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791 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/02(月) 00:49:55 ID:LzUN6Ghd
*****

「あなた、起きてくださいな」
 いまだかつてない起こし文句をささやかれ、目が覚めた。
 あなた、とな?
 その呼び方をする人間は俺の身の回りでは葉月さんしか居ない。
 しかし、『あなた』に含まれているニュアンスが少し異なる。
 普段葉月さんが口にするのは、『君』とか『お前』とかいう、聞き手を指す二人称的なものだ。
 いわば、代名詞である。俺の名前を呼んでいるのと変わりない。
「あなた、いくら休日だからって寝坊はいけませんよ。ほら、早く起きてください」
 だが、今の呼び方はどうだ。
 まるで俺の名前が『あなた』に事実上なってしまったようなふうではないか。
 それ以外の呼び方などありえない、とでもいうのか。

 女性の声はやけに落ち着いている。
 穏やかだ。上がったり下がったりしているところがない。波打っていない。
 葉月さんの声はここまで大人びていなかったはずだ。
「今日は一緒にお出かけをする約束でしょう?
 私、あまりに楽しみだったものだから、早起きしてしまって。もうお弁当まで作ってしまいました。
 朝ご飯もできてますから、いつもご一緒できない分、今日は……ね?」
 二人でご飯を食べましょう、ってか。
 ふうむ、なんというか。いいな、こういうのも。
 けど……これ、夢だろ。幸せすぎるもん。
 朝から幸せがたっぷり入ったふりかけをたっぷりかけられた気分になるなんて、俺の生活じゃありえない。
 女の人が俺を起こすシチュエーションからして嘘だ。リアリティがなさ過ぎる。
 声をかけてきたのが妹で、無理矢理布団を引っぺがされたとかならまだ納得はできるが、残念ながら妹は優しくない。
 母も同様。母は父にしかデレないのだ。
 だから、この声は俺の想像力が作り出した嘘なんだ。

 しかし、俺はこの嘘をありがたく思う。
 いいじゃないか。夢の中ぐらい、俺の好きなように変えてしまっても。
 女性がみんな俺に優しくする夢を見て何が悪い。
 俺だって男だから、ハーレムに憧れがないわけじゃない。
 しかもこれは夢。面倒なこともない、後腐れもない。最高だ。
 だから、俺は夢を満喫する。

「……昨日は徹夜だったんだ。だから眠らせてくれ……」
「ああ、そうでしたわ。ごめんなさい。昨夜は一緒に寝てくれると言うから、
 つい嬉しくてあなたにおねだりを一杯してしまったんでした。
 あなたも私も、眠る暇なんか、なかったですものね」
 …………なにそれ?
 昨夜はプラモデルを作ってたから徹夜した、っていう設定を構築してたんだけど。
「ですけど、おかげで……私、今日はとても調子がいいんです。
 ごめんなさい。こんなことを言ってしまったら、まるではしたない女のようですね」
 へえ、そうなんだ。俺の体はとても重いんだけど。
 体がだるさを訴えて布団から出ようとしない。頭まで布団に潜ってる。
 ううん? 自分の体を触ってみたら、変なことに気付いた。
 俺、下着しか身につけてない。
 バカな。俺は春夏秋冬寝る際は下着の上にもう一枚着込んで寝ているはず。
 暑さで寝苦しくなりだした頃にはシャツとジャージ、布団だけじゃ寒くて眠れない頃は長袖のニットとジャージ。
 つまり年中ジャージを着ている。ジャージ愛好家ではないけども、とにかくジャージを愛用する。
 これは、一体…………?



792 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/02(月) 00:50:45 ID:LzUN6Ghd
「ですけど、あんなに激しく、あなたが求めてくれるものですから、ついつい私も……。
 もう、あなたのせいですよ。普段はあんなに冷たいのに、昨晩はあんなことまで…………」
「なあ、いや、あのさ」
「はい、なんです?」
「もしかして俺、昨日すごいことした?」
「ええ」
「具体的には?」
「…………………………それはもう、朝の時間には口にできないような、激しいものでした」
 うん。……ええ?
 あ、あ!
 ああ――――――そういうこと。

 いわゆる、夫婦の営み、というやつのことか。
 性に開放的な傾向のある現代の若者ならば十代半ばでも経験済みというアレね。
 つまり、性行為ですか。英語に変換してカタカナで書くと、セックスだね。
 うわあすごい。
 いつの間に初体験を済ませたことになっているんだろう。夢の中の話だけどさ。
 なんだかショックだ。お前はもう経験している、と言われても何の感慨も湧かない。
 どうせ夢を見るなら昨晩のシーンからにしろよ。
 今からでも遅くないから、巻き戻し。
 はい、スタート!

