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249 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/03(土) 22:34:54 ID:vpHTOitt
 時計を持っていないので時間が分からない。太陽の位置ならともかく、月の位置から時間を
特定する方法は忘れてしまった。まだ月は真上には浮かんでいない――それでも太陽が完全に
消えてしまっているので、もう完全に夜だということは分かる。
 夏の夜空には星がよく見える。星座の形なんて小学校にならったきりで忘れてしまった。北
極星が見えるのは夏だったか冬だったか。そんなことももう憶えていない。
 思考が錯綜しているのが、自分でも分かっていた。
 姉さんの次に付き合いが長い少女。神無士乃が、ここまで逸しているとは思っていなかった。
普通の人間なら、とっくに帰ってきているはずだ。
 いや。 
 いや――違う。
 そもそも、前提が違う。
 今まで一度も考えたことがなかったが、よく考えてみれば、普通であるはずがないのだ。普
通でない姉さんと付き合える僕と、長い間付き合ってきた神無士乃が――普通であるはずが、
ないのだ。
 類は友を呼ぶ。
 朱も交われば赤くなる。
 血に交われば赤くなる。
 いつからかは分からないけれど、神無士乃は、とっくに逸脱しているのだ。
 元に戻れないほどに――かどうかは、分からない。神無士乃は明るくて、学校で存在感なく
窓際で本を読むような、そんな少女じゃない。ごく普通の、年相応の少女らしい面だって持っ
てる。
 それと同じくらいの比率で、朝見せた、あんな表情だって、裏側に持っているのだ。
 片足を――踏み込んだようなものか。
 向こう側に片足を踏み出して。
 こちら側に片足を踏み入れて。
 曖昧なところで、揺れている。
 なら。
 その背中を、とんと押すのは。
 その腕を、ぐいりと引くのは。

 僕次第じゃ、ないんだろうか。

「…………くそッ」
 もう一度悪態をついて角を曲がる。暗い一本斜線の道を、電柱につけられた灯と家から漏れ
出る光が照らす。家に帰る時間はもう過ぎている。今は、家の中でのんびりする時間だ。辺り
には誰もいない。暗い道がどこまでも続くだけだ。
 走る。
 どこまでも――走る。息が絶え絶えになっても、途中で休みたくなっても、走る。歩いて三
十分以上かかる距離でも、走れば半分にできる。走りながら、どうせなら自転車に乗ってくれ
ばよかったと後悔するが、今更遅い。鞄を持っていないのが救いだ。
 夜の道を、全速力で走る。
 力の限り。
 命の限り――走る。暗い夜道を直進し、曲がり、くねり、ひねり、よどみ、うねり、闇夜の
奥の果てを目指す。
 風景が後ろに流れる。
 目的地が近づく。
 あと角を二つ曲がり、一つの直線を走れば、あの大きな国道に出る。歩道橋を渡って反対側
に行き、坂道を少し登ったところが、神無士乃との待ち合わせ場所だ。
 そこまで、走る。
 休むのは、そこについてからだ。
 僕は走り、角を曲がりながら――ふと。
 三匹の子豚の話を、思い出す。


250 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/03(土) 22:36:10 ID:vpHTOitt
 狼がこないように、レンガの家の中に逃げましょう――三匹の子豚の話はそういう物語であ
り、子豚たちがとった行動は正しい。どうしようもなく正しい。レンガの中の中にいれば、狼
はやってこない。それは確かだ。狼のすさましい吐息は、レンガの壁を壊すことができなかっ
たのだから。
 でも。
 狼にしてみれば――そんなことは、どうだっていいのだ。ワラの家を吹き飛ばすようなとん
でもない狼にしてみれば、レンガの家を突き崩す手段なんて、いくらでも思いつくはずだ。そ
れをしなかったのは、その労力に見合う対価が、子豚三匹じゃ足りなかったからだ。
 家をどうにかする必要はない。
 家から出てくるを待てばいい。
 生きている以上――いつまでも、家にいるわけにはいかないのだから。安心すれば、油断す
れば、あるいは朝がくれば、子豚は家の外へと出てくる。そのときに、ぱくりと食べてしまえ
ばいいのだ。
 けれど、もしも。
 子豚が想像よりも予想よりもはるかにアホで――あるいは、そうしなければならない理由で
――その夜のうちに、レンガの家から飛び出てきたら。


