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735 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/01/15(月) 19:22:18 ID:2lppWWhM
 僕の動きは固まった。そして、神無士乃の笑みもまた固まっていた。
 いや――正鵠をきすなら、それは固まったとはいえないのだろう。神無士乃の笑みは、彼女の張り付いたような笑みは
全て抜け落ちていたのだから。仮面を無理矢理に剥がして素顔をさらけ出したような、そんな印象があった。いつも浮か
べている、あの楽しそうな小悪魔の如き笑みは、今の神無士乃の顔にはない。
 笑っていない。
 怒っても、いない。
 泣いてもいなければ喜んでもいない。一切の感情が抜け落ちてしまった顔で、その虚ろな瞳で、じっと僕を見ている。
 僕から――眼を逸らそうとしない。
 大きな丸い瞳が、じっと、じっと、僕を見ている。
 瞳の中には僕が映っている。ズボンに手をかけ、寝起き姿の僕自身が。その顔は、苦笑いのままで固まっている。
 ――固まっていては、いけないのに。 
 着替え中に突如として部屋の扉を開けられたのだから、大騒ぎして追い出さなければならないというのに。
 それが、出来ない。
 ナメクジに見据えられた蛇のように、動くことすら、できはしない。
 じっと、一心不乱に見つめてくる神無士乃の瞳から、逃れることができない。
 それでも、どうにか。
 口だけを動かして、どうにか、取り繕う。
「神無士乃! いつまで見てるんだ――」
「何の、匂いでしょうね?」
 にべもなかった。
 神無士乃は僕の言葉を聞いていなかったし――聞こうとすらしていなかった。彼女はきっと、僕を見てすらいない。
彼女の瞳が見ているのは、僕の周りを漂う、誰かさんの残り香なのだ。
 ――あの女。
 最後まで厄介事を持ち込んでくれた……と思うが、それが筋違いの恨みであることは十分に承知していた。普通なら
ばいるはずがないのだ。わざわざ部屋に乗り込んでくる幼馴染なんてそういないだろうし、その幼馴染が、匂いにここ
まで反応するだなんて、誰も考えはしないだろう。
 いや――シャンプーを変えたことを気付いたり、香水の匂いで人間を判別したりもできるのだ。それくらいはやって
も当然なのか……? しかし、着の身着のままだった如月更紗は、何の香水もしていなかったし、風呂に入ったわけで
もない。
 なら、やっぱり体臭だ。

 如月更紗の匂いを、神無士乃は嗅ぎ付けたのだ。

 それは――どうなんだ?
 異常だと、一言で切り捨てるべきなのか? それとも、これくらいの芸当は僕にできないだけで、
他の皆は誰だって出来るのだろうか? いつもと違う何かを感じ取る力は、獣だろうが人間だろうが
十分に備わっているはずだ。
 いや、違う。
 そうじゃない。
 そうじゃないんだ。問題はそんなところにはない。匂いをかぎつけたこと云々を今問題にしている暇
はない。
 そんなことでは説明がつかない。
 神無士乃の豹変に、説明がつかない。
「先輩、この匂いは、一体何の匂いなんですか? 私、かいだことないですよ」
 くすくすと、神無士乃は声だけで笑う。瞳どころか、口元すら笑っていない。
 真顔で、笑う。
 可笑しいそうに。
 犯しそうに。
 神無士乃は、声だけで、笑う。
「――――」
 僕は何も答えない。答えられるはずもない。
 神無士乃は――こんな奴だったか。僕は必死で記憶を探る。神無士乃。ずっと昔からの幼馴染。いつだって楽しそうに
笑っていて、僕をからかうように、僕にからかわれるように、笑って過ごしていた。
 神無士乃は、いつだって笑っていた。
 なら、それは。

 笑っていないのと、そう違いはないんじゃないのか……?