「も、もうあなたったら! 恥ずかしいことを言わせないでくださいな」
 布団の上から軽く叩かれた。夢の中の時間軸は巻き戻っていない。
 いくら自分にとって都合の良い夢でもできることとできないことがあるってことか。
 なんだか、ものすごく損した気分だ。
「あなた、いい加減に起きないと、私も強硬手段に出てしまいますよ」
 と言いつつ、俺と大人の関係を結んだ女性は、布団を剥がそうとしてくる。
 この場で簡単に布団を奪われないよう抵抗するのは、慣例、もしくは通例と言えよう。
 しかし今の俺は演技ではなく、本気で抵抗をしている。今、絶対に顔を出したくない。
 だって、怖い。
 間近にいる女性の正体がわかってしまうのがとても恐ろしい。
 相手が葉月さんでない可能性はとても高い。ならば、当然他の誰かということになる。
 夢の中にまで出てくるということは、俺にとってそういう目で見ている相手ということだ。
 誰だよ。こんな馬鹿丁寧な言葉遣いで話しかけてくる知り合いは。
 …………待て。もしかしたら見たことはあっても話したことはない、テレビに出てくる女性タレントかもしれないぞ。
 好きなタレントがいないから希望はないが、それは誰であっても構わないということでもある。
 もしそうだったら、別に顔を拝んでもいいかな?

 とか考えた途端、布団の中に女性の手が入り込んできた。
 俺の腕は布団で顔を覆うようにしていたから、下からの侵入には無防備だ。
 女性の腕が俺の腹に回り込み、左右から包み込んでくる。
 そして、抱きつかれた。
「あなたが悪いんですよ。いつまで経っても起きないから。
 だから、私はこうやって眠りの邪魔をしてしまうんです」
 女性の頬がシャツの上から腹を擦り、触覚を甘噛みする。
 なんだなんだなんだ。この体の芯からゾクゾクさせる幸せな津波。
 こんな幸せがあっていいのか。
 世の恋人達って、皆こういうことしてるのか?
 ――いや、皆はしてないか。でもうちの両親はしてるだろうな。たぶんこれ以上のことも。



793 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/02(月) 00:51:25 ID:LzUN6Ghd
「うう……ん、暖かい。それに、とても安らぎます。私この匂いが好きです。
 どうしましょう。なんだか、むずむずしてきました」
「……くしゃみ?」
「いいえ。あなたに、あなたに……………………優しくして欲しく、なっちゃいました」
 かつてここまでストレートなデレに巡り会ったことがあっただろうか? いや無い。
 いいのかな、優しくして。というか、女性の要求通りにして。
 しかし、優しくするとはなんぞや?
 頭を撫でればいいのか? 思いやる言葉をかければいいのか?
 それとも。
「わがままを言って悪いとは思いますけど、でも、私は今、あなたが欲しいんです。
 お願いです、あなた。私に……………………」
 首に手を回された。
 おもむろに女性の体が近寄ってくる。
 布団の中の薄い闇の中に、女性の顔があらわれた。とっても近い。
「どうか、お願いします……………………」
 何をお願いされているんだ、なんてわかりきっている質問を浮かべて飲み込んだ。
 経験無くてもわかるよ。十七年の間に見てきたもののおかげで、こういう空気になったらどうするか知ってるよ。
 キスするのが、正しい選択。
 目をつぶった方がいい。最中に目を開けてはいけない。舌をどう使えばいいのかは知らない。
 どうせ夢なのだから、失敗しても誰にも迷惑はかからない。
 女性は夢の産物なのだから、嫌われたところで構わない。
 これはシミュレーションだ。実践ではない。繰り返す、これは実践ではない。
 意を決し、いざ。

「いく、ぞ」
「…………はい」
 自分の動きがスローになる。鼓動が早まっているせいだ。
 耳に届く音が鼓動だけになると、一拍が大きくなる。ドクンドクン、じゃなくて、ドックンドックン。
 動きまでがそれに合わせてコマ送りになる。
 鼻息が荒くなっているんじゃないだろうか。もはやそれすらわからない。

 唇まであと三センチ。
 というところで、布団の端から光が差し込んだ。
 女性の顔の輪郭、目を閉ざした表情、髪の色、全てが明らかになる。
 飾りっ気が無く、清潔な印象のあるこの人、どこかで見た気がする。

