572: 『彼女にNOと言わせる方法』 :2019/06/02(日) 20:51:10 ID:Tydw7VIs
 黒い衣服を身に纏った彼女は、椅子をわずかに窓の方へ向け、姿勢よく座っていた。視線と意識は窓の向こうにあるようで、教室内のささやかな喧噪には反応を示していない。
 何を見ているのか気になって、彼女の背中越しに外の景色を見る。
 けれど、そこにはのんびりとした速さで流れる入道雲以外には何もなく、スロー再生の映像みたいに変化に乏しい光景だった。変化の激しい車窓からの眺めならまだしも、特別面白みのない学校のグラウンドに意識を向ける意味はあるのかしらん。
 それとも――ヒトのいる教室よりかは、ノロマな自然の機微のがまだマシとでもいうのか。
 仮に僕の想像が当たっていたとしたら、それは随分とさみしい考えだった。まあ、らしいっちゃらしいのだけど、たまには人情の良さを知るべきじゃないかね。
 やれやれ。では、この愛の伝道者たる僕が、人間の素晴らしさというものを教授してやるとしますか。
 ニヤケる頬を指で揉みつつ、最初にかけるべき言葉を模索する。
 無難なのは、間違いなく挨拶だろう。万国共通、会話のとっかかりとしてこれ以上のものはない。歯ブラシのCMが似合いそうな爽やかスマイルで挨拶すれば、誰だって悪い印象は抱くまい。
 でも、それじゃあ普通すぎて印象に残らない気がする。挨拶なんて誰でもするわけだしなぁ。せっかくの好機を無難に消費してよいものだろうか。
 ……それなら。
 ムクムクと湧き起こるイタズラ心が、耳元でささやきかける。
「見たくはないか? ワッと背後から脅かして、キャッと女子みたいに叫ぶサユリを」
 ……た、たしかに。でも、そんなイタズラをしたら嫌われてしまうんじゃ……あと、サユリは女子みたいじゃなくて実際に女子なんだけど。
「何を言う。親しい間柄でなくては、イタズラはできないだろう。つまり、イタズラという行為は友好の証なのだよ。さあ、不安になっている心は追いやって、さっさと彼女を驚かしてやれ。あの氷の表情が幼げに怯える瞬間をゲットできれば、今後百年はからかえるぞ」
 ……オーケー。そこまで言うのなら従おうじゃないか、僕。じゃなかったイタズラ心くん。卵が先かニワトリが先か問題はとりあえず脇に置いてね。そう、これは命令されて仕方なくやるのだ。しゃーない、しゃーない。
 気配を殺し、猫のように足音を消し、そろそろと接近していく。
 サユリが僕に気づいている様子はなかった。つまり、先手を打てる状況。RPGなんかでもそうだけど、先制攻撃が成功すれば場は有利に働く。
 脳内に浮かぶは、羞恥に顔を赤らめるサユリ。しかし、あまりに現実とかけ離れたそのイメージは、手のひらに乗った粉雪のようにすぐ溶けてしまう。それだけ無表情がデフォルト化されているということだが、その分、それ以外の表情にはレアリティが生まれる。
 こりゃいいものが見られそうだぞ。
 にっしっし、と内心ほくそ笑んだのが失敗だった。
 油断は足元にあらわれた。
 そろりそろりと爪先を立てるように歩いていたため、未だ履き慣れぬスリッパがつるりと滑ってしまい、靴飛ばしの如く前方に飛んでいった。
 弾丸のように解き放たれたスリッパは、彼女の座るイスの側面を軽く叩き、窓の外に向けられていた意識が逆方向に切り替わり――先手を打たれたのは僕の方だった。
 青い瞳が、黒い瞳を射抜く。サユリの小さな顔の造りの中でも、とりわけ瞳には魔術的な力があり、思わず目を逸らしそうになる。

573: 『彼女にNOと言わせる方法』 :2019/06/02(日) 20:51:42 ID:Tydw7VIs