 狼が、襲わない理由など、何一つないだろう。


 目的地に辿り着くまで、止めないと誓った脚が――止まる。
 止めざるを、得なかった。
 無理矢理に走り抜けることもできた。そうしなかったのは、目の前に立ちふさがる相手が、
あまりにも異形だったからだ。闇夜の路地、月明かりの下、『通せんぼ』をするかのように、
道の真ん中に立ち尽くしていたその異形を、ただの一言で現すのならば。

 ――黒白。

 白く、黒い。モノクロで、歪な、少女だった。
 着ている服は、月の光を浴びて輝かんばかりに白い服だった。フリルの過剰な、洋服という
よりはドレスに近い。ウェディングドレスと言われても信じてしまいそうな装飾過剰な服だっ
た。スカートの前は大きく膨らみ開いていて、代わりに後ろは地面すれすれまでテールコート
のように伸びている。薔薇をあしらったヴェールのせいで、その顔は見えない。ただ、黒い口
紅を引いた口元だけが、三日月状に笑っていた。袖口は大きく膨らんでいるくせに、肩と腋が
むき出しになっていた。その全てが、染み一つのない白。
 病的なほどに肌は白く――だからこそ、よけいに。。
 手にしている、大きな蝙蝠傘の黒が、何よりも黒く見えた。
 闇よりも、夜よりも暗い、暗黒よりも黒く漆黒よりも暗い、蝙蝠傘を差している。
 吸血鬼が、日光を嫌うように。
 狼男が、満月を避けるように。
 雲ひとつない月空の下――白い少女は、黒い傘を差していた。

 童話の世界から抜け出してきたかのような形貌で、少女はそこに立っている。

「…………」
 迷う。止めた脚を、前へと進めるか、後ろへ戻すかを。
 冷静に考えれば不審者なんて無視して先に進めばいい。神無士乃がきっと待っている。
 目の前の相手が、ただの不審者ならば、の話だ。


251 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/03(土) 22:36:41 ID:vpHTOitt
 これが不審ですむなら警察はいらない。
 疑わしいなんてレベルじゃない。どう考えてもこれは待ち伏せされていた。大通りに出るた
めの路地で、両脇に門ではなく塀があり、外から気付かれにくい道はここしかないからだ。
 襲撃するならば――ここを選ぶ。
 意図的に、少女はここに立っているのだろう。恐らくは家へと攻め込むかどうか考えあぐね
ていた際に、僕が飛び出るのを見て――ここに移動したに違いない。
 チェシャは、呼び水。
 呼び水は、当然のように水を呼ぶ。 
 呼ばれてきたのは、殺人鬼。
 狂気倶楽部に関わるモノの罪を裁く、狂気倶楽部の中の最果て、狂気の中の狂気。
 その名を、僕は、如月更紗から聞いている。
「裁罪のアリス――か」
 僕の、言葉に。
 白と黒の少女は、ヴェールに覆われて見えない口元の笑みを。

 きりりと、吊り上げて、深く笑った。

 正解です、と言わんばかりに。
 笑って――すっと手を動かす。左手を傘の柄に沿え、右手で傘の持ち手を逆手に握る。何を
するのかと思えば、アリスはするすると、するすると右手を動かした。
 左手は動かさない。
 なのに、右手はするすると、するするすると動く。
 その理由は――
「……冗談だろ」
 馬鹿げてる。
 冗談だ。
 いや、冗談だと、思いたい。
 思いついても本当にやるやつがいるとは思わなかった。いったいどこであれを買ったんだ。
まさか自分たちで作っているのか。 
 そんな突っ込みが頭の中に浮かんでくるが、突っ込みのための声が出来ない。
 あまりの光景に、威圧されて言葉が出てこない。
 アリスの右手は、持ち手を握っている。それなのにするすると動くのは、持ち手が、傘から
離れるようにして伸びていくからだ。一メートルはありそうな傘の柄から、持ち手が離れてい
く。
 そこから現れたのは――信じがたいことに、現れてしまったのは――月の光を浴びてなお輝
くことのない、長く長く長く長い、一振りの黒い剣だった。
 すらり、と。左手の傘を捨てて、アリスは細い黒剣を振った。風を切る音だけが聞こえて、
剣の軌跡は見えなかった。ただでさえ細い刀身が黒いせいで、まったく見えない。
 ――冗談じゃない。
 如月更紗の大鋏も冗談めいていたが、これはもう、ふざけているとしか思えない。
 本気で、ふざけている。
 本気で、道化けている。
 本気で、演技けている。

