくに過ぎてますよ」
 その口ぶりからすると、毎朝参加しているらしい。さすが優等生。
「今は、学校に向かっているんです」
「学校?」
「はい」
 ……嗚呼、クラス一の秀才も酷暑でおかしくなってしまったらしい。
「近藤くん……夏休みに学校はやっていないよ」
「は?」
 半ギレだった。
「わかっていますよ、ぼ……ゴホン。おれはキミと違ってバカじゃないですから」
 本当に残念な生き物を見るかのような冷めた目で僕を見る。すごいな、出会ってまだほんのちょっとしか経っていないのに評価がどんどん下げられていく。このままだと終業式の時に渡された通信簿以下になりそうだ。
 たしかに、彼が背負っているのは黒のランドセルではなくてカジュアルなリュックだった。
「なら、ウサギ小屋の様子でも見に行くのかい? 近藤くんって、生き物係だったっけ」
「いえ、夏期講習に行くんです」
「かきこーしゅー?」
 夏期講習。僕にとっては異国の言葉並みに馴染みのない単語だが、その意味くらいは辛うじて知っている。しかし、学校という場所とうまく結びつかなかった。普通、夏期講習っていえば学習塾なんじゃないの?

544 名前:彼女にNOを言わせる方法[] 投稿日:2018/08/13(月) 19:36:24 ID:6gtm5gpM [7/11]
「○○くんの言うことにも一理ありますがね」
 汗でずれたメガネの位置を調整しながら、彼は説明を始めた。
 近年、学生の教育格差は著しく拡大している。
 何も難しい話でなく、単純に教育にはおカネがかかるからだ。財布に余裕がない家庭は言うまでもなく、余裕がある家庭であっても親の教育方針によっては行けない場合がある。「勉強なんて家でやればいいでしょ」の一言で学習塾への道は閉ざされ、自律的な子どもでない限り成績は下降していき、両者の差は広がっていく。
 だが、この際に無視されている存在がある。そう、学校だ。
 れっきとした教育機関であるのに、そのクオリティに期待する者は極めて少ない。学校はあくまで集団生活の基礎を学ぶところ、もしくは友達をつくって遊ぶところであり、それが世間から下されている評価だ。まさか学校の授業だけでお受験に成功すると考えている人は、生徒も含め一人もいないだろう。中には学習塾の授業を優先して学校を休むリアリストもいるらしい。
 しかし、その現状に「待たれい!」と声を上げる若手教師がいた。
 たしかに、お坊ちゃんお嬢さまが通うような有名私立校と比べると、公立校の授業は質が低いかもしれない。けれど、授業の質が教師の質の低さを意味するわけではない。見ておれ私立の衆、公立校の意地を見せてやる!
 ってな経緯で、夏休みに自主的に夏期講習を開いたのだという。
 いやぁ、暑い。じゃなくて熱いね。今時、珍しい熱血教師だ。
「せっかくの夏休みだってのに、奇怪な先生もいたもんだね。大人しく自宅で休んでいればいいものを。僕だったら休日に働くだなんて、絶対にしないなぁ」
「何を言っているんですか。夏休みであっても、先生たちは学校に来て仕事をしていますよ」
「え? ほんと? だって何やってるの。授業はないじゃないか」
「それは……詳しくは知りませんが、きっと色々と雑務があるのでしょう」
 物知りの近藤くんでも知らないみたいだった。春休み、夏休み、冬休み、長期休暇の間、先生たちは何をしているのか。生徒にとっては永遠の謎である。
 答えられなかったのを恥と捉えたのか、彼はわざとらしく七三の髪をかきあげ、夏期講習に話を戻す。
「もちろん、学習塾に比べるとクオリティは落ちますがね。人の手も全然足りていませんし、テキストだって十分じゃない。でも、先生も丁寧に教えてくれますし、なにより一円だっておカネをとらない。参加者からはなかなか好評ですよ」
 わざわざ自分の時間を削ってまで開講しているのだ。やる気なら満ち溢れているだろう。勉強というのは本人の意欲が最も重要だが、教える側の意欲もそれに次いで重要である。
 いつの間にか、足を止めていたらしい。近藤くんは歩くスピードを落として、怪訝そうに後ろを見る。
 ちょうど、僕たちの横を白い乗用車が通り過ぎた。排気ガスのにおいを残して消えていく、金属の塊をぼんやりと眺め、呟く。

545 名前:彼女にNOを言わせる方法[] 投稿日:2018/08/13(月) 19:36:46 ID:6gtm5gpM [8/11]
「僕も行こうかな夏期講習」
「え」
「え」
「今、なんて……」
「いや、だから僕も夏期講習に行こうかなって……」