 唇まであと二センチ。
 なんとなく目を閉じる。女性の表情が映像となって脳裏に浮かぶ。
 うん、この人と直接会ったことある。はっきり思い出せないけど見覚えがある。
 確か学校の、教室に居て、地味な格好をしてて、年齢にふさわしくない整った顔で、だいたいいつも無表情。
 チャイムが鳴ったら教壇へ上がり、……ってこれ、教師? そして傍らに……本?
 そうか、わかった。

 おそらく唇まであと一センチ。
 この人、篤子女史だわ。
 どうりで見たことがあるわけだよ。
 近くで見ても美人は美人なことに変わりないんだ。
 新たな発見を――してる場合じゃないね、この状況。ハハハハハ。

 多分唇まであと一センチもない。
 触れてもいないのに、篤子女史の熱が感じられる。主に唇で。
 あまり嫌じゃないのは、きっと寝起きのせいだ。そうに違いない。

 唇がくっついた。
 そして、俺は唇の感触を味わ――――うことなく、脳内で悲鳴を上げた。





794 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/02(月) 00:53:11 ID:LzUN6Ghd
*****

 飛び起きた。口を開いたままで。喉の奥から酷使された痛みが伝わってくる。
 何気なく喉に手を当ててみる。異常があるのは外側ではなく、内側だった。
 気道の壁の喉付近をひりひりさせるこの痛みは、体育の授業で野球をして、その際に声を張り上げたせいで、
授業が終わった頃に襲いかかってくるものに酷似している。
 つまり俺は何かを叫んだ。しかし、一体何を叫んだんだか、わからない。
 寝ている場所は保健室らしかった。白いベッドと掛け布団が常備されていて、馴染みのない薬の匂いがする場所は校内で保健室だけ。
 誰かが室内にいる可能性は十分にある。
 先生とか、他には本当に具合の悪い生徒が別のベッドで寝ているかも。
 右には中庭を望める窓。まだ昼のようだったが、校舎の影のおかげで室内に日光は差し込んでこない。
 反対側に首を向けると、空のベッドと――その上に足を組んで座っている女性が目に映った。
 濃いめの色合をしたジーンズの上には文庫本が乗っていた。距離があるせいでタイトルはわからないが、文字だらけの本であることはわかった。
 だから、聞いてみた。

「その本、なんてタイトルですか?」
「武者小路実篤、友情。古い言葉や漢字の使い方は、近頃は見られないものもあります。
 お話は長く、じっくりと人物を掘り下げていくものもよいのですが、
 そうすると小説と馴染みのない方には手に取りにくいものになりがちです。
 その点、この本であれば心配ありません。そのくせ、中身も詰まっている。おすすめですよ」
「どの辺が面白かったですか?」
「……わかりませんね、いえ、面白くないという意味ではないです。
 読む度に誰かに共感し、誰かに反感を覚える。対象がころころと変わっていってしまうんですよ。
 でもそれは、おそらく私だけのことでしょう」
 そこまで言うと、二年D組の担任である篤子女史は立ち上がり、俺のいるベッドの傍らに立った。
 しおりを先頭のページに挟み、差し出してくる。反射的に受け取る。
「ですが、作家という職業に人並みの興味を覚える人なら楽しめます。
 貸しますから、読んでみてください。返しに来たときに感想を伺いますから、そのつもりで」
「あの、別に読みたい訳じゃないんですけど」
「これは宿題です、と言えばやる気になるのではないですか?」
「まさか、クラスの皆にも同じ宿題を?」
「まさか。あなただけですよ」
 篤子女史の一言にときめいたりすることはなかったが、高橋あたりなら都合の良いように解釈するんだろうと考えた。
 安心した。俺を呼ぶ、『あなた』という単語に親しみが籠もっていない。
 起きた瞬間にとっさに距離をとらなかったのは、本とセットになっている担任の姿が普段通りだったからなのだ。
 やはり篤子女史には本が似合う。高橋よりも。
 一種の記号だ。コーラと缶のパッケージの赤が切り離せないものであるのと同じ。
 俺と大人の関係になっているなんて、あり得ないし、夢だとしても篤子女史に失礼というものだ。



