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687 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/01/10(水) 23:26:38 ID:B28hlr6U
 しゃきん、という音で目覚めたら、全裸の如月更紗が隣で寝ていた。
「――姉、」
 さん、といつものように言いかけた言葉が途中で止まる。口から出かけていた言葉が、衝撃のあまりに無理矢理停まらされたのだ。言葉
と一緒に思考まで固まってしまいそうになる。
 眠気なんて、わずかも残りはしなかった。どんな目覚まし時計で叩き起こされるよりも、それは効果的な起こし方だったらだろう。眠気
をさますためのあくびさえ必要なかった。目を見開いて、もう一度閉じることすらできない。開きっぱなしの瞳は、意識から放れて目の前
の非現実を凝視していた。
 如月更紗が寝ている。
 全裸の如月更紗が寝ている。
 目をこすって、もう一度見た。
 全裸の如月更紗が寝ていた。
「……嘘だろ?」
 思わず呟いてみるが、目の前の現実は生憎と嘘でも幻でもないようだった。三十センチと離れていない如月更紗からは
確かな息遣いが聞こえてくるし、人の身体状に膨らんだタオルケットは幻覚にしては生々しすぎた。
 先のしゃきん、という音は、夢の中で聞いた音だったらしい。
 朝起きて蜘蛛になった男の気分が、少しだけ理解した。
 理解したくなかったものを理解してしまったが、グレゴリーなんとか君は間違いなくこんな気分だったに違いない。奴
には可愛らしい妹がいて彼女だけが理解者になってくれたが、僕に妹はいない。
 いるのは――姉さんだけだ。
「…………」
 視線を部屋の中へと彷徨わせてみるが、姉さんの姿はどこにもなかった。勉強机とベッドしかない、殺風景すぎる部屋。
隣の姉さんの部屋には本棚が三つもあるが、比例するかのように僕の部屋には何もない。無趣味もいいところだ。
 如月更紗はまだ寝ている。目を瞑り、規則的に薄く息を吐いている。そのたびに、わずかな膨らみのある胸が上下して――
ああ、これ以上直視していると自分が犯罪者にでもなった気分だ。それでも視線は止まらない。夏が近いということもあって、
僕はタオルケット一枚しか使っていなかったが、その半分以上を如月更紗に奪われている。もっとも、それで隠せているのは
下半分だけで――くっきりと形の見える鎖骨から緩やかな胸丘を通って、小さなヘソ下から腰の下あたりまで、何も隠すもの
なく見えている。
 こいつ……寝間着どころか、下着すらつけてねぇ。
「悪夢だ……」
 思わず呟くが、現実が現実でしかないからこそ、悪夢より悪夢的なのだろう。朝起きたら隣に全裸で女子が寝てるなんざ、一昔前の
漫画でしかありえない光景だ。
 現実で起こると、欲情よりも、呆れが先にくる。
 何も着てない如月更紗を見るのはこれが始めてだが――何度もあってたまるか――確かにこいつの姿は良いと思う。それは認めよう。
女性的な膨らみとは彼方の関係だが、その代わりに絵画的な綺麗さがある。美術の教科書にのってる非人間的なプロポーションをした
少女肖像画からそのまま抜け出してきたような格好だった。そう考えれば、裸婦画を見ているようなものだ。欲情なんてするはずがな
い――いや、待て。
 そもそも。
 ようやく僕は原初的な、まず最初にたどり着かなければならないはずの疑問に辿り着く。あまりの光景に脳が停止していたのは事実
だったらしい。普通ならば、まず大声で叫ぶと同時に警察に電話しなければいけないはずだ。
 事象だけ捉えてみれば――寝ている間に不審者が家屋侵入して同衾していたのだから。
 追い出すか叫ぶか逃げるか頭の中でサイコロを転がし、

「おはよう、冬継くん」

 なんて、目を瞑ったまま、如月更紗が挨拶をした。

 