 が、押し切られそうになる直前、なんのこれしき! と土俵際でなんとか踏ん張る。グッと眉間に皺を寄せ、睨みつけるように見返す。
 結果、互いに見つめ合う状態が生じた。
 見つめ合うだなんていうと、いかにもラブロマンスな感じがするが、僕とサユリの間にあるのは、まるでサムライの果し合いのような殺伐とした緊張感であった。まだ刀は抜いちゃいないが、さながら鍔迫り合いのような様相で、青と黒がせめぎあい拮抗していた。
 けど、いかんせん僕が足を滑らせた姿勢のまま硬直しているもんだから、マヌケな感じがするのは否めない。微妙な角度で上げたままの片足は早速プルプルし始めているし……って、あ、もうダメ。
「へぶしっ」
 すってんころりんと尻もちをついた拍子で、被っていた帽子がずり落ち、ひさしの部分が視界を覆った。
 勝負アリ。
 青の勝利。黒の敗北。
 完。
 …………。
 ……認めようじゃないか。第一ラウンドは僕の負けだ。ついでに、罠を仕掛けようとしていた者が、ポカした時の情けなさも受け入れよう。
 醜態はさらした。けれど、まだリカバリーは効く。
 思い出せ。当初の作戦を。そう、爽やかな挨拶だ。政治家の選挙ポスターのようなうさんくさい……じゃなかった歯ブラシのCMが似合いそうな爽やかな挨拶だ。爽やかな挨拶……爽やかな挨拶。
 顔半分を覆い隠していた帽子を脱ぎつつ、笑顔の準備のためゆっくりと口角を上げ、
「意外とおバカちゃんみたいだな」
 ニヤリと小バカにするような笑みを浮かべた。
「いつも教室のすみっこで読書しているくせに、夏期講習なんぞに頼らなければ授業についていけないのか。頭いいですオーラ出してるだけの、なんちゃってインテリキャラだったのか。まったく、キミのような劣等生のせいで僕たちはゆとり世代だなんだのって何かと低く見られているんだぞ。世代の足を引っ張っている自覚はあるのかね」
 欧米人のように大げさに肩をすくめてみせるが、サユリは何も言わなかった。
 目をそらさずに、じっと僕のことを見ている。
「な、なんだよ」
 怒っているのかと思ったが、違った。
 よく見ると、いや、よく見ずとも、変化らしい変化は何もなかった。それどころか、喜怒哀楽の全てを感じなかった。表情筋が死んでいるんじゃないかと思うくらい、何もない。若干、瞬きの回数は多いような気がしたが、おそらく気のせいだろう。
 素材の粗いシャツを着たような、ぞわぞわとした感覚に背中を掻く。
 彫像だって、見る角度によっては微笑んでいるようにも怒っているようにも見える。けれど、サユリの場合はどの角度から見ても、『無』しか読み取れなかった。まるで、白紙の絵本を読んでいるようで……。
「つまらぬやつだ」
 転がっていたスリッパを足で引っかけて回収し、隣の席に座る。
 サユリはしばらく僕の横顔を見ていたが、興味を失くしたのか、再び窓の外に視線を向けた。
 ハァ、とため息を吐く。
 サユリの無反応に、少なからず落胆していた。
 僕の中には、夏期講習といういつもと異なる空間での思いがけない再会に昂る気持ちがあった。だから、その百分の一くらいは、彼女も同じ気持ちを共有してくれればと期待していたが、どうやら人頭がひとつ増えた程度の認識しかないらしい。
「はあああぁぁぁぁぁ」
 隣にも聞こえるような大仰なため息を吐くが、反応はなかった。

574: 『彼女にNOと言わせる方法』 :2019/06/02(日) 20:52:06 ID:Tydw7VIs
 やや背の低い椅子にもたれかかり、ふと前を見ると、近藤くんが黒板近くの席を指差して「ここに座れ」とジェスチャーしていた。どうやら、僕の視力を慮って前に座るよう気遣ってくれているみたい。けど、大丈夫だよ近藤くん! 僕の視力は両方とも二・○だからね! 前に座る必要はないよ!
