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554 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/03/28(金) 00:10:45 ID:RF+iNqTl
第二十六話~令嬢と地下室で~

「遠山様。どうぞ、中へお入りください」
 室田さんの手によって、ドアが開いていく。
 開ける前に自分の身分がそうするのにふさわしいのかと省みたくなるほど、重厚な扉だ。
 今来ている場所はかなこさんの住む菊川邸。
 三度目となる今回は望んでここにやってきた。俺がそうしてくれ、とかなこさんに頼んだのだ。
 怪我をした華を助けるために。

 バスの中で華を気絶させたのは、その後の会話を聞かせないため。
 華も一緒に来たら邪魔になるから降ろして欲しい、と言って頼んだ。もし聞いたら、あいつは拒むに違いない。
 それに、あのままにしておいたら、またかなこさんへ挑みにいっていただろう。
 勝ち目のない戦いへ向かうのを放っておくわけにはいかなかった。
 華が左肩を負傷しているから勝てないと思ったわけではない。
 もし万全の状態であってもかなこさんには敵わないだろう、と踏んだのだ。
 肩だけで済んで良かったと思う。現に今、華は生きているのだから。
 今頃はバスを降ろされた運転手に連れられて病院に行っているはずだ。

 扉が開ききった。ドアの傍で黙礼する室田さんの前を通り過ぎ、邸内へ足を踏み入れる。
 しん、としていた。
 踏み込んだ途端に外界からの音から隔絶された。空間の静寂に聴覚を支配された。
 冗談みたいに広い屋敷なのに、他に人がいないのか? かなこさんと室田さん以外、誰も?

 立ち尽くしたまま耳を澄ませていると、背後から声がかかった。室田さんだ。
「ただいま、屋敷の使用人は私一人しかおりません。他のものは皆出て行きました」
「出て行った? 全員が一度に?」
「はい。昨日の夜、遠山様と私が一緒に屋敷へ入ったときにはすでにそうなっておりました。
 もっとも、そのことに気づいたのは今朝のことでしたが」
「十本松が居なくなったからですか」
「いいえ、どうやら十本松あすかがそうしたようです。
 連絡の取れた元使用人に聞いたところ、十本松あすか自らが解雇を言い渡したということでした。
 どうやら、純粋な契約で使用人を雇っていたようです」
 そこで一旦言葉を切ると、一段階低い声音で続けた。
「菊川家では使用人を希望する人間に対して、私が面接を行っていました。
 ですが、邪な考えを抱いていると見抜けていなかったようです。そして十本松あすかの企みにも気付けなかった。
 災いをもたらす人間を招いたのは私です。全ての責任は私にあります」
 そう言う室田さんの表情には悔恨が浮かんでいた。
 見て分かるとおりに、室田さんは執事という職業に誇りを持っているのだろう。
 だからこそ、俺には納得のゆかないことがある。



555 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/03/28(金) 00:12:13 ID:RF+iNqTl
「室田さんはどうしてかなこさんを……止めないんですか?
 今のかなこさんが普通じゃないことぐらいわかっているんでしょう?」
「もちろんでございます」
「わかっているのに、止めないのはなんでです?」
「主が過ちを犯そうとしているなら、止めるのが執事の役目である、と思います。
 ですから、今の私がこうして遠山様を屋敷にお連れしたのは執事としてではございません。ただの年寄りの妄動です。
 図書館まで車で送ったのも、私がそうしたいと望んだから。バス会社へ連絡をしてバスを止めさせたのも私です。
 遠山様を追い詰め、ご友人の方に傷を負わせたのも私の責任です。
 私はただ、かなこ様に幸せになっていただきたいのです。それこそが私の幸せでございます」
「……かなこさんは死のうとしているんです。俺に殺されることを望んでます。
 それでも幸せになれますか? かなこさん……と室田さんは」
「それがかなこ様の望むことであれば。どのような形でも、それが幸せと言えます。
 遠山様はご存じないでしょう。かなこ様が以前、どんな方だったのか」
 かなこさんの顔を脳裏に浮かべてから、頷く。
 考えてみれば俺は、かなこさんのことをよく知らない。
 今までは踏み込もうともしなかった。知ったところで無駄になるから。
 俺が金持ちの家のお嬢様と接触する機会なんてないと考えていた。
「とても繊細なお方でした。普段は静かに物思いにふけり、夜が近づくといつも寂しそうにしておりました。
 菊川家の長女であらせられますから、連日資産家や政治家の息子からお見合いの話はやってきます。
 それら全て、かなこ様は受けませんでした。桂造様や私が説得しても無駄でした。
 決まった相手がいるような話は耳にしません。それなのになぜお見合いを受けないのかわかりませんでした。
 謎が解けたのは二週間ほど前のことです。かなこ様はその日、図書館へ行かれました。
 屋敷で待っていた私は、帰ってこられたかなこ様の表情を見て、年甲斐もなく心を動かされました。
 ついぞ見たことのない柔らかな微笑みを浮かべておられました。
 もう、おわかりでしょう。その日はかなこ様と遠山様が初めて出会った日です。
 あれから、かなこ様はずっと…………」



