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431 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:11:49 ID:L4ArOBLk
 家を出て、間もなくして後悔した。
 前方からの向かい風が、寒さと相まって容赦なくアタシの体力と体温を奪おうとする。
 自転車は速いけど、この季節に防寒対策をせずに乗るには厳しい。
「せめてフードでも、被ってくれば、良かったわ……」
 自転車に乗る時、手袋をする習慣のおかげで手はあまり冷えてない。
 けど、コンビニに着くまでには冷え切っているだろう。
 乗っている自転車は、クロスバイクとかいうタイプらしい。
 友達が乗らなくなった自転車を貰ったから、詳しいことは知らない。
 ハブの精度がどうだの、ホイールが別物だの、タイヤがママチャリより細いだの言われてもどこがどう違うんだか。
 そんなものより、前カゴがついている方がこんな時はありがたい。
「武器だって積めるし、ね……」
 今携帯しているのは、ボールペンのみ。
 制服の胸元に一本、両腕に五本ずつ、スカートのポケットに二本の、合計十三本。
 コートとか私服だったらもっといっぱい仕込んでるし、種類も多い。
 だけど、彼は制服エッチが好きそうだから、着替える訳にはいかなかった。
 良妻は殿方の好みに合わせて衣装を選ぶものなのです。
「……だからって、よりによってミニスカで出ることないでしょ、アタシのバカ。出てくる時に着替えるとか、さ……」
 あー、ダメだ。止まって耳と手を暖めないと走れそうにない。
 ブレーキをかけて、外灯の下で停止。
 手袋を外し、手をサドルとお尻の間に挟んで、温める。
「ふー……あったか」
 耳に手を当てると、自分の体の一部とは思えないぐらい冷たくなっているのがわかった。
 コンビニまでの道程はまだ三分の一ほど。
 ここで着替えるために引き返すのは手間。これだから、中途半端に目的地が近いと困る。
 吐いたため息で手を温め、擦り合わせて、手袋をはめる。
 ペダルをこぎ出そうとしたところで、前方に何かが見えた。
 ライトで照らした先の地面に……あれは、人の足だ。
 電灯の明かりが届かない範囲にあるから、全体像は掴めないけど、靴の色と首の細さからして、たぶん女。



432 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:12:25 ID:L4ArOBLk
 女……か。ヤな予感。
 葵紋花火? アタシが彼をさらったことに気付いた?
 ――いいえ、それはない。
 犯人がアタシだと知っているのは先輩だけ。
 だけど、問い詰められたぐらいじゃ先輩はそれを明かさない。
 もしバラしたらアタシの身が危険にさらされると思い、かばうはず。
 暴力で脅されてもなお、そうするとは限らないけど。

 ここは何食わぬ顔で通り過ぎるのが吉。
 人間の足じゃ所詮自転車の速度には敵わない。
 こぎ出して、正体不明の女の左側を道幅いっぱいに避けるコースで進む。
 進み、進み、進み……あと二メートルで女の横を通り過ぎるところまで来た。
 このまま、ギアを上げて加速すれば――――
「見つけたあっ! 見つけたわよっ!」
 え、何々?
 声の聞こえた方向、右――女の方を見る。
 暗澹とした空間の中に、濃厚な敵意。攻撃の気配。
 上体を屈める。
 頭上を局地的な突風が通り過ぎた。
 アタシの顔面があった位置を通り過ぎていた。
「ちぃっ! 外れたっ!」
 何が外れたって――攻撃に決まってんでしょ、アタシ!
 しかも今の鋭さ、自転車の速度と合わせたら、首を折ってもおかしくないぐらいのものだった。
 敵だ。誰か知らないけど、アタシを殺そうとしてる奴がすぐそこにいる!
「待ちなさい! 自転車から降りなさい!」
「誰が降りるもんですか! こんのっ!」
 後方へ向けて右腕を振り、ペンを放つ。
 すぐにハンドルを掴み、立ちこぎで疾走。
「ちょこざいな真似を! そんなの、通用しないんだから!」
「あーもう、やっぱり当たってないしぃぃぃ!」
 足首を狙えれば相手の速度を落とせるだろうけど、それじゃこっちも遅くなる。
 逃げるしかない。しかも家には行けない。
 このままどこか遠くまで引っ張って、その後で撒くしかない。
 難しいなあもう、相手をちぎらないぐらいに加減して走らなきゃならないなんて! 全力なら楽なのに!



433 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:13:26 ID:L4ArOBLk
 女の追ってくる気配はビンビン伝わってくる。
 こっちは全力じゃないにしてもけっこう早めに走っているのに、靴の音が遠ざからない。
 どんな化物なのよ。声は葵紋花火とは違うみたいだけど。
 こりゃ、なおさら捕まる訳にはいかなくなったわね!

 突き当たりの壁、曲がり角。
 ギリギリまで突っ込み、右に若干体重を寄せ、進路を取る――けど、これはフェイント。
 重心を反対側に切り返し、同時にリアブレーキをかける。
 たちまちリアタイヤが滑り出し、車体は左へと急旋回する。
 いわゆる二輪ドリフト。
 ハンドルを立て直してバランスを取り、左の通路へ向けてペダルをこぐ。

 今の速度なら、女は足を止めなきゃ曲がりきれないはず。
 振り向いて、背後を見る。
「……、あれ?」
 居ない。影も形もない。
 黒く染まった路地と、外灯の放つ白い光が見えただけ。
 だというのに、追ってくる足音が止まらない。
 都市伝説の妖怪?
 という推測は、次の瞬間に裏切られた。
 視界の隅、右の塀の上に――黒い影。
 それは、まだ追ってきている、さっきの女。
 後ろを向くためスピードを落としたアタシと並ぶ速さで走っている。
 黒い影が塀から飛び降りて、また追いかけてきた。
 着地してさらにスピードが上がったのか、じわじわと近づかれる。
「なによそれえ! 反則じゃない!」
 前傾姿勢で立ち漕ぎ。全力で逃げる。
 塀の上? さっきの曲がり角でそのまま駆け上がった?
 壁走りしたうえ、足場のない場所を走るなんて!
 怪我とか、死ぬのが怖くないの、あの女!
「追ってくるんじゃないわよ! この、サイボーグ女! 改造人間!」
「うる、さい! 反則は、あなたの、方じゃない!」
 ああもう、石ころ邪魔、走りづらい!
 夜道ってこれだから嫌いなのよ!
「何言ってるのよ!」
「私が居ない時に限って、二人きりで会ったり、クリスマスにデートしたり、チョコ渡したり!
 いつまでも逃げてないで、正面から勝負しなさい!」
「何のことかわかんない! それに、あんたみたいな化物と勝負できるもんですか!」
「臆病者! 女の風上にも、置けないわ!」
「ふん! 勝てばいいのよ勝てば! どんな手を使っても、ねえ!」

 前方からまばゆい光。車だ。
 そしてこれは――――チャンス!
 左の壁に寄り、左足を自転車のフレームに乗せる。
 サドルの下にはサドルバッグ。友達がおまけでつけてくれたものがそのままくっついている。
 中には十徳ナイフみたく多機能な、携帯用のマルチツールがある。
 手探りで先端の尖っている工具を立てて、そのまま、迫る車の左フロントタイヤ目掛けて投げる。
 車はアタシの自転車を避けるように左へ寄る。
 テールライトまで通り過ぎたところで、突然、タイヤの擦れる甲高い音が鳴った。
 耳をつんざく激突音と、盛大な破壊音が、夜の気配をでたらめに引き裂いた。
 離れた位置で停車して、車の有様を見る。
 それはもう、ひどいことになっていた。
 道幅と同じくらいのサイズの白のセダンは、丁度路地を遮るかたちで止まっていた。
 左右の壁には一メートルぐらい削れたような跡が残っている。
 前照灯とブレーキランプは付きっぱなし。むき出しの白い光が塀を照らしている。
 運転手はエアバッグに埋もれている。全然動かないから、気絶しているのかもしれない。
 ……まあ、アタシがやったんだけど。
 ごめんなさい、運転手の人。
 ニュースで報じられたら、お詫びするから。……たぶん。