688 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/01/10(水) 23:50:26 ID:B28hlr6U
 …………寝てたんじゃなかったのか。
 僕の目の前で、全裸の如月更紗は細く目を伸ばしながら、そのしなやかな腕を伸ばした。制服を着ているときでもその
腕は“生”で見ているはずなのに、こうして他の部分まで見えていると、妙に艶やかに見える。指の一本一本までそう見
えてしまうのは、健全な学生としては無理もないことだろう。
 僕が健全な学生なのかは、ひとまず置いておく。
 如月更紗はその腕を僕の枕の下へと差し込み、何をするのかと問うよりも早く再び腕を引き抜いた。
 手には、長い長い、三十センチもありそうな長方形の鋏が握られていた。
「…………」
「しゃきん」
 自分で言いながら、如月更紗は鋏を開け、閉じた。しゃきん、という金属のすれる良い音がする。どうみても
違法改造の異常な鋏なのに、音だけは耳に心地良い。
「しゃきん、しゃきん、しゃきん」
「繰り返すなよ! 一度で満足しろ! 何がやりたいんだお前は!」
「朝から元気ね冬継くん」
「誰のせいだと思ってるんだ!」
 平然と言う如月更紗に突っ込んでしまう。こいつ、平常心とか平静とか、そういう言葉がやたらとよく似合うな……
普通『寝てる間にベッドに忍び込んでいる』なんてホラー映画の一シーンにしか過ぎないだろうに、こいつがやたらと
堂々としているせいで、恋人同士が行為のあとに惰眠を貪ったようにしか見えない。
 いや――恋人、なのか?
 そんなことを承知した憶えは一切ないが、あるいは、如月更紗は勝手にそう思い込んでいるのかもしれない。昨日の
言動を思い返せばありえそうなことだった。
 だとすれば……訂正しなければ。
 そのことを言おうとした僕の機先を制するように、如月更紗はくすりと笑い、
「下の方が元気ねと言ったのよ」
「朝から下ネタをふるなよ!? ただの生理現象だ!」
「朝以外なら生理現象じゃなくて欲情になるわね」
 さらりと言って、如月更紗はくすくすと笑う。その視線は、僕の下半身へとそそがれていて……
「……ッ!!」
 自分で言った通りに、朝の生理現象が起きているのを確認してしまった。迂闊だった……不健全かもしれないが、
別に不能というわけでもないのだ。起こりえて当然だろう。
 慌てたまま、深く考えずにただただ隠したい一心でタオルケットを腰に寄せる。が、一枚しかないタオルケットで
そんなことをすれば当然――
「あら」
 不思議そうな、如月更紗の声と同時に。
 彼女の下半身を隠していた布切れが、すべて剥ぎ取られた。
「…………ッ! ……!?」
 完全に――本当に一糸纏わぬ姿になってしまった如月更紗を真正面から見てしまい、何も言えなくなってしまう。
隠したり恥かしがったりしてくれればやりやすいものの、如月更紗は横になったまま、身じろぎすらしようともしない。
普通手で隠したり叫んだりするものじゃないのか。
 むしろ僕が叫びたい。
 全裸でベッドに寝る如月更紗は、タオルケットを剥ぎ取った僕を見て、笑顔のまま言った。
「――見たかったの?」
「断じて違う!」
「じゃあ脱がせたかったのね」
「更に違う! そんなことがあってたまるか」
「じゃあ……」如月更紗はさらに考え込み、これは間違いないぞとばかりにいい笑顔を見せて、「襲いたいのね?」
「お前が僕のことをどう思ってるか、なんとなく分かった気がしたよ……」
「シスコンの駄目人間?」
「あってるけどさ……」
 合ってるけど。
 言うなよ、そういうこと。
 後者はともかく――前者は、簡単に口にするな。


689 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/01/11(木) 00:02:43 ID:VQEobuYl