556 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/03/28(金) 00:13:55 ID:RF+iNqTl
「そこまでです、室田」
 芯の通った強い声がその場に響いた。
 声が聞こえてきた方向を向くと、階段を降りてきているかなこさんがいた。
「ほどほどになさい。雄志様をここへお呼びしたのは、あなたと長話をさせるためではないのですよ」
「申し訳ございません、かなこ様!」
「……もういいわ。下がりなさい。あなたはあなたのするべきことをなさい」
「かしこまりました。それでは……遠山さま、失礼いたします」

 一礼して室田さんは立ち去った。
 廊下の角を曲がって姿が見えなくなってから、俺はかなこさんに向き直った。
「いきなりですけど、はっきり言っておきます」
「なんでございましょう?」
「俺の気持ちは変わりません。かなこさんを殺したりしませんから。
 ここに来たのは言うとおりにするためじゃなくて、二人きりで説得するためです」
「どうしても、でございますか?」
「……ええ。しないと言ったらしないんです」

 断りを入れたことで、怒鳴られるか斬りつけられるかと予想していたのだが、かなこさんに動きはない。
 バスの中で遭遇したときのような危ない感じもしない。
 にこやかに微笑んでいるだけだ。
「雄志様がそうおっしゃること、予測していましたわ。ですが、わたくしは諦めません。
 ここにお連れしたのは、雄志様のお気持ちを変えさせるためです」
「俺の話、聞いてました?」
「あなた様のお言葉は一字一句、聞き逃しませんわ。
 見ていただきたいものがあるのです。それを見て下されば、お気持ちも変わるはずです」
 自信たっぷりの淀みのない口調だった。
 俺の気持ちを変えさせるほどのもの? これ以上、この屋敷の中に何があるっていうんだ?
「ご案内いたしますわ。わたくしの後についてきてくださいませ」



557 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/03/28(金) 00:15:57 ID:RF+iNqTl
 五歩先を歩くかなこさんに導かれて向かう先は、屋敷の地下室だ。
 といっても、昨日十本松が死んだ地下室ではない。もう一つの古い地下室だ。
 昨日は向かう必要がなかったから行かなかったが、やはり何かがあるらしい。
 壁のランプによって薄暗く照らされた螺旋階段をこうして下っていると、嫌な気配がひしひしと伝わってくる。
 かなこさんが見せたいもの。それが何なのかは知らない。予想もつかない。
 だが何を見せられようと俺は気を変えてはならないし、逃げてもいけない。
 俺と香織と華、そしてかなこさん。
 これ以上誰も死なせずに過ごすためには、俺が力を尽くすしかない。

 黙ったまま階段を下り続けていると、扉に遭遇した。
 扉の縁やノブの辺りに錆や苔が付いて変色している。ただし鍵穴までは錆び付いていない。
 かなこさんの言う、見せたい物がとうに準備されているということだろう。
 室田さんでさえ近寄ることの許されない地下室の向こう側。 
 そこへいたる扉が、かなこさんの取り出した鍵によって重い音を立てて開かれた。