736 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/01/15(月) 19:35:41 ID:2lppWWhM
 僕はこの時になって初めて――狂気倶楽部でも、鋏を持ったクラスメイトでも、家族の幽霊にでもなく――ただの
幼馴染でしかなかった神無士乃の裏側をかいま見たような気がした。
 そして――その原因は、僕にもあるのかもしれない。
 朱も交われば赤くなる、どころの話ではない。
 子が親を見て育つように、昔からずっと側にいる幼馴染に、影響を受けたとしても、ありえない話ではないだろう。
 きっと僕はまともな人間ではない。それは認めよう。
 なら。
 その僕の側にずっと居た神無士乃がまともであると――一体どこの誰が保証してくれるのだろう?
 異常。
 異常とは――なんだ?
 狂っていることだろうか。
 里村春香は、狂っていた。
 如月更紗は、狂っている。 
 里村冬継も、狂っていて。
 神無士乃も――狂っているのかもしれない。姉さんを殺した奴だって、姉さんと共にいた奴だって、
名前だけしか知らないチェシャやアリスだって、狂気倶楽部だろうが誰だろうが、皆狂っている。
 なら。
 なら――それは。

 異常も正常も意味もなく、狂っている人間など、一人もいないのではないのだろうか。

 ここが極点なのではなく。
 普遍的な、ただの出来事。
 世界のどこかで、毎日のように行われている、ただの日常なのではないだろうか。
 笑わない幼馴染を目の当たりにして、僕はそんな、子供じみた――いや、思春期じみたことを
考えてしまった。考える必要などまるでないというのに、頭の中にするりと入り込んでくる。
 足をすくわれた気分だった。
 足元が、揺らぐ気分だった。
 今までの日常が、まったく別のものであったと、再認識させられたかのような――明確な、恐怖だったのかもしれない。



737 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/01/15(月) 21:01:14 ID:2lppWWhM
「いったい、何の臭いなんでしょうね――」
 言いながら、神無士乃は一歩、部屋の中へと踏み込んでくる。
 こちら側へと、踏み込んでくる。
 いけない。
 それは――いけない。
 それは、駄目だ。
 日常と非日常が入り混じってはいけない。異常と正常の垣根をなくしてはいけない。
 そんなことになれば。
 そんなことになれば――意味がなくなってしまう。

 異常だからという理由で死んでしまった姉さんの、死の意味が、なくなってしまう。

 だから。
 日常は、正常で。
 非日常は、異常で。
 そうでなければ、いけないのだ。
「見るなぁ神無士乃ォォ!」
 そう叫びながら、僕は思いっきり、腰まであげかけていたズボンを――そのままトランクスと一緒に、一気に引き下ろした。
先の如月更紗とのアレコレで大きくなっていた股間が、あられもなく神無士乃の目前にさらされる。もう、これしか手段がない
とはいえ、発作的な行動とはいえ……大切な何かを捨てた気分だ。
 神無士乃は。
 突然叫びながらトランクスを降ろした僕を見て、それから丸出しになった股間を見て、丸い瞳をさらに大きく見開いた。
 沈黙が一秒ほど。
 そして神無士乃は、トマトよりもなお赤く顔を染めて、「うひょわぇ!」と叫んだ。
 ……うひょわぇ?
 その叫び声はどうかと思う。
 だが――無表情は、消えた。真っ赤になった神無士乃は、恥かしそうに眼を逸らし、前ではなく
後ろに一歩下がった。
「着替え中だから入ってくるなって言っただろうが!」
「ただの露出狂じゃないですか!」
「自分の部屋で脱いで何が悪い!」
 言いながらさらに上着まで脱ぐ。こうなったらやけだ。
「他人の前で露出してるから露出狂なんですよ!」
「もっとこう気品のある名前で呼べよ! ストリッパーとか!」
「大して変わりません! 破廉恥先輩のバカァ!」
 叫んで、神無士乃は後ろに飛び退り扉を思い切り閉めた。いっそ全裸でリンボーダンスでもやってみせるか
とすら覚悟していたので、その行為には非常に助かるものがあった。
 人として大事なものを、捨てきらずにすんだ。
 半分くらい、捨てたような気もするけど。
「破廉恥先輩って名前みたいでいやだな……」
 僕はぶつくさと言いながら、換気のために窓を全開まであけ、制服に着替えなおした。部屋の外ではとんとんとん
と神無士乃が下まで降りる音がした。扉の前で待っている、ということはないだろう。
 とりあえず、誤魔化せた。
 その場しのぎとも言うが。