 それが――狂気倶楽部。


252 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/03(土) 22:37:15 ID:vpHTOitt
「殺人鬼って……比喩でもなんでもなかったのかよ……」
 甘かった。チェシャやアリスを撃破すると言いながら、ここまでだとは考えていなかった。
無鉄砲に家を飛び出したのも甘ければ、常に武器を常備していないのも甘すぎた。
 如月更紗は、寝ているときだって、鋏を持っていたというのに。
 あいつのあの行為が、偏執でも冗談でもなく、至極当然の行為なのだと、僕は今更気付かさ
れた。
 こんなのを相手にするなら――あれくらいの備えは当たり前だ。あれでも、足りないくらい
だ。こいつなら、レンガの家にガソリンまいて火をつけることくらいはするだろう。
 とんでもない、相手だ。
 けど。
「だからといって――負けるわけには、いかないんだよな」
 そう。
 負けられない。
 勝たなくてもいい。刀を振り回すこいつに、勝つ必要なんてどこにもない。
 負けないことが、大事だ。
 死なないことが、大事だ。
 こいつは過程でしかない。こいつの向こうにいる、姉さんを殺した男にこそ、僕は用がある
のだから。
「どけよ、お前――」
 言いながら、僕は足に力を込める。前に飛ぶわけではない。
 後ろに退いて、全力で逃げるためだ。
 剣持って街中走れるやつなどいない。違う道を通って神無士乃を迎えにいけばいいし、なん
なら、如月更紗と合流してもいい。
 そう思って、いつでも駆け出せるように足に力を込めて、

 考えが甘すぎたことを、次の瞬間に思い知った。

「ち――ッ!」
 足にこめた力で、一気に跳ぶ。後ろではなく、横へ。身を低くして、潜るようにして跳ぶ。
跳んだそのすぐ上を、ちりちりと、死の感触が通り過ぎていく。
 毛先を切りながら、黒剣が振り切られたのだ。
 真後ろに跳んだら――殺られていた。
 裁罪のアリスが、十メートル近い距離を、一秒で埋めて切りかかってきたのだ。足に力を入
れてなければ、逃げることさえ間に合わなかっただろう。
 確かに運動神経がいいやつなら、十メートルを一秒で走りぬけることは可能だが、それはあ
くまでもトップスピードの話で、立ち止まった状態からなんて――
「どこまでデタラメなんだ――お前らは!」
 着地し、それでも止まらずに勢いのままに再度跳ぶ。振り下ろした剣が逆方向に跳ね上がっ
てきたのが、流れる視界のままで見えた。あのまま立っていてもやはり斬られていた。
 容赦のない斬撃。
 完全に、殺す気で来ている。