 僕の気配が変わったのに気付いたのか、如月更紗は神妙な顔をして視線をそらした。最も全裸なのでまったく様にならない。
一瞬で気まずくなった空気の中、如月更紗がぽつりと、
「舌が滑ったわね」
「口が滑るんじゃないのか……?」
「キスをしたせいだわ」
「昨日のことだろう、それ」
「いいえ、いいえ」
 如月更紗は器用にも、寝たまま首を横に振った。彼女の裸体を隠すように伸びている髪が蠢く――ああ、その光景を艶かしいと
思ってしまっても、罪はないのだろう。白い肌に黒い髪は良く映える。
「つい一時間ほど前にも」
「不法侵入した挙句に寝てる人間にキスをしたのか!?」
「冬継くん、無用心よ」
「寝るたびに警戒するなんて非日常的なことできるか!」
「いえ、いいえ。そうでなくて戸締りがよ」
「戸締り……?」
 つまり、どこか窓なり扉が開いていたのか……? そりゃ今のこの家には盗まれるものも襲われるものもない。両親もいないし、何よりも
大切な姉さんは――僕以外には見られない。姉さんの部屋には誰も入ることができない以上、放火でもされない限り、どんな泥棒が入ったと
しても大した被害は受けない。
 そういった事実もあり、戸締りがおざなりになっていたのも事実だ。ひょっとしたら、鍵をかけわすれていたのかもしれない。
 まあ……それでも夜中に人の家にまで来て忍び込む理由の正当化にはならないが。
 如月更紗はしゃきん、と鋏を鳴らし、確信的に断言した。
「シリンダーは新しいのに交換するべきね」
「ピッキングだな!? ピッキングしたんだなお前!」
「窓を割られなかったことは僥倖というべきね」
「そう言うってことはお前割る気だったんだな!?」
 確かに如月更紗が持っている鋏をつかえば、窓の一つは二つ破壊は容易いだろう。しっかりとしたつくりをしているから、長い
だけでなく破壊力も十分にあるだろう。それを片手で振り回せるということは、如月更紗は意外と力があるのかもしれない。見た
限りでは、箸しかもてないような細腕なのに。
「しかし、シュールだな……」
 思わず口から出た僕の言葉に、如月更紗は目だけで《何が?》と問いかけてくる。
「でかい鋏持った全裸の同級生と添い寝してる事実がだ」
 言って、未だおきようとしない如月更紗を置いてベッドから身を起こした。身体にまとわりついていた
タオルケットを如月更紗の身体に投げつけてやる。いくら“裸婦画のような”裸身だとはいえ、クラスメイト
の素肌をじっと眺め続けているとおかしくなりそうだ。
 ただでさえおかしな頭が、さらに壊れてしまいそうだ。
 ベッドから離れ、部屋を横断して勉強机に座る。着替えようかと思ったが、今こいつの前で着替えなんて隙を
見せたくないのはやめた。ぼろぼろのGパンにシャツのみという姿だが、全裸やパジャマよりはましだろう。
 如月更紗は、僕と同じように身を起こし――けれどベッドから離れず、立ち上がることもせずに御姫様座りを
した。タオルケットを被ってはいるものの、前を閉じていないせいでほとんど見えている。胸と鎖骨の一部が髪の毛
で隠れているのがやっぱり艶かしい。
 というか……今更気付いたが、こいつ生えてないのな……
 脇と股間に流れかけた眼をむりやり如月更紗の顔に固定する。
 阿呆なことは、抜きだ。
 そろそろ――真面目になろう。
 全裸の衝撃からようやく抜け出し、僕は如月更紗を睨みつけるようにして、問うた。
「それで――納得のいく説明をしてもらおうか」
 自分でもきついと感じるような声を前にしても、如月更紗は少しもひるまなかった。
 妙に印象に残る、嘲うような、笑うような、微笑むような、楽しむような――曖昧な笑みを浮かべて、如月更紗は言う。

