※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

552 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/08/02(木) 01:09:29 ID:RGmejfhr
第十八話~事の歯車~

 菊川邸の地下にある、第448地下室。
 俺は今、そこに向かっている。ナイフと、拳銃をポケットに入れたまま。
 室田さんの誘導に従って、屋敷のロビーに向かい、二階へ向かう階段の裏にあるドアを開ける。
 そこに、地下へ続く階段があった。
 おそらく、十本松と香織とかなこさんがこの階段を下りた先にいる。
 壁に手をつき、暗い階段を下っていく。明かりはない。運の悪いことに携帯電話の充電まで切れている。
 下りていくにしたがって、1階から差し込んでくる光が弱くなる。
 踏み出した足がちゃんと地面についているのか疑わしい。

 第448地下室と十本松は言っていたが、実際は菊川邸の中には448も地下室はなく、2つしか存在しない。
 448地下室というのは、ただ十本松がその地下室のことをそう呼んでいるからそんな名前になっているだけ。
 俺が今から向かっている地下室は、十本松がこの屋敷に住み込んでから作られたものだという。
 もう一つの地下室は、室田さんがこの屋敷に住み始める以前からあったそうだ。
 当主の言いつけで、長年菊川家に仕えてきた室田さんも下りたことがない地下室。
 何があるのかはわからない。そもそも地下室があるのかどうかすらよくわからない。
 この屋敷の地下へ向かう階段の先は、謎に包まれている。

 室田さんから教えてもらった情報は、十本松が448地下室に頻繁に通っていたという事実のみ。
 十本松は屋敷に帰ってきたら、何をするよりも先に地下室へ下りる。
 そして、毎日1時間地下室から出てこない。時には、翌朝になるまで1階に上がってこない。
 何をやっていたのかを聞いた者はいない。聞こうとする者もいない。
 十本松は屋敷の使用人を全て自分の息のかかった者にしたらしいから、当然だろう。

 暗い視界の中、手探りでポケットからナイフを取り出し、鞘を掴む。
 刃は抜かない。抜いたところで、振り回すくらいしか使い方が思い浮かばない。
 脅しの道具に使うのが精一杯だ。
 上着の内ポケットの中に入っている拳銃には手をかけない。 
 さっきは銃口を華に向けてしまったが、あのとき、スライドは引いていなかった。
 スライドを引かなければ、オートマチックの拳銃に弾丸はセットされない。
 俺はそんなことすら忘れていた。
 俺の手には余る武器だ。
 この銃は俺には撃てない。
 せいぜい、恐怖を少しだけ紛らわせるくらいの効果しかもたらさない。
 それでも、持っていないよりはだいぶ気分が楽になる。
 相手は、堂々とアパートの前で拳銃を発砲し、俺を気絶させたうえ、香織をさらっていくような女だ。
 さらに、菊川家の当主まで爆死させたときている。
 そんな奴が俺に襲い掛かってきたとして、俺が生き残れるかというと……正直、無理そうだ。
 成す術もなく、殺されてしまうだろう。
 だけど、引き返そうと思わないのはなぜなのか。
 なんだか、現実感が無い、今置かれている状況が嘘っぽい、そんな感じがする。
 自分がこれから殺されるかもしれないとは理解している。
 極度の緊張感にみまわれると、人はこうなってしまうものなのだろうか。



553 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/08/02(木) 01:11:55 ID:RGmejfhr
 黒そのものの視界の中に、わずかな光が差してきた。
 長方形の四角い光が、階段の下の方から足元を照らしてきた。
 わずかな光を頼りに、壁に手をつきながら階段を一歩一歩下りる。
 階段を下りきったその先にあった光は、ドアのすき間から漏れてきていた。
 ドアのすき間から漏れているのは、光だけではなく、匂いもそうだった。
 砂糖を大量に鍋の中に注ぎ、さらにチョコレートを流し込み、思いっきり煮詰めて焦げ付かせて、
その上に蜂蜜を大量にかけてかき混ぜているような、そんな感じの想像が浮かぶ、甘ったるい匂いだった。
 ドアのすき間からの匂いでここまで甘いのだから、中はどれほどひどい匂いがするのだろう。
 思わず、ドアを開ける手を引っ込めてしまう。

