※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

573 :妖しの呪縛 [sage] :2008/06/26(木) 01:52:44 ID:qXV4WHWG

プロローグ

***

なんだってこんなことになったんだ。
頭が割れそうに痛くて、縛られた手足がじくじくと痛む。
そんな僕を気遣うように、しかし互いに互いを警戒しあって、少女たちは口々
に言う。
「大丈夫? 祐くん、すぐに解いてあげるからね」
幼馴染の少女が、可愛らしく、あくまでも可愛らしく小首を傾げて僕を見つめ
た。
くりくりとした愛らしい瞳からは隠しようもない殺意が覗いていて、それは決
して僕に向けられたものではないと知っているのに――いや、知っているから
こそ、恐怖で身が竦みそうになる。
蛇に睨まれた蛙のように凍りついた僕を救ったのは、しかし蛇ならぬ獣だった。
「土御門、わたしが解いてやろう。縄も、お前の呪縛も、な」
さらさらと揺れる艶やかな黒髪を揺らし、嫣然と微笑む少女の、花のような顔
だちからも、他の少女たちと同じく狂気の色が見え隠れしている。
可愛いや綺麗、というよりもただひたすらに美しいクラスメートの少女は、く
らくらと頭の芯まで痺れるような美しい微笑を僕に向けた。
にこりと笑んだ赤い唇が艶かしく、僕は思わず――こんな状況だというのに―
―唾を飲み込んだ。
「駄目ですよ、先輩たち。祐先輩はわたくしのものですから」
無邪気に、そう無邪気に笑う後輩は、この異常な状況を楽しんですらいるかの
ように、囀るようにそう言った。
二人の少女たちの射るような視線をも意に介さず、彼女はセルフレームの薄い
眼鏡を指で押し上げる。
綺麗に切りそろえられたおかっぱの髪を揺らし、お嬢様然として優雅に微笑む
後輩は、僕をこんな事態に追い込んだ張本人であり、尚且つ僕が拘束されてい
るこの屋敷の所有者でもあった。

「祐くん」
「土御門」
「祐先輩」

口々に、それぞれの個性溢れる美少女たちは僕の名前を呼んで、三対の視線を
向ける。
だからいったい、なんなんだ、この事態は。
悪夢であるなら可及的速やかに覚めて欲しいし、現実であるとしたら――――
なんだかもう、考えることをやめてしまいたい。
零れ落ちるため息を、それぞれの敏感すぎる聴力で聞き取ったらしい彼女たち
の視線は、僕から逸らされて再び互いに向けられた。
「あなたが」
「おまえが」
「先輩達が」
地獄の炎のように熱く、しかし真冬の冷凍庫よりも冷たく、そして地を這うよ
うに低い声で、三人の少女は呟いたあと、ふいににこりと笑い合った。
どう考えてもこの状況には似つかわしくない笑顔――それも三人ともが極上の
笑顔である――を浮かべあった三人は、一瞬にして無表情になり、突如僕の視
界から消えた。

いや、正しくは、僕の目が追いきれなかっただけかもしれない。
ともかくも、僕の視界はそこで暗転し、僕はそこで何が起こったのか、それ以
上のことを知ることはできなくなった。

***



574 :妖しの呪縛 [sage] :2008/06/26(木) 01:53:46 ID:qXV4WHWG

犬神とその呪縛

***


――――ぶるるるるっ

派手なエンジンの音を上げて、バスは走り去っていった。
僕はといえば、ぜえぜえと息を切らしたまま、呆然とそれを見送るより他にな
く、ため息混じりにバス停のベンチに座り込んだ。
少なくともあと十分は、バスはこない。
僕の近所のバス会社は、俺イズスタンダードな会社らしく、バスは運行表に従
わないわ、運転手は好きなところで停車するわ、実にフリーダムである。
まあ、社員も社員なら、社長も社長な会社だから、仕方ないのかもしれない。
僕は「妖怪バス」のあてにならない時刻表と腕時計を交互にみつめて、眉を顰
めた。
どうあっても、待ち合わせには間に合いそうにない。