「…………」
 近藤くんの足が完全に止まった。横に流していた前髪はすっかりと垂れ、彼の眉毛を覆っていた。その眉が、滑らかな動きで上下に揺れ動き、その下の瞳は大げさなほど見開かれている。
「……○○くん、ちょっとついてきてもらえますか」
「あ、え、ちょっとっ」
 グイっと力強く僕の手を引き、近くの公園にまで連れていった。そして東屋で僕を寝かせると「ちょっと待っていてください」と離れ、水で濡らしたハンカチを持ってきた。
「首のつけ根に当てるように。あと、これを飲んでください。麦茶です。本当ならスポーツドリンクの方がいいんですが」
「……近藤くん。僕、別に熱中症じゃないよ。めちゃくちゃ元気だよ」
「いけないな。意識が朦朧しているみたいですね。救急車を呼ばないとダメかもしれません」
「おい、近藤」
 その四角い銀フレームのメガネをへし折ってやろうか。
 僕は上半身を上げ、差し出された麦茶を奪い取り、ぐいと飲み干す。
「別にいいだろう。夏期講習に行ったって。こちとらやることなくてヒマなんじゃい!」
「ですが……あの○○くんが……知能指数が銀行の金利並みにしかない○○くんが……念のためもう一度訊きますが、正気ですか?」
 もちろん、僕は正気じゃなかった。血迷っていなきゃ、せっかくの夏休みを勉学に費やすなんて無益な真似をするわけがない。
 ――けれど、『あの日』からずっと苛まれている、吐瀉物が喉元までせり上がって、常時そこに留まっているような不快感をどうにかするには、毒でも煽らなきゃならんだろう。つまりは気付け薬。ショック療法だ。
 でも、そんな弱音は口が裂けても言えないから、
「劣等生がやる気を出すのは、ドラマなんかじゃ王道のストーリーだろう」
 冗談のオブラートに包むことにする。
 近藤くんは納得いかない様子で腕を組んでいたが、呆れたようにため息を吐いて、僕の手の水筒の蓋を回収する。
「いつかはかき消えるロウソクの炎のようなやる気ではありますが、それでもやる気であることに変わりはありません。まあ、応援しますよ」
「こ、近藤くん……」
 一瞬、感動しかけるけど、これ遠まわしに僕ディスられてない? おかしいな。優等生というのは劣等生がやる気を出すと喜ぶものではないのか。スクールでウォーズするものではないのか。
「優等生は劣等生を嫌うものですよ。努力しない人たちを、どうやって好けばいいんですか」
 あくまで近藤くんはドライだった。
 クラス委員長とは思えない博愛精神の欠如っぷりだったが、この蒸し暑い季節には、そのくらいのドライさがちょうどいいのかもしれない。
 なんちって。

546 名前:彼女にNOを言わせる方法[] 投稿日:2018/08/13(月) 19:37:07 ID:6gtm5gpM [9/11]
 一旦、家に帰ることも考えたが、母さんとの冷戦じみたやり取りを思い返すと、どうにも気が進まなかったので、このままついていくことにした。筆記用具については貸してもらえばいいだろう。
 それから五分ほど歩くとスクールゾーンの路面標示が見えてきて、さらに三分ほど歩くと交通安全の標語が書かれた看板と、経年劣化が著しい校門が見えた。
 夏休みの学校は、まるで違う建物に見えた。慣れ親しんでいるはずのものが全く違う様相を示す様は、録音した自分の声を聞いた時のようだった。
 考えてみると、活気のない学校というのは妙ちきりんだ。グラウンドが賑わう体育や昼休みの時間は言うに及ばず、全てのクラスが教室に収まって粛々と授業を進めている時間であっても、ヤカンの蓋がカタカタと震えるような妙な騒がしさがあるものだ。
 が、今は何の音もしない。駐車場に先生たちの車が停められていなきゃ、無人だと思ったかもしれない。
 校門を跨ぐのに、抵抗があった。他のクラスに入る時の抵抗を、十倍強くした感じ。「あなたは余所者?」と校舎から問いかけられているようだった。
 近藤くんは僕の躊躇にも気付かぬ様子でさっさと進んでいく。二の足を踏んでいる暇はなかった。置いてかれないように、慌てて横に並ぶ。
「ねぇ、本当に中に入っても大丈夫なのかな。怒られないかな」
 と、あわや訊ねそうになったほどだ。もし本当に訊いていたら、鼻で笑われていただろう。あぶねー。
 昇降口は閉まっているというので、教職員用の入口から中にはいる。赤い絨毯が目に眩しく、靴をほっぽり出すと、フミフミと踏んで感触を楽しんだ。
「あ」
 そこで気づいたのだが、上履きは終業式の日に持って帰っていた。