「私がその気になれば――冬継くんは死んでいたよ」


696 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/01/11(木) 17:39:38 ID:RYdu6W/M
 ――死んでいた。
 それは言われるまでもないことだ。寝ている間は誰だって無警戒だ。寝首をかく、という言葉があるくらいだ、『その気』さえあれば、
子供にだって殺すことことは容易い。そうした危険性を普段意識しないのは、《その気》になるような人間が周りに存在しないからだ。も
しもそういう人間が大多数を占めていたら、僕らは眠ることすらできなくなるだろう。
 けれども現実は違う。そもそも家とは、そういった外敵から身を守り、安眠するために存在するのだから。
「そういった言葉は、危険性の低い人間が言うことだ」
「私はその気にならなかった。私は冬継くんを殺さなかった。それでは不満?」
「ああ、不満だね」
 吐き捨てるように僕は言う。朝起きて隣に鋏があるのに、不満を覚えない奴は聖人君子か狂人だけだ。
「そんな忠告をするだけなら――わざわざ忍び込むことはないだろう」
 おや、という顔を如月更紗はする。馬鹿にされたような気がしたが、無視した。
 そう――言われずとも、それくらいは気付いている。如月更紗はようするにこう言いたいのだ。
『私がこうして入ってこられた以上、他の悪意を持っている誰かが同じように忍び込むことも可能なのだ』、と。
 けれど。
「お前以外の誰がそんなことをするっていうんだ」
 確かに夜寝ている間に忍び込まれたら身の危険は危ういだろう。それは理論だけのことで、実際に忍び込まれたのは、
十何年と生きていて今日が始めてた。比較的無茶苦茶な性格をしている神無士乃だって、夜訪れるときはインターホンを
鳴らす。窓を割ったりピッキングして侵入した挙句、全裸で添い寝をされたことなど一度もない。
 もっとも、ピッキングも窓を割ることもせず、隣に寝ていた姉さんが夜部屋に来ることは――多かったけれど。
 そのことは顔に出さないように努め、僕は如月更紗を睨む。睨むが、相手が全裸なのでいまいち睨みづらい。
 如月更紗はその身体を隠そうともせずに、言った。
「――チェシャ」
 その言葉に、思考が一瞬だけ止まる。
 チェシャ。
 不思議の国のアリスに出てくる、にやにや笑いだけが残った透明猫。
 物語の中の、登場人物。
 けれど、今如月更紗が口にしたのは、間違いなく――物語の外の登場人物のはずだ。
《チェシャ》と呼ばれる、誰かの話。
 固まってしまった僕に対し、如月更紗は愉悦の笑みを浮かべて言葉を吐いた。
「言ったでしょう? チェシャの奴が貴方を狙っていると。そして、私は貴方の安全を保証すると」
「……なあ、昨日もその名前が出てきたんだが、誰なんだそれ」
 チェシャ。ソレが、殺意を持って僕を狙っていると――如月更紗は言った。
 つまりは、敵だ。
 敵がいること自体に問題はない。生きていれば敵は勝手に増える。問題は、どうして敵なのかということだ。
 如月更紗は、朗々と、唄うように話を続けた。
「チェシャ猫は探索係。姿を消して、《敵》がひっかかるのを待っている。アリスと森の中で出会ったように――異邦人に対する、警戒役。
 向こう側に入ってしまえば、向こう側に接触しようとすれば、必ずチェシャの縄張りに触れることになる」
「……マークとセンサーとトラップが一緒になったような奴か」
「無粋な言い方だけれど、そういうことね」
 索敵と、警戒と、罠。
 道を行こうとすれば触れてしまい、姿も見えぬままに後を尾けられる、か。
 だから、チェシャ猫。
 成る程――と、僕は如月更紗に気付かれないように、心中で納得した。チェシャが誰かは分からないが、
どうして狙われているのかは何となく分かった。
 ようするに、調べ物の最中に僕はチェシャのセンサーに引っかかったのだ。『立ち入り禁止』と書かれた向こう側
に入ってしまった人間を、中にいる番犬が食い殺すように。
「つまり……そいつが僕を殺しにくる、と?」
「少し違うわね」
 如月更紗は指をぴんと僕に突きつけた。その際にタオルケットが肩から落ちて再び裸体がはっきりと見えてしまうが、
今はそんなことを言っている場合ではない。如月更紗も、タオルケットを被りなおそうとはしなかった。
 僕を指差したまま、如月更紗は――笑うことなく、言う。
「チェシャは探索係。チェシャは呼び水。貴方が奴に見つかれば、きっと彼女がやってくるわ」
「彼女?」
「そう――」
 如月更紗は、僕の問いに。
 笑うことなく、最後まで笑わないままに、どこか憂いを帯びた瞳で、告げた。
 
「――裁罪のアリスが、やってくる」


698 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/01/11(木) 17:53:18 ID:RYdu6W/M
 その名を聞いたとき、僕の背を走ったのは――まごうことなき怖気だった。
 名前を聞いただけで、心が揺さぶられる。
 名前を言われただけで、恐怖を覚える。
《裁罪のアリス》のアリスとはそういう存在だったのだ。その名前を、僕は知っている。調べ物の最中に、
幾度か突き当たった、幾度となくめぐり合った、忌避すべき噂話。
 噂。
 そう、噂だ。噂の中にのみ、『裁罪者』は存在する。その名を口にする少女たちは、あるいは誇らしげに、あるいは
忌避すべき者として、あるいは恐怖と共に――その名を告げる。そのくせまるで実体のない、色鮮やかに心に浮かんでは
消えていく、亡霊のような噂話だった。
 それでも、彼女たちは確信していた。『裁罪者』がこの町のどこかにいることを。