434 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:15:04 ID:L4ArOBLk
 今ので女は車と衝突したはず。
 目の前に壁が現れたら、とっさに壁を走るなんて芸当はできないでしょう。
 悲鳴らしき声は聞こえなかった。叫ぶ暇もなく気絶してくれていれば楽なんだけど。
「甘いのよ、そんな手」
 あらら……無事だったか。
 思うとおりにいかないのがこの手の人間とのやりとりとはいえ、この女ほどしつこいのは滅多にいない。
「ちょっと先を読めば、あなたがどうするかなんてわかる。
 中学生でも、あの車を避けることだって容易いわ」
 それはさすがに無理でしょ。
 今ならともかく、中学時代のアタシじゃ何が起こったかも理解できずに車の側面にぶつかったはずだ。

 女の声が聞こえた方向を見やる。
 塀の上に、同じ高校の制服を着て、その上にコートを羽織った女が立っていた。
 右足を浮かし、ふらつくどころか微動だにせず、アタシを見下ろしている。
「あなただったんですね。運動能力を考えれば納得できます。
 どうしてアタシを追うのかは…………わかりませんけど」
「事ここに至っても、まだシラを切るわけ。とっくにあなたのやったことはバレているのよ」
「……葉月さん」
「木之内……澄子!」

 葉月さんが跳び上がった。
 空中で一回転、して――いきなりアタシ目掛けて落ちてきた。
 漕ぐのは間に合わない。諦め、自転車を捨てる。
 ひねった体を蹴りが掠めた。
 必殺技っぽい一撃が外れても葉月さんの構えは崩れていない。
 右に横っ飛び。距離をとる。
 しかし、即座に詰められ、一歩先まで接近される。
「甘い!」
「ちぃっ!」
 両足を曲げ、屈む。
 横薙ぎの一閃。頭上を鋭い暴力が通過する。
 左腕を一振り。袖に仕込んだボールペンが手の中に収まる。
 横から円を描くように足首を狙う。
 空振り――躱された。
 察すると同時、反撃を予測。
 思ったとおり。突っ込んできたスニーカーの爪先を、首を倒して避ける。
 後頭部の髪と皮膚を削いでしまいそうな前蹴り。喰らったら一発KO。
 伸びた足を、背負うようにして肩に乗せる。
 そのまま背負い投げを――――できない?
「背中が続いていない、足がお留守! そして!」
 意図せず、体が持ち上がった。
 いいや、持ち上げられていた。葉月さんの足に。たった一本の足に。
「腰が、弱い!」
 己の失敗を悟り、手を離す。
 しかし――――これが最大の失敗。
 肩と葉月さんの足の間に、距離が生まれた。
 それは拳一つ、あるかないかぐらいだったけど、充分だった。
 肩目掛けて振り下ろされたギロチンみたいな踵落としは、数センチで威力と速度を増していた。
 踵がめり込んだ。肩の筋肉が潰れる。右の肺が悲鳴をあげる。肋骨が歪む。
「ぅふっ…………かは」
 咳が噴き出た。慣れ親しんだ呼吸の手順がとても難しいものに感じる。
 これでは、次を躱さなくては、やられてしまう。
 左手を地面に着き、前転。着地と同時に振り返る。
 目の前に、大きく踏み込んだ左足が見えた。



435 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:16:48 ID:L4ArOBLk
「とどめえっ!」
 次に来るのは腰だめの拳、いや掌底だ!
 両腕を交差させ、受け止める。
「く――う、うああっ?!」
 吹き飛ばされた。後ろから引っ張られたみたいに。
 つま先が地面を擦る。踵が浮いていて、踏みとどまれない。
 勢いに流され、半ば転がるように着地する。
 掌底を受け止めた左腕が、真ん中からじんじんと痛みを訴えてくる。
 指はぴくりとしか動かせない。
 そのうえ右肩はまだ痛みを訴えている。染み込んだ衝撃を除去している最中だ。

「どうやら、決着みたいね」
 離れた位置に居る葉月さんが、勝ち誇るように言った。
 それはどうでしょうね――と、言ってしまっていいものやら。
 両腕が使えて、かつ、障害物の多くて物の散乱する場所で戦うならともかく、今の状態じゃ回避もままならない。
「……ええ、そうらしいです」
 ここは時間を稼ぐ必要がある。
 それに、話の仕方次第で戦いを中断させられるかもしれない。

「葉月さん、どうして、アタシを狙うんです?」
「あなた、ふざけているの?」
「いいえ、そうじゃなくて。考えてもわからないんですよ。
 アタシは葉月さんに何かをした覚えがないから」
「あなたが何かしたのは、私じゃなくて、あの人に対してよ。
 私よりいつも一歩先に、あの人にくっついたり、チョコあげたりして!」
 あの人って――先輩のことだよね。
 葉月さんが好きな異性って、先輩ぐらいだし。
 へえ……先輩、葉月さん以外の女の人にチョコもらえたんですか。
 予想外だ。言っちゃ失礼だけど。

 一昨日にアタシは先輩にチョコを贈ったりはしなかった。
 それじゃ、ただ葉月さんが誤解しているだけじゃないの。
「あの、ですね。アタシは先輩とは、ただの顔見知り程度の仲ですよ。
 チョコをあげたことなんか一度もありません」
 くっついたことは――あったかも。去年のクリスマスに。
 でもあれは演技だし。
「そもそも、アタシの好きな人は他にいるわけですし。ですから――」
「澄子ちゃん」
「はい?」
「澄子ちゃんって呼ばれて居るみたいね。あの人から。
 聞いたわよ。ばっちりと、この耳でね」
 あちゃあ、知ってるんですか。
 というか、先輩。葉月さんの前でうっかり口にしちゃったんですか。
 聞かれちゃったら、もうごまかせないじゃないですか!



436 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:18:00 ID:L4ArOBLk
「私には、葉月さんで、あなたには澄子ちゃん。
 名前も呼んでくれないのに。どうしてあなたはそんな幸せな呼ばれ方をされているの」
「お願いしなかったんですか? 名前で呼んで、って」
「したわよ」
「なら、呼んでくれているはずじゃ……?」
「お願いした途端、あの人は私の前から逃げ出したのよ! 
 きっと、名前を呼ぶほど仲が良くないから! だから嫌がって逃げ出したのよ!」
「な……」
 なにやってんですか、先輩!
 名前を呼ぶなんて友達同士でもやってますよ。恥ずかしがってどうするんです、小学生ですか!
 先輩の意気地無し、馬鹿! おかげでアタシがピンチですよ!
「そして…………逃げたのは、私の名前を呼ぶのが嫌だったから、だけじゃないはず。
 あなたがあの人を呼んだんでしょう? そうじゃなきゃ、あんなに必死になるはずがない」
「は……はい?」
「メールを送ったでしょう、あの人に向けて。
 今すぐ会いに来て欲しい、とかなんとか、ふざけたことを書いて」
 根拠がないにもほどがある。
 言いがかり・オブ・ジ・イヤーにノミネートされそうなほど。
「送ってませんよ。ていうか、アタシ、先輩のメルアドすら知りませんし」
「いいえ! あなたが送ったに違いないわ!
 だって、彼の携帯電話に実際にメールが届いていたんだもの!
 証拠なんか、それだけで充分よ!」
 ファミレスに来る悪質な客でも、今の葉月さんほど理不尽なことは言わない。
 理不尽な言いがかりを取り扱う専門家とか、どこかにいないかなあ。
 ……………………ハア。

