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141 :名無しさん@ピンキー [sage] :2008/05/03(土) 20:25:10 ID:xTbUXORb
地球なんて言うからには、この惑星は球体なわけで。今僕を苦しめるこの暑さを知らずにいる人々がたくさん居る。
それはひどく不公平だと思う。
完全に自分勝手な考えではあるけども、訂正するつもりはないし、異論も認めない。
暑苦しいのは気候だけで十分だ。
夕方の空が藍色に染まっていくのを縁側で眺めながら、僕は夕涼みをしていた。
 涼は景観から、と取り付けた風鈴は少しも揺れていない。
 ふと聞こえた吐息に僕はため息を吐いた。続いて振り向く。
背後には一式の敷き布団とそこに横たわる少女。
艶やかな黒髪が汗ばんだ肌に纏わりついて、ほんのり朱に染めた頬と喘ぐような吐息。乱れた浴衣姿と寝具は情事の余韻のようでもあるが、実際はそんなに色っぽいものでもない。
彼女は僕が奉公している屋敷の娘さんで、時代が時代なれば『お嬢さま』と『下男』なわけだ。そんな僕らが関係を持つなど有り得ないし、あってはならない。


142 :名無しさん@ピンキー [sage] :2008/05/03(土) 20:26:26 ID:xTbUXORb
では、一体何なのだ。
その答えはとても込み入ったものではあるが、端的に言うなれば僕の『仕事』なのかもしれない。
僕は縁側から這うように彼女の下へ向かった。
僕の接近に築いた彼女は、探るようにその手を辺りに漂わせた。彼女の腕は周囲のものを気にせず漂い、枕元の水差しにぶつかってしまう。けれども水差しは倒れない。間一髪伸ばした僕の腕が受け止めていた。
ふと下を見遣れば僕の胸の中に彼女が居た。
艶やかな黒髪と同色の目隠しと猿轡。それらがよく映える白磁の肌。
純粋に、極々純粋に、綺麗だと思った。
僕は慣れた手つきで目隠しを取る。それを巻いたのは僕なのだから外す手つきが慣れているのは当たり前だ。
目隠しの下、血の色の瞳が真っ直ぐに僕を見つめていた。
途端に痛みを覚え、声を洩らす。痛みを感じた右腕は彼女のそれに力強く握られていた。彼女の白磁には幾許の青筋が走り、長い爪が僕の肌に食い込んでいる。
僕は視線で彼女に拘束を解くよう促す。しかし、彼女は首を横に振る。


143 :名無しさん@ピンキー [sage] :2008/05/03(土) 20:28:38 ID:xTbUXORb
仕方無く僕は左手だけで猿轡を解いた。手元が覚束ないのでひどく手間取る。
自由を得た彼女の唇はまさしく水を得た魚のように言葉を紡いだ。
「愛しています」
僕は気にしない。
彼女は言葉を紡ぐ。次々に、次々に。
愛しています。
愛しています。
愛しています。
愛しています。
愛しています。
「うるさい」
僕が制止の言葉をかけると彼女は微笑んだ。
「やっと聞いてくれた」
彼女の笑みがあまりにも可憐で見取れてしまった。
それがいけなかった。
しまった。と考えた頃には既に彼女の左腕が僕の首に伸びていた。
柔い細腕のどこにこんな力があるのかと思うほどに強く、万力のように締め付けられる。
意識を失いそうになる。
しかし、すんでのところで僕の意識は『仕事』を果たす目的に踏みとどまった。
「ごめん」
水差しを強かに打ちつけた。


144 :名無しさん@ピンキー [sage] :2008/05/03(土) 20:30:55 ID:xTbUXORb




夕焼けはとっくに終わっていて、風鈴を月明かりが照らしていた。
僕の傍らで安らかな寝息をあげる彼女の黒髪を梳く。愛しさとかが胸の内に湧き上がるものの、首筋に残る赤い手形に寒気を感じてしまう。
でもこれが僕の『仕事』。
元来彼女の家の家系は狂気に囚われやすいらしく、更に女性はそれが顕著に現れる。彼女も例に洩れず、狂気と正気の狭間で揺れている。
僕らの家系に代々与えられる仕事はその狂気を受け止めること。
彼女たちが狂気に堕ちてしまわぬように、よき伴侶を得るその日まで。


145 :名無しさん@ピンキー [sage] :2008/05/03(土) 20:31:20 ID:xTbUXORb
つまるところ、僕が感じるこの思いは作り物なわけで、僕は彼女にとっての繋ぎでしかない。
彼女が僕を愛していることすら、その場しのぎでしかないかもしれない。

故に望む。
彼女がいつの日か本当に愛しい人と結ばれるなら、それが本当に幸せであるように。
僕がその時には死んでいるようにと。


それまで僕は死ねない。


彼女が呟く。
「愛しています」
それはきっとただの音の羅列に過ぎず、意味なんて無い、見出しちゃいけない。
「僕もだよ」
言ってから気付いた。この想いはきっと報われない。
僕は少しだけ涙した。
月は霞んで消えてしまい、僕と重なった。