 ――『裁罪のアリス』は殺人鬼だ。

 噂では、そういうことになっていた。
 裁罪のアリスは殺人鬼であり、救世主であり、唾棄すべき敵であり、敬愛する仲間であると。人を守ることも
人を襲うことも人を救うことも人を哂うこともない。願いを聞かなければ導きもしない。
 愛しもしなければ――憎みもしない。
 年齢も名前も分からない。顔も姿も知られていない。黒い傘を持った少女で、黒い猫を連れているということ
くらいしか、話の中では正体が伝わっていない。
 はっきりと分かっていることは、ただの一つだけだった。
『裁罪のアリス』は――亡霊のように現れ、名前の通りに、罪を裁くのだと。
《ソレ》に関わるものの罪を、容赦も微塵もなく裁く。その基準も意味も彼女しか知らない。
『貴方は有罪』と告げて、何の容赦も何の慈悲もなく、相手を殺す。
『貴方は無罪』と告げて、何の躊躇も何の嫌悪もなく、相手を殺す。
 何の指針もない、滅茶苦茶な裁判が行われるだけだ。それはさながら、不思議の国のアリスの終盤で出てきた、
あのおかしで理不尽な『裁判』のように。
《ソレ》に関わるモノ全ての上に平等に訪れる、都市伝説の殺人鬼のような――そういう、噂だった。
 だからこそ、僕は思う。 
 ――上等だ、と。 
「アリスが――僕を?」
「その様子だと、知っているみたいね」
 如月更紗がくすくすと笑う。僕の態度から、僕が《裁罪のアリス》のことを知っていると読み取ったのだろう。
それはあまり歓迎すべき事態ではなかった。その噂は、普通の人の間で噂にあがるようなものではないのだ。学校
で誰とも話さずに一人片隅で本を読んでいるような、そういう無口で《噂話》とは縁遠い孤独な少年少女の間に密
やかに広まる噂話なのだから。
 例えばそれは、姉さんのように。
 例えばそれは、如月更紗のように。
 周りと会合できないような人間の中で広がる噂なのだから。それを知っているということは――知ろうと努力
したのだと認めることに他ならない。
「けれど里村冬継くん? 狙われるのは、貴方が悪いのよ」
 けれど、如月更紗は。
 そんな僕の心配を全て吹き飛ばすかのように、決定的な一言を。
《ソレ》の名前を、告げた。


「貴方が狂気倶楽部について調べようとするから――チェシャの縄張りに引っかかったのよ?」







699 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/01/11(木) 18:08:32 ID:RYdu6W/M
「………………」
 その言葉を聞いて――もう、ふざける気はなくなった。
 不法侵入も全裸も明日のことも昨日のことも、全ては後回しだ。
 どこまで知っているかは分からないが……そこまでを知っている相手が目の前にいるのだ。
他の全てを差し置いてでも、向かい合わなくてはならない。
 話を聞かなければならないし、
 場合によっては――殺さなくてはならない。
「如月更紗」
 僕は彼女の名前を呼びながら、座った机の引き出しを開けた。そこに入っているのは、鈍く銀色に光るナイフだ。刃の長さは二十センチほどで、
如月更紗の持つ鋏よりも短いが、使い勝手なら彼女のソレよりも良いだろう。
 魔術単剣だ、と姉さんは誇らしげに言っていた。
 これは儀式に使うのよ、と言いながら、姉さんはこのナイフで自分の手首を切っていた。
 今では、ただの遺品だ。それでもこれが、他人を殺すことのできる道具であることには違いない。
「――どこまで知っている?」
「貴方が狂気倶楽部について、こっそりと調べたこととか?」
 如月更紗は笑っている。突然ナイフを取り出した僕に対して惑うこともなく、常と変わらない笑顔を浮かべている。
 ああ――そうか。
 全裸とか、不法侵入とか、そういったレベルの話ではなく。
 この女も、向こう側に居るのだと、今更ながらに僕は実感していた。恐れるべきは突然鋏を取り出したことでも、鋏を振り回すこと
でもない。それこそを日常としている点だ。
 如月更紗にとって、誰かが突然ナイフを取り出したり、誰かが突然鋏を取り出したり――その挙句に刺したり刺されたり殺されたり
殺したりするのは、何ら特別なことではないのだ。
 だからこそ、彼女は《いつものように》笑っている。
「貴方の姉さん――里村春香の死について調べるべく、あちこちを探りまわっていたこととか?」
 笑ったまま如月更紗は続ける。
 その言葉には迷いはないし――その内容に、間違いはない。
 春香姉さん。
 僕の愛していた姉さん。
 一年前に学校から飛び降りた姉さん。
 狂気倶楽部というわけのわからない団体に身を置き――12月生まれの三月ウサギと呼ばれていた、姉さん。
 他人と触れ合うことを怖がっていた姉さんは、僕の知る限りいつでも一人だったはずだ。僕以外の人間と触れ合う
こともなく、《集団》に所属することもなく、一人で生きていた姉さん。
 そんな姉さんが、狂気倶楽部というものに属していたことを、僕は姉さんが死んでから初めて知った。それ自体は
別にかまわなかった。姉さんの社交性がほんの少しだけ広がろうが、姉さんが僕の姉さんであることに変わりはなかっ
たからだ。
 問題は、死んでしまったことだ。
 死ぬなんておかしい、とは思わなかった。姉さんはいつだって死にたがっていたから。
 自殺なんておかしい、とは確信していた。姉さんはいつだって死を怖がっていたから。
 なら。