「……葉月さんはアタシをどうするつもりで?」
「そんなの決まっているわ。あの人に、今すぐ会わせて。
 きっとあなたは行き先を知って居るんでしょう?
 例えば、あなたの家とか」
 うーん……先輩とアタシの彼氏を置き換えたら百点なんだけどなあ。
 まあ、当たっているにせよ、外れているにせよ。
「教える訳にはいきませんね。葉月さんを、アタシの家に上げるわけにはいきません」
「それは、あの人があなたの家にいると認める、ということかしら」
「否定しても、同じでしょう。あなたはアタシの言葉なんか信じない、聞かない。
 一応、先輩が今どこにいるのかは知りません、と言っておきますけどね。
 アタシの家は、来客を招けるような状況じゃないんです。
 散らかっていて申し訳ありませんって言いたくないので近づかないでくれません?
 いや、是非とも近づかないでください」
「嫌よ。あなたの言うことは信じられない。
 あなたの家に上がって、家捜ししないと私の不信感は拭えない。
 無理矢理にでも、案内してもらうわよ」
「まったく、もう……これだから、暴力に訴える人たちは嫌いなんです」
 なんとかして、逃げなくちゃ。
 言うとおりにして、家に上げるという選択もあるにはある。
 家に上げてから、彼を発見される前に力ずくで葉月さんに退いてもらう、ということもできる。
 アタシの家であれば、それができる。
 だけど、それは綱渡り。
 もしも葉月さんがアタシの予想している以上の人だったら、アタシはねじ伏せられ、彼を発見される。
 そして、未来は閉ざされる。
 彼とまた離ればなれになる。
 チャンスがまた訪れるとは限らない。

 そんなの――絶対に嫌よ。



437 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:19:27 ID:L4ArOBLk
「言っておくけど、逃げられるだなんて思わないで。
 自転車に乗る隙は与えない。動き出したらすぐにでも押さえ込む。
 諦めなさい。あの人に会わせるなら、悪いようにはしないわよ」
「……諦める?」
 アタシが、彼を?
 ああ、確かに。諦めてしまえば楽でしょうね。それはそれは、楽な選択だわ。
 今ここで受け入れてしまえばアタシはこれ以上傷つかずに済むものね。
 ――――はっ。
 笑わせないでちょうだい。
 中学の頃にあの事件に巻き込まれて、あまりにも多くのものを諦めてきたアタシが、最後まで諦めきれなかった、大好きな彼。
 たかが凶暴な女に追い詰められたぐらいのことで、揺らぐとでも?
 大木で百八回つかれても、誓いは曲げないわ。
 アタシは色ボケ女よ。彼にどうしようもなく参ってしまっている弱い女。
 彼以外に大事なものなんてありはしないし、これからも作る気はない。
 譲るつもりなんてさらさらない。
 誰に咎められても、自分の身が危険にさらされても、状況をひっくりかえしてやる。
 断固抵抗。絶対反抗。
 やってやろうじゃない。

「……葉月さん」
「何かしら。降伏宣言でもするつもり?」
「先輩って、童貞だったんですよ」
「え、え。やっぱり? よかったあ、じゃあ、私が初めての女になれるってこと………………ん?
 だった、って何? どういう意味?」
「めでたく先輩は童貞卒業されました、ということです」
 葉月さんの表情が一変した。血の気が引くとはこの表情を指して使うのだろう。
 間もなくして、震えだした。美人との評価を欲しいままにするだけあり、怒り顔まで様になっている。
「まさか、ああああなた、あなたが、が……」
「先輩って、結構荒っぽいんですよ。アタシがバテてても、まだまだやり足りないみたいで。
 力一杯抱きしめて、欲望のたけをアタシの体にぶつけるのに夢中になって。
 葉月さんにも見せてあげたかったなあ。アタシを抱えながら陶酔した先輩の表情」
「……嘘よ」
「本当です」
「嘘! 嘘嘘嘘嘘嘘、嘘よ、でまかせに決まってる!」
「信じたくないでしょう、葉月さんからすれば。
 でも、事実は事実。先輩は、アタシを選んだ。
 同じクラスの葉月さんより、後輩の木之内澄子の方が魅力的だったんでしょうね」
「なんて…………ことを! よくも、掠め取ったわね!」
 挑発に乗ってくれた。
 わっかりっやすーい。
 葉月さんの抱く先輩への不安をちょこっと突けばあっさり引っ掛かるんだから。
 アタシの言っている台詞こそ、なんの根拠もないものだって考えればわかるでしょうに。
 ここまで葉月さんを不安定にさせる先輩も先輩だけど、今回ばかりはその性格に感謝しなきゃ。
 でも、嘘でも先輩とセックスしたとか言いたくない。
 言ってると不愉快になってくる。
 先輩は、嫌いじゃないんだけど。
 恋人を選ぶなら、真っ先に除外するタイプだわ。
 葉月さんがどうして先輩を選んだんだか、アタシにはわからない。



438 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:21:00 ID:L4ArOBLk
「もう、あなたは許さないわ」
「そうですか。許さないのなら、どうするつもりです? さっきみたいに力でねじ伏せますか?」
「そんなことしないわよ。いいえ、そんなものじゃ済まさない。そんな軽い刑はあなたにはふさわしくない。
 二度と彼に近づけないようにしてあげる。恐怖のあまり、誰の前にも姿を現せないようにしてやる」
 ……へー、あっそう。そうですか。
「じゃ、やってみたらいいんじゃないですか?」
「その言い方……できないとでも、思っているの?」
「いいえ。葉月さんならそれぐらいのことはできるでしょう」
 相手が、アタシじゃなければ。
 あの事件を乗り越えたアタシに、痛めつけて恐怖を与えようったって無駄。
 だって、彼が居るから。
 彼が恐怖に打ち勝つ力と、心の拠り所を与えてくれた。
 彼が居ればアタシの心はいつだってエネルギー満タン、パワー全開。
 誰を相手取っても、心臓に氷の刃を突きつけられても、怖くなんかない。
 忌まわしいのは、体に限界があること。
 気合いは充分してる。
 ただ、気合いで補ってもさっきの葉月さんの猛威に立ち向かえるとは思えない。
 さて、どうするか――――と悩んだ時だった。

「…………ん? 今の音」
「救急車のサイレンね。おおかた、近くに住んでる人たちが通報したんでしょう。
 あなたが、車を事故らせたせいでね」
「あららら。思ったより早いなあ……」
 本当、仕事が早くて助かる。
 警察は動くのが遅いし、頼りないのが混じってるから嫌いだけど、救急隊員の人たちは仕事熱心だから大好き。
 おかげでアタシにとってはやりやすくなった。
 間もなく様子を見に来た人たちが野次馬のごとく集まってくる。
 それに乗じて動けば逃げるのも容易いわ。
 ここで葉月さんを仕留めることだって、できるようになった。

 葉月さんは周りに目を配っている。
 そして、少しだけ歯噛みしてから、アタシを見て言った。
「場所を変えましょうか。ここにいたら続きができそうにない」
 やっぱりまだやる気なんだ。
 だけど、状況はアタシに味方してる。実に扱いやすい。
「いいんですか? ここから二人して居なくなっちゃって」
「……どういう意味?」
「二人で、もしくはそれぞれバラバラでこの場から立ち去ったりして、誰かに見られたらどう思われるんでしょうね。
 間近で事故があったのに、まったく興味を示さずに立ち去る女子高生二人。
 もしかしたら犯人かも、なんて思われるかもしれませんよ」
「それは……それなら、顔を見られないようにすればいい」
「ますます怪しいじゃないですか、それじゃ」
 葉月さんが舌打ちした。
 なるほど、やっぱりこの人は一般的な日本の女子高生らしい暮らしを送ってきたらしい。
 それっぽいことを言われたら信じてしまう。
 事故現場から人が立ち去ったぐらいじゃ、誰も怪しんだりしない。
 皆現場を見ることに集中しているから、三分もすれば忘れてしまう。
 あからさまに犯人っぽい容姿をしているならともかく、制服を着た女子高生なんか怪しまれない。
 わざわざ通報して警察に協力する人も滅多にいない。
 ははっ。
 まさか、ここまで上手くいくなんて。
 これなら、戦うことも、休戦させることもできる。
 せっかくだから、さっき痛めつけられた分の仕返しをしてあげましょうか。
 どうやら、恐怖を心に刻みつけられるのはあなたになりそうですね、葉月さん。



