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439 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/09(金) 00:15:49 ID:76e5wCUJ

 10歳の僕は、疑問に思った。
 どうして姉さんは学校に行かないのだろう、と。
 中学生だった姉さんは、けれど中学生には見えなかった。買ってもらった制服はクローゼッ
トの中で眠り続けていたし、体操服はゴミ箱に捨てられたいたのを見た記憶がある。学校にも、
部活にも、姉さんはいかなかった。保健室登校ですらしなかった。
 何かを怖がるかのように、学校へは行かなかった。
 何もかもを怖がるように――部屋から出ることすらなかった。
 そして姉さんは、弱すぎた姉さんは、一人で部屋の中にいるのも怖かったのだろう。大きな
人間である父や母すらも怖かったのだろう。一人ぼっちで部屋にいることに耐えられなくて―
―僕を部屋の中へと呼んだ。
 自分よりも小さな、11歳の僕を。
 世界で唯一、自分よりも弱い存在である僕を、14歳の姉さんは必要としたのだった。
『冬継ちゃんは、冬継ちゃんは私を傷つけないよね。私のこと、大好きだよね、ね、そう言っ
てよ、言ってくれないと、お姉ちゃん、冬継ちゃんのこと、どうしていいかわからなくなるの』
 がくがくと震えて、一回りも小さな僕を抱きしめて、すがるように姉さんはよくそう言った。
僕に好きだと言って貰いたがっていた。
 そう姉さんに言われるたびに、僕はまだ筋肉ついていない手で抱き返して、
『――うん』
 と頷いたのだった。
『うんだけじゃわからないわよ! お姉ちゃんは、お姉ちゃんは、冬継ちゃんからちゃんと聞
きたいの、ね、わかるでしょ、すきだって、いてもいいんだって、ちゃんと、ね、そう言って?』
『うん。姉さんのこと、俺、好きだよ』
『駄目よ冬継ちゃん、そんな怖い言葉づかいしちゃ、駄目よ、冬継は、僕って、そういわない
と、ね?』
 抱きしめた力が強くなる。細い僕の体を千切らんばかりに。
『分かったよ姉さん』
『じゃ、じゃあ、もう一回言って? お姉ちゃんのこと、すきだって、そう言って?』
『僕は、姉さんのことが、好きだよ』
『――。ありがとう冬継ちゃん、冬継だけは、ずっと、ずっとずっと、私の味方だよね、私の
こと、好きだよね』
 そう言って姉さんは、僕にキスをした。僕は受け入れられるがままにキスをされた。キス以
上のことも、それ以上のことも、それ以下のことも、何でも受け入れた。
 姉さんは、僕を必要としていたから。
 僕に依存して、依存していなければ生きていけなかったから。
 そして――

 姉さんに依存していた僕は、姉さんに生きていてもらわなければ、困ったから。

 だから――好きだと、何度も繰り返した。


441 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/09(金) 00:18:11 ID:76e5wCUJ
 後天的に『弟は姉のことが好きなのだ』とすりこまれた僕は、教え込まれた僕は、その通り
に育った。12歳までに人間の価値観は形作られる。柔らかな粘土のような頭を、姉さんは自
分の好きなように作り変えたのだ。
 里村春香という人間を、無条件に許容する人格を。
 あるいは――里村春香のような人格を、無条件に許容する人間を。
 そうして。
 出来上がったのが、里村冬継という人間だった。姉さんのように狂った人間を否定すること
ができないように作られた――それこそが僕だ。
 そのことを、悔しいとは思わない。
 そのことを、悲しいとは思わない。
 そんなことを思うようには――造られなかったから。
 僕は、姉さんが好きだ。
 姉さんが好きだということ以外に――何一つとして、与えられなかった。
 それだけが価値観の全てで、それだけが生き甲斐で、それだけが世界の全てだった。
 けれど。
 12歳で人格が固まって、それから一年経った、温かな春のある日に。

 ――姉さんは、変わってしまった。

 360度回転したかのように、変わってしまった。ぐるりと体を360度回転させて、ひね
って千切れてしまったかのように、姉さんは別人になってしまった。
 人が変わったように。
 人間が代わったように。
 姉さんは、僕を、
『――冬継』
 と、淡々と、呼び捨てにした。
『――――』
 その変化に僕が何も言えずにいると、姉さんは珍しいことに、笑みを見せた。泣いてばかり
いった姉さんは、涙が枯れてしまったように、乾いた笑みを浮かべていた。
『私、高校に行くことにしたわ』
『…………へえ』
 そんな答しかでなかった。姉さんが聖域のような部屋を捨てて、外に出るということに対す
る驚きはあった。
 でも。
 僕は知っていた。姉さんのことしか知らないぼくは、当然のように知っていた。
 この春休みの間――姉さんが、外出していたことを。
 僕の知らない何処かへと、出かけていることを。
 誰も知らないどこかへと、通っていることを。
 そこで何かに出会って、姉さんは変わったのだと、思った。
 生まれ変わるというよりは。
 死に代わるように。
『冬継はどうしたい?』
『僕は――』
 答は、すぐに出てこなくて。
 悩んで。
 悩んだ末に、僕は、こういうことしかできなかった。
『僕は、姉さんが、好きだよ』
 いつものように繰り返したその言葉に、姉さんは『そう』と頷くだけで、抱きしめてこなけ
れば、キスをしてもこなかった。


443 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/09(金) 00:19:37 ID:76e5wCUJ

 僕の知っている姉さんとは、明らかに変わってしまっていた。それでも僕は姉さんを必要と
していた。必要とするように育てられたのに、捨てられて、それでも――自分の存在意義のた
めに、僕は姉さんを好きでい続けた。
 変わってしまった姉さんの、慰み者でい続けた。
 時折、思い出したように、戯れるように触れ合う以外には、何一つ交流がなくても、それでも
僕は――姉さんのことが、好きだったのだ。
 気付かなかった。
 姉さんが、僕以外の誰かを好きになることなんて――想像も、していなかった。
 その変化の理由に、僕は気付けなかった。
 姉さんが死んで、調べるまで、気付けなかった。
 けれど。
 今は違う。
 今にして思えば。
 姉さんはその日に、出会ったのだろう。


 ――狂気倶楽部に。


 ただ、当時の僕は、そんなことを知らなかった。
 だから、ただ単に。
 13歳の僕は、疑問に思った。
 どうして姉さんは――生きているのだろう、と。
 何か大切なものを捨ててしまったかのように、あっさりとしている姉さんは――きっと生き
ることを諦めたのだろうと、直感してしまったからだ。
 その予感は二年後、的中することになって――――――――――――――――――――――



 そして僕は、懐かしい夢から醒める。ぺちゃぺちゃという水音と、むずがゆい感覚と共に。
 姉さんの記憶姿が、遠くへ消えていく。
 目が醒める先は、きっと――地獄のような世界に違いない。

 そこには、もう、姉さんはいないのだから。

 姉さんはもう、僕の心の中にしか、いないのだから。

(14話へ続く)