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830 :ひどいよ!おおこうちさん ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/01/28(日) 07:11:04 ID:wFSh9mQ6
~一月末、海面の上昇により桜前線北上~

 八月末の土曜日。ツクツクボーシが最後の力を振り絞り、
その役目を終えようとしていたある日のことだった。

 私の期待を裏切り剣道バカに育った娘の桜が、

「お母さん! 明日部活の先輩が来るから、先輩の分のお昼も用意してもらっていい?」
 
 と言ってきた。
 
 
 桜は元気な娘に育ってくれた。
 夫と私は長男にだけ稽古をつけていたから、
親の愛情を知らない子供に育ってしまうかもしれないと
心配していたが、杞憂に終わってくれた。
 家にもよく女の子の友達を連れてきたし、
仕事で家を空けることの多い私の代わりに家事もこなしてくれた。

 桜は私にとって――こう言うと親馬鹿に聞こえるが――自慢の娘だ。

 しかし、心配なこともあった。
 それは、全くと言っていいほど男の話をしたことがないということ。
 
 容姿は私に似て愛らしいし、身長も夫に似ることなく
上目遣いをしたら男のハートを射止めることができる絶妙の高さ。
 男にもててもおかしくないはずだ。
 もしかしたら男に興味が無いのでは、と心配したこともあるが、
家に連れてくる女の子たちを見る目は友好の眼差しだった。
 とはいえ、変な男がくっついてきても困ると思い、
そのまま放っておいたある日のことだった。



831 :ひどいよ!おおこうちさん ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/01/28(日) 07:12:04 ID:wFSh9mQ6





 高校の剣道部に入部してから二日経った日の夕食の席で、こんなことを言い出した。

「今日ね、練習で対戦した男子の先輩とね――」

 驚いた。桜が男の子の話をし始めたのだ。絶句してしまうのも無理はない。
 しかし、夫と長男の反応は一味違った。
 長男は鈍器で頭を殴られたように呆然としているし、
夫にいたっては焼酎を吹いた上椅子から転げ落ちた。

 嬉々として部活の話を終えた娘は、夫に向かって
「校外練習をするために練心館を使わせて欲しい」と頼んできた。
 剣道バカではあるが、桜は校外練習をするほどのめり込んではいなかった。
 それなのに校外練習のために道場を貸してくれと頼んできたということは、
その先輩と少しでも一緒にいたいという考えなのだろう。

 しかし、それでは練習を終えて帰宅するころには夜八時を過ぎてしまう。
 そう思い反対しようとしたら、また驚かされる言葉を返してきた。

「大丈夫。そんなに家から離れてないし、毎日先輩に家まで送ってもらうから」

 ・・・・・・どういうことだ。今まで男と縁の無かった娘がここまで積極的になるとは。
 もしやその先輩とやらに惚れ薬でも飲まされたのか。・・・・・・いや、さすがにそれはないか。
 娘の成長を嬉しく思った私は、校外練習をすることに賛成したが、夫と長男は反対した。
 心配するのはわかる。しかし、娘の恋を成就させるため(同時に夫の娘離れと長男のシスコンを治すため)には
賛成させるしかない。
 
 一時間の議論の末、「あんたたち、いい加減に(桜から離れ)なさい!」という私の一喝で
娘の校外練習は了承された。






832 :ひどいよ!おおこうちさん ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/01/28(日) 07:12:59 ID:wFSh9mQ6
 それから四ヶ月が経ち八月になった今、ようやくその先輩を
我が家に連れてきてくれるらしい。
 そういうことなら私も張り切らないわけにはいかない。
 一番の得意料理である特製豚汁を用意して娘の夫――もとい恋人候補を
出迎えることにしよう。

 ただ、やけにご機嫌な様子でご飯を食べる夫と長男が不気味ではあった。


 翌日の日曜日。
 桜が剣道部の先輩だという男の人を連れて家に帰ってきた。
 
 もしかしたら夫のような巨漢か、長男のように痩身の男でも連れてくるかもしれないと
内心覚悟を決めていたが、拍子抜けするほど普通の男の子だった。
 中肉中背。くっきりした二重まぶた。そしてなにより、若い。
 