439 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:22:23 ID:L4ArOBLk
 ボールペンを両手に取る。
 軽さと頑丈さと細さを吟味して選んだ、とっておきのうちの二本。
 中指と薬指ではさみ、逆手に持つ。
 でも、これはまだ構える前の準備の段階。
 確実に仕留めるためには、まだ条件が足りない。
 人が押し寄せてきて、混乱に乗じて死角が生まれた時にようやく条件は揃う。
 
 背後から光が差し、葉月さんの顔が見えた。
 ギャラリーが到着したらしい。
 あれ、地面が明るくなった。ありえないぐらい。
 足下を照らすには大袈裟過ぎる光量。懐中電灯の光じゃない。
 車のライトだ。
 葉月さんが左の塀に寄る。少し遅れてアタシも、反対側の塀に移動する。
 まさか真っ先に車がやってくるなんて。
 これじゃ、逃げるしか手がない。ペンを投げるだけでは葉月さんを仕留められない。
 塀に手を伸ばして跳び上がろうとしたら、突然車が目の前で停まった。
 見慣れたタイプの、どでかい白の四駆。
 まさか、と思って動きを止めて見ていると、助手席のドアが開いた。
 運転手がアタシを見ながら叫ぶ。
「乗れ、澄子!」
「はい?」
「とっとと乗れ、このAカップ!」
「なんですと!?」
 いきなり現れて失礼な! Bぐらいあるっての!
 たぶん!

 いやそれはともかく、アタシにこんなこと言うのはあの子しかいない。
 アタシに車という移動手段と、力を貸してくれる友達。
「京子! あんた、アタシにスリーサイズで負けてるくせによくも!」
「背は私が勝ってる!」
「なおさら救いが無いわ、このもやし娘!」
 やりとりしながら助手席に飛び乗る。
 ドアを閉めるより早く車はバックで走り出した。
 みるみるうちに葉月さんが遠ざかる。
 葉月さんは何が起こったのか理解していないみたいに、塀に寄ったまま立ち尽くしていた。



440 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:24:05 ID:L4ArOBLk
 京子は右手でハンドルを細かく切り、左肘を背もたれに乗せて後方を見るという、女心を刺激する姿勢をとっている。
 ちなみにアタシの女心は刺激されない。
 ドアを閉める。緊張の糸が緩み、肩の力が抜けた。
 一息吐いてから、口を開く。
「京子、どうしてここにアタシが居るってわかったの」
「ん? そんなの、お前の制服の襟に仕込んだ発信器を頼りにしたに決まってる」
「どうせ冗談だろうからあえて突っ込まないけど、それにしたって、
 迎えに来ないって言ってたあんたがなんでやってきたのかがわからない」
「あー、それはな」
 突然車が急停止。
 シートベルトをしていなかったせいでダッシュボードに頭を打ちそうになった。
 理由を問う前に、京子が右に素早くハンドルを切る。
 車は右の路地へ進路を取って、走り出す。
 ……止まるなら止まる、曲がるなら曲がるって言って欲しい。
「簡単に言えば気が変わった」
「気が変わった瞬間に電話して欲しかったわ……」
 そしたら葉月さんには会わなかった。自転車も置き去りの目に遭わなかった。
「違うんだ。変わったと言っても、出かける気分になっただけで、澄子を迎えに行くつもりじゃなかった。
 コンビニに寄って食玩を大人買いするついでに晩ご飯を買うつもりだった」
「でも、国道走ったらコンビニに着くじゃない。
 こんな路地に入る必要ないはずよ。もしかして、あんた迷った?」
「違う。途中で財布を忘れていたことに気付いたんだ。
 仕方ないから、澄子に奢って貰おうと思ってな。
 澄子と鉢合わせするように走ってきた訳だ」
「……あっそう」
 この理由が、アタシを迎えにきたのをごまかす照れ隠しだったら、上手いと言える。
 照れ隠しだったとしても、全然感動しないけど。
 もちろん、奢る気にも全くならない。

「そんなことより、澄子、さっきの女はなんだ」
「ああ、あの人は学校の先輩の葉月さん。
 垂直の壁を走る走破性と、数十センチの幅でも真っ直ぐ走るバランスと、自転車とスピード勝負しても負けないエンジンと、
 若者に絶賛されるデザインがウリの十七歳よ」
「……人間の紹介とは思えないな、今の。アンドロイドか?」
「さあ? 解剖しないとわかんない」
 まあ、人間なんだろうけど。
 紹介してて自分でも嘘っぽいって思うよ。
 どんな両親の間に生まれて、何を食べて、どれぐらい鍛えればああなるんだろう。
 少なくとも、地力じゃアタシはとても敵わない。
「とりあえず、お礼言っとく。ありがと。おかげで逃げられたわよ」
 あのままでも逃げられたんだけど、とは言わないでおく。
 手間を省いてくれたのは事実だから。
「礼なんか要らないさ。それよりも……」
「はいはい。ちゃんと食玩の大人買いにも付き合ってあげるわよ」
「そうか。五件まで付き合ってくれるか」
「言ってないし。なんで五件もコンビニに寄らなきゃ行けないのよ」
「一件じゃせいぜい一箱しか買えないだろう。どうせならもっと欲しい。そうは思わないか?」
「金を出すのがアタシじゃなければ、ね。
 ともかく、手持ちがあんまり無いから、何件もいくのは駄目」
「じゃあ私が立て替えておこう。あとで請求するから問題ない」
「あんたは、まったくもう……」
 嘆息して、何気なくバックミラーを見る。
 小さな光が闇の中に浮かんでいた。
 それはいつまで経っても遠ざかることなく、むしろ少しずつ大きくなっていった。
 車が左に曲がる。それでも光はまだ付いてくる。
 外灯が一瞬だけ光の正体を映し出す。
 そして、戦慄を覚えた。



441 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:25:04 ID:L4ArOBLk
「追ってきているな、さっきの女」
 京子の言葉に頷く。
「ゆっくり走っているにせよ、三十は出ているんだが。
 音がしないところからして、自転車で追ってきているようだ。
 クロスかロードのどっちかなんだろうが…………どっちだと思う」
「クロスの方よ」
「なぜ分かる?」
「前、あんたに貰った自転車だから。あれ、クロスバイクって言うんでしょ」
「ああ、あれか。なら納得だ。私が乗っても四十ちょっとは出せたからな。
 でも、なぜその葉月とやらがそれを?」
「自転車を跨いでる時、上空から人間が急降下してきたら飛び降りるでしょ。
 実際にやられたから、置き去りにしたのよ」
「……やれやれ」
 京子が肩を落とした。
「澄子、お前と知り合ってから私は変な目に遭ってばかりだよ。
 まさか、仮面を被っていない生身の状態で特撮シーンを演じる女と、リアルチェイスすることになろうとは」
「いいじゃない。おかげで元気になったんだから」
 しばしの沈黙の後、ふん、と鼻であしらわれた。

 アタシと京子は、かつて同じ男から、同じ目に遭わされた。
 いわば暴行事件の犠牲者同士。
 でもアタシ達が仲良くなれたのは、事件の当事者だからとか、名前が似てるから、という意識があったからじゃない。
 京子の弟が自殺したのが原因だ。
 事件を起こしたあの男は、とにかく最低最悪の変態性欲の持ち主で、見た目が良ければ男でも女でも襲った。
 そのうちの、男の犠牲者に京子の弟も含まれていた。
 まだ小学生で、女の子と好き合った経験もないのに、変態の慰みものになった、京子の弟。
 事件後に受けた精神科医のカウンセリングで知り合ったのがきっかけ。京子ともその時知り合った。
 出会った時は、はきはき喋ってよく笑う、事件にめげない強い男の子だと思った。
 彼が仮面を被っていたのだと気付いたのは、自宅のあるマンションの屋上から飛び降りて、命を絶った時。
 気付くのが遅すぎた。アタシも京子も、自分のことだけしか考えていなかった。
 傷ついていたのは京子の弟もそうだったのに。
 傷つかないはずがないのに。
 アタシ達は、京子の弟を助けられるはずだった。
 年下の男の子に慰められるんじゃなくて、年上のアタシ達が慰めるべきだった。
 それからだ、アタシ達がお互いのことに気を配り、協力し合い、友達になったのは。
 心の底から親友と言える相手。
 だからこそ、京子はアタシを止めなかった。
 人をさらうために力を貸してなんて言って、味方してくれるのは救いがたい悪党と京子だけ。
 協力を要請するのがどちらになるかなんて、悩むまでもない。
 アタシは京子を、京子はアタシを助ける。
 それが、アタシ達の暗黙の誓い。
 申し訳なく思うのは、アタシが京子よりも彼を優先させていること。
 本当にごめんね、京子。