「どうしよう」
 お隣さんに意見を仰ぐと、
「あれを使えばいいんじゃないですか」
 と、来客用の茶色いスリッパを指差す。
「あれって、生徒が使っていいの」
「さあ。文句を言われたら、事情を説明すればいいでしょう」
 どうでもよさそうな顔つきで、リュックの中から上履きを取り出している。
 ……この野郎。他人事だと思いやがって。もし先生に怒られたら全ての罪を近藤くんになすりつけようと決めた。近藤くんが履いていいって言うから履きましたー。僕は悪くありませんー。
 夏期講習は二階の教室で行われているとのことなので、近藤くんを先頭に二人で廊下を進む。
 履き慣れないスリッパは、上履きに比べるとクッション性に乏しく、直に廊下に触れている感じがした。

547 名前:彼女にNOを言わせる方法[] 投稿日:2018/08/13(月) 19:37:29 ID:6gtm5gpM [10/11]
「おっと」
 道中、何度か脱げそうになり転びかけた。いつも履いている上履きだって、踵を潰して履いているからこのスリッパとそう変わらないのに、履きやすさは天と地の差だった。なんでだろう。不思議だ。
 階段を登ると、遠くからワイワイと騒ぎ声がしてきた。ようやく見いだした普段の学校らしい要素に、少しだけホッとする。通ってきたのが空っぽの教室ばかりだったから猶更だった。
「あそこです」
 近藤くんの指差す先には『4ー2』の札があった。夏期講習を企画した熱血教師が受け持つ教室とのこと。
 近藤くんは背中からリュックを下しながら、四年二組の教室のドアを横に引く。
 ドア付近にはちょうど下級生とおぼしき生徒が近くで二人歓談していて、近藤くんの姿を認めると、
「おはようございます!」
 大きな声で元気よく挨拶した。ほう、中々礼儀ってものをわかっているじゃないか。
「はい、おはようございます」
 と、近藤くんが、ついぞ僕には見せなかった爽やかな笑顔で挨拶を返した。あら、そんな顔もできるのね。その爽やかさをもうちょっとだけ僕にも割り当てて欲しかったなぁ……。
 と、二人の生徒は背後にいる僕に気付くと、困惑した顔をして、助けを求めるように近藤くんを見た。
「挨拶は必要ないですよ。明日にはいなくなってるでしょうから」
 ぐぬぬ、ナチュラルに毒吐くな……まあ、事実だから言い返せないが。この気まぐれが明日には消えてなくなっていることは、僕も想定済みだった。
 教室には十五名ほどの生徒がいた。学年はバラバラで統一感がない。一番前の席にいる最下級生とおぼしき子は、明らかに高すぎるイスに座っていて足をブラブラさせている。僕たち子どもの数年間は案外大きいんだなと再確認する。
 これから追加で増えるのかもしれないが、思っていたよりずっと小規模だった。どれほど宣伝していたのかは知らないが、なにも夏休みに勉強したくないのは僕だけじゃないみたいだ。
「席は自由に座ってくれて構いませんが、なるべく黒板近くでお願いしますよ。あまり離れた席に座られると、授業の効率が悪くなるので」
 わかったよ、と返事をしようと開けた口が――固まった。
 ざっと教室内を確認していた眼球が、ある色を捉えたからだ。
「……○○くん? どうしました? あんぐり口を開けて。阿呆っぽく見えるから止めた方がいいですよ」
 近藤くんの言葉は、すでに耳に入っていなかった。
 僕の視界は急に狭くなり、教室の隅、窓際後方の席に集中された。
 ――銀色だった。
 夏風に揺れるカーテンから、断続的に一条の光が差し込み、キラキラと冗談みたいに煌めく銀色があった。顔は窓の外に向けられているので、表情は伺えない。けれど、僕があの銀色を見間違えるはずがない。
 どうして、ここに。
 止まっていた心臓が動き出し、新鮮な血液が送り出されていくのがわかった。それで気付いた。僕は、今まで死んでいたのだと。そして今、生き返ったのだと。
『あの日』からずっと抱え込んできた憂いや悩みが、全て溶けだしていくのを感じる。そして、最後に残るのは、赤くて熱い、純粋な感情。
「○○くん?」
 いよいよ心配しだした近藤くんが、長い身体を折り曲げて僕の顔を覗き込む。視界の銀色が遮られたおかげで、手放しかけていた正気を取り戻す。
 開けっ放しの口を、ワニのように勢いよく閉じて、緩まないように噛み締める。
 はやる気持ちを必死で抑え込みながら、僕は近藤くんに向かって笑いかけ、平静を装って返答した。
「何を言っているんだ、近藤くん。僕は明日からも参加するつもりだぜ」