253 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/03(土) 22:37:50 ID:vpHTOitt
 せめて武器が、バッドでも鞄でも鋏でも何でもいいからあれば反撃か防御ができるのに――
 探す暇はなかった。裁罪のアリスは振り上げた剣を手の中で翻り、上段で担ぐように構えて、
 避けよう、と思う暇もなかった。
 勢いを殺せなくて無様に転んだだけだ。
「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――アハ」
 その無様さが、ギリギリで、命を救った。
 かすかな笑い声と共に――頭の上を、横薙ぎに剣が通り過ぎていく。頭上で風が流れるのを
感じた。剣が此方から彼方へと流れていく。
 ぎりぎりで、死ななかった。
 死ななかっただけで、助かったわけじゃない。
 敵は、すぐ前にいる。
「この――常識知らずどもが!」
 悪態を力にかえて、尻をついたまま、無理矢理右足を蹴り出した。無理な体勢で伸ばしたせ
いで、ぎりりと、筋が痛む感触が走る。それでも足を止めず、刀を振り切ったアリスの腹を目
掛け、
「な、」
 目掛けた足が、左手で受け止められた。
 いくら不安定な姿勢からとはいえ――全力で蹴った足を、手の平で、受け止められた。
「んな馬鹿な――」
 憤りとも悲鳴ともつかない言葉は無理矢理に中断された。つかんだ左手を、アリスが合気道
のようにぐるりと回したからだ。力ずくで、僕の身体もまた宙を一回転し、
「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――アハハ」
 笑い声と共に、浮いた体を、蹴られた。
 サッカーボールのように、胴を思い切り蹴り飛ばされる。「がぁ、」と意識せずに口から息
が漏れる。
 肺の中から、無理矢理しぼり出される感覚。胃の中のものを吐き出したくなる。衝撃が強く
て吐くこともできない。
 蹴られた勢いのまま僕の身体は宙を飛び、地面に叩きつけられて――それでも止まらずに地
面を転がり、壁にぶつかってようやく止まった。
 まずい。
 これは――死ぬ。
 相手が狂気を持っているとか、狂気を以っているとか、そういう問題じゃない。蹴られた衝
撃で息が出来ない。呼吸をしなければ酸素が取り込めない。酸素がなければ、動くことができ
ない。
 五秒もすれば動けるようになるだろう。けれど、再び剣を構えたアリスは、五秒も待ってく
れそうになかった。あそこから詰め寄って剣を下ろすのに、一秒もかからないだろう。
 だから。
 僕は、このままだと、死ぬ。


254 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/03(土) 22:38:59 ID:vpHTOitt
 殺される。
 殺される?
 誰が? ――僕が。
 誰に? ――アリスに。
 アリスに、僕が、殺される。
 身体が動かない。だから、思考だけがくるくると、狂々と動き続ける。殺す。殺す。殺され
る。殺される。殺し殺して殺され殺される。
 姉さんは殺された。
 姉さんは殺された。
 僕も殺される。
 僕も殺される。
 姉さんを殺した奴に?
 違う。
 姉さんを殺した奴に会うこともなく――僕は殺される。
 それは、おかしい。
 おかし過ぎて、笑いたくなる。
 可笑し過ぎて、脳が侵される。
 心が、犯される。
 そんな、馬鹿げたことがあるか。
 姉さんを殺した奴でもないのに――殺されるのか。
 姉さんと殺した奴を殺すこともなく、殺されるのか。
 こんな、中途半端で。
 僕は――
 アリスが迫ってくる。
 白と黒が迫ってくる。
 白い少女が殺しにくる。
 黒い細剣が殺しにくる。
 死が、目前に。
 終わりが迫る。
 僕は。
 僕は――
 最後に――姉さんではなく。


 如月更紗の、笑い顔を、思い浮かべた。




「やあ、やあ、やあ! 誰か――私のことを呼んだかい!」





255 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/03(土) 22:39:50 ID:vpHTOitt
 かきん、と。
 脳裏の笑い顔に、現実の笑い声が重なって――黒い剣が、金属音と共に、弾かれた。
 弾いたのは、僕じゃない。
 鋏だ。
 三十センチものさしを二つ組み合わせたような、人を殺すことしかできない、人を救うこと
なできそうにもない、狂気じみた凶器でしかない大鋏が、僕の命を、救った。
 裁罪のアリスの身体が、見えなくなる。
 塀の上から、降り立った人影によって。
 颯爽と、まるで正義のヒーローのように、頭上から飛び降りてきた人影によって、アリスの
姿が見えなくなる。アリスの剣が届かなくなる。
 罪が裁かれることはなく。
 罰が、そこに在る。

「おや、おや、おやまあ! なんてことだなんてこと! 私を差し置いて随分と楽しそうなこ
とをしてるじゃない」

 楽しそうな。
 愉しそうな。
 おかしそうな。
 犯しそうな。
 笑い声。
 聞き覚えのある、笑い声。
 裁罪のアリスが一歩退く。目の前に降り立った影は、そんなことには構いもせずに、くるり
と右手の鋏を回して――くるりと左手に持った、黒いステッキを逆回しにした。
 時計の針のように、杖と鋏が回りだす。
 デタラメな時間を、刻み出す。