 そのときだった。
 目の前で、がちゃり、という音がしたのは。
 呼吸を止める。体の動きも止める。
 ここにきたことを勘付かれたのか? いや、勘付いていなければドアの鍵を開けたりはしないだろう。
 視界が悪く、隠れる場所のないドアの手前で、待つ。
 あの忌々しい、男女の声が聞こえてくるまで。
 
「入ってきたまえ、雄志君」
 待っていた相手の声が聞こえてきた。
 ここ最近で聞きなれた声ではあるけど、やはり女声で、下手な演技をしたような低音だ。
 ドアを蹴破って入ろうかと思った。が、無意味だということに気づいた。
 冷たいドアノブを捻る。奥に押していくと、音も無くドアは開いた。

 ドアを開けたその先にいたのは、十本松あすかだった。
 部屋は薄暗くて、壁の辺りまではよく見えない。
 部屋の真ん中に立つ十本松の上に小さな電球があって、その下だけが照らし出されている。
 ここまでは予想していた光景の通り――だったのだが。
「お前……十本松か?」
 そこにいたのは、俺が知る、スーツにオールバックのいでたちをした十本松あすかではなかった。
 白いハイネックのセーターに、グレーのロングスカート。足元には黒いブーツ。
 一言で言うと、女らしい。冬の街ならどこにでもいそうな感じだ。
 普段ジャケットとシャツに押し込められていたのか、セーターの胸元が押し上げられ、双丘ができている。
 オールバックにしていた髪を下ろしているせいで、さらに女らしく見える。
 おまけに化粧までしているのか、アイラインがはっきりとしていて、肌は白くてまっさらだった。
 明らかに、俺の知っている十本松あすかとは違っていた。
 感想を述べるなら――可愛い。
 不愉快にもそう思った。

「呆然としているね。そんなに魅力的かな? 私のこの姿は」
「…………そんなわけないだろ」
「今、返事するまで一回深呼吸をするほどの間があったね。
 なるほど。異性から見て、やはり私は魅力的な容姿をしているということが証明されたな」
 十本松は両手を広げ、くるりとターンした。短い髪とロングスカートがふわりと浮かぶ。
 カツン、という音が地下室に静かに響く。
「ふふふ……あはは……ああ、嬉しい。嬉しいよ、雄志君」
「俺に褒められたら、嬉しいってのか?」
「君に褒められるのが嬉しいわけじゃないよ。君という異性が私のことを可愛いと思ったということは、
 父も、私を可愛いと思っている可能性があるわけだ」



554 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/08/02(木) 01:12:55 ID:RGmejfhr
 父親だと? 十本松の親父さんは、死んだはずだろ?
 まさか、生きているってのか?
「――聞こえる? お父さん。私、可愛いんだって」
 薄く笑いながら、十本松は天井を見上げた。
 天井は暗い。なにかしみのようなものは見えるが、詳しくはわからない。
「お父さんも、今の私を見たら可愛いって言ってくれる? 言ってくれるよ、絶対そうだよ。
 それとも――綺麗だって、言う? 抱きたいって、言う?」

 十本松の様子がおかしい。
 普段のおかしさとはまるっきり違う。
 喋り方が違うとか、服装が違っているとか、そんな違和感ではこの感覚は説明できない。
 俺の感覚で例えるなら、十本松は空中に浮かんでいるようだった。
 暗い部屋の中でくるくる回り、倒れるとみせかけて軽く踏み出した足で跳ね、また回る。
 ふらふら、ひらひら、という感じで流れるように踊りまわる。
「お父さん、お父さん、お父さん――義也さん、だぁい好き」
 くるくると回って、部屋の真ん中、電球の真下に戻る。
 そして、十本松は右手を頭上に高く上げた。

 パチン。
 十本松の指が、小気味いい音を立てた。
 途端、パッと部屋中が明るくなる。
 明かりは隅々まで地下室の中を照らし出した。さまざまな方角から照明が光を放ち、影を消滅させる。
 眩しさに閉じたまぶたを薄く開き、部屋の中を確認する。
 ――そこには、大量の男の顔があった。