 最初に目に飛び込んできたのはまばゆい光だった。
 すっかり暗がりに慣れていた目が眩む。
 十秒ほど待ち、まぶたの向こうにある光に慣れはじめてから、薄く目を開く。
 かなこさんの足が見えた。床は石を繋ぎ合わせて作ってあるようだ。
 視線を上げる。少しの段差が出来ていて、その先には畳が敷いてあった。
「…………たたみ?」
 見間違い? いや、何度目を凝らしても同じだ。
 床には畳が敷き詰められていた。地下室の入り口に石畳があり、木製の敷居の先に畳がずっと続いている。
 地下室は和室だった。しかも、部屋と言うにはあまりにも広大な。
 広さは、六畳間の俺の部屋の三四倍はある。
 壁は無機質なコンクリートではなく障子で覆われている。左右の障子の向こうに白い光源が見える。
 天井板にはプリントではない本物の木目が並んでいる。
 部屋の奥、床柱で遮られた左には床の間が、右には天袋と違い棚がある。
 余分な物など一切この和室には無かった。

「何なんですか、この部屋は」
「見てお分かりになりませんか? 雄志様は見覚えがあるはずです」
 ――無い。
 実家の内装は和風だけどここまで広くもないし立派でもない。
 これまで行ったことのあるどんな場所だってここの光景とは似ていない。
「ここは、前世のわたくしが過ごしていた部屋をそのまま模した部屋ですわ。
 お忘れですか? ここで雄志様とわたくしは幾度も言葉を交わしあったというのに」
「……なるほど」
 そりゃ見覚えがないはずだ。俺は前世の記憶なんて持ち合わせていないんだから。

「どうぞ、お上がりください」
 かなこさんが靴を脱いで畳の上へ上がった。俺もそれに続く。
 踏みしめた畳の感触は固く、冷たかった。
 足下を警戒しながら歩き、部屋の中央辺りで立ち止まる。
 障子の向こうから何かが飛んできたりしないか、と疑ったが、白い光以外のものが入り込んでくる気配はない。
 静か過ぎる。かなこさんの足音さえ聞こえない。



558 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/03/28(金) 00:17:01 ID:RF+iNqTl
 かなこさんは和室の奥にある天袋の前に立つと、振り返って俺を見た。
「雄志様。心はお決まりになりましたか?」
「心……ああ、かなこさんを手にかけるって意味ですか」
「はい」
 この人は殺されることを望んでいるのに、どうして柔らかな笑みを浮かべて居られるんだろう。
 かなこさんの考えが俺には分からない。
 最上の愛情表現は相手を殺すことだと、かなこさんは言っている。
 性的なカニバリズムに似たものなんだろうか。どちらにせよ、俺には理解できない思考だ。

「心は決まってますよ。自分がどうしたいのか、はっきり自覚しています。
 ――何度も言っているように、俺はかなこさんを殺したりしません」
「……そうでございますか」
 悲しそうな、残念そうな声だった。
 少しだけ心が痛むが、悪いことをしたとは思わない。
 間違ったことをしているわけではないのだから。

「それともう一つ、言いたいことがあります。
 かなこさん、もう俺につきまとわないでくれませんか?」
「雄志様……? 何をおっしゃっておられるのです?」
「聞いてください。俺は、本気なんです」
 強く息を吸い込む。これから台詞を言う心構えを作るために。
「かなこさんは俺と前世で恋人同士だったから、という理由で俺に近づいていますよね。
 でも、前世でそんなことがあったのだとしても、おかしいんですよ。
 違う人間として生まれてきた二人がまた結ばれるなんて」
「いいえ。おかしくなどありません。何も間違っているところなどありません。
 雄志様とわたくしは将来を約束しあった仲なのです。だからこそ、今こうして巡り会えたのです。
 これを運命と言わずしてなんと言うのですか」
「かなこさんの勘違い、です」
 自分でも驚くほど、はっきりと告げてしまった。
 だけど、これぐらい強く言わないといけない。
 信じられないような行動をとる人が相手なんだから、強気で行かなくては。



559 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/03/28(金) 00:18:35 ID:RF+iNqTl
「勘違い……? わたくしの……?」
「そうです。あなたは何かが原因で俺のことを好きになったのかもしれない。
 その何かを前世からの縁だと勘違いして、自分で納得してしまっているだけです。
 俺にはそう見えます。
 だって、俺みたいなどこにでも転がっている男が、かなこさんみたいな高嶺の花の人と
 少しでも関係があったり、するわけがないじゃないですか」
「そのような……現世での家柄など、わたくしにとっては何の価値もございません。
 雄志様に愛されることのみが、わたくしの幸せなのです」