 姉さんを殺した奴が――狂気倶楽部の中に、いるに決まっているのだ。

 だからこそ僕は、それについて調べ出したのだから。
「よく知ってるな」
「貴方は、隠そうとしなかったから」
 くすくすと如月更紗は笑う。その笑いが疎ましく、同時に心地良い。
 彼女は、知っている。
 僕の知らない何かを知っている。それが嬉しくてたまらない。
 姉さんを殺した犯人を知っているなら――殺してでも、教えてもらう。
「一応隠してはいたんだけどな。それでも、動いていれば《向こう側》から何らかのリアクションがあると思った。
こんなにも早いとは思わなかったがな」
「あら、あら、あら。つまり私は、」
 如月更紗は意外そうに、そして楽しそうに笑う。
「貴方がチェシャにひっかかったように――私は貴方に引っかかったのね?」
「そういうことだ」
 言って――僕は、机を離れた。ベッドまでは五歩もない。
 ナイフを持ったまま、如月更紗との距離を詰める。


702 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/01/11(木) 19:25:26 ID:RYdu6W/M
 五歩は近いようで、遠い。間を詰め切ってしまえば、足ではなく腕を動かす必要がある。振うのか、振わないのか。
それを決めなくてはいけない。五歩を歩くという、短い時間の間に。
 一歩前へ出て、如月更紗に問う。
           ・・・
「如月更紗。お前は――誰だ?」
 確信を込めて、核心を問う。
 里村春香姉さんが、12月生まれの三月ウサギだったように。
 如月更紗は《誰》なのかと、僕は問う。今ここに至ってまで、彼女が無関係な人間だとは思わない。
そこまで知っているからには、彼女は関係者のはずだ。そうでなくとも、向こう側の存在であるのは間違いない。
 敵なのか、味方なのか――そんなことはどうでもいい。
 問題はただの一点。姉さんを殺したか否かということだけだ。
 如月更紗は、近づいてくる僕にも、僕の持つナイフにも構わずに、笑いを浮かべた。
 楽しそうな――笑いだった。
 笑みを浮かべて、如月更紗は言う。
 
「君の姉さんと、君の姉さんが、君の姉さんに、最も仲が良かった人を知っている」

 それは――まるで別人のような、皮肉に満ちた言葉だった。冗談を言っているときとも違う。
さながら、《そんなことはどうでもいいのだ》と言いたげな、投げやりすぎる言葉だった。
 如月更紗ではなく。
 如月更紗の姿を借りた、誰かが言っているような、そんな口調だった。
 だが今はそれを気にしている暇はない。彼女の言った内容こそに、注意するべきだ。
「何――?」
 最も仲が良かった。
 それは――僕よりもか。
 僕よりも、姉さんと仲が良かった存在が、いるというのか。
 二歩目を踏み出し、僕は如月更紗に問う。
「そいつが、姉さんを殺したのか?」
「さあ」
 如月更紗は肩を竦めた。むき出しの肩が上へと上がり、鎖骨が蠢く。
「私は知らない。貴方も知らない。でも、《彼》なら少なくとも知っているでしょうね」
 くすりと、笑い。
「何せ、《彼》は『12月生まれの三月ウサギ』の最後を看取ったのだから、ね」
 ――それは、つまり。
 ソイツは姉さんの死に、直接的にも間接的にも関わっているということじゃないか。
「そこで何があったのか、あるいは何もなかったのか、私は知らないわ。知っているのは《彼》だけ。
だから貴方がそれを知りたいというのなら――《彼》に聞くしかないよ」
 その言葉に、僕は三歩目を踏み出した。
 ベッドまではあと一歩。ベッドの上にいる如月更紗までは、あと二歩。
 二歩で、手が届く。
「その《彼》は、《誰》だ?」
 もっとも重要な問いに、如月更紗はあっさりと答えた。

「『5月生まれの三月ウサギ』」



703 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/01/11(木) 19:30:48 ID:RYdu6W/M
「…………」
「里村春香さんの、《次》」
 ――次。
 その意味を僕は知っている。狂気倶楽部の代替制度。いなくなった穴を誰かが埋めて延々とお茶会を続ける遊び。
 姉さんを殺したかもしれない奴が、姉さんの居場所を奪って、今もなおそこにいる。
「もっとも、もう更に《次》になったけれど」
「……どういうことだ?」
「ウサギの寿命は短い、ということよ」
 如月更紗は意味ありげに笑った。ウサギの寿命は短い――その言葉を心中で咀嚼する。
 12月生まれが、五月生まれに引き継がれて。さらに、別の人になったということだろうか。
 入れ替わり、入れ替わる。そうしてお茶会は続く。なら、ソイツもまた、姉さんと同じように死んだというのだろうか?  姉さんの後を、追うように?
 四歩目を踏み出すと、如月更紗は何を訊くよりも早くしゃべり出した。
「彼に会わせることはできるけれど、今はまだ難しいわ。彼もまた、貴方と同じようにゲームの途中だから」
 そろそろ、終わりそうだけれど――そう付け加えて、如月更紗は笑った。
 ゲームの途中。
 そいつもまた、僕と同じように、チェシャに追われているのだろうか。代替わりしたということは、狂気倶楽部
から抜け出したということだ。そこで何があったのか、少しだけ気になった。疑問だけはいくらでも浮かんでくる。
 が、それは、僕には関係のない話だ。僕と姉さんには、関係のない話だ。
「お前が殺したんじゃないんだな?」
「私は誰も殺せはしないわよ」
 笑いながら如月更紗は言う。殺人者ではないことを誇らしげに。
 人殺しの道具にしか見えない鋏を持ったまま、誇らしげに如月更紗は言う。