795 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/02(月) 00:53:55 ID:LzUN6Ghd
「宿題ならやりますけど、どうして俺だけ読書感想なんです?」
「今日の一時間目の授業は何か、知っているでしょう」
「国語、ですね」
「そういうことです」
 結構容赦がないのな、この国語教師。
 俺は体育館の地下に閉じこめられていたんだから、授業に出られなかったのだ。サボったわけではない。
 たしかに無断欠席ではあったが、あの状況では連絡しようがないのだから見逃して欲しい。
「不満そうな顔ですね」
「……別に、そんなことはないです」
「事情は知っていますよ。体育館の地下倉庫で、手足を縛られてぐったりしていた、とか」
「誰にそんなこと聞いたんです?」
 というより、ぐったりさせられたというのが事実。
 助けてくれた感謝と誤った処置をした叱責、どちらを先にすべきかわからないから、ぜひとも相手が知りたかった。
「葉月さんですよ。
 朝のホームルームが終わって、すぐに飛び出して行って、授業が終わってからようやく戻ってきました。
 理由を聞いたら、あなたを発見して保健室に運び込んだから、と。
 ですから、この宿題は葉月さんのためにやるものだと思ってくれて構いません。
 それで二人分のマイナス点はチャラにします」
「ありがとう、ございます。それで、葉月さんは?」
「今はタオルを水に浸しに行っていて……結構時間が経ちますけど、遅いですね。
 まあ、程なくして戻ってくるでしょう。
 昨日何があったのかは、後日聞くことにします。それと、ちゃんとお礼を言っておくように」
「うぃっす」
 片手をチョップの形にして持ち上げて、返事した。



796 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/02(月) 00:55:18 ID:LzUN6Ghd
 担任が去った後、葉月さんを待つために俺はベッドに腰掛けていた。
 とりあえず体に異常はない。手首に巻かれていた拘束具の跡ももう消えている。
 昨晩着ていたはずの制服は、いつのまにか学校指定のジャージへと変化していた。
 制服はハンガーに掛けられて、ベッドから離れた位置にある開いた窓のそばで、吹き込んでくる風にその身をゆだねていた。
 ジャージの裾をめくってみる。裏面に縫いつけられた小さな白い布に高橋、と書かれていた。
 後で高橋にもお礼を言っておくとしよう。

 葉月さんが来たらまず――助けてくれて、いや、見つけてくれてありがとう、と言おう。
 地下倉庫を発見して来てくれたことには感謝しているが、その後についてはなんとも言えん。
 そりゃ、まずいと思ってやってくれたのだろうが、さすがに心臓マッサージはきつい。
 昨晩体育館で澄子ちゃんに会ったときと比べても、段違いに死の危険を感じた。
 加えて、その後の人工呼吸には、もう。
「あれ、絶対にくっついてた、よな。……唇」
 まあ、そうじゃなきゃ空気が漏れてしまうから、やっぱり隙間無くくっついたのだろう。
 唇と、唇がくっついちゃったんですか。
 そっか、そうか、そうなのか。
 あれは…………キスとしてカウントしていいのか?
 あまり思い出したくないけど、さっき見た夢の中のラストシーンみたいな流れでやったなら、キスとして成立するんだろうな。
 片方が迫って、もう片方がそれを拒まない。
 葉月さんは、果たしてキスのこととか、考えていたのか?
 よしんばそうであったとして、俺が自律動作できない状態は拒んでいないと言えるか?

 …………不謹慎だな。助けようとしてくれただけなのに、いかがわしいことと結びつけようだなんて。
 俺のことを好きだったから人工呼吸しただなんてことはないはずだ。
 きっと、葉月さんは助けたい人がいたら同じ事をする。そういうことにしておく。
 唇の感触がどんなものだったのか堪能する暇も余裕もなかったが、一応、自分の唇と合わさったという事実は覚えておこう。
 やっぱり、嬉しいものは嬉しいし。



797 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/02(月) 00:56:04 ID:LzUN6Ghd
 手持ち無沙汰だ。
 読書感想の宿題の名目で渡された本に目を通してみたが、いつ葉月さんが来るかわからない状況ではいまいち頭に入らず、
結局は膝の上に留まる形になってしまった。
 ここから出て探しに行こうにも、はたしてどこへ葉月さんを探しに行けばいいものか。
 ついさっき鳴ったチャイムは、今日の最後の授業が終了した合図。今日は土曜日だから、三時限目でラスト。
 帰りのホームルームは、担任のことだから手短に終える。もう終わっている頃だ。
 それでもやって来ないということは、もう葉月さんは帰ってしまったのか?
 …………するかなあ、そんなこと。
 でも、タオルを濡らしに水場へ行って、戻ってきてないのは事実だし。