***

最近になって、人ならざるもの――つまりは妖怪の認知が次々と人々の間に広
まっていった。
原因はよく分からないが、なんでも都市開発だの環境の著しい破壊だののおか
げで住む場所を失った彼らが、政府高官に掛け合ったらしい。
掛け合ったというか、むしろ脅したというのが正しいのだろうが。
なにしろ妖怪――ろくろっ首だの、一旦匁だの――が自分の家に押しかけて生
活保護を叫ぶのだから、その「政府高官」とやらには同情するしかない。
一昔前の見世物小屋そのままの、しかも「本物」が、自分の前に現れただけで
も驚きなはずである。
そんな彼らに詰め寄られ、環境破壊だの自分たちの窮状だのを訴えられた高官
には、同情するしかない。

――ともかくも、妖怪たちはにわかに人権(といえるのかよくわからないが)を
得て、徐々に世間に浸透していった。

***

最近では、参政権を得た妖怪たちが選挙に立候補したりなんかもしている。
見事な貫禄の九尾の狐が、ふさふさの尻尾を揺らして微笑んでいる選挙ポスター
を見るともなしに見つめながら、僕はこっそりため息をついた。
「未来のために――(き)つねに明るい明日を目指します! くびのきつね」
駄洒落かい。
ベンチから立ち上がって、選挙ポスターの貼ってある掲示板まで近づくと、脱
力しそうなキャッチコピーが嫌でも目に入った。
センスのないキャッチコピーに項垂れながら、金色の毛並みを指でなぞる。
つつつ、とポスターに指を這わせると、写真の中の狐は身をよじるように震え
た。

「バスこないなあ」
ポスターに話しかけるようにして、ぽつりと呟くと、ポスターのなかの狐がに
やりと微笑んだ。ような気がした。



575 :妖しの呪縛 [sage] :2008/06/26(木) 01:54:49 ID:qXV4WHWG

***

「おーそーいー!!」
ぱたぱたと尻尾を揺らした犬神、皐月は、ふさふさに白い耳をピンと立てて僕
に向かって吠え立てた。
こういうとき、僕は皐月が犬神でよかったなあ、と思う。
なにしろ、彼女の機嫌は耳と尻尾で駄々漏れなのである。本当に怒っているか、
機嫌が良いのか悪いのか、精神状態がそっくりわかる、彼女専用の嘘発見器の
ようなそれらは今日も感度良好だ。
「ごめん」
「どーせ、また寄り道してたんでしょー? 狐の匂いがするぅっ!」
やばい、ちょっと機嫌が悪くなってるな。しょんぼりと垂れはじめた耳を見て、
僕はにわかに焦る。
犬らしく鼻の効く皐月は、僕が先ほど見つめていた選挙ポスターから拾ったら
しい狐の匂いを敏感に嗅ぎ取ったらしい。
むぅ、と可愛らしい鼻の頭に皺を寄せて僕を睨んだ皐月は、ふんと顔を逸らし
た。
「怒らないでよ。妖怪バスの時刻表があてにならなすぎて遅れたんだって」
「……なんで、狐の匂いがするの? 妖怪バスの中には、狐の妖怪はいないで
しょっ!」
ムキー、という効果音がつきそうなほどに苛立っている皐月の頭をぽふぽふと
撫でながら、僕は応えた。
「選挙ポスターから移ったんだと思う。九尾の狐、今期も立候補するんだね」
「あ、あー。なんだ、てっきり祐くんが浮気したのかと思ったぁ!」
一転して、機嫌よく尻尾を振りはじめた皐月は、可愛らしい顔立ちをにわかに
明るくして微笑んだ。
というか、なんだその思考回路は。犬神は妖怪の中でも単純で直情型らしいが、
これはいくらなんでも酷いだろう。
なんだか皐月が可哀想な子に見えてきて、僕はくしゃくしゃと彼女の頭をかき
回した。
色素の薄い、金色がかった髪がさらさらと揺れて、指ざわりのいい滑らかなそ
れが僕の手の中をすべりおちる。
「なーにーすーるーのっ! もう」
「ていうかね。皐月ちゃん、ちょっと考えなさすぎでしょ。いつも言ってるけ
ど」
「だって、祐くんが悪いんだもん。私、ずっと待ってたのに、狐の匂いさせて
来るんだもん!」
うーん。それを言われると辛いな。僕はなんとなく、忠犬めいて微動だにせず
この場に佇んでいた皐月を想像してしまう。
うん、考えるだけでなんか可愛くて可哀想で、申し訳ない。
「……ごめん。とりあえず、どっか入ろうか。待たせてごめん」
「いーよっ! 私、パフェ食べたい。チョコレートのやつ」
それはやめといた方が――と言いかけて、僕は皐月が本物の犬のようにチョコ
レートが駄目なわけではない、ということを思い出した。
危ない危ない。皐月は犬扱いされるのが大嫌いだ。こんなに犬だというのに、
何故か。
せっかく直ってきた機嫌をふたたび損ねるのは僕としてもごめんこうむりたかっ
たので、腕にしがみつく皐月をそのままに、僕たちは喫茶店へと向かった。