「違いますよ。そこに座っていたら監視しづらくなるでしょう」
 声に出された。
 というか、監視ってなんだ。まるで僕のことを授業の邪魔をする悪ガキみたいに見ちゃってさ……授業中におふざけをしたことなんて今まで一度も……いや、一度くらいはあったかなぁ。なんなら二度くらいあった気もする。まあ、一度や二度も変わらないって。
 それより、反省会だ。
 さっきの僕の態度はなんだ。爽やかな挨拶はどこへいった。イジワルしたって嫌われるだけなのに、夜ベッドの上で後悔に身悶えするって理解しているのに、なぜ裏腹なことばかりするのだ。
 いつもこうだった。頭ではダメだってわかっているのに、心が云うことを聞かない。サユリと顔を合わせれば、口から出るのは皮肉ばかりで、好感度が上がりそうなことは何一つ言えてない。しかも、その原因がちっともわからないときてる。
 嗚呼、我が心情は複雑怪奇哉!
 ぐいっと重心を後ろに移し、さらに椅子の角度を急にする。
 首を垂らし、天井を見上げる。
 出鼻はくじかれたが、今の状況がチャンスであることは違いない。夏期講習という特殊空間の中なら、クラスメイトの畏まった視線もないし、いつもより気兼ねなく話しかけられるだろう。仲良くなるには絶好のシチュエーションだ。
 それにさ。楽天家の僕にゃあネガティブシンキングは似合わない。ヘラヘラ笑って、ヘラヘラこなすのが僕ってもんでさ。ってなわけでポジティブシンキング。失敗は成功の母ちゃんってね。
 ってな風に決意を新たにしていると、
「みんな、おはよう!」
 音量調整をミスったテレビを思わせる声にひっくり返りそうになる。下腹部に力を入れて、椅子を元の位置に戻す。教室前方を見ると、右手をあげて颯爽と登場してきているのは、ジャージ姿の若い男性教師だった。
 教壇の前を陣取り、白い歯をキラリと輝かせて、再度「おはよう!」と挨拶した。メンソールの香りが漂いそうな爽やかさに目が染みる。うーむ、あれが模範解答か。どちらにせよ、僕には無理だったな。
「さあ、今日も一日がんばって勉学に励むとするか! ところでみんな、熱中症で倒れる人が一番多い場所はどこか知っているかな」
 最初は世間話から入るタイプらしい。脈絡のない質問ではあったが、主に下級生を中心にハイハイと勢いよく手が挙がる。
「グラウンド!」
「公園!」
「海!」
「山!」
「体育館!」
 と、様々な意見が出てきた。最後に回答した生徒の「どうして全校集会の時だけ、校長先生の話は長くなるんですか」という質問に、教室内がドッと沸いた。
 ジャージ姿の教師は苦笑して、
「それは先生も知りたいところだなぁ。ここだけの話、あの長ったらしいご高説にはウンザリしていてね……おっとっと、これは黙っておいてくれよ」
 と、教室内の笑いを誘い、
「では、答えを発表しようか。越中症で倒れる人が一番多い場所は果たして何処なのか……正解はね、意外なことに自宅なんだ。どうしてかというと、慣れ親しんだ場所だと安心しちゃって水分補給などの暑さ対策を怠ることが多くなるからなんだ。特に、クーラー嫌いな人だとそのリスクは高まるね。というわけでだ、夏期講習の間は喉が渇いていなくても定期的に水分補給は行うこと。そして、気分が悪くなったらすぐに先生に言うこと。この二点は絶対に守ってくれ。でないと……」
 教室内をぐるっと見渡していた先生の視線が、すみっこに座る僕を捉えた。
「……でないと、こんな風に幻覚が見えたりする場合もあるからな」
「先生、お気持ちはわかりますが、○○くんは幻覚じゃありませんよ」
 一番前の席に座る近藤くんが冷静に指摘した。
 ……おかしいな。この先生とは担当の学年も違うし、接点はないはずなんだけどな。なぜ僕の人となりを把握しているのだろうか。