「貴方こそ――今、私を殺すのかしら?」

 足が止まる。
 如月更紗までは、あと一歩だ。
 あと一歩で、手が届く。
 あと一歩で――ナイフが届く。
 夜中に家に忍び込んできた不審者を返り討ちにした。それは、果たして正当防衛になるのだろうか。
 殺すことにためらいがあるはずもない。
 けれど――殺したことで、目的が達せないのは、困る。
 僕は人殺しになりたいのではない。
 人を殺したいのではない。
 姉さんの死について、知りたいだけなのだから。
 そのことに如月更紗もまた気付いているのだろう。鋏を向けることもなく、逃げること
もせずに、悠々と僕を見たまま彼女は言う。
「自殺ということになっているけれど、真相は彼しか知らない。それを知りたいのは私も一緒よ。
なにせ――彼女は、オトモダチだったのだから」
 オトモダチ。
 その言葉ほどうそ臭いものはなかったが、とりあえず聞き流すことにした。
「《五月》を紹介するのは吝かではないわ。ただし、そのためには貴方は乗り越えなくてはならない」
 何を、と問いかけて気付いた。
 ここで、話が元に戻るのだ。
「真に知りたければ、チェシャの手を逃れないといけない。だから言ったでしょう、里村冬継くん。

 貴方は命を狙われていると。そして、貴方の安全を私が保証すると」

 しゃきん、と鋏を一度鳴らし、如月更紗は笑みを浮かべたのだった。


705 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/01/11(木) 19:46:41 ID:RYdu6W/M
 その笑みを見ては、何も言えない。
 如月更紗はいつだって、僕に向かって親愛の笑みを向けている。時にその笑みが変貌することがあっても、
殺意に変わることはない。敵対する意志を見せようともしない。
 彼女もまた、狂気倶楽部の一員であるはずなのに。
 その確信があったからこそ、屋上であんなことをされても、拒否することも逃げることもしなかったのだ。異常
な相手が近づいてくることは避けるべきことではない。僕はまさにそれを待っていたのだ。
 もっとも、それがクラスメイトだとは思わなかったが。 
 世界は狭くて近いものだ――それとも、狂気倶楽部は山のように存在して、その中でクラスメイトだという
理由で近づいて来たのだろうか?
「出来すぎていると思わないか、状況が」
 その疑問を、如月更紗に向けてみる。特に意味もない。考える時間を埋めるためのような質問だ。
 それでも如月更紗は律儀に答えてくれた。僕を指差していた手をすっと降ろし、
「そうでもないわ、そうでもないの。貴方が自分の姉がいるという理由で高校を選んだように、私
も似たような理由で進学したのだから。遭遇率は、遅かれ早かれあったのよ」
 同じクラスだったのは、奇遇だったけれどね。
 そう言葉を結んで、如月更紗はしゃきんと鋏を鳴らした。
 姉さんの友達だと、如月更紗は言った。
 なら、こいつはきっと――
「……チェシャは」
「え?」
「チェシャは、もう僕のことを知っているのか?」
 僕は、ナイフを下ろして、彼女に問うた。向けられたナイフが外されても、彼女は笑い続けている。
ただ、その笑みが――少しだけ嬉しそうだったのは、きっと僕の気のせいなのだろう。
「さあ?」
「…………」
「本当よ。チェシャに会うなんて私にだって出来ないわ。けど――動いている以上、すぐに現れると思う」
「だから、か」
「…………?」
「だからお前は、夜中に侵入なんてまでしてまで襲撃を警戒していたのか。
 律儀に学校帰りに尾行までして」
「あら」如月更紗は目を丸くして「気付いてたの?」
「いや、ひっかけてみただけだ」
 本当に気付いていなかった。
 ただ、昼にあんなことを言って、夜にまで訪れたのに、その《下校時間の空白》は不自然だと思っただけだ。
家を知られていることも説明がつく。恐らく、正直に訊ねても教えてくれないだろうと思ったから、そういう手段
をとったのだろう。あるいは離れてチェシャを警戒していたのかもしれない。
 僕の身の安全を保証すると、如月更紗は言った。
「……どうしてだ?」
「何が?」
 目を丸くしたままの如月更紗に、僕は問う。それはこの状況で、たった一つだけ残った疑問だった。