576 :妖しの呪縛 [sage] :2008/06/26(木) 01:56:27 ID:qXV4WHWG

***

皐月と僕の初めての出会いは――出会いは――ええと、出会いは――。


そうそう、思い出した。皐月と僕がはじめて出会ったのは、たしか幼稚園のこ
ろだった。
ようやく世間に浸透しはじめていた「妖怪」に属するらしい彼女の両親と、僕
の祖母がなんか関係があったらしく、彼女たちはちょくちょく我が家に訪れて
いた。
皐月のご両親は、実に立派な犬神のお父さん――子供心にも、その威風堂々と
した佇まいとふさふさの毛並みには心底痺れたものだ――と、楚々とした佇ま
いのお母さん――どうしてこんな落ち着いた和風美人から、皐月が生まれたの
か、今でも信じがたい――で、僕は彼らが好きだった。
幼い頃に両親を失くしていた僕にとって、彼らは二組目の両親のようなものだっ
た。

そんなわけで、必然的に皐月とはほとんど兄弟のように育った。
正確には毎日一緒にいるわけではないのだから、従兄弟のようなものだろうか。
ともかくも、全くない血のつながりを感じさせるほどに、僕と皐月は近しく育っ
た。

幼い皐月は、今では見る影もないが、実に無口で内気で可愛らしい少女だった。


――まあ、今でも可愛いけど。

小学校に通うようになってからは、今ほど認知されていなかった「妖怪」だと
いうことでイジメなんかも受けていたらしい。
皐月はそんな時、いつもふらりと我が家によっては僕の前でこっそり泣いてい
た。
両親が人間と妖怪ということで、妖怪の輪にも人間の輪にも当てはまらない皐
月は、幼いなりに自分の異端さを感じ取っていたのだろう。
今でこそ珍しくない妖怪と人間のハーフも、その頃は今よりずっとずっと蔑ん
だ目で見られていた。
「妖怪となんて、よく――――」
「誇り高いはずの犬神が、よもや人と――――」
「いくら、権利が保証されても、所詮妖怪でしょう? まして――――」
口さがない大人たちと、その大人たちから聞きかじった知識で皐月を攻撃する
子供たちに、彼女は随分と傷つけられていたようだ。
けれども、そんなことを両親に話して、彼らを傷つけたくなかったのだろう。
皐月は結局、僕以外の誰にも、一言もそんな話をしなかった――らしい。
「祐くんは、祐くんは、わたしのこと嫌いにならないよね?」
「ならない。皐月ちゃんは、皐月ちゃんだよ」
可愛らしい真っ白な尻尾と耳をふるふると揺らして、泣きながら訴えた皐月に
――、ええと、皐月に――。

――――なにしたんだっけ?