 天井、奥の壁、左右の壁、振り返って見た後ろの壁、天井、唯一の例外である床以外の全てに男の顔が浮かんでいた。
 壁中貼りつき、びっしりと隙間を作ることなく、男は俺と十本松を取り囲んでいた。
 男は、肖像画や引き伸ばされた写真の中で、さまざまな表情を見せていた。
 あまりに種類が多すぎて、数えることができそうにない。
 気持ち悪い。落ち着かない。透視されている気分だ。
「義也さん。今日も、とっても素敵……そんなに、見つめないで」
 よく見ると、部屋の壁を取り囲んでいる男は、一点をじっと見ていた。
 写真の目が動いているわけではない。男の視線が、部屋の一箇所に集中しているのだ。
 恥ずかしそうに、部屋の中央で身をよじる十本松に向けて。

「恥ずかしいです。そんなに見られたら、私、また……体が熱くなって……」
 十本松は肩を抱いて、首を伏せた。
 顔が赤くなっている。この分だと、言ったとおりに体も熱くなっているのかもしれない。
「義也さん。早く、会いたい。――うん、待ってて。もうすぐ、会いに行くから」
 十本松は以前、父親に欲情していた、と言っていた。その言葉は嘘ではなかった。
 今の十本松は、惚れた男の前で恥らう女そのものだ。

 だが、どうしようもなく、異常ではある。
 人前で、死んでしまっている人間に向けて、生きているように話しかけ、恥じらいを見せる。
 死んでしまった家族の位牌や形見に話しかけるものとは、明らかに種類が違う。
 十本松は、父親の写真だらけの部屋の中にいることで、満たされなかった父親のぬくもりを満たしているのか?
 それとも――父親がまだ生きていると、本気で思っているのか?



555 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/08/02(木) 01:14:27 ID:RGmejfhr
「さて、雄志君」
 普段どおりの喋りになった十本松が、声をかけてきた。
「なんだよ」
「羨ましかったかな?」
 俺は目をしばたたかせた。
「何に?」
「私の父に」
「なぜ、俺がお前の親父さんを羨ましく思わなければいかん」
「死んだ父に話しかける私を見て、君が父のことを羨ましがるのではないかと」
「それはない。俺はお前に好かれてもちっとも嬉しくないからな」
 できれば、接点すら持ちたくなかった。
 こいつと出会っていいことなんか一つもなかったんだ。

「それは残念。昔の君はあんなに、私に好かれようと必死だったのに」
「いつの昔だ。俺はお前に好かれる努力をしたことはないぞ」
「わからないのかい? さっきも電話であれだけのヒントをあげたのに」
「なんについてのヒントだよ」
「わからないのか? それとも、わざととぼけているのか? 前世の君についてのヒントをたっぷりあげただろ」
 また前世かよ。
 こいつといい、かなこさんといい、どうしてこうも電波系の台詞ばかり口にする。
「前世なんかあるわけないだろ、馬鹿馬鹿しい」
「まだそんなことを言っていられるとは……もしかして、と思っていたが、本当に何も覚えていないらしいね」
「お生憎様。生活に必要じゃない知識は端から削除していってるんだ」
「やれやれ。かなこが処女を捨ててまで説得に臨んだ夜は、無駄だったというわけか」

 なんでここでかなこさんの名前が――いや、処女? 説得? 夜?
 処女と夜の2つからすぐに連想できるキーワードというと、セックスだ。
 確かに、この屋敷で爆発事件が起こる前夜、俺はかなこさんに縛り付けられて、犯された。
 俺とかなこさんが一緒にいた夜のことを言っているんだとしたら、もしかして。
「……知っているのか?」
「いい声で啼くんだね、2人とも。特にかなこの達した瞬間の声は、素晴らしかった。
 背筋にぞくぞくとしたものが突き抜けるのを感じたよ」
「盗聴かよ。この変態が」
「普段は盗聴器などしかけていないよ。あのパーティの夜だけだ。
 あの時、君とかなこを2人きりにしたのは、ああするためだった。
 雄志君を部屋に連れ込めば、必ずかなこは君をレイプするだろうと、わかっていたからね」
 こいつ、かなこさんが俺のことを好きだとわかっていて、どう動くかもわかっていて、行動していたのか。
 十本松は、全てを計算している。その上で動いている。
 ということは、無意味なことはしないはずだ。
 俺とかなこさんを接触させたのも、香織とかなこさんを誘拐したのも、何か理由がある。