 とりあえず様子見に、廊下へ出てみることにした。
 本を反対側のベッドに投げ出して、ベッドから腰を浮かす。
 その瞬間、保健室のドアが開く、ガラリという音がした。
 まるで立ち上がることで自動的にドアが開く仕組みみたいだった。
 しかし座り直して今度はドアが閉まるかどうか試してみる気にはならない。
 シューズを脱ぐ音、続けてスリッパと床のぶつかるパタパタという音。
 金具に掛けられたシーツが壁代わりになって入り口方向が見えないので、このへんは想像である。
 音はだんだん大きくなる。保健室にやってきた人物は、すぐにベッドへと向かってきた。
 対面。
「あ、あ…………」
 やって来たのは両手で洗面器を持った葉月さん。
 口から小さな声を断続的に出し続ける葉月さんは、じっと俺の目を見つめている。
 洗面器が震えて水が縁から零れている。
 近づき、洗面器をなかば奪うつもりで抜き取る。
 透明な水には白いタオルが浸されていた。風邪を引いた時みたいに額に当てるつもりだったのかもしれない。
 葉月さんは両手を胴の前に固定し、透明な洗面器を持つようにして固まっていた。
 これがフリーズという状態なのであろうか。俺は何も言っていないのだけど。

 凍結状態を解くため、声をかける。まずは助けてくれたお礼から。
「葉月さん、心配させてごめん。見つけてくれてありがと――――」
 あと一文字というところでタックルされた。
 ベッドに背中から着地する。ほぼ同時に洗面器の水が俺の体目掛けてダイブを敢行。
 数秒空けて染み込んでくる水が冷たい。だけど、すぐに別の熱が肌を覆う。
「よかった、良かった。良かったよお…………死んでなく、生き、ててくれた。
 う……ううう………………」
 より強く抱きつかれる。嗚咽を殺そうとしているみたいに。
 ジャージ越しでも、ダイレクトに震えが伝わってくる。
 背中をきつく握られた。
 存在を確かめるような動きが、より一層、彼女の受けた切なさを伝えてくる。
「ごめんね、本当に、悪かったよ」
「ううん、そんな、こと、ないから。無事だったら、いいの。私は、それだけでいいの。
 こうして居られるなら、もう、何にも…………いら、ないよ」
 俺はそれ以上は何も言わず、心の中で謝罪を続ける。
 空の洗面器は頭上で俺の両手に掴まれていた。
 葉月さんの頭を撫でるとか背中に手を回すとか、そういったことに頭が回らないのはきっとこいつのせいだ。
 でも、有り難くもあった。
 結論として葉月さんの気持ちに応えられない俺には、抱きつかれている今の状態が後ろめたかったから。



798 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/02(月) 00:57:23 ID:LzUN6Ghd
 葉月さんが落ち着くのを待って、水に濡れていないベッドに座って話を伺う。
 本当は俺が濡れたベッドに、葉月さんが反対側に座る形で話したかったのだけど、
葉月さんの無言にして断固たる意志により一つのベッドに収まる形になった。
 左手を両手でがっちり掴まれ、抵抗しても見事に体勢を崩され続ければ抗議する気も失せる。
 座ったら座ったでお互いの膝がぴったりくっつく。
 このまま距離をとれば、いずれ追い詰められベッドから落ちてしまうので、あえて維持する方向で固めた。
 こんな時しっかりした男なら上手いことを言って距離をあけたりするのだろうか。
 しかし、今の葉月さんの前では健常な性的嗜好を持つ男なら誰でも意志を曲げる絵が浮かぶ。
 結論。男は所詮美少女の要求に弱いものなのだ。

「電話しても出なかったのは、やっぱりあそこに連れて行かれてたから?」
「……ああ、あれ。丁度捕まる一歩手前ってところだった。まだその時は体育館の中。
 でも、そっか。あの時の電話はやっぱり葉月さんだったんだ」
「うん。何回コールしても、掛け直しても出ないから、あの時はもう帰っちゃったのかなと思ってたんだ。
 居なくなったのに気付いたのは、今日の朝。
 あなたの家に行ってもあなたは待ってなくて、ようやく出てきた妹さんに聞いたらあなたも帰ってないって言われて。
 だから、授業をサボって探しに出かけたの」
「そう、だったんだ」
「電話を掛けながら歩き回ってたら、あなたの携帯電話の着メロが聞こえたの。体育館の近くで。
 見に行ったら、地下倉庫の前に携帯電話が置かれてて。もしかしたらと思って扉を開けたらあなたが居た。
 手足を縛られて、目が開いてなくて、返事しても起きなくて。
 本当、手遅れにならなくて良かった」
「……感謝してるよ、ありがとう」
 含みのない言い方を出来たか、自分でも心配になった。