577 :妖しの呪縛 [sage] :2008/06/26(木) 01:57:22 ID:qXV4WHWG

***

「――くん、祐くん、祐くんってば!」
ぼんやりと遠き日に思いを馳せているうちに、皐月はチョコレートパフェを食
べ終えていたらしい。
綺麗に空っぽになったパフェグラスの底を未練がましくつつきながら、皐月は
眉を寄せて僕を睨む。
「なに考えてたの?」
「ああ、いや……昔のこと。皐月ちゃん、よく泣いてたよね」
何気なく僕が言うと、皐月は顔を真っ赤にしてあ、だのうう、だの言葉になら
ない唸り声をあげた。
ぴるぴると白い耳が揺れている。本気で恥ずかしがっているようだ。
皐月はしばらく、じたばたと手足を揺らして暴れていたが、やがて顔をあげて
僕を見つめる。
真っ赤になった顔と、涙で潤んだ顔に、僕はどきりとした。
「……祐くん、覚えてる? 約束」
「え?」
「あ、いい。覚えてないならいい! むしろ忘れてていいよっ!」
真剣に聞かれて、僕が思わず間抜けな顔で問い返すと、皐月は即座に顔を伏せ
る。
紙ナプキンをぐりぐりと捻り上げながら、彼女はふたたびじたばたと暴れ出し
た。

***

「僕は皐月ちゃんが、がんばってるのしってるよ。だいじょうぶだよ」
なんの根拠もないくせに、私を甘やかす祐くんが嫌いだったこともある。
だけど、その柔らかい手と、優しくて甘い言葉は、昔から――はじめて会った
ときから大好きだった。

「はじめまして」
なんてちっちゃくて華奢な子なんだろう、とびっくりした。
私は昔から、なんでか知らないけど山の中で育ってて、いつのまにか街にこし
てからも中々外に出ることはなかった。
今にして思えば、それは私の珍しい容姿に対する、父と母の配慮だったのだろ
う。
でもまあ、当時はそんな事にまで考えが及ぶはずもなく、私はちょっと彼らが
嫌いだったりした。子供なんてそんなものである。
「僕は土御門祐、つちみかど、ってなんかへんな名前だよね」
あはは、と笑った祐くんは、そう言って私の手を握った。
初めて触れた、同じ年の子供のてのひらはびっくりするほどあったかくて優し
い匂いがした。
「わ、わたし……皐月」
「皐月ちゃん、尻尾があるんだねえ! かっこいいねえ、きれいだねえ」
にこにこと笑いながら、祐くんは私の尻尾をむんず、と掴んでなでた。
普通なら怒るような、とんでもなく(犬神にとっては)失礼な行動に、けれど私
は何故か怒る気になれなかった。
そう言った祐くんがあんまり可愛くて、その言葉が嬉しくて、私はにまにまし
たまま、彼に撫でられるままに尻尾をぱたぱたと振っていた――。

祐くんとの出会いは、大体そんな感じだった。
なんだか祐くんのお祖母さんとうちの両親は知り合いだったらしく、我が家が
祐くんの家の近所に越してきたのもあいまって、行き来が多かった。
殆ど兄弟同然に育った私たちは、だいたいいつも一緒に遊んだ。
祐くんは、私と遊ぶときに、私が影でなにかこそこそ言われていることに気付
いていたらしい。
だけど、祐くんは――私と一緒にいたら自分だって変な目で見られるというの
に――何も言わずに、ずっと私と一緒に遊んでくれた。