442 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:28:16 ID:L4ArOBLk
「澄子、次の角を左に曲がる」
「りょーかい。きっちり曲がって葉月さんを撒いちゃって」
 ライトがT字路を照らす。
 京子はなかなかスピードを落とさない。
 葉月さんはまだ追ってきているから、そうするのはわかるけど。
「ちょっと、これじゃぶつかっちゃう!」
「シートベルト着けて、どこかに掴まれ…………吹っ飛ぶぞ」
「なんでアタシが吹っ飛――――ああああぶつかるうっ!」
 ヘッドレストに両手でしがみつく。
 ぐんぐん壁が迫る。
 激突する画を思い浮かべた時、右側に重力で引かれた。
 車が、横向きに走ってる。
「ちょ、何やってんのあんた!」
「ああ、うるさい。騒ぐな」
 信じられないほど落ち着いてハンドルを操作する、イカれた運転手の声。
 どうやら落ち着いていないのはアタシだけらしかった。
 車も、壁にぶつかるすんでのところで左の路地に入っていった。
 シートが平らになっていることを理解してから、盛大に息を吐き出す。
「そんなに怖かったか?」
「当たり前じゃん! 事故るかと思ったわよ!」
「まあ、私もリアが塀にぶつかるかと心配したけどな。こういう場所で滑らせるのは初めてだから」
「無謀なことしないでよ! 今すぐ降ろしなさい!」
「いいのか? 女に追われてるんだろう」
 あ。
 すっかり忘れてた。
 サイドミラーで後方を見る。光は見えず、ただ暗いだけ。
「良かった。さっきので撒いたみたい」
「……本当にそう思うか?」
 なぜか京子の声は暗い。
 声にいつもの余裕がない。
「ええ。自転車のライトが見えないから」
「じゃあルームミラー、は見えないから――――リアウインドウを見てみろ。
 すごいものが見られるぞ」
「見たってどうせ一緒でしょ。後ろからは誰も……追って、来てはいない、わね」
 けど、あのカーブを曲がり切って付いてくる自転車よりも、すごいものが見えた。
 リアウインドウが黒く覆われていた。
 もちろんそれは、京子の趣味で貼られている黒いシールなんかじゃない。
 時々蠢き、自身が有機体であることを主張する。
 人が――葉月さんが、リアウインドウに貼り付いていた。



443 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:30:24 ID:L4ArOBLk
「い、いつの間に?!」
「予想、いや、他にやり方がないから断定してもいいか。
 さっき車が横向きになった瞬間に勢いよく壁に突っ込んで、自転車を捨てて飛び移ったって所だろう。
 なるほど、さっき右をぶつけたかと思って疑ったが、あれは自転車が壁に激突した音だったのか。
 よかった、車が傷ついてなくて」
「ちっとも良くない! 冷静に分析してる場合? このままじゃ――」
 後部座席から光が差した。
 密閉された車内の空気を乱す音が入り込む。
 風の音と、タイヤの立てる走行音。
 リアトランクが開いている。
 勝手に開くなんてことはない。京子はそんな故障を放ってはおかない。
 考えられるのは一つ。
 葉月さんがトランクを開けた。
「ふふ、ふふふふふ……あはははは、ははははは!
 逃げられやしないわ。許さない。絶対に彼を取り返すんだから。木之内澄子……あなたから!」
 トランクを掴み、内側に入り込もうとしながら笑う葉月さん。
 マジ、映画の世界。
 もう、サイボーグでも改造人間でもアンドロイドでもミュータントでも、どれでもいい。
 葉月さんはそれらに劣らない。この執念は異常だ。
「京子、なんとか振り落として!」
「まだできない」
「どうして!」
「道幅が狭い。やりたくない」
「あんたねえ! ここでアタシがやられたらあんたまでおしまいよ!?」
「お前のやらかしたことのとばっちりでか。
 澄子が、そこに居る女の男に手を出したのが悪いんだろう。
 自分が可愛いと思ってる貧乳はこれだから……」
「先輩のことは誤解だし、アタシは貧しくないしあんたよりは少なくとも――――ええい、いいから早く振り落としなさい!」
「世話の焼けるやつだ、まったく」
 京子は小さくかぶりを振る。
 ハンドルの方は少しもぶれていない。
「あまりやりたくはないが、致し方ない。
 澄子。十、四五秒もたせろ。それまで中に入れるな」
「どうやって!」
「お前の腕は木の棒か? 射撃の腕ははりぼてか? 自分で考えてなんとかしろ」
 やりとりの最中も、葉月さんはトランクと格闘して、入り込もうとしてくる。

 あと、約十秒。
 葉月さんの顔面目掛け、ペンを二本投げる。避けられた。
 ペンを二本消費。残り九本。
 シートを後ろに倒す。
 左手、ペンを投げる。遅れて右手、後部座席のレバーを掴む。
 レバーを上げると同時、シートを蹴る。
 葉月さんが引く。ラゲッジに乗っているのは左足。
「あと五秒」
 あと、五秒らしい。
 葉月さんの足が伸びてきた。のけぞって躱す。
 足首を掴み、右手に持ったペンを突き出す。
「つーかまーえ、た!」
 刺さる前にアタシの体が倒れる。
 葉月さんに引き寄せられた。可笑しそうな顔を見上げる。
 シートのレバーに手を伸ばす。握り拳が見える。
 レバーでシートを持ち上げる。軽度の衝撃。シートを殴られた。
「右に回る、捕まってろ!」
 左から、手が伸びてきた。
 視界が掌でいっぱいになった。



444 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:32:21 ID:L4ArOBLk
 頭部が揺れた。
 左の窓にぶつかって、音と衝撃が鼓膜を揺らした。
 脳を揺らし、目の奥の奥を奮わせる。
 体が左に流れてる。肩から腰までドアに密着している。
 甲高く、重々しいスキール音が聞こえる。
 歪んで見える窓の向こうは目まぐるしく変わる。
 そして、一際大きく車体が傾き、わずかに静止。背後からトランクの閉まる大きな音。
 平衡感覚が斜めの状態から正常に戻る。遅れて、アタシの体がシートに倒れた。
「…………京子、今の何」
「六百三十度ターン。四分の七回転。つまり、一回転半したのちに車の鼻先を左に向けた」
 ああ、道理で。
 カーブを直角に曲がったときより時間がかかったわけだわ。
「それより、そんなことして大丈夫なわけ? 狭い路地でさ」
「周りを見ろ。とっくに開けた場所に出ているぞ」
 頭をシートから剥がし、フロントウインドウを見ると、塀に囲まれていない道が見えた。
 左には、さっき走ってきた路地が暗闇を広げている。
 なるほど。路地を直線に走ってきて、車道に出た途端ターンしたの。
 回転が終わった瞬間にトランクのドアを閉ざすこともできた。
 これなら効果的だわ。いかに葉月さんとはいえ、耐えられないはず。
 シートの後ろ、足下、一応助手席まで見てみたけど、葉月さんはいない。
「ああ、よかったあ。中に入り込んでたらどうしようかと思ったわよ」
「ちらっと見たが、トランクが閉まる直前、吹っ飛んでいったぞ。
 どの方向に行ったかは見えなかったが。
 ……それより、変な物は転がっていないか?」
「変な物? いえ、相変わらず何も積まれてないけど」
 京子はなんでか車に物を積みたがらない。
 アタシが人形を置いてもいいか聞いたらあっさり却下した。
 さすがに傘ぐらいは置いてあると信じてるけど。……見たこと無いんだけどね。
「例えば、指とか、腕とか、制服の切れ端とか。血が付いたら最悪だ。匂いが染みつく」
「安心しなさい。そうなったらさすがに悲鳴ぐらい、あげてるはずだから」
 確認するのが面倒だったからそう言った。
 一応後で確認しておこう。
 もしもあったら……その時はその時に考えましょう。
「京子。悪いんだけど、家に送ってくれない? コンビニに行く気分じゃないわ、もう」
「ん、了解。私もそのつもりだったからな」
 車が静かに発進する。
 アタシは、冷蔵庫の中身がどれだけ残っているのかを浮かべながらシートにもたれた。