「それはそれはそれは楽しかったでしょう。こんなにいい夜なのだから!」

 影は笑う。影は、影にしか見えなかった。
 長く艶のある黒髪は長く、夜の風に揺れていた。男物のタキシードは、彼女の性別を覆い隠
すかのように黒い。頭につけたミニハットもまた、黒だった。回る杖も黒。
 アリスが白と黒ならば。
 白を殺して――黒だけになったような、姿だった。
 黒い。
 黒い男装の、少女。
 見覚えのある、後ろ姿。
 これが。
 こんなものが――キャリーケースの中に、入っていたのか。

「さぁさぁさぁ楽しみましょう遊びましょう。こんなにも月が綺麗なのだから!」

 そう、高らかに笑って。
 右手と左手が同時に止まった。鋏は前へ、杖は後へ。杖の頭と鋏の先を、二挺拳銃のように
アリスへと向ける。
 その名を、僕は知っている。
 噂だけは――聞いている。
 姉さんを殺した奴の名前を探しているときに、偶発的に、必然的に飛び出してくる名前。曰
く、七つの頃から其処にいる、気付けばいつだってそこにいる――狂気倶楽部の最古参。
 狂った狩り人してイカレた帽子屋。


 ――マッド・ハンターが、そこにいる。




256 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/03(土) 22:40:32 ID:vpHTOitt
 そして。
 そして僕は――
 彼女の、もう一つの名を、知っている――その声に、その姿に、その鋏に、覚えがある。
 僕は、ようやく動くようになった肺を、喉を、身体を、力を振り絞って、僕の命を救った彼
女の名を。
 身の安全を保証すると、あの日屋上で交わした誓いを、守った彼女の名を――叫んだ。

「如月――更紗!」

 僕の叫びに、如月更紗はくるりと鋏と杖を回し、僕の方を振り向いて――おどけるように笑
って言った。
「今は、今は、今だけは、マッドハンターさ」
 そして、振り返ったそのままに、後ろ蹴りをかました。
 僕に。
「…………」
 何しやがる。
 無言の広義の視線を送ると、如月更紗はふんと笑い、
「さっさと、さっさに、さっさか立ちたまえよ。生きているのでしょう?」
「…………ハ」
 全く――遠慮のない奴だった。
 まさに、その通り。
 生きている。
 僕は今、お前のお陰で――生きている。
 壁に手をついて、どうにか立ち上がる。裁罪のアリスは、焦ることもなく僕と闖入者たる如
月更紗――いや、マッド・ハンターを見つめていた。といっても、目がヴェールで隠れて見え
ないので、本当に見つめているかどうかはわからないが。
 どちらにせよ、焦っている様子はない。
 まるで、登場を予期していたかのようだった。
 マッド・ハンターは鋏をしゃきん、と一度鳴らし、アリスに向き直ったまま、僕に言う。
「里村くん、里村くん、里村冬継くん――君はどうして私たちがこういう格好をするのか、知
っているのかい」
「こういう格好――?」
 それは、お前みたいな男装とか、アリスのウェディングドレスとか。
 狂気倶楽部の面々が好むゴシック・ロリータ姿のことだろうか。
 僕の返答を待たずに、如月更紗は朗々と唄うように続けた。
「それは儀式さ、それは魔術さ、それは黒魔術さ――自分は特別なのだと、ここはメルヘンの
世界なのだと、思い込むための魔術装備。だからこそ、」
 こんなことができるのよ。
 そう、言葉を結んで――マッド・ハンターの姿が、消えた。
「!?」
 消えたようにしか見えなかった。
 一瞬後に事実を悟る。一瞬の後に、マッド・ハンターは距離を置いていたはずのアリスと、
剣を交えていたからだ。黒い剣と長い鋏がぶつかって、がぎんという音がする。瞬き一つの間
に攻防は進んでいく。鋏を開き、剣を挟むようにしてすべらせる。アリスは剣を返し、鋏を弾
く。弾かれた鋏が宙で向きを変えてアリスの首筋に迫り、首を逸らせてアリスは避け、避けな
がら長い足を蹴り上げる。足の間を通す脚撃をマッド・ハンターは杖で巧みに受け流し、返す
一撃でアリスの腹部を殴打しようとした瞬間にアリスが後ろへと跳んだ。
 跳んだのにあわせてマッド・ハンターは鋏を開いて跳び――しゃきんと鳴らして、アリスの
首を刈ろうとする。アリスは伏せて避け、避け切れなかった髪が一筋宙に残された。下から逆
袈裟に黒い剣、黒い杖がそれを受け止める。中に何か仕込んであるのか、杖が両断されること
はない。ぎりぎりと、拮抗状態が生まれる。
 目で追うのがやっとの――信じられない、争いだった。