「お前が僕を殺しにくるならまだ分かる。けど――お前に守られる理由がわからない」



706 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/01/11(木) 20:01:31 ID:RYdu6W/M
 そうだ。狂気倶楽部の一員であるはずの如月更紗が、狂気倶楽部と敵対する行動をとる僕を
始末しにきたのなら納得できる。彼女が持っている鋏でさえ、その説の補強になるだろう。こ
いつが僕を殺すために送り込まれてきた人間だとしても、僕は驚かない。
 それを返り討ちにして真実に辿り着こうとすら思っていたのだから。
 けれど訪れたのは、キスの下手くそなクラスメイトだった。その上、自分の所属している狂
気倶楽部を裏切って僕を守ると、そう言っているのだ。
 わけがわからない。理由がわからない。
 納得が――いかない。
「それだけ説明してくれたら――僕はお前を信用するよ、如月更紗」
 信用して、仲間になってやる。信用して、守られてやる。
 僕と、姉さんのために。
「ああ、なんだそんなこと……」
 如月更紗は、僕の問いを《そんなこと》と切り捨てて笑った。言葉と一致しない
ちぐはぐな嬉しそうな笑み。その問いを待っていたのかもしれない。
「言ったでしょう? 里村春香とは、オトモダチだったのよ」
「……それで?」
「貴方の話も聞いている。姉に狂った素敵な弟がいると」
「…………」
 言われたくないが、聞き流す。それは、如月更紗の評価ではない。姉さんが、僕に下した評価だ。
 そしてそれは――その通りだ。
「そんな愉快な弟に、私は興味を持っていたのよ。一度会いたいと。
 だからこそ進学したし――貴方と同じクラスになれたとき私は悦んだわ」
「…………つまり?」
 要領を得ない発言に、僕は先を、結末を促す。
 如月更紗は僕を見たままに、鋏をニ度しゃきんしゃきんと鳴らして、彼女の理由を口にした。

「――惚れたら悪い?」

「…………」
「好きな人を守りたいと、思ったらおかしいかしら?」
 それが。
 それが――お前の理由か、如月更紗。
 屋上でのやり取りも、ここでのやり取りも。行動も、理念も。それが理由なのか。
 好きだからそうするという、単純な答え。
 そんな馬鹿げたことが、お前の行動理念か。
 なら――お前は、僕と一緒だ。
 死んだ人間に恋し続ける馬鹿な僕と、お前は同じだ、如月更紗。
「まったく……どいつもこいつも」
 僕はナイフを床に放り投げ、部屋の片隅を見た。如月更紗もつられたように見るが、彼女には何も見えないだろう。
 部屋の隅には、姉さんが立っている。
 目を覚ましてからずっと……いや、如月更紗がきてからずっと、姉さんはそこで僕らを見ていた。僕にしか見えない姉さんは、
いつだって側に居る。僕が姉さんのことを想っている限り。
 姉さんは、僕と、裸の如月更紗を見て怒っていない。笑っている。
 なら――もう少しだけ、僕はやり続けられるだろう。姉さんが微笑んでくれている限り。
「如月更紗」
 名前を呼んで、僕はさらに一歩を踏み出し、ベッドの上にあがる。
 如月更紗に手が届く距離だ。けれど、もう手にナイフは持っていない。如月更紗が鋏を持っているだけだ。
「なぁに、冬継くん?」
 楽しそうに如月更紗が答える。ああ畜生、こいつはきっと、僕の答を知っている。僕の取りえる道はそれし
かないのだから。知っているからこそこんなにも楽しそうに笑っているのだ。
 いいだろう、如月更紗。
 僕はお前の提案に乗ってやる。
「目ぇ潰れ」
 昨日そうしたように、僕は如月更紗に言う。彼女は順々に目を瞑った。
 全裸のクラスメイトが、ベッドの上で少しだけ顔を上げて、目を瞑っている光景。
 ぞくぞくるのは、これからのことを考えているせいか、それともこの状況のせいか。
 分からぬままに、僕は如月更紗へと手を伸ばし、

 ぴんぽーんと、間の抜けた音をインターホンが吐き出した。