738 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/01/15(月) 21:35:56 ID:2lppWWhM
 誰もいなくなった部屋で、深呼吸をした。制服を適当に着終え、カバンをひったくるようにして持つ。
そのまま部屋の外へと駆け出ようとノブをつかみ、
 足を止めて、振り返った。
 部屋の隅で、姉さんは笑っていた。笑って、学校へ行こうとする僕を送っていた。
 姉さんが笑っていることに、僕は安堵する。
 姉さんが笑っていてくれる限り――僕は、大丈夫だ。
 姉さんのために、がんばる。
「行ってきます、姉さん」
 僕がそう言うと、姉さんは笑ったまま、ひらひらと手を振って送り出してくれた。

 さあ――今日も一日、頑張ろう。

 意気込んで玄関に下りると、神無士乃が体操座りをして床にのの字を書いていた。すねているらしい。
「楽しそうだな」
「嫌味ですよ!」
「なんだ。てっきり神無士乃のことだから、うきうき気分でやってるものだとばかり」
「先輩、それ死後です。そして楽しくないです」
「それを楽しんでやる奴とは、ちょっとお知り合いになりたくないな……」
 言いながら僕は座ったままの神無士乃の横を通り過ぎ、革靴を履いて、玄関の扉に手をかける。
「じゃ、そういうことで」
「何がそういうことでですか!?」
「いや、ほら。遅刻するし」
「遅刻ぎりぎりまで待ってたわたしの立場があまりにないと思うんですが」
「僕は全速力で行けば間に合うけど、お前は遅刻決定してるからなあ」
「外道! 町内の皆さん、ここに外道がいますよう!」
 立ち上がり、街宣カーのように宣言する神無士乃。うん、いつもの神無士乃だ。
 これでいい。
 いつもの、朝だ。
「冗談は置いといて、本気で遅刻するから急ごうか」
「朝ごはんはどうします?」
「明日の朝に食べる」
「意味ないです!」
「じゃあ神無士乃が代わりに食べといてくれ」
「私はもうハンバーグ食べてきましたっす!」
「何ィ!?」
 こいつ……朝からハンバーグなんて高価なものを! ひき肉をこねるのが面倒で僕でさえ滅多に
造らないというのに……ブルジョワジーにとっては朝から肉でも構わないというのか。そんなこと
だから乳ばっかりでかくなるんだ。
「先輩。今セクハラいことを、」
「考えてないよ」
「その身で実行しようとしましたね。セクハラーのように」
「してねぇよ! そして誰だよそいつ!」
 アホなやりとりだった。
「まあ、しいて言えば朝の爽やかな運動ってところかな」
「乳を揉むのが?」
「いいや、ゴミ箱に貴重な栄養を与えるのがだよ」
「先輩……部屋のにおいってもしかして……」
「あー爽やかな朝だなー!」
 叫びながら扉を開け、一気に駆け出す。学校まで走れば十五分ほどでつくだろう。一人遊びのどこが
爽やかなんですか! と後ろから叫び声が聞こえるがとりあえず無視。
 もうしばらく走ったら立ち止まって、それから、いつものように一緒に学校にいこう。たまには手をつない
でもいい。平和なんだから、それくらいしたってバチはあたらないだろう。

 楽しい一日の、始まりだ。

 楽しい楽しい――最後の日なのだと、この時の僕はまだ知らなかった。