257 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/03(土) 22:41:32 ID:vpHTOitt
 そして、脳は目よりも早く事態を追っていた。思考だけが加速していく。
 魔術儀式、とマッド・ハンターは言った。
 日常とはかけ離れた服を着て、日常ではありえない舞台を作り、日常に存在しないモノを振
う。そうすることで、まるで物語の中に自分がいるのだと、強く思い込む。思い込むだけでは
あきたらず、思いこんだ世界をそこに作り出す。
 強力な――自己暗示だ。
 洋服も、
 武器も、
 口調も。
 全てが、日常から変質するための、道具だ。だからこそ、こんな突拍子もないことができる。
もしも暗示が逆転して、それが日常になってしまえば――完全に発狂する。狂気が常になり、
基準点が崩壊する。
 正しく――狂っている。
 狂気倶楽部。

 狂気の国の――御伽噺。

「行きたまえ、行きたまえ、行き給えよ冬継くん。君を待っている人がいるのだろう? ここ
は私に任せて――という奴さ」
 杖の隙間から鋏を繰り出しながらマッド・ハンターが言う。アリスはそれをバックステップ
で避け、さらに垂直に飛んで塀の上へと降り立った。マッド・ハンターは、そんな彼女と僕と
の間に立ちふさがる。
 杖で、僕の行く道を指し示す。
 その好意に、こたえないわけにはいかない。
「――恩にきる。だから、」
 僕は、初めて。

 更紗――死ぬなよ」

 自覚して、彼女の名前を呼んで。
 わき目もふらずに、駆け出した。今の僕では、如月更紗の、マッドハンターの邪魔になるだ
けだ。
 僕は、僕のやるべきことをやる。
 あいつは、あいつの意思で、僕のために戦っているのだから。
 その思惑が何なのか、僕はまだ、知らないけれど。
 あいつが――僕の命を、助けてくれたのは、本当なのだから。
 僕は走り出す。
 最後の角を曲がる直前に。
 背後から――楽しそうな、マッド・ハンターの声が、聞こえた気がした。

 



258 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/03(土) 22:42:34 ID:vpHTOitt

 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「さあ――――――――――――――――――――――――――――お茶会を、始めようか」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   