 携帯電話が地下倉庫の前にぽつんと置かれていた。
 俺の携帯電話を持っていて、そんなことができるのは澄子ちゃんだけだ。
 解放するという言葉は嘘じゃなかったのか。
 でも、そうすると弟はすでに理想郷とやらに連れて行かれているはず。
 手遅れの心配をしなければいけないのは、弟の方だ。
 葉月さんと俺はそっちに関しては何も出来ていないから、花火の動きに期待するしかない。
 花火のことだから俺みたいに捕まるような失敗をやらかしはしないだろうが、どうなったことやら。



799 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/02(月) 00:58:15 ID:LzUN6Ghd
「あのさ、花火の姿を見なかった?」
「花火って、あの金髪の子?
 そういえば見てないな。弟君を捜しに行ってるんだろうけど」
「ふうん…………」
「あの子まであなたみたいな目に遭っていないか、心配?」
「してない、って言えば嘘になる。でもその必要がないからさ、あいつには」
「信用してるんだね」
「信用してるのと心配しないのは別だと思うけど」
「ううん。一緒だよ。
 誰かのことを心配しないのは、どうでもいいからか、もしくは、評価してるから。
 あの子の名前を知ってて、どんな子か知っていて、それでも心配ないって言えるのは、信用してる証拠だよ。
 よく知らない人間なら、どうなったところで知ったことはない、なんて言えるもの。
 それに、どうでもいいならあの子がどうしているかなんて考えないでしょう?」
「嫌っている相手でも?」
「嫌っているなら、まず口にすることを躊躇うはずだよ」
 ふう――む、たしかに。
 言われて気付いたが、俺は花火のことを嫌っていない。妹にも日頃から色々と言われちゃいるが、嫌いだなんて思わない。
 そもそも、二人とも嫌えない。
 花火を傷つけた俺が、あいつを嫌いになるなんて許されない。妹は家族の一員として大切に思ってる。
 そういえば、最近は心から人を嫌いになった覚えがない。
 テレビに映る人間なら嫌いなのもいるが、周囲の人間となるとさっぱりだ。

「なんか一つ賢くなった気がするよ」
「あ、あはは。…………実は今の、お父さんの受け売りなんだ。
 小さい頃、小学四年生ぐらいかな。
 よその道場の子供と組み手をして、負けちゃって、もう武道を習うのやめちゃおうかと思ったことがあったの。
 そのことをお父さんに言ったら、一週間後にもう一度言いに来なさいって。
 引き止めないのがなんだか悔しかったけど、一応、一週間考えることにしたの」
「でも、やめなかったんだね」
「うん、やっぱり負けたままは悔しかったし。それに――稽古は楽しかったから。
 で、お父さんに続けるってを言ったら、最初から心配していなかったぞ、って笑いながら言われたの。
 その時に聞いたんだ、さっきの考え方」
「かっこいいね、お父さん」
 同性でありながら、不覚にもそう思う。
「んー……真剣な顔して教えてくれる時はかっこいいな、なんて思うけど、それ以外はどうかな。
 …………お母さんのことだって、おかしいもん。絶対に」
「お母さん?」
「あ! ううん、なんでもないない! 気にしないで。私のお母さんすごく元気だもん」
「なら、いいんだけど」
 しかし、葉月さんの口調には陰りがあった。
 父親とは違い、母親について葉月さんはあまり語らない。
 仲、悪いのかな。
 なんだか笑顔の葉月さんが無理して笑っているみたいに見えてきた。
 この話題は置いて、別の話を振ってみるか。