578 :妖しの呪縛 [sage] :2008/06/26(木) 01:58:31 ID:qXV4WHWG

「も、もうやだ! きらい、ぜんぶきらいっ! こんな耳も、尻尾も――」
「僕は好きだよ」
小学校にあがってからしばらくして、私は祐くんとクラスが離れてしまった。
クラスの中には私以外の妖怪は一人もいなくて、妖怪に慣れている子もいなく
て、おまけに担任の先生までもが妖怪が苦手で――。
ものすごく簡単に、イジメがはじまってしまった。
もともと口数の多い方ではなかった私は、そのせいでますます無口になった。
(何しろ、口を開けば、「犬か吼えてる」とかからかわれるのだ。そんな状況
で口数の多くなる犬神などいないだろう)
「僕は、皐月ちゃんの耳も尻尾も、すごく好きだよ。綺麗だし、かわいい」
「……か、かわいくないっ! きもち悪いよ、こんなの……」
「皐月ちゃん――――」
とりわけ、人と異なる尻尾と耳に、強烈なコンプレックスを抱くようになった
私は、祐くんの言葉を素直に受け止めることができなくなっていた。
首をふった私を、祐くんは悲しそうに見つめながらため息をつく。
「……皐月ちゃんのこと、悪くいうひとの方がおかしいんだ。だって、こんな
に綺麗なのに」
「うそ。祐くんのうそつき。皐月のこと本当はきもち悪いと思ってるのに。み
んな言ってるよ、皐月みたいな変な子、ぜったいけっこんもできないって」
きれい、と祐くんは眩しそうに目を細めて私の尻尾を撫でた。
その時の私には、嬉しいはずのその行動すら嫌で仕方なくて、思わず乱暴に尻
尾を振りながら、祐くんを詰ってしまう。
ぺし、と尻尾で手をはたかれた祐くんは、悲しそうに眉を寄せて、私の頭をな
でた。
「皐月ちゃんが、けっこんできないなんてありえないよ。だってすごくかわい
いもん」
「かわいくないっ! 皐月はばけものだから、かわいくなんかないっ!」
「僕は、皐月ちゃんが好きだよ。ようかいでも、皐月ちゃんは皐月ちゃんだよ」

祐くんはそう言って、私を見つめる。あんまり真剣に言うので、私はびっくり
してしまった。
小さい頃の祐くんは、ときどきこっちが驚いてしまうくらいストレートで大胆
なことを平気で言う男の子だった。
「だから、皐月ちゃんはけっこんできないなんてことないよ。泣かないで」
「…………祐くんが、」
「なあに?」
「祐くんは、してくれるの? 皐月と……けっこん」
いつのまにか流れていた涙を、優しく拭いながら祐くんは笑った。
晴々とした笑顔で、私がおそるおそる問いかけた言葉に、うんと頷いて―――
―。

私たちは、幼く拙い口づけを交わした。
その日から、ずっと、祐くんは私のものなのだ。

けれど、私が真剣な気持ちで――それはそれはとても真剣に――施した「口づ
けの儀式」は、すぐに両親にバレて、ひどく怒られた。
口づけの相手は生涯ただ一人だけである犬神にとって、その儀式は神聖かつ厳
粛に――、と父は私を叱り、母は困ったようにおっとりと微笑んでいた。
女同士、私の真剣さをなんとなく分かっていたのだろう。私に説教する父の横
で、母は私を窘めるように見つめるだけで、一度として私を叱らなかった。

幼いなりに真剣だった儀式は、しかし幼いだけに不完全だったらしく、結局父
と母と、それに祐くんのお祖母さん(なんでも、霊力の高い巫女さんだったら
しい)の手によって封印されてしまった。
それでも、私の懸命さゆえか、封印は不完全で、ふとしたはずみに祐くんが思
い出せば、それは解けてしまうらしい。
記憶ごと封じられた口づけは、私にとっては苦い思い出だが、小さな希望でも
ある。



579 :妖しの呪縛 [sage] :2008/06/26(木) 01:59:03 ID:qXV4WHWG

――もし、いま。
――祐くんがあの日のことを思い出してくれたら。

祐くんは永遠に私のものになるのだ。口づけの呪縛によって。
そう思って、祐くんの周りにその手の知識の本を置いてみたり、色々と努力を
重ねているのだが、未だに思い出してはくれないみたいだ。