259 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/03(土) 22:44:14 ID:vpHTOitt
 ……。
 …………。
 ………………。
「――――」
 走り、走り、走り抜いて。
 歩道橋を渡り、あの坂道を、学校へと繋がる坂道を登った先。近くに民家がないせいで余計
に暗く、ぽつり、ぽつりと、大きすぎる間隔をあけてたつ街灯の明かりしか存在しない、夜の
坂道に。
 ――神無士乃は、立っていた。
 辺りは暗い。月と星の光だけが頼りだった。街灯の真下に立つ神無士乃だけが、夜の闇から
ぽっかりとくり抜いたように見えた。俯いているため、表情は見えない。
 泣いて、いるのかもしれない。
 それも当然なのかもしれない。泣かせるだけのことを、僕はしたのだから。
 何を置いても、謝らなければいけない。
 ここまできたらもう走る必要はない。そう自分に言い聞かせ、息を整えながら歩く。
 ――走るのをやめたのは、神無士乃に何て話しかければいいのか、思いつかなかったからか
もしれない。
 そんな思考を押し殺し、歩いて、近づく。走り続けてきたため、心臓は破裂するかのように
ばくばくと鼓動していた。息が荒い。呼吸が難しい。今にも死にそうだ。
 でも、死んではいない。
 如月更紗が、助けてくれたから。
 ――彼女は、生きているだろうか。
 マッド・ハンター。狂気倶楽部の古参。古くからいるということは、古くから生き続けてい
るということだ。生半可なことでは死なないと思うが――それでも相手もまた、狂気倶楽部の
中では特別な位置にいる殺人鬼なのだ。結果は、誰にも分からない。
 生きているか死んでいるか分からないなら、
 生きていると、信じよう。
 如月更紗を、信じよう。
 そしてそれは、後で考えるべきことだ。今は――神無士乃だ。
 街灯の下で立ちすくむ、神無士乃のことを、考えなければいけない。
 夕方からずっと――僕を待ち続けてくれた、神無士乃のことを、考えよう。
 街灯の光の中に立ち入ると同時に、僕は息を吸って、吐いた。一つ深呼吸をして覚悟を決め
る。
 そして僕は、彼女の名前を呼んだ。
「神無士乃――」
 名前を呼ばれて。
 神無士乃は――顔を上げた。
 泣いているのだと、思っていた。
 けれど、違った。
 神無士乃は。
 数時間も待ちぼうけを喰らっていたはずの神無士乃は、僕を見て。
「――先輩!!」
 嬉しそうに、笑っていた。
 幸せそうに――笑っていた。
「先輩、ちゃんと来てくれました。でも、大遅刻ですよ? 具体的に言えば、三十一時間ほど
時刻です」
 いつものように笑って、神無士乃は言う。
 いつもと変わることなく、神無士乃は、言う。
「え、あ、うん――」
 その、あまりの変わらなさに、僕はなんと言えばいいのかわからずに戸惑う。
 謝らなければ、いけないのに。
 笑う神無士乃に対し、その言葉が、出てこない。


260 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/03(土) 22:45:08 ID:vpHTOitt
「ちなみに今のは日付を間違えた場合の計算です」
「いくら僕でも日付を間違えたりはしないよ」
「知ってます。先輩は年月を間違えるんですよね?」
「どこの浦島太郎だよ僕は」
 いつものように、僕らは問答する。
 いつものようだ。
 日常的に、する会話だ。
 日常――過ぎる。
 あれ?
 おかしい。
 まったくおかしくないのが、おかしい。
 僕は、謝らなきゃいけないはずだろう?
 謝るだけのことを、しでかしたはずだろう?
「そう、そうじゃない――神無士乃、僕はお前に、」
「あ、いいんです」
 神無士乃は。
 謝ろうとした僕の唇を、左手の人差し指で塞いだ。
「それ以上言ったら駄目ですよー。気にしてないですから」
「気にしてない?」
「はい、全く全然です」
「いや、重複しているから」
「全く全然全てにおいてパーペキです」
「パーペキは死語だ!」
 意味も間違ってる。
 じゃなくて。
 そうじゃ、なくて。
 こんな楽しい会話を、している場合じゃなくて。
 おかしいだろ。
 おかしくなくて――おかしいだろ。
 例えば、笑ってる神無士乃とか。
 丸い瞳が、僕を見て、なんで笑っているのかとか。

 なんで――そんなに、幸せそうな顔をしてるんだとか。

「いえいえ、正確に言えば、もう気にする必要はないんです」
「……? 何が、だよ」
「それはですね、」
 神無士乃の左手は、僕の唇に添えられている。その手が、くるりと捻って、僕の口を押さえ
た。声が出せなくなる。
 そして、神無士乃の右手。
 右手につかんでいたバッグが、地面に落ちる。そして、その手がつかんでいるのは――黒く
て長い、棒状の何か。ああなるほど、と納得する。神無士乃の薄っぺらいくせに重そうな鞄の
中には、こんなものが入っていたのか。
 その先端が、僕の首筋に、当てられて。
「か――」
「大好きですよ、先輩」
 神無士乃はそう言って微笑み、微笑んだまま手に持った棒ことスタンロッドのスイッチを一
気に最強まで引き上げた。
 電流が、走って。
 


 誰かのことを考える暇もなく、僕の意識は、闇に堕ちた。




261 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/03(土) 22:46:08 ID:vpHTOitt


 そして僕は――地下室で目覚めることになる。