 かなこさんが近づいてくる。部屋の向こうから、中央にいる俺の方へと。
 悲しさをあらわすように伏せられた眉と目尻、涙を零しそうなほど潤んだ瞳。
 小刻みに震える唇からは、嗚咽と共に呟きが漏れている。
「お願いでございます。どうか、どうか……」
 とうとう、お互いが腕を伸ばせば触れ合える位置まで近づいてきた。
 かなこさんは両手で顔を押さえ、項垂れている。

 無意識のうちに俺の足が少しだけ前に出ていた。
 ――また出てきた。発作だ。
 かなこさんと香織を前にした時だけ起こる、吐き出さずにはいられない暴力の衝動。
 距離を空けていれば抑えることができるが、ここまで近づいてこられると勝手に表に出てくる。
 かなこさんが顔を上げた。見えたのは、大粒の涙を流し続ける泣き顔。

 突然、呼吸が楽になった。
 衝動を抑える必要が無くなった。衝動が瞬間的にかき消えたのだ。
 訳も分からず悲しくなった。そして、自分に対しての激しい怒りが湧いてきた。
 女性を泣かせたからではない。もっと深い、心の奥の奥にある暗闇の中からこみ上げてきた。

 ――どうしてこの人を泣かせた!
 ――なぜ悲しませるようなことを言った!
 ――何が勘違いだ、ふざけるな!

 そんな声が聞こえた気がした。



560 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/03/28(金) 00:20:21 ID:RF+iNqTl
 悲しみと怒りと、予期しない心からの声に混乱していると、肩に手が触れた。
 相手の顔しか見えない距離にまでかなこさんの顔は近づいていた。
 静寂に包まれた地下の和室には、かなこさんの嗚咽しか音がない。
 鳥の羽ばたきよりも小さい呟きもここまで近づけば全て耳に入ってくる。
「お願いでございます。……どうか、どうか、そのような悲しいことは言わないで。
 思い出してくださいませ……本当のわたくしのことを…………寄り添って過ごしたあの日々を……」

 不意に、朝に目を覚ましたときのような感覚が襲ってきた。
 頭の中がクリアになり、軽くなった。
 そこへ押し寄せたのは喜びや悲しみや怒りや後悔などの強い感情がない交ぜになった混沌。
 偏頭痛、そして目眩。立っているのがやっとだ。
 かなこさんの顔はすぐ近くにあるはずなのに、認識できない。
 頭の中にある感情のうち、どれから片づけていけばいいのか分からない。
 複雑に絡み合ったそれらと自分の意識が混ざり、さらに膨らんでいく。
 痛い。頭の中でギリギリと音がする。意識もろとも吹き飛びそう。
 首に冷たいものが触れた。感触が上へと上がっていく。
 撫でられただけなのに、背筋に冷や水を浴びせられたように芯から震えた。
「一度だけ……一度だけでいいのです。わたくしに唇を許してくださいまし。
 そうすればきっと、いえ、今度こそ思い出してくださるはずです」
 首を軽く前へと引かれた。
 倒れそうになったが、首に触れている冷たい感触と胸に当たるやわな体を支えにして耐えた。
 歪んだ思考のまま目を開くと、そこには目を閉じて唇を薄く開けた女性の顔があった。
 どんどん近づいてくる。だがこんな満身創痍の精神状態では何も出来ない。

 唇に柔らかな感触。なんとなく、俺はキスされたんだと分かった。
 頬に息がかかる。首の後ろを弱い力で押されている。だけど、唇を押しつけられている感じはしない。
 安らぎがあった。ずっとこの場に留まって休んでいたくなる。
 しかしその時、それを押しとどめる囁きが聞こえてきた。
 体の感覚が全て耳に集中した。鮮明な声が、頭の中を深くえぐる。

 ――お前はそんなことをしてはいけない。
 意識に浸透していく。 
 ――お前がするべきことはすぐにその女を振り解くことだ。
 何よりも正しい忠告に聞こえる。
 ――お前が一番愛しているのはその女ではない。他の娘だ。
 そうなのか? ……そうなのかもな。
 ――その女の唇は汚らわしい。すぐに離れるべきだ。
 離れて、それから、どうする?
 ――拒絶しろ。憎み、恨め。そして、殺してしまえ!
 そんなことはしたくない。
 ――ならば、嫌え。見つめられる、近づかれる、話しかけられる、たったそれだけのことさえ許してはいけない!
 どうして?
 ――お前には好きな女がいるからだ。そんなことをしていて、好きな女に失礼だと思わないのか。
 ああ、そうだった。
 そうだったよ。俺には恋人が居る。だから、この人のことは嫌って――――――