「雄志君とかなこをセックスさせれば、君の記憶が全て戻るかも、と思っていたのだけど。
 ひと欠片も戻っていないとなると、事は簡単に運びそうにないな。さて、どうしようか」
 十本松は腕を組み、右手で顎に手を添えるポーズをとった。
 久しぶりに見る気がする、十本松のホームポジション。
 女装をしていてもやはり中身は変わっていないらしい。



556 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/08/02(木) 01:15:50 ID:RGmejfhr
 十本松はなにやら考えている。
 飛び掛って取り押さえるなら、今がチャンスだ。
 しかし、問題は距離だ。一足飛びにたどり着けるほど近くに十本松は立っていない。
 ナイフを投げて、ひるんだ隙に飛び掛るか?
 それとも、拳銃で足を撃つか?
 どっちにしても、成功率は低い。少し間違えば返り討ちだ。
 せめて、もう少し近ければ。
「ああ、そうだ」
 閃いたように、十本松が顔を上げた。そして、俺の方へ向かって歩いてくる。
 俺は一歩後ろに下がる。
「なにも逃げなくても。私は君の答えを聞きにきただけだよ」
「答えだと……さっきのクイズの答えか?」
「うむ。答えは見つかったかな?私が武士、私の父が姫だとしたら、雄志君の役とかなこの役はなにか?
 かなこの役はなんとかわかったとしても、君の役はちょっと難しいから、まだわかっていないかな?」
 どっちもわかっちゃいねえよ、くそったれ。

 考えろ、俺。
 性別は無視しろ。十本松親子でそれはひっくり返っているんだ。
 姫、つまり十本松の父親。
 彼を殺したのは、室田さんの話によると、香織の父親とかなこさんの父親。
 父親2人が、一冊目の本でいうところの刺客の2人。今2人とも、死亡している。
 殺された父親。その父親の仇をとる娘。殺された父親2人の娘というと――――あ!
「かなこさんの役は、最終的に武士を殺してしまう、刺客の娘だ」
 これが正解だとすれば、香織もその役になってしまうけど。
「どうだ?」
 十本松に問いかける。

 問いかけた途端、十本松が両手を叩いて、拍手をした。
「ほうほう! 本当に冴えているね雄志君! もしかして君は地下室では頭脳が冴えるタイプかな?」
「ボケ。俺は普段からこうだ」
「いやははは。君が私の期待を裏切らない程度の脳みそを持ち合わせていると知れて嬉しいよ。
 今日は嬉しいことがいろいろ起こるな。明日はハットトリックかな?」

 十本松はしばらく拍手を続け、少しずつ音を小さくしていき、最後は拍手を止めた。
「さあて。残るは一つ、雄志君の役だけだ。果たして君にわかるかな?」
 わかんねえよ。
 俺は香織とは付き合いをしているが、かなこさんと十本松とは付き合いが浅い。
 3人の父親となると、まったく付き合いがないんだ。
 あの本に登場していて、今のところまだ割り当てられていない役は――武士の、元恋人しかいない。 
 物語で語られない部分、最後の最後で刺客の娘を殺す役しかもう残っていない。
「おや、わかったかな?」
 いやいやいやいや、待て。
 そうだとすると、俺は武士の恋人、イコール十本松の恋人ってことになるぞ?
 ありえない。そんな事実はない。俺の恋人は香織だけだ。
 けど、余っている役は元恋人の役しかない。
 俺が武士の元恋人役になるなら、全ての役が埋まってしまう。
 まさか、本当に、そうなのか――?