「どう思う、女王さま」
 と、隣に聞いてみるが、いつものような塩々の塩対応で塩漬けされてしまいましたとさ。
 ちゃんちゃん。

575: 『彼女にNOと言わせる方法』 :2019/06/02(日) 20:52:30 ID:Tydw7VIs
「俺は嬉しいぞ! ○○!」
 目の前までやってきた先生はグワッと声を上げ、ガシッと手を掴んだ。
 おお、熱い熱い。サウナが擬人化して歩いてきたのかと勘違いしたよ。あと、手を握る力が強すぎて僕の手が真っ白になっているんだけども。痛い痛い。
「学校一の悪ガキも、ようやく勉学の素晴らしさに気づいてくれたか。しかも、わざわざ貴重な夏休みを使ってまで参加してくれるだなんて……俺は、俺は嬉しいぞ!」
「当り前じゃないですか、先生。勉学は人生の選択肢を増やすだけではなく、人生そのものを豊かにしますからね。学ばざる者、成長せざるですよ。あ、これ、たった今閃いたんですけど」
「いい言葉だ!」
 冷めた近藤くんとは違って、ジャージ先生は大いに喜んでくれた。さすがは熱血教師。スクールでウォーズできるタイプらしい。「今からあの夕陽に向かってうさぎ跳びだ!」とか言いだしかねない熱血っぷりだったので、僕のヒザのためにもこれ以上薪をくべるのはやめておこう。
 夏期講習は、いわゆる講義スタイルではなくて、自習に近いスタイルであった。基本は、各々が持参したドリルやらプリントやらにひとりで取り組み、わからない問題にぶつかったらハイと手を挙げて質問する個別指導に近い形態。まあ、学年がバラバラだから同一のテキストを使えないし、これが一番合理的なのだろう。
 けれど、圧倒的に教え役が足りていなかった。講師を務めているのはジャージ先生と近藤くんなのだが、あがっている手の数に対して、処理する側が少なすぎる。高難易度のモグラたたきをやっているような感じで、手はあがれどもさがることはほとんどなかった。教育には時間がかかり、だからこそコストが高いのだなぁと学習塾の意義を再確認。
 仕方あるめぇ。なら、高学年である僕が教えるしかないじゃないか。
 ちょうど近くに、おずおずと手をあげている気弱そうなメガネちゃんがいた。僕は彼女へと近づき、
「やあやあ、その様子だとわからない問題があるみたいだね……って、恐がらないで怯えないで。僕はただ手助けをしにきただけさ。どれどれ、今やっているのは算数か。それでわからない問題は……ああ、分数の足し算ね。こんくらい楽勝、楽勝。いいかい? 分数の問題を解くには、まず下の数字をそろえる必要があってね、だからこうしてやればちょちょいのちょいと……ん? なぜに? どうして正解と違うんだ! ちゃんと下の数字はあわせて約分もしたのに! おかしい、印刷ミスだろ絶対!」
「余計なことはしないでください」
 ポコン、と近藤くんが丸めた教科書で頭をはたいてくる。
「○○くんが人に教えられる立場ですか。どのような理由であれ、せっかく夏期講習に参加したのですから、まずは自分の勉強に集中してください。はい、これ夏期講習用のプリントです。ぜひ使ってください」
 と、渡されたプリントの右上には、『一年生用』の文字が書いてあった。
「言わないでください。何も、言わないでください。○○くんが今、何を言いたいのかはよーくわかっています。なので、先に返事をしておきましょう。いいですか? 勉学において最も重要なのは基礎です。積み木でつくったお城を想像してみてください。土台がしっかりとしていれば容易には崩れませんが、スカスカで数が足りてなければ指で押すだけで崩れてしまいます。それだけ基礎は重要ってことです。なのに、キミたち勉強ができない人というのはやたらと基礎をバカにするし、真面目に取り組もうともしません。もし不服に思っているのなら、まずはその一年生向けのプリントを完全に解いてください。一問の間違いもなくです。文句はそれからでお願いします。以上」