チョコレートバフェの冷たい甘みをかみ締めながら、私はちょっと憂鬱に、祐
くんの顔を盗み見た。
最後の一口を胃の中に流し込むと、とろりと溶けたバニラアイスの香りが口の
中いっぱいに広がった――。

***

「妖怪って、」
「なーにー? 祐くん、チョコレートパフェもう一杯食べてもいい?」
好きにしなよ、と言うと皐月は躊躇なくウェイトレスを呼び止めてさっそく二
杯目のパフェを注文した。
ふんわりと膨れたミニスカートが可愛らしい制服が文句なくなく似合う、三つ
編みのお姉さんのすらりと伸びた脚を思わず目で追ってしまう。
「ゆーうーくーんー?」
途端に低い声で、皐月に下心を含んだ視線を咎められ、僕は内心で冷や汗を垂
らした。
こういう時の皐月は、正直にいって、怖い。
「……妖怪って、一生に一人としかキスできないんだってね。このあいだ本で
読んだ」
話題を逸らそうと、この間読んだ本のことを口に出すと、皐月は見事に紅茶を
噴いた。
レモンティーが白いテーブルに斑模様を作る。それを紙ナプキンで拭きながら、
皐月に口を拭うようにハンカチを渡すと、彼女は咳き込みながら受け取った。
「ゲホっ、ちょ、え? なんで、え? 祐くん、思い出し――」
「あ、本当なんだ」
わたわたと慌てながら、言葉にならない問いを繰り返す皐月を見るに、例の本
の眉唾ものだと思っていた記述がどうやら事実らしい。
てっきり適当なでっちあげだと思っていたのだが、まさか事実だとは。びっく
りだ。



580 :妖しの呪縛 [sage] :2008/06/26(木) 01:59:42 ID:qXV4WHWG

***

「妖怪の接吻」

――妖怪は、生涯の伴侶と認めた相手としか口づけを交わさない。
というより、交わすことができない。
彼らにとってその行為は神聖な契約のようなものであり、みだりにするもので
はないのだ。
ゆえに、妖怪が口づけを交わすのは生涯を通してただ一人であり、一匹である。


また、この接吻という行為は彼らの中でもっとも神聖視されており、一般に言
う「結婚」に値するものだとも言われている。
生涯の伴侶を決める行為なわけであるから、そう考えるのも道理だ。

一説によると、口づけを交わしたその瞬間から、彼らは伴侶の傍を離れること
ができなくなるという。
これは「妖しの呪縛」と言われている。

***


581 :妖しの呪縛 [sage] :2008/06/26(木) 02:00:21 ID:qXV4WHWG


ぼんやりと本の内容を反芻しながら、いまだ慌てる皐月の口元を拭う。
今日はずいぶんと、皐月の顔に血が上る日だ。
「ななななな、い、いきなり、なっ!」
「うん。いや、なんか気になったからさ。でも、皐月はハーフだから、ちょっ
と違うのかな?」
「…………あんまり、変わらない、かも」
ぽそっと呟いた皐月は、もじもじと指をつき合わせて僕を見た。
なんだ、このラブコメみたいな展開は。――――やっぱり、なんだか重要なこ
とを忘れている気がする。
僕がもんもんと思い悩んでいるうちに、先ほどのウェトレスさんが、生クリー
ムとアイスがこんもりともられたパフェグラスをささげ持ってやってきた。
どっぷりとかかったチョコレートソースは見ているだけで、胸焼けをおこしそ
うな代物である。
「こちら、スペシャル・チョコレート・パフェ・デラックスでございます」
スペシャルでデラックスと来ましたか。
やっぱりさっきのパフェより格段に大きく見えたのは、僕の見間違いではなかっ
たらしい。
嬉々としてパフェスプーンを取り上げた皐月を見るともなしに見つめながら、
僕はさっきからのどの奥に刺さって抜けない小骨のように、ひっかかって仕方
ない「何か」を思い出すべく、努力した。