800 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/02(月) 00:59:56 ID:LzUN6Ghd
「ねえ、葉月さん」
「なあに?」
「弟の知り合いなんだけど、知ってるかな。木之内澄子っていう名前の女の子」
「木之内……………………ですって?」
 ですって?
 何、今の。今の台詞は葉月さんが言ったか?
 普段こんな喋り方なんてしないのに。それこそ、怒ったときぐらいしか。
 もしかして俺、地雷踏んだ?
「その子が、どうかしたのかしら?」
 怖い。葉月さんに怒りを向けられた人間って、皆こんなプレッシャーを感じているのか。
 これは、以前俺の家で暴れた時の比じゃないぞ。
「う、うん。怒らないで聞いて欲しいんだけど」
「怒ってないわよ。いつ私が怒ったっていうの?」
「そ、そうだね。葉月さんは怒ってないよね」
 葉月さんの言葉を信じるんだ! 
「今日、姿を見かけなかったかなー……って」
「見てないわよ」
「そうなんだ、それならいいんだ。忘れて」
「お断りするわ」
 うあ、忘れてくださらない。
「もし、見たとしたらどうだっていうの? どうするつもりだった?
 居場所を聞いて、会いに行くつもりなのかしら。私を放って置いて」
「いいえ、そんなつもりはございません。断じて」
「敬語はやめて。嫌いだから」
 ご、ご無体な!
 なぜそんな私の神経をグラインダーですり減らすような要求をなさるのです?
 敬語を使えないのがこんなに苦しいなんて知らなかった。
 ……敬語って、目上の人の威圧から自分を守るために必要なんだ。今度、真面目に勉強しよ。
「会いに行くとか、そんなつもりはござ――なくて、ただちょっと気になったんだよ。
 弟がいなくなったと同時に、その子まで居なくなったから。だから――」
「会いたくて仕方ないのかしら?」
「違う!」
「弟君が居なくなってもあまり心配していなかったのに。へえ、そう。
 可愛い可愛い、後輩の女の子が居なくなったら心乱すのね。
 知っているわよ。黒のショートヘアーで、身長が私の顎ぐらいで、ちょっと普通じゃないところがある子、でしょ?」
 へけっ、という音が口から漏れた。
 俺の顔、おかしくないよな? 動揺をこれ以上ない形で表現してないよな?
 間違いなく、葉月さんは澄子ちゃんを知っている。
 それどころじゃなく、すでに会っている。
 去年の文化祭で遭遇してはいたが、あの時は澄子ちゃんが覆面を被っていたからバレていないはず。
 とすると、それ以外のどこかで。
 いつだ。澄子ちゃんがペンを投げて大暴れしたのは最近じゃいつだ?
 ――もしや、クリスマスイブか?! というか俺の記憶が正しければ、あれしかない。
 じゃあ、葉月さんが十二月二十四日に、俺を呼び出したコンビニで澄子ちゃんとミニスカサンタが戦っているところを
見物しに来たギャラリーに葉月さんも混じっていたのか。
 とんだ失態だ。その可能性を考えていなかった。
 だからあの日、いつまで待っても葉月さんが来なかったんだ。
 ギャラリーが解散すると同時に、葉月さんまで帰ってしまっていたのか。



801 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/02(月) 01:02:00 ID:LzUN6Ghd
「私、知っているのよ。一昨日のこと」
 一昨日というと、えっと、昨日が十五日だから十四日。バレンタインデイだ。
「あなた、チョコレートを貰っていたでしょう?」
「……なんで知ってんの?」
「すり替えたから。私のオレンジのと、入ってたワイン色の箱」
「なぜ?」
「なぜって、そんなの…………許せないからに決まってるでしょ!」
 超至近距離からの音波が聴覚をかき乱す。
 いかれたのは左耳。しかし耳に手を当てようにも左手はすでに葉月さんに掴まれている。
 左手を引かれ、振り回される。落ち着いた場所はベッドの上。
 葉月さんは、右手で俺の左手を、左手で俺の肩を押さえ込み、上から被さっている。
 要約すると、俺は押し倒されていた。

「いつのまに受け取ったの? 私はあの日、教室に飛び込んできたあなたから一目も離さなかったのに」
「あの、信じてもらえないかもしれないけど、あれは弟がギャグでよこした代物で」
「見え透いた嘘を吐かないで! 弟君がそんなわけわからないことするはずないでしょ!」
 葉月さんの中にある弟の像がそうでも、リアルの弟が阿呆なことをしたのだから、俺に文句を言われても困る。
 しかし、思ったことを口にできない俺がいる。ほんと、弱いね。
「きっとあの子よ。木之内澄子よ。あの子に受けとったんだ」
「違う。澄子ちゃんは弟のことが好きなんだ!」
 葉月さんが息を呑んだ。
 ただそれだけなのに、より気配が不穏になる。
「なに…………それ。ちゃん付け? 私には、名字にさん付けなのに。
 あなたと木之内澄子は、そこまで仲良くしていたの?」
 最悪だ。てめえで悪化させてりゃ世話ねえ。
 特別に仲が良いわけじゃないけど、ある程度の関係があると知られてしまった。
 一般的にはちゃん付けなんて、かなり親しくないとできないものだと認識されている。事実、俺だってそう思う。
 こうなると、もはや手を付けられない。
 澄子ちゃんは弟を好きなんだと主張しても、そんなものではちゃん付けのインパクトを消せない。