445 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:34:31 ID:L4ArOBLk
 自宅に到着した。
 なんだか三日ぶりに帰ってきたみたい。今回の外出では、初体験が多すぎた。
 家にある唯一の自転車は、帰還が叶わなかった。
 ちょっともったいない気もするけど、どうせ明日には県を二つ跨いだ先にあるところへ行って、
それきり帰ってこないから乗れなくなることに変わりない。
 車を塀に寄せて停車させ、京子が振り向いた。
「ここでいいか?」
「ええ、ありがと。家、上がってく? 残り物で作った料理なら振る舞ってあげるわよ」
「悪くない。けど、断らせてもらうよ。
 家に帰って、明日の準備をして、早めに寝なければいけない。
 澄子の家に寄ったら、帰りが遅くなるのは見えてるからな」
「そう。ならしょうがないか」
 ドアを開けて降りる。
 足を着いた瞬間に膝が少し笑った。地面が頼り甲斐ありすぎる。
「じゃあ、バイバイ。
 明日はよろしくね。五時、しかも朝の五時だから、忘れないように迎えに来てよ」
「お前こそ、男と熱くなりすぎて寝坊するんじゃないぞ。
 約束の時間を五分過ぎても出てこなかったら、私は帰るからな」
 なんでフィフティフィフティの関係なのに、あんたはそこまで優位に立ってるの……。
 一応アタシが依頼主なんだから都合してくれてもいいじゃない。
 小さくため息。気を取り直す。
「じゃあね、京子」
「また明日だ、澄子」
 ドアを閉めると、京子の車は静かに走り出した。
 赤いテールランプに向けて手を振る。
 応えるかのように、車は突き当たりの角を曲がって消えていった。

 二階の窓を見上げる。
 アタシの部屋。今は彼が眠る部屋。
 明かりを点けっぱなしにしてきたから、もちろん窓から光が漏れている。
 そろそろお腹を空かして起きている頃かも。
 何を作ってあげよう。
 お米は冷凍したのがある。卵があったら炒飯、無かったらお粥にしようか。
 問題は、どの具が残ってるかだけど。
 彼、嫌いなものとかあるのかな。
 というか、好きなものさえよく知らないわ、アタシ。
 これは由々しきことだわ。早急に彼に聞かなければ。
 炒飯やお粥が嫌いな人は滅多にいないだろうけど、万が一のケースもあり得る。
 ああ、でも。
 今顔を見たら駆け寄って抱きついて、しばらく動けなくなるのは目に見えてる。
「どうしよう……彼、何が好きなのかな」
「あの人は、フレンチトーストが好きらしいわ」
 え?!
 驚き、呼吸を止めたまま息を呑んだ。喉が締め付けられる。
 今の声、葉月さん。
 嘘。だってさっき、振り落としたはずじゃ。
 もしかして、振り落とされる寸前に、車内から見えない死角にしがみついていた?
 そうだとしたら、これほどの人がアタシの家に来ている現状は、とても良くない。
「いつか作ってあげたいわ。美味しい牛乳に砂糖をたっぷり入れて、パンを浸して。
 フライパンでパンを濃いきつね色に彩ったら、バターとシロップをかけて。
 そして、私の気持ちを舌と心で味わってもらうの。
 甘い甘い、クラクラくるこの気持ち。
 そしたら、あの人、きっと笑顔で美味しいって言って、私の名前を呼んでくれる」
 これが、これこそが――――大ピンチだ!



446 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:36:35 ID:L4ArOBLk
 駆け出す、玄関目掛けて。
 鍵を取り出し、しかしまだ使わず、ドアの前で停止。
 ターンしつつ左手でペンを背後へ飛ばす。
 追いかけてきた葉月さんがペンを払う。スピードが落ちた。
 後ろ手で鍵を開ける。最小限ドアを開けて、玄関へ滑り込む。
 しかし、ドアが閉まらない。
 葉月さんの靴がドアに挟まれていた。
 ドアの隙間から、宵闇に浮かぶ薄ら笑いの顔が覗き込んできた。
「ふふふ……ははは、あっはあ! とうとう、追い詰めたわよっ!」
 凄まじく強い、抗いようのない力でドアをこじ開けられる。
 後ろへ跳ぶ。靴を履いたまま床に着地。
 じりじりと後退するアタシと対照的に、葉月さんは悠然と靴を脱いだ。しかも出船の形にしてる。
「あの人を前にして、土足で他人の家に上がっているところを見られたくないわ。
 そう、ここがあなたの家なの。そして、あの人は二階にいる。そうね?」
「さて、どうでしょう」
「まあ、答えてくれなくてもいいわ。
 自分の目で確認すればいいだけだから。ちょっと失礼させてもらうわよ」
 玄関右手にある階段に葉月さんが向かう。
 もちろんそれを何もせず、ただ傍から見送ることはしない。
「葉月さん、アタシに背中を向けていいんですか?」
「遠くからあなたにペンを投げられても、ちっとも痛くないんだもの。
 そんなものより、あの人が今は大事なの」
「そうですか。じゃあ、こんなのは、どうです?」
 靴箱の上に乗った花瓶を掴み、放り投げる。
 狙いは葉月さんの手前の壁。

 砕ける音。
 飛び散る破片。バラバラに舞う花びらと茎。そして、水。
 こんなものじゃ葉月さんの体には、大したダメージを与えられない。
 狙いは別。
 葉月さんの顔と、髪と、服だ。
「…………どういうつもり?」
「ちょっと葉月さんの顔に足りないものがあるかな、と思ったもので。手を加えてあげたんですよ。
 ひどい有様ですね。とてもじゃないけど、好きな男性に会いに行く女性とは思えません」
 そう。今の葉月さんの髪には、花びらが少々と水が大量にかかっている。もちろん、顔にも。
 瓶の細かい破片が、コートの黒地をしまらないものに変えていた。
 しかし、今の葉月さんは、言うなれば水も滴るいい女。
 むしろ別の魅力を引き出してしまった感じ。
 でも、こう言ったら葉月さんは引っ掛かってくれるはずだ。
「つくづく……あなたは、私の神経を逆なでしたり、逆鱗に触れることをするのが、好きね」
「ええ。得意技です。そうでもしないと、アタシの大事な物が奪われてしまうんですから」
 振り向いた葉月さんが、アタシを見下ろして、微笑んだ。
 嘲るような笑いではない。まるで、楽しんでいるよう。
「いいわ。あなたにも私にも、譲れないものがある。
 なら、どうすればいいか。どうしなければいけないのか。
 もちろん自覚しているわね」
「愚問です。もとより、アタシはそうするつもりでしたから」
 可能な限りそんな事態は避けるつもりだった。
 だけど、今なら言える。力でアタシを圧倒する葉月さんを前にしても。
 限定された空間。隅々まで詳しく知る場所、アタシの家。
 体力は全快している。加えて、足の指先から髪の毛先まで満ちる気力。ベストコンディション。
 駄目押しの、葉月さんの今の格好。
 負ける要素が、これでもかというほど排除されている。
「勝負です、葉月さん。アタシに勝ったら、二階に上がってください」
 今なら、確実に勝てる。