557 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/08/02(木) 01:17:42 ID:RGmejfhr
 答えてもいいのか?
 現実と照らし合わせても、俺が十本松と恋人であった事実などないのに。
 待てよ、これはもしや。
「わかったよ、十本松」
「して、答えは?」
「これは引っ掛け問題だ」
「……ほう」
「本当は俺の役なんかない。残されているのは、武士の元恋人だけ。
 俺とお前が恋人だった事実なんか、過去を探ってもでてこない。
 ということは、これは引っ掛け問題としか、考えられない」
 この推理に破綻はない。
 極めて慎重に選んだ結果が、この答えだ。

 十本松からの反応を待つ。
 こいつは、俺の答えが正解だと言うしかない。
 俺が、十本松が殺されたことに怒ることなど、ありえない。
 俺の役はあの本の筋書きの中には無い。

「まさか、そう答えてくるとは……予想通りと言えば、そうではあったけど」
「さっきの答えであってるんだろ? どうなんだ?」
 次の瞬間、地下室に笑い声が反響した。
 十本松が、口を大きく開けて、両手を広げて天を仰ぎながら、笑っていた。
 この笑いはどういう意味だ。
 正解を当てられて笑っているのか?
 それとも、間違っているという意味か?

「――っははは! 残念、ざーんねーん! 間違っていて、おまけにとてもつまらない回答だ!」
 なんだと!?
 そんな、馬鹿な!
「君が否定した答え、それこそが正解だ! 君の役は、私が殺されて逆上し、刺客の娘を殺してしまう役だよ!」
「嘘をつけ! 俺がお前の恋人だったことなんかない!」
「君の無知が、無理解が! 君にそう思わせているだけだ!」
「こんのっ……」
「ははははっ、君と私が無関係? 関係をもたなかった? よく思い出したまえよ、前世のことを」
「前世なんざどうでもいい! わかるように説明しろ!」

「雄志君はかなこから聞いているだろう。君の前世が一体、なんだったかを」
 俺の前世は、かなこさんが言うには――武士の役だ。
「君は姫、かなこを殺されて復讐を誓った。かなこを殺した刺客の男――私の父を殺そうと思った」
 かなこさんは姫様の役。
 そして姫様を殺した刺客は、十本松の父親だった?
 本の筋書きでは、武士は仇を討つために刺客の娘に近づいていた。
 じゃあ、刺客の娘は。
「そのために、父に近づいた。父に気に入られるために、娘である私を惚れさせてね!」
 俺は、前世で十本松を恋人にしていた……?
 嘘だろ。ということは。

「昔、といっても大昔ではあるけど。君は私の恋人だった。君が前世を思い出していれば、わかったのにね」



558 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/08/02(木) 01:19:36 ID:RGmejfhr
 十本松は、落胆したように肩を落とした。かぶりを振って、ため息を吐き出した。
「残念だったね。最後の最後で、クイズに不正解。これでは、香織とかなこを無事に帰すわけにはいかないな」
 やっぱりそうなるのか。
 このままじゃ、香織とかなこさんが。
「どうしようかな? 2人とも顔のつくりがいいから、高く売れるだろうな。ふふふふ」
 女としての尊厳を失うような目に遭う、っていうのはそういう意味か。
 どうすればいいんだ。2人を解放させるためには、どうすれば。
「やはり殺すべきかな。天野も菊川も、私の父の仇だから」
 もう――これしか、手が無い。

「十本松」
「ん?」
「頼む、この通りだ。2人を解放してくれ」
 十本松に向かって土下座をする。
 土下座をするのは、香織に向けてして以来、人生で二度目だ。
 額が床にくっついていて、床以外のものは見えない。
 十本松の声が背中で感じられる。
「不可解だな。どうして君がそこまでする? 香織はともかく、かなこは君にとって赤の他人だろう」
「わからない」
「理由もわかっていないのに、土下座までするのかい?」
「そうだ」
「ふうん。底抜けのお人よしか、正義感に酔っているのか。どちらにせよ、世間知らずであることには代わりないがね」

 頭を踏みつけられた。額が固い床に押し付けられた。
 十本松のドスを利かせた低い声が聞こえてくる。
「少しだけ、私の話をしてあげるよ。父が亡くなったところからね。
 12歳の頃、私の父は香織の父とかなこの父に殺された。父が私に残したものは何もなかった。
 服、家、食料、金、安全、ありとあらゆるものは私の前から消えうせた。
 それでも私は生きたかった。生きて、父を殺した人間を殺してやりたかった。
 そのために、私は働いた。具体的に言えば、売春をした。成長しきっていない小学生の体を売ったんだ。
 公園に住んでいるホームレス、酔っ払いのサラリーマン、集団でたむろっているチーマー、トラックの中で眠る運転手。
 金を払ってくれそうな相手なら、誰でも相手にした。時には、強引に犯されることもあった。
 今の雄志君のように、土下座を何度もしてきたよ。けれど、私は土下座をして許してもらったことが一度もない」