561 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/03/28(金) 00:24:14 ID:RF+iNqTl
 引きつるような息の音が聞こえた。
 いつの間にかすっきりしていた視界の中には、顔を歪めたかなこさんの顔があった。
 俺の首の後ろからはとっくに手を離して、距離を空けて立っていた。
「あ……あああ…………ああ、あああああ! う、ああああああああ!」
 その場にくずおれ、かなこさんは慟哭した。
「また! ……また間に合わなかった! ここまで性急に動いたというのに、もう雄志様は毒されていた!
 今度こそはと強く願ったというのにまだ、雄志様に取り憑くものがいる!」
「か、かなこさん?」
 座り込んだかなこさんに右手を引かれて、抵抗する間もなく床に座らされた。
 上着の襟を掴まれ、引き寄せられる。憎しみの籠もった眼差しに一直線に見つめられる。
「なぜ邪魔をする! 一体貴様はなんだ! なぜわたくしの雄志様を独占している! なぜ独占できる!
 わたくしは……幾たび生まれ変わっても一緒にはいられないのに、どうして貴様は……」
 胸の中にかなこさんが顔を埋めてきた。
 すすり泣く声が耳に入り込んでくる。
 俺はかける言葉も見つからず、ただ泣き崩れるかなこさんの肩に手を添えるだけしかできなかった。

 そうしているうちに、かなこさんの嗚咽が鎮まってきた。
 肩を掴んでかなこさんの体を起こす。俯いたままだから表情までは見えない。
「もう、大丈夫ですか」
「…………………………しなさい」
「え?」
「離しなさい。雄志様に取り憑いた悪霊めが、わたくしに触れるな」
 充血して真っ赤になった目で睨み上げられた。反射的に手を離す。
 かなこさんはふらつきながら立ち上がると、俺の後ろへと歩いていった。
 放心したままその場に座り込んでいると、背後から重い鉄の音が聞こえてきた。
 振り返ると、地下室の入り口に立つかなこさんの後ろ姿があった。
 鉄製の扉の上に開いている小窓に指を入れている。
 小さな音が耳に届いた。アパートの鍵を廊下に落とした時に立つような音。

 かなこさんが近づいてくる。ずっと俺を恨めしげに睨んだまま。
 畳から腰を浮かす。同じ目線から見つめ返したが、かなこさんは気にも留めずに歩き、通り過ぎた。
「何をしたんです、今」
「鍵をかけました。もう二度とこの部屋から出ることはできませぬ。わたくしも、あなたも」
 素っ気ない声が俺の心を激しくかき乱した。
「……え? 出られないなんて、そんなの……嘘でしょう」
「あの扉は内からも外からも鍵をかけられます。鍵が無くなってしまえば二度と開けられませぬ」
「じゃあ、鍵は…………まさか、今のって!」
「扉の向こうに落としました。これでもう、あなたはここから逃げられない」
 閉じこめられた。かなこさんと二人で、絶対に出られない密室に。
「は、はは……そんなの、嘘でしょう。どこかに出られる道があるはず」
「そのようなものはありませぬ。
 この部屋は、雄志様が今のように取り返しの付かない状態になった時のことも考えて作らせました」
「そんなの……こんな! 取り返しのつかない状況にしたのはあなたじゃないか!」
「わたくしにとっては些細なこと。これからすることを考えるならばこの状況こそが望ましい」

 背後からの戸を開ける音に振り返る。
 天袋の戸を開けたかなこさんが布の袋に包まれた長物を取り出していた。
 紫色の紐の結びが解かれていく。布が取り除かれ、中身が姿を見せる。
 かなこさんの手に緩やかな弧を描いた白木が握られていた。
 それがただの白木であって欲しいという間抜けなことを俺は願っていた。
 だが、もちろんそんな願望が叶うことなどありはしない。
 何の感情も映さないかなこさんの瞳が俺の目を見据える。穏やかな口調で告げる。
「雄志様、聞いておられますか? わたくし、これから取り憑かれ苦しむあなたさまをお助けいたします。
 悪霊をこの刃で、二度と甦らぬよう、残滓も残さず、退治いたします。
 ですから、聞いておられるのでしたら――どうか、力をお貸しくださいまし」
 かなこさんが、白木の端を右手で握った。