447 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:37:39 ID:L4ArOBLk
 一足先にアタシがリビングに入ると、葉月さんもついてきた。
 入り口で立ち尽くす葉月さんは、訝しむように目を周囲に配らせていた。
 罠でも仕掛けてあるのでは、と心配しているのだろう。
「そんなところに立ってないで、どうぞ椅子に腰掛けて楽にしてください」
「……要らないわ」
「じゃあ、お茶でもいかがです? あ、今は冷たい方がいいですか?」
「あなた、自分がさっき何を言ったのか覚えてないの? 決着をつけるんでしょう、今から」
「やだなあ、葉月さんったら」
 椅子を引いて座り、頬杖を突きながら葉月さんを見上げる。
「そんなに疑われるなんて心外です」
「よくも、そんなことを言えるわね。あなたと私の間に、一瞬でも信頼関係があった?」
「無いですけど、アタシの心遣いを察してくれてもいいじゃないですか。
 自転車を追いかけて、少し戦って、自転車を漕いで、車にしがみついたら、さすがにお疲れでしょう。
 戦うのは一息ついてからでも遅くはないですよ」
「……悪いけど、あなたの心遣いなんていらないわ。
 私はあの人に会いに来たの。あなたの相手をする時間も惜しい。
 早く立ちなさい。痛いのは一瞬で済ませてあげる。死ぬほど痛いでしょうけど。
 それだけで、彼に近づく気を無くしてやるわ」
「つれないなあ、そこまで邪険にしなくてもいいのに」
 足を組む。余裕を見せつけるように、アタシは言う。
「じゃあ、そろそろ始めましょうか。時計の秒針が十二を指したら、レディゴーです」
 壁掛け時計を見る。残り時間は三十秒。
 葉月さんはコートを脱いで、首を右に左に動かす。
 対して、アタシは動かない。
 動かないようにしている。葉月さんの取る一手を限定させるために。
「一つ、聞かせて頂戴」
「短いものでしたら、どうぞ」
「あなたは、あの人のことを、どう思っているの。
 本気? それとも……ただの遊びや、暇つぶしのつもり?」
「そんなの、決まってます」
 溜めをつくり、あと三秒というところで、答える。
 先輩に抱くアタシの気持ちを、口にする。
「アタシにとっては、遊び相手にもなりはしない、B級映画みたいな人ですよ」



449 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:40:18 ID:L4ArOBLk
 時計の秒針が十二を指す。
 葉月さんが突っ込んできた。人というより獣と呼んだ方がいい憤怒の表情。
 突進の勢いを乗せたサイドキック。それが机の縁を捉えた。
 アタシの背後には四十センチの空間と、壁。前からは机が迫る。
 だが、読み通り。
 両足の裏を机の下に当てる。机は直前で進路を変え、斜めになる。
 机の重みにバランスを崩した椅子が倒れる。両腕で受け身を取る。
 机を飛び越えた葉月さんが上空に現れる。
 蛍光灯を背にして、勝利を確信した笑みを浮かべている。
 同じようにアタシも笑う。

 右に転がって葉月さんの落下地点から回避。
 続くのは踏みつぶすのを目的とした右の踏み込み。しかしそれは届かない。
 なぜなら、葉月さんは支えを失った机と壁に挟まれたから。
 転がっていたアタシは巻き込まれることなく、机の下をくぐり抜け、机を挟んで葉月さんと対峙する。
「こんなのっ!」
「おっと、そうは行きません」
 机の縁を蹴る。葉月さんの背中に机がめりこむ。もう一撃お見舞いする。
「…………調子に乗って、このっ!」
 葉月さんの姿が消えた。
 机の下を潜り込んでくる――という予想は大きく外れた。
 右に飛び退く。わずかな間を置いて、机が空を飛んだ。
 滑走距離もなしに上昇させたのは葉月さんの力。床を背にして両足を伸ばして吹き飛ばしていた。
 机はリビング入り口方向へ向かい、豪快な音を立てて横倒しになって床にぶつかり、それでも慣性を失わず、また倒れる。
 完全にひっくり返り、リビングのドアに激突した。
 ……すご。この人にはびっくりさせられてばっかりだ。
「すぐにあなたも同じ目に!」
「なりゃしません!」
 手元の椅子を横倒しにして、葉月さんへ向けて滑走させる。
 その場合にとる行動。今し方アタシの見せた手を覚えたなら。
「ワンパターンね!」
 椅子はもちろん止められる。そして。
「――同じ手は、食わないわよ!」
 アタシに向かって跳ね返ってくる。



451 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:41:47 ID:L4ArOBLk
 あなたは部屋が一つしかないと考えている。
 葉月さんの認識する戦いの場では、物は邪魔な障害物でしかない。
 まっさらな空間こそが、あなたの得意なフィールド。
 いわば、部屋は四隅のある正方形。床は一つ、壁は四つ、天井は一つ。
 もしくは、囲いのない平坦なグラウンドのど真ん中。

 向かってきた椅子に向かって、軽く跳ぶ。勢いを活かしもう一歩。
 三歩目で両足をそろえ、椅子を踏み台にして、跳躍する。

 ――けど、椅子もある意味で限定された一つの空間。
 足場にもなるし壁にもなる。武器にもなるし盾にもなる。
 部屋には無数の床と壁と天井が存在する。
 点と点の隔たりを細かく断ち、角度をつけて線と線を結び、空間を作り出す。
 一つの限定空間において変動する空間を際限なく構築する。
 固定されぬ観念の生む戦場。
 無論、その中には相手も組み込まれている。

 頭上にいるアタシを葉月さんが拳で迎え撃つ。
 土足のままだったおかげで、拳の衝撃を受けることなく、足場を確保。
 拳を踏み台にしてさらに跳ぶ。
 目指すは、かつて机のあった位置の横にある食器を収める棚――の上。
 天井に背を付けて、足を動かす。
 するとどうなるか。
 不確かな足場である食器棚は倒れる。重力に導かれ、無防備な葉月さんの背中へ向かう。
 振り向いた時には、もう遅い。
「な、嘘――――っ!」
 大胆だけど無機質な食器棚に、葉月さんは押し倒された。



453 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:43:16 ID:L4ArOBLk
「あー……すっごい、疲れた」
 頭を打って気絶した葉月さん、の上に乗る食器棚、の上に座り、アタシはようやく緊張を解いた。
 この部屋なら勝てるという確信はあった。
 しかし、前提がある。アタシが思うとおりに動ける、冷静に判断できる精神状態である、の二つ。
 事前にシミュレーションをする必要はあまりない。
 相手の取る最初の一手さえ見逃さなければ、あとは頭が判断して、体を動かしてくれる。
「でもこんなの、そうそうできないよねえ……泊まるのが今日限りだからできたけど」
 明日の朝食は京子の車の中になりそうだ。

 お父さんとお母さんは、怒るかもね。
 娘が居なくなったことよりも、リビングがぐちゃぐちゃになっていることについて。
 携帯電話には、両親の番号もメルアドも登録済み。
 だけど、二人ともアタシの番号とメルアドなんか知らないみたいに、一度も連絡をくれない。
 そんなんだから、この家であの男の凶行を許したんじゃないか――――なんて、責めたりはしない。
 運が悪かった。ただそれだけ。
 事件に遭うまで、アタシは一年の内の九割を一人きりで暮らしてきた。
 いわゆる鍵っ子の上級もしくは下級バージョン。
 より深刻になっているのは、進化なんだか退化なんだか。
 ともかく、十五歳になってあの男に遭遇したのは、偶然だ。
 そうでも考えなければ、やってられない。
 アタシが両親を嫌いだから、偶然がその目を向けたなんて、思いたくない。
 アタシは悪くない。
 それだけは、絶対に信じて疑わない。

 さて、葉月さんを縛る前に、彼の様子を見に行くとしようか。
 でかい机が滑って空を飛んで着地して倒れて、おまけに食器棚が倒れたんだから、何事かと彼が怖がってるかも。
 怖がっていたら、子守歌を歌ってあげないと。
 歌といえば、カラオケ。
 京子と行くとヒーローソングのメドレーを聞かされるけど、彼もそうなんだろうか。
 個人的にはラブソングがいいんだけど。
 彼が葵紋花火やお兄さんのことを忘れるまで、まだまだ時間はかかりそう。 
 それまでは、カラオケデートもお弁当作って遊園地に行くのも、おあずけ。
 根気よく関係を築いていこう。
 アタシと彼は、まだ付き合ったばかりなんだから。