 といって、反論の余地も与えないまま、他の生徒の元に行ってしまった。
 正論かもしれないが、いくらなんでもこれはないだろう。『5+7=』とかあるぞ。さすがの僕でもこれを間違えることはない。全く、近藤くんはすぐに僕をバカにして。
 不満はあったが、せっかくならば実力で見返したかった。僕の完璧な回答を見れば、さしもの彼も見直すに違いない。ふふーん、ぐうの音も言わせてやらんぞ。
 てなわけで自分の席に戻り、プリントにとりかかろうとしたが、鉛筆がないことに気づく。そいや、手ぶらで来たんだっけか。
 隣を見る。サユリは持参したテキストを使って勉強をしていたが、僕の視線に気づき手を止めて見返した。何か御用? とでも言うかのように少しだけ首をかしげている。
「鉛筆を貸してくれないか」
 今度は無視されなかった。どうやら、クラスメイトに文房具を貸し出すくらいの良心は持ち合わせていたらしい。ペンケースからまだ真新しい鉛筆二本と消しゴムを取り出して、僕に手渡す。

576: 『彼女にNOと言わせる方法』 :2019/06/02(日) 20:52:54 ID:Tydw7VIs
「ありがとう。終わったら返す」
「あげる」
 もらってしまった。どういうことなのだろうか。鉛筆の一本や二本くれてやろうというブルジョワの慈善か。それとも僕が使った鉛筆は二度と使いたくないという生理的な嫌悪感か。後者だったら軽く死ねるな……。
 きちんと礼を言うべきだったが、口から出たのはまたしても、
「受け取っておいてやろう」
 尊大極まりない感謝であった。
 ……うん。心を入れ替えるためにも勉強しよう。
 と、先の尖った芯を紙面に書きつける直前、待てよと思って鉛筆をチェック。あらゆる角度から観察し、その質感を確かめる。念のため、鼻を近づけて香りも調べる。しかし何の変哲もない、ただの鉛筆であった。
「ハッ」
 視線を感じ、隣を見ると、相も変わらずサユリがこちらを見ていた。
「ち、違うんだぞ。僕は何かしらの用具を使う際は、用心深くチェックするのが常であってだな。それがたとえ鉛筆の一本であろうともだ。だから決して、お金持ちが使っている鉛筆ならば高級品に違いない、もしかしたら高価で売れるんじゃないかとか、横流しして小遣い稼ぎをしようだとかは考えてないぞ」
 サユリは何も言わなかった。が、内心ではどう考えているのかは計り知れない。せっかくの善意を金銭に変換しようとする浅ましい男子と思われているのかもしれない。その通りだからなんも言えねぇ……。
 プリントは順調に進んだ。一年生向けのものだから当然なのだけれど、久々に味わう鉛筆が止まらない感覚に、時間の流れを忘れてしまった。
 気づけば、昼になっていた。夏休みの間はチャイムが鳴らないらしい。そのせいで全く気付かなかった。
「それじゃあ、午前はこれでおしまい。午後に備えてしっかり休んでおくように。先生は職員室にいるから何かあったら来るように」
 ジャージ先生はニカッと歯を出して授業を締めると、キビキビした動きで去っていった。
 授業が一区切りついた時の、凝り固まった空気が一斉に弛緩していく感じは夏期講習でも変わらないらしい。
 生徒たちはワイワイと声を出しながら机を寄せ合っている。
「さて、お昼休みか。今日の給食は何かな、近藤くん?」
「夏休みに給食室が動いているわけがないでしょう……」
 弁当の包みを片手に持った近藤くんがさらりと否定。
