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681 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/01/08(月) 00:53:03 ID:nxdo25K6
・第五話
 里村春香姉さんは弱い人だった。他人を傷つける強さも、他人から傷つけられる強さも持っていなかった。
誰かと深く関わって傷つくのが怖くて、誰かと深く関わって傷つけるのが怖くて、いっそのこと誰とも関わらない
ことを選ぶような、そんな人だった。けれど姉さんはどこまでも弱くて、独りぼっちでいることに堪えられなくて、
それどころが他人を傷つけないことにも、他人から傷つけられないことにも堪えられないほどに――弱かった。
 圧倒的に弱かった。
 致命的に弱かった。
 弱い、か弱い、女性だった。
 自分自身の腕に傷を刻み込んで安堵するような人だった。生きることが怖くて、生き続けることも怖くて、
死にたがっていた。そのくせ死ぬのが怖くて、自分では死ねなくて、誰かに殺されるのを願っていた。
『冬継。姉さんを殺してくれないかしら』
 時折何の前触れもなく呟いていたその言葉は、間違いなく姉さんの本音だったのだろう。
 けれど――殺せるはずもなかった。
 姉さんが、生きることに堪えられないほど弱い人なら。
 僕もまた――姉さんが死ぬことに堪えられない人間なのだから。
 姉さんを殺すことなどできるはずもなかった。僕が首を横に振ると、姉さんは『そう』とだけ応えて、どこか遠くを見るような眼をした。
あれは、今にして思えば……姉さんは待っていたのだろう。
 いつか、自分を殺してくれる人を。
 腕に傷を刻みながら――ずっと、待ち続けていたのだろう。

 そして姉さんは一年前に、学校で飛び降り自殺をした。最後に、今まで一度も見たことないような、穏やかな微笑みを見せて。

 今、僕の前にいる姉さんは、そのアルカイック・スマイルを浮かべている。
 生きている間は一度しか見せてくれなかった幸せな笑みを、惜しみなく見せてくれる。その笑顔を見るたびに、僕は不思議な感覚
に襲われる――姉さんの笑顔を見れて嬉しいという気持ちと、その笑顔を浮かべさせる原因となった《誰か》に対する嫉妬が入り混
じった、胸の奥がざわめきながらも安堵するような、奇妙な心地だ。
 それでも、此処に姉さんがいること以上に、望むことがあるはずがない。
 たとえ――死んでいても。
 姉さんは、今、ここに居るのだ。
「姉さん、今日は疲れたよ。色んなことがあったんだ」
 靴を脱いで玄関にあがる。横に立って並ぶと、姉さんの方が少しだけ背が低い。
三つ編みを三つ作った髪型に銀縁メガネ。図書室にいるのがよく似合いそうだった。もっとも、
年代の関係で僕は姉さんと同じ学校に通ったことはないけれど。
 進路を同じにしたのは――せめて、同じ学校を卒業したかったからだ。
「お疲れさま。今日はゆっくり休みなさい」
 姉さんは淡々と抑揚なく言う。それでも、その声は優しさに満ちていた。
 優しさに満ちているような気がした。
「うん、そうするよ」
 僕は答えて、姉さんにキスをした。
 いつものように。
 姉さんはとくに抵抗しなかった。初めからそれを待っていたのか、眼を瞑り、くいと顎をあげて待っていたほどだ。
唇をそっとつけて、それから姉さんの後頭部を手で支える。初めは弱く。それから、唇で唇を押しつぶすように強く。
舌でその間をかきわけ、姉さんの中へと先を侵入させる。歯をなぞりながら舌を伸ばすと、姉さんの舌が僕のそれを
待ち構えていた。唾液をまとって、絡み付いてくる。
「っん――」
 姉さんの吐息が漏れるのを聞きながらも舌を動かすのをやめない。挨拶にしては長すぎるキス。
 それでも、それはいつも通りだ。
 いつもの、挨拶のキスだ。
 ちゅぱ、と唇の隙間から空気が漏れる。唾液が下に垂れたかもしれない。毒のように甘い、姉さんの唾液が。
 ああ――キスをしながら思う。如月更紗。お前が言っていたことは正しい。僕は確かに、キスの練習を姉さんとしている。
もっとも僕は練習だとは思っていなかった。ようするにそれは、姉さんが練習に僕を選んだのだろう。
 僕は練習ではなく――本気だったのだから。
 初めて姉さんとキスをしたのも。
 初めての相手が姉さんだったのも。

 全ては――単純に、好きだったからだ。


682 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/01/08(月) 01:06:57 ID:nxdo25K6
 それは死んでしまった今でも変わらない。たとえ逸脱していようと、相手が僕にしか見えない幽霊だろうと――構わない。
 独占できることを、喜ぶだけだ。
「んぁ……」
 唇を離すと、姉さんと僕の間を唾液で糸がひいた。粘質があるものの、重力があるのですぐに垂れる。それを拭うようにして
もう一度軽くキスをした。
 血の味が、するような気がした。
 それはもちろん幻味だ。姉さんが死んでいるから、そんな気がするだけに過ぎない。死人とキスをする背徳感が、キスに血の味を
付加させているに過ぎないのだ。
 キスをやめる理由にはならない。
 いつもよりも短くキスを終えたのは、そんな理由ではなかった。
 唇に、まだ、感触が残っているような気がしたからだ。

 姉さんのものではない――あの女の感触が。

「……冬継?」
 あっさりとキスをやめた僕を、姉さんが気遣うように見てきた。不審げに、ではない。姉さんが僕を疑うはずもない。
姉さんと僕の間に疑いが入るはずもない。姉さんは、純粋に僕を気遣ってくれているだけだ。
「ん、なんでもない」
 姉さんの唇を指の先で拭って答える。ついでとばかりに、そこに軽く唇をあてて、後頭部にあてた手を離した。
 名残惜しいと思ったけれど、思うだけだ。
 キスはいつでもできる。
 いつまでもできる。
「それとも、姉さんがもっとしていたかった?」
「バカなことを言わない。弟を心配しただけだ」
 笑顔でそう言って、姉さんは僕の手を握った。家に居る間はずっと触れていたいという僕の願いを叶えていてくれるのだ。
それは嬉しいが――姉さんも、多分、それを望んでいるのだろう。
 今の姉さんは、学校にも、どこにも、行けないのだから。
 そう。
 今の姉さんは家の中にしかいない。
 どこにもいけない。


『狂気倶楽部』なんてところに、行けるはずもない。


「今日は少しだけ遅かった」
「ごめん姉さん。……姉さんが望むなら、学校なんていかなくてずっと家に居ようか?」
「いや、それは駄目だ。弟がしゃんとしているのを見るのは私も嬉しいよ」
「寂しくない?」
「寂しいさ。でも、今は違う」
 姉さんはちょっとだけ背伸びをして僕にキスをする。僕もキスをしかえす。
 いつものように。
 そう、何が起ころうと、いつものように過ごすだけだ。如月更紗のことも、神無士乃のことも、家族のことも今は考えたくない。
姉さんとご飯を食べて姉さんとお風呂に入って姉さんと寝るだけだ。いつものように、いつものごとく。ただそれだけだ。
 それだけでいい。
 だから僕は、今日も姉さんとご飯を食べて姉さんと風呂に入って姉さんと寝た。

 そして翌日。
 僕は鋏の音と共に目を覚ますことになる。
・第五話(了)