456 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:46:10 ID:L4ArOBLk
 二階へ行き、彼の眠る部屋の前に立つ。
 考える。
 もし彼が起きていた場合、さっきの物音をなんと言って説明しよう。
 葉月さんと戦っていた――じゃなくて遊んでいた、というのもアリだけど。
 他の女を彼に会わせたくない、意識させたくないという、アタシの女心がそれを却下する。
 浮気するのを心配してるわけじゃない。とっくに金髪の雌牛に惚れているから。
 いずれは雌牛のことも忘れさせるけど、対象になりうる存在はなるべく排除したい。
 葉月さんは先輩に惚れているから、除外するとして。
 京子にも一応チェックマーク入れておこう。
 親友を疑うなんてしたくないけど、彼をさらった犯人を知っているのは京子と先輩ぐらいだから、仕方ない。
 そうね、さっきの物音のことは忘れさせましょう。
 もっとすごい思い出を刻みつければ、些細な出来事は簡単に忘れるもの。
 ああ、どうしよう。彼を抱く、葉月さんを縛る、どっちを優先しよう。
 うー……一回するぐらいなら、でも一回やったら止まれないだろうし。
 しょうがない。
 また一階に下りて、葉月さんを縛ろう。
 彼とするのはそれからでも遅くないや。

 回れ右して、一歩踏み出した。
 その瞬間に、わずかな物音を察知した。
 近い。とても近くの、扉の向こうから。
 でも彼は縛られているから起きられない。
 だったら――――他の人間だ。
 勢いよく開いた扉を飛び退いて避ける。廊下側のドアノブが壁にぶつかって跳ね返った。
 戦闘状態に移行した神経で、次の動きを待つ。
 聞こえたのは、忌まわしく、憎たらしい、大嫌いな女の声だった。
「待っていたよ、ずっと。お前ら二人が帰ってくる前から、ずっとな」
「……玄関には鍵をかけていたはず」
「窓を割って入った。ガラスには謝っておいた」
「アタシにも謝ったらどう? ガラス片の散らばった床に土下座して床を舐めたら、
 許してあげるのを後ろ向きに検討してあげる」
「それをするのはお前だ、木之内。あいつをこんな目に遭わせて、ただで済むと思うなよ!」
 廊下に飛び出した金髪は、葵紋花火。床を蹴って懐に飛び込んでくる。
 闘牛よろしく飛び込んできたところを躱す。
 ――刺し殺す。
 中指と薬指でペンを挟み、手首と垂直に持つ。
 手加減抜き、相手の体の機能を奪うための武器として扱う。
 葵紋が足を止める。
 背中に飛びつく。左腕で首をロックし、耳の穴目掛け、突きだす。
 ペンの先が肉を穿つ。
 しかし刺さった箇所は、葵紋がとっさに動かした右手。
「う、おおお、おおっ!」
 壁に叩きつけられる。背中でアタシの体を潰そうとしてくる。
 だが、これぐらいでは左腕は緩めない。
 右手を捻る。銀色のペンがより深く、怨敵の手を深々と貫く。
「死ね! 死んでしまえっ、葵紋、花火!」
「黙れ! お前如きが――――」
 葵紋の右手が動く。壁とアタシの手がぶつかる。
 ペンは八割方埋まっていた。すでにアタシの手から離れている。
 次に何が来るか分かっても、前からは葵紋の背中に、後ろは壁に挟まれて身動きがとれない。
 身長差のせいで足が床に着かない。
 逃げようがない!
「私の名前を! 呼ぶんじゃないっ!」
 右の太腿に重い一撃。続いて芯を侵すような鋭くて熱い痛み。
 血が噴き出していると、見なくてもわかる。
 だが悲鳴はあげない。
 ここで仕留める。



457 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:48:49 ID:L4ArOBLk
 左手で右腕の上を掴み、右手を葵紋の後頭部に当てる。首を締め上げ、右手を前に押し出す。
 裸締め。テコの原理を応用した首折りの手段。
 力で圧倒的に劣るアタシにはこれぐらいしか、接近戦で有効な手がない。
 葵紋はまだ抵抗する。しかし力は弱くなっている。
 右足と脇腹に葵紋の持つペンが突き刺さる。
 おそらくどれかはかなり深く刺さっている。痛みが呼吸を阻害する。
 歯を食いしばって力を込める。左腕を支点に、右手を力点に。
 葵紋の喉がわずかに震えた。
 最後の力を振り絞った葵紋の持つペンはアタシの頭頂部を貫いた。
 視界の右半分が紅く染まる。右のまぶたを閉ざした瞬間、はずみで力を緩めてしまった。
 左腕を掴まれた。体が流れ、受け身もとれずに叩きつけられた。

 熱くなった頭では、右の腿と脇腹の痛みを知覚しない。
 闘争心が、憎悪が、不自由な足を引き摺って動かす。
 気付いたらアタシは立っていた。右手は壁に付いている。左手はスカートのポケットに。
「木之内、よくも、よくもあいつを、やったな! やりやがったな!」
「吼えるなっ! 彼は、アタシだけのものだ!」
 左手、ペンを掴む。
 投げるなんてことはしない。この女だけは確実な手で仕留める。
「あんたさえ、消えれば!」
「居なくなれ! あいつを穢したお前なんか、ここで終わってしまえ!」
 葵紋が突進してくる。
 だけどアタシの足はもう動かない。動かせるのは両手だけ。
 右手を壁から離し、一瞬だけ直立する。
 葵紋の体当たりを正面から受ける。
 腰を掴まれ、押され続ける。壁に叩きつけるつもりか。
 だけど、大人しくやられはしない。
 右の袖からペンを出す。残るのは一本だけ。左手と合わせて二本。
 これで充分だ。
 心臓と、右肩。ここを潰してしまえば、葵紋はこの世から居なくなる。
 アタシと彼の前に二度と現れない。
 勘だけで心臓に狙いを定める。
 壁に衝突した際の反動で、深く突き刺さってくれるはずだ。
 
 日記の続き、明日は色々書けそう。
 書き終わったら、明日は彼と何をして過ごそうか。
 今なら、やりたいことがいっぱいっぱい浮かんでくる。
 部屋でテレビを見てるだけでも、一緒にご飯を食べるだけでも、なんなら同じベッドで添い寝するだけでもいい。
 そうだ。明日はパンを焼いて、食べさせよう。
 アタシ、お菓子作りは結構好きなんだ。ケーキだって作れるんだよ。
 食べてくれるかなあ。彼、どんな食べ物が好きなのかなあ。
「えへへ、へ……」
 忘れずに、聞かないと。



458 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2008/06/22(日) 23:50:37 ID:L4ArOBLk
 壁と背中がぶつかり、前方からの衝撃が内臓を圧迫した。
 葵紋が後ろに下がり、尻餅をついた。
 アタシの右手には、ペンがない。
 きっとこの雌牛に刺さったんだ。屠ることが、できたんだ。

 支えを失った体が、壁を擦りながら落ちてゆく。見慣れた廊下の景色が上っていく。
 そして、気付いた。
 背中のどこかを、鋭い物が穿っている。
 もう意識は一割ほどしか働いていない。
 このペンは、どこまで達しているんだろう。
 アタシは、また彼と日常を過ごせるまでに回復できるのかな。

 あー。
 なんだか、切なくなってきちゃった。
 死なないよね、アタシ。
 まだ死にたくないもん。
 なのに、どうして、無性にお礼が言いたいんだろう。
 お別れじゃないのに。
 まだ生きる気満々なのに。

 私、あなたに会えて救われた。

 本当、あなたを好きになってよかった。

 ありがとう。


 こんなこと、言わないんだから。
 不安にさせちゃうから、絶対に……言ったりなんか………………しない、よ――――――