「なら僕はどうすればいいのさ。お腹ペコペコなんだけれど」
「一旦、家に帰ればいいんじゃないですか。たしか、○○くんの家はそんなに遠くなかったでしょう」
「あの灼熱地獄の中に戻れと言うのか。しかも、今は最も勢い増す真っ昼間だぞ。僕のことをピラミッドの石材を運ぶ奴隷かなんかだと勘違いしているんじゃないのか」
 ぶーたれる僕の言葉をスルーして、分厚い参考書を脇に置き、弁当の包みを広げ始める。僕の扱いに慣れてきた感が出てきている。悪い兆候だな……。
「まあ、昼食は置いとくとしてだ……近藤くん。その……あいつはどこいったの。なんか見当たらないけど」
 あいつ? と、彼は一瞬、目を細めたが、すぐに「ああ」と納得したように呟き、
「昼休みは、いつも中庭にいるみたいですよ」
「中庭? 暑くないのかな」
「大丈夫じゃないですか。あそこは木陰がありますし、校舎間の隙間風もよく吹いていますから……というか、かえってこの教室よりも涼しいかもしれません」
 と、視線を上げた先には、申し訳程度に備えられた壁扇風機が二台。税金不足の波は教室にまで及んでいた。世知辛い世の中ですな。
「ありがとう、近藤くん。それじゃあ一緒に中庭へ行こうか」
「何を言っているんですか。ぼ……おれは昼休みの時間はここで参考書を見ながらゆっくり勉強すると決めているんです。お断りしますよ」
「バカチンが!」
 バンッと軽く机を叩く。
 近くで島をつくっていた下級生たちが、目をパチクリさせながら僕と近藤くんを見た。そっちには「なんでもないよー」と笑顔で手を振ってから、こっちには鬼の形相で向かう。
「キミはそれでもクラス委員長か! 昼休みに一人寂しく過ごしているクラスメイトを放っておくというのかね。クラスの輪の中に入れないはぐれ者は仲間ではないとでも言うつもりか。許せんよ、僕は!」
「いえ、彼女の場合はむしろ望んでそうしていて……それに、おれが一緒に行く意味ありますか?」
「そうか。つまり、キミはそういうヤツなんだな。クラスで孤立する生徒を我関せずと見て見ぬ振りをする日和見主義者なんだな。嘆かわしい。これ以上、嘆かわしいことはないよ。クラス委員長なのに、クラス委員長なのに、クラス委員長なのに!」
 肩書き連呼は結構効いたらしい。「……よく回る口ですね」と悪態をつくものの、逡巡する様子を見せた。

577: 『彼女にNOと言わせる方法』 :2019/06/02(日) 20:53:17 ID:Tydw7VIs
 彼自身が言ったように、僕一人で行ってもいいのだが、これも何かの縁だ。食事ってのはたくさんの人がいた方が賑やかで美味しく感じられるものだし、何より、近藤くんはサユリを恐れない、数少ない貴重な人材だ。
「何をなすべきか。クラス委員長の近藤くんにはわかるんじゃないかな」
 ダメ押しの追加点を叩き込むと、彼はこれみよがしに大げさなため息を吐き、開けたばかりの弁当の蓋を閉める。
「行っても、嫌がられるだけだと思いますよ」
 一足す一は二ですよ? みたいな感じで言われてしまった。
 まあ、その時はその時だ。何事も始めてみなきゃわからぬだろう。

 学校で最も人気のあるスポットといえばグラウンドだ。広大な敷地で鬼ごっこをするもよし、縄跳び台で二重飛びの練習をするのもよし、登り棒に登ってモンキー気分を味わうのもよしのなんでもあり。特に人気なのは昼休みで、ドッジボールコートの陣地取りはいつも熾烈を極めている。
 グラウンドとは対照的に、中庭はあまり人気がない。花壇やビオトープがあるためボール遊びは禁止されているし、あるものといえば傷んだ百葉箱と図画工作の授業で作られた傾いたベンチが数個だけ。僕も、たまにサルビアの蜜を吸いに来るくらいで、中庭にはほとんど来たことがなかった。