 後頭部から、足をどけられた。今度は襟首を掴まれて無理矢理立たされた。
 十本松の顔がすぐ目の前にある。
「土下座なんて、許すつもりのない人間にとっては面白い見世物でしかない。
 それを知ったのは、15歳になった頃だった。商売相手の、ある組の若頭に気に入られたんだ。
 その人は私の話を聞いて同情してくれてね。私が動くための手助けを色々してくれた。
 そこからはトントン拍子に事が進んだ。金づるがいると、世渡りが楽になるとよくわかった。
 菊川家に侵入できたのは、17歳の頃。菊川桂造の助手として、雇われた。
 菊川の当主は悠々自適な生活を送っている、というのは嘘っぱち。
 裏では武器密輸、麻薬取引、人身売買、汚いことばかりやっているような人間だった。
 殺されて当然の男だよ」



559 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/08/02(木) 01:22:00 ID:RGmejfhr
「お前が香織の父親を殺したのはその頃か」
「天野基彦は私の父を殺した片棒を担いでいたくせに、いいやつだった。
 殺すときも楽だったよ。酔っていたから軽く突き飛ばすだけで窓から落ちて行ってくれた。
 しかし菊川桂造を殺すのはなかなか難しかった。
 私が十本松義也の娘だと知っているから警戒していたし、知恵は働くし。
 今となっては、私の仕掛けた爆弾で体中をバラバラにされて、腐った肉塊になってしまったがね。
 結果的に、私は復讐を果たせた。悪党は報いを受けた。
 陵辱と屈辱と泥と血にまみれた数年間は報われたんだ。もう、望むことはない。
 あの本の筋書きの通り、姫役を負わされた父は2人の男に殺され、私は父の仇をとった。
 あとは残された役で、物語の続きを回していくだけだ」

 十本松は、俺の襟を右手で掴んだまま、左手で指を鳴らした。
 壁に貼られていた一際大きな顔写真が剥がれた。
 隠されていた壁は、奥深くに向かって四角にへこんでいた。
 中にはベッドが置かれている。そのベッドの上に横になっているのは。
「香織! かなこさん!」
「まだ薬で寝ているよ。じきに起きるだろう。かすり傷ひとつつけていないから安心したまえ」
「お前、あの2人を殺すつもりじゃ……?」
「逆だよ。あの2人のどちらか――おそらく、かなこだな。どちらでもいいが、どちらかに私を殺させるためにああしたんだ」
 十本松が自分を殺させるために、香織とかなこさんをさらった?
 なぜ十本松がそんなことをする。なんの意味があるんだ。

「武士は、姫様を殺した2人の刺客を殺し、仇を討ちました。
 次は、武士が刺客の娘に殺される番です」
 え?
「その後は、君が動く番だよ。――筋書き通りに回ってくれ」
 十本松の顔が近づいてくる。右手が襟を、左手が後頭部を掴んでいる。
 俺は動けない。このままでいたら、どうなるかわかっていても。

 遠くから、声が聞こえてくる。
「んん……雄志、くぅん……たすけてよ……」
 これは、香織の声だ。
「お父様……雄志様……」
 今度は別の声。かなこさんの声だ。
 小さな声だったが、静寂に包まれた地下室ではその声まで大きく響く。

 2人の声を聞き終わると同時に、俺は十本松からキスをされた。
 十本松は、目を閉じていた。
 唇を舐められ、口内に舌を入れられ、舌を絡ませられた。
 不思議なことに、キスを拒む気にはなれなかった。
 それどころか、どんどん気持ちが昂ぶっていく。

 どうしてだ?
 この女に、色気を感じたり、愛情を抱いたりしたことなど一瞬たりともないのに。
 なぜ、俺は――十本松のことを、愛しく思っている?