 じゅるり。

 いやいや、37才にもなって年がいもなく興奮している場合ではない。
 今日は娘と我が家に対する心象をよくするために努力しなければいけないのだから。
 
 午前十時に家族全員が参加して、彼――海原英一郎君の実力を見ることにした。
 打ち込みを見ている限りでは、桜が話にするだけあっていい筋をしている。
 体の使い方も上手だ。高校生にしては、だが。
 
 一時間ほどして一通りの基本練習を終えたので、
お茶でも飲みながら英一郎君を質問攻めにしたい気分だったが、
長男が彼と試合をしてみたいというのでやらせてみた。

 正直、やらせなければ良かったと後悔した。実力差がありすぎた。



833 :ひどいよ!おおこうちさん ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/01/28(日) 07:14:28 ID:wFSh9mQ6
 長男の放つ威圧感は、喩えるなら『壁』である。
 その細身の体からは想像できないほどの広い『壁』。

 前進するたびにその『壁』は押し寄せてきて、
気がついたら逃げ道を塞がれそのまま仕留められてしまう。
 実力が上の人間なら壁を押し返すなり横に抜け道を見つけるなりして
自分の土俵で勝負をするのだが、高校生である彼には無理だったようだ。

 『壁』に追い詰められて白線の外に出て、トイレまで誘導されてから閉じ込められた。

 ちょうどその時点でお昼の時間になったので、道場から引き上げることにした。
 長男は足首を縄で縛って、カロリーメイトを与えてから更衣室に閉じ込めて鍵をかけておいた。
 当然、水抜きで。


 お昼に私がふるまった豚汁を英一郎君は何杯もおかわりしていた。
 「ものすごくおいしいです」と言いながら食べるその姿を見ていたら、
まるでもう一人の息子ができたような気分になった。

 可愛い。食べてしまおうか・・・・・・

 と不埒なことを考えたが、正面に座っている桜が今までに見たことのない目で睨んでいたので、
早々にごちそうさまをしてから道場へ向かうことにした。


 午後の練習は一時から始めることにした。
 今度は英一郎君と夫が試合を行った。
 夫の実力は長男でさえ歯牙にかけないほどのものだから、
当然内容は一方的なものになる。
 しかし夫よ。さすがに全力で突きを出すことはないだろう。

 英一郎君は突きを受けて、腰を軸に体を4分の1ほど回転させてからそのまま落下した。
 
 彼が機嫌を悪くして二度と家に来なくなったりしたらどうやって私――じゃなくて、
桜に謝るつもりだ。今夜の晩酌は焼酎だけ与えてつまみは無しだ。



834 :ひどいよ!おおこうちさん ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/01/28(日) 07:16:41 ID:wFSh9mQ6
 試合を終えたあと、英一郎君はすぐ帰ることになった。
 首を痛めたという理由ではなく、最初から練習をするためだけに来たらしい。
 桜も晩御飯までご一緒する約束を取り付ければよかったのに。
 ・・・・・・まあ、異性の先輩を連れてきただけでも充分な進歩だと言えるだろう。

「じゃあ、今日は本当にありがとうございました」

 そう言って英一郎君は背を向けて帰っていった。

 いいえ。また来てくれたら同じ料理をごちそうしますよ。 
 だから今度はお義母――おばさんと試合しましょうね。
 ――たっぷり可愛がってあげるから。

 と不埒なことを考えていたら桜が色の無い目で私を睨んでいたので、
すぐさまきびすを返して家の中に入ることにした。





 それから英一郎君が道場へ練習に来なくなってから一月になり、
剣道協会の仕事から夫婦と長男揃って朝帰りしたら桜からこんな台詞で出迎えられた。

「おかえりなさいお父さん、お母さん、お兄ちゃん!
 あのね、私海原先輩と付き合うことになったから!」

 その後で私は喜んだり、桜が足に包帯を巻いていることに気づいて慌てたり、
夫が叫びだすやら、長男が気絶するやらで朝からてんやわんやの事態だった。


 それから、桜は毎日花が咲いたような笑顔を浮かべるようになった。
 我が家の桜には一足先に桜前線が到来したようだ。

 ありがとう。海原英一郎君。


一月末、海面の上昇により桜前線北上・終わり