 だからか、馴染みのない場所で近藤くんとふたりで歩くのは奇妙な感じがして、道中はあまり会話がなかった。額にじんわりと浮かぶ汗を、ハンカチで丁寧にぬぐう彼の姿を横目で見つつ、中庭の中心へと歩いていると、ほどなくサユリを見つけた。
 数十年前の卒業生が埋めたという記念樹の下で、彼女は足を崩して座っていた。
 服が汚れることにあまり頓着がないのか、レジャーシートの類は敷いておらず、芝生の上に直に座っていた。いくら綺麗に整備されているとはいえ、彼女の着ている服の値段を考えれば心配になってしまう。
「おうい、サユリ」
 今度は奇襲攻撃に失敗しないように、遠くの方から大声で呼びかける。
「ひとりぼっちでご飯を食べているなんて、寂しいやつだな。どれ、この愛の伝道者たる僕が一緒にご飯を食べてやろうではないか。なんだなんだ反応が薄いな、おい。なんなら感謝の拍手のひとつでもするか」
 どの口が言うのやら、と近藤くんが小声で呟き、
「御相伴に預かってよろしいでしょうか」
 難しい顔をして、殊更丁寧な口調で訊ねた。
 サユリは僕たちを拒否しなかった。いや、正確には黙認したというべきか。僕らが芝生の上に座るのを一瞥すると、つつましい昼食を再開させた。
 彼女の昼食は実にシンプルだった。ブロック型の栄養食品。ミネラルウォーター。以上。貧相と言い換えてもいい。
 特に衝撃だったのはミネラルウォーターだった。同年代で市販の水を買うヤツを初めて見た。
 だって水だぜ? 蛇口ひねればいくらでも出てくるじゃん。炭酸のジュースとかのが絶対に美味しいし、買うにしてもせめて緑茶とか紅茶だろう。
「なんつーかさ……ランチタイムの楽しみにしちゃあ、ちょっとしょぼすぎない? 普通さ、お金持ちのお弁当っていえばさ、何段にも積み重なった重箱とかじゃないの。でっかい海老とか入ってる感じの。それじゃお腹減らない?」
 と否定こそしたが、一番残念なのは弁当箱すら持っていない僕なのかもしれない。
 すがるような目をして近藤くんを見る。

578: 『彼女にNOと言わせる方法』 :2019/06/02(日) 20:53:38 ID:Tydw7VIs
「野良犬や野良猫にはエサをあげない主義なんです」
 それでもワーワー喚き続けていると、
「……わかりましたよ」
 根負けし、弁当のフタを皿がわりにして唐揚げをひとつ乗せてくれた。それと、アルミホイルで包まれたおにぎりもひとつ。なんだかんだでいいヤツだった。
 一連のやり取りを気にもせず、サユリは淡々とブロック食品をかじっていた。
「クラス委員長は昼食を恵んでくれたってのに、女王さまは何もくれないのかね。民草に下賜してこその上流階級だろう。あれだよ、のぶりす? おぶ、りーじゅ? だっけか。つまり、そういうこったよ」
 皮肉たっぷりに言ってやると、彼女は二、三回瞬きをし、膝の上に乗せている栄養食品の箱に目をやった。
「あげる」
 箱ごと僕に差し出す。反射的に受け取ると、次にペットボトルも差し出してきたのでそれも受け取る。
「え、あ、でも、お腹減ってないの? まだ、かなり残っているよ」
 見れば、栄養食品もまだ七割程度残っている。しかし、彼女は何も言わず、ぼんやりと僕の顔を眺めていた。
 またしてもくれてしまった。
 なんだか、今日だけで色々もらっている気がする。サユリからすれば、僕は恵まれない子どもにでも見えるのかしら。ギブミーチョコレートとでも言えばいいのかな?
 ……なんかどこまでくれるか気になってきたな。小脇においてある、あの小さくて高そうな黒バッグとかおねだりしてみようかな。いや、値段を考えるとさすがに無理か……? だけど、ワンチャンあるか……?