 反転した状態からさらに半回転したのか逆に回ったのか、ともかく普段通りになった葉月さんの声が耳に届く。
「呼んでよ。私の名前、呼んで。
 葉月さん、じゃだめ。葉月、もだめ。
 他の誰でもない、私のためだけにある、特別な名前。
 呼び捨てにして。いっぱいいっぱい、どんな言葉よりも多く口にして。
 家族に呼ばれるのと、あなたに呼ばれるのとじゃ全く違うの。
 ずっとずっと、好きな人から呼ばれていないから、乾いてるの。飢えてるの。
 満たしてくれたら、許してあげる。心から、あなたの全てを、私は受け入れる」
 甘い誘惑。口に含んだら抵抗なく溶けてしまいそう。
 受け入れずに拒むのが惜しい。
 ――そもそも、拒んでどうする? 意味があるのか?
 名前を呼んでいいのなら、それでいいじゃないか。
 友達同士で呼び合うのは普通のことだ。それ以外の、例えば友達ですらない花火を俺は呼び捨てにしている。
 葉月さんの名前を呼び捨てにするのは構わない。
 構わないなら、そうしてもいいはずなのに、どうして俺はそうしていないんだ。
「やっぱり恥ずかしい? なら、こうしよう。
 私もあなたの名前、呼び捨てにする。二人で一緒なら、問題ないでしょ。
 ずっとずっと、ずーっと二人きり、いつまでも何も変わらなければいいんだよ。
 ここで決めちゃえば、困る事なんて無くなる。
 私が、ずっとあなたを助けるから」
 俺は助けられたいんじゃない。守りたい。
 学校で会う友達、毎日の生活、そして家族。
 葉月さん。あなたは俺以外にも、俺が守りたいものも守ってくれるのか?
 ――――違うどころか、もし俺と俺の大事なものを引き離すなら、あなたの願いを俺は叶えない。



802 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/02(月) 01:03:09 ID:LzUN6Ghd
 着メロが鳴った。
 聞き覚えのある音色。数年前に放映された戦隊モノのオープニングテーマ。
 俺が、自分の手で自分の携帯電話に設定した音だった。
「携帯電話、たぶん俺のだ」
「どうでもいいじゃない。それより、早く答えて欲しいな」
「どうでもよくはないよ。もしかしたら弟からかもしれない」
 可能性はゼロに限りなく近いが、嘘ではない。
「まあ、いいよ。でも見終わったらすぐに返事してもらうから」
 葉月さんが取り出した携帯電話を受け取り、開く。
 すでに音は鳴りやんでいる。届いていたのはメールだった。
 送り主は――誰だ? メールアドレスが表示されているけど、これは一体誰のだ?
 それにタイトルもない。無題だから、迷惑メールの類ではなさそうだが……。
「早く見て。あんまり待たせて欲しくない」
 頷いて、メールを開く。

 中身を読み、すぐに送信者と、送信者がどんなつもりで送ったものかわかった。
 世界中にただ一人、俺のことをこう呼ぶ人間がいる。
 おにいさん、と。
 ちょっとだけ他人行儀だけど、たまに呼ばれると無視はされていないのだと安心させてくれる呼び方。
 そう呼ぶ人間からメールを受け取ったのは今が初めてだ。だからメール送信者が不明だった。
 頭を下げてでも聞いておくべきだった。
 あいつが――――二つ年下の妹が、俺にメールを送ってくる。
 そんなことが起きるのはたった一つ、緊急事態が発生したときだけなのだから。

 タガが外れた。目的と目的地だけしか頭に浮かばない。
 体の上に乗った葉月さんも、ちょっと動かしてしまえばすぐにどけることができる。
 葉月さんの背中に手を回す。すると拘束する力が一瞬緩み、油断が生まれる。
 左側へ押しやり、ベッドに押し倒す。
 葉月さんの顔が紅くなった。だが、そんなことはどうでもいい。
 ベッドから飛び降り、保健室のドアを力ずくで開き、下駄箱へ向かって突っ走る。
 背後から呼び止められようと、追いかける足音が聞こえようと構わない。
 靴を履いている時間がもったいない。一刻も早く、向かわなければ。

 妹、変なメールを送ってくるんじゃないよ。
 おにいさん助けて――――なんて、普段は絶対に言いやしないくせに。