 ってなクズ思考は一旦保留してだ。本当にもらってしまっていいのだろうか。ねだっておいてなんだが、ちょっと悪い気がする。もともと小食なのかもしれんが、それならそれでしっかり食べなきゃいかんだろう。僕がこれをもらったら彼女が栄養不足となって、少女の健全な成長を阻害するんじゃないか。
 が、健康優良男児の胃袋ってのは非常に欲望に弱く、近藤くんからもらったおにぎりと唐揚げを一瞬で平らげると、続けてサユリの栄養食品も瞬殺してしまった。今の僕の懊悩はなんだったのか……。
 この手の栄養食品というのはやたらと喉が渇くもので、もらった水のペットボトルも一気に飲み干してしまった。砂漠にオアシスが与えられ、ふぅと一息つく。
 と、空になったペットボトルを潰している途中で気づいてしまった。キャップを開ける際に抵抗がなかったことに。
 あれ? これって、間接キスじゃね?
 ギギギ、とぎこちなく首を回すと、弁当をつついてる近藤くんの顔があった。
 ま、ままま、ま、マズイぞ。これはマズイ。キング・オブ・無反応の氷の女王さまは置いといてだ、近藤くんに見られてしまったのはマズイ。女子との間接キスだなんて、男子にとってはあるまじき行為だ。情報が伝播し、クラスの男子連中に知られたら一生からかわれることになる。い、いや、でも氷の女王が相手だしそれはないか? みんなビビッて何も言わない可能性がある……でも、陰でしっかりおちょくられそうだしとにかくヤバい。
 口封じのために、ここで一発脅しでもかけておくか? メガネでもへし折っておくか? なんて最低なことを考えていると、
「回し飲みは不衛生だから止めといたほうがいいですよ」
 近藤くんが冷静に注意した。
 ……うん。安心した。近藤くんはやっぱり近藤くんだった。
 彼の生真面目さに乾杯しよう。かんぱーい。

579: 『彼女にNOと言わせる方法』 :2019/06/02(日) 20:53:59 ID:Tydw7VIs
「たっだいまー」
 勢いよく玄関のドアを開け、靴下を脱ぎながらリビングへ入ると、ソファでテレビを観ていた母さんが振り返った。
「ずいぶん、遅かったわね。どこいってたの」
「夏期講習だよ、母さん!」
 冷蔵庫から麦茶を取り出しつつ、胸を張って言った。
「ドラ息子も遂に勉学に目覚めたってわけさ。夏休み返上で勉強だなんて優等生だろう」
 意気揚々と報告するが、母さんは「ふぅん」と興味なさげに相槌を打っただけで、すぐにサスペンスドラマの視聴に戻った。
 暖簾に腕を押したような感覚に鼻白む。
 まだ、朝の一件を引きずっているのか。もうそろそろ雪解けしたっていいだろうに。僕の方は雪なんかとっくに溶けて、しかも水に流しているというのに、母さんはまだまだ子どもだなぁ。
「ずいぶん、機嫌がよくなったのね」
 大人な対応をするつもりだったが、今のはカチンときた。
 んだよ、僕が楽しくしてちゃいけないのか。実の息子に対して、幸福よりも不幸を願うだなんて母親失格ではないのか。
 糾弾する気持ちがないでもなかったが、ぐっと堪え、麦茶をコップに注ぐ。
「明日から夏季講習に通うから、弁当の用意よろしく」
 頼み事はちゃっかり頼む。それが僕のジャスティス。ただ、感情をこめずに事務的に伝えたのは、せめてもの不服申し立てだった。
 母さんは僕の頼みを拒否することはなかったが、一言だけ付け加えた。
「やるべきことは、しっかりとやっておきなさいよ」
 それは、何に対しての言葉であったのか。
 僕は何かを考える前に、麦茶を飲んで、全てを胃に流しこんだ。