524 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/08/31(金) 01:33:53 ID:u4NqwWR8
第二十話~異常~

 とても心地のいい眠りだ。
 脳が地面に沈み込んでいてびくとも動かなくて、それに倣うように体全体が言うことを聞かない。
 つまり今の俺は熟睡しているのだった。
 俺が気持ちのいい眠りだと思うかどうかには、判断基準がある。
 まず、夢を見ているか。そして、眠っていると自覚しているか。
 今は、夢を見ておらず、なおかつ眠っていると自覚している状態にある。
 それこそが俺にとっての熟睡状態であるのだ。
 いつの頃だったか忘れたが、眠っていて悔しい思いをしたことがある。
 布団に潜り込んで目を閉じたら、次の瞬間朝だった、というものだ。
 前日はとてつもなく体が疲労していたからそうなったのかもしれない。
 それ以来、俺は夢にも邪魔されず、それでいて眠っていると自覚できる眠りを好むようになった。
 そんな眠りから覚めたとき、俺は大抵幸せな気分になっている。
 そして今、目を覚ましたらきっと幸せな気分で目を覚ませるはずだ。

 俺は、起きた時刻が午前中だったら二度寝しよう、と考えながら目を開けた。

*****

 そして、寝覚めは予想外に最悪だった。
 頭の中に泥の塊でも詰め込んでいるように気分が重く、目が目やにでベタベタしていて上手く開けず、
さらに目の辺りが痒く、顔中に脂汗のようなものを浮き上がっていた。
 体を覆っていた布団で目を擦る。少しだけすっきりした。
 寝転がったまま目を開けると、天井の代わりに布らしきものが見えた。
 左右に目を動かすと、布の端から天井が見えた。
 天井からはチューリップのような形をしたシャンデリアがぶら下がっていた。チューリップの数は3つ。
 ここは俺の部屋ではない。最初に思ったことはそれだった。

 じゃあ、ここが俺の部屋ではないのなら、どこだ?
「ここは――」
 どこだ、と独り言を続けようとしたが、やめた。
 ベッドの傍らに座っている人物が、俺を見つめているのに気づいたから。
「……雄志君、起きたの?」
「香織か?」
 腕を使って上体を起こす。間髪入れず香織から抱きつかれた。
 香織は俺の首に両手を回して体を密着させている。相変わらずふくよかだ。
「雄志君! よかった、よかったあ……」
 その言葉と同時に、香織の体から力が抜け落ちた。安堵のため息を吐く音が耳元で聞こえた。
「なんだよ大げさな。別に怪我なんかしてないぞ」
「だって……だって、もし雄志君が、ボクを助けに来たせいで、怪我しちゃったら……ボクどうしたらいいか。
 ごめん……ボク、知らないうちに何か、悪いことしちゃったんだよね。
 だからきっと、こんなところに連れてこられちゃったんだ……」
「いや…………」
 こうなった理由を言うべきなのか?香織の父親のせいで、香織の身が危険にさらされたのだと。
 真実を教えたら、香織は悲しむのだろうか――?
「ボクなんかと付き合ったせいで、雄志君……が、無茶しちゃって……。
 もし雄志君が死んじゃったら、生きていけないよお……」



525 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/08/31(金) 01:35:13 ID:u4NqwWR8
 こんな状態の香織には言えない。
 言えば、香織は死んだ自分の父親の死を悲しむどころか、父親のやったことの罪をかぶろうとするかもしれない。
 香織は昔から、他人が傷つくよりは自分が傷ついたほうがいい、と思っているタイプの人間だった。
 俺が香織に何度かひどいことを言った時だって、文句は言うもののその後にはあっさりと許していた。
 香織の額に傷をつけてしまったときだって、そうだった。
 俺を責めたりはしなかった。ただ自分の運が悪かっただけだ、と言っていた。
 そんな人間に、おまけにたった今泣いている人間に、さらなる傷をつけられない。
 今はこう言うしかない。

「香織は何にも悪くない。悪いことなんかしてない」
「うそ……雄志君、嘘ついてるよ」
「どうしてそう思う?」
「だって、嘘ついてなくちゃ……そんなに優しいわけがないもん」
 なんだその理屈は。俺が嘘ついてまで優しくするような男だと思っているのか。
 ――だったら、こっちも屁理屈で応答してやる。
「恋人に優しくしちゃだめか?」
「…………へっ?」
「香織は俺と付き合ってる……恋人だろ?」
「……う、うん……」
「だったら優しくしたっていいだろ。だって恋人なんだから」
「それは……優しくしてくれるのは嬉しいけど……でも雄志君は前から優しいし……」
 香織が俯いてぶつぶつ呟きだした。
 こうなったらもう一歩だ。もう一歩で香織は陥落する。

「俺は昔から香織のことが好きだった。だから昔から優しいんだ。……それなら納得できるだろ?」
 香織の頭に手を軽く乗せて言う。
 予想通り、香織の顔がひくついた笑みになり、真っ赤な色に染まった。
「よく、そんな恥ずかしいこと言えるね……」
「そりゃそうだ。だって俺は――」
「わーーっ! い、言わなくていいよ、もう!」
「そうか? たぶん滅多に言わないだろうからもう1回ぐらい聞いておいた方が……」
「いいってば! ……ばか」
 香織は俺の体から離れてそっぽを向いた。
 頭の上には俺の手が乗ったままになっているが、それを振り払おうとはしない。
 たぶん、撫でてくれ、という無言のメッセージを送っているのだろう。
 メッセージ通り、もうしばらく撫でることにしよう。
 しかし――ああいう台詞はあとになってくるな。なんだか首筋がぞくぞくしてきた。
 どうして口にしている瞬間には恥ずかしくないのに、後になるとここまで恥ずかしくなるのだろう。



526 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/08/31(金) 01:36:08 ID:u4NqwWR8
「それで、さ。雄志君」
「ん?」
「いつまでボクの頭を撫でるつもりなの?」
「気が済むまで」
「別に……いいけどさ。あとちょっとだけだよ」
「ああ」
 香織の髪は柔らかい。頭のサイズも俺の手の中に収まるぐらいの大きさだ。
 一度手を止めて、指先で頭を握ってみる。
 うん。柔らかい。
「ちょっ……くすぐったいよ、雄志君」
 柔らかいな。本当に柔らかい。
 まるで、簡単に握りつぶせそうなほどに――――あれ?

 香織の頭から手を放す。
 香織は「あ」と言うと、天井に向かって伸ばした俺の手を見つめた。
 残念そうな顔をしているように見えるのは俺の気のせいではない。
 だが、さっき俺が覚えた感覚は気のせいでは済まされない。
 今なら香織の頭を握りつぶせる、と一瞬だけ思った。
「? どうか、したの?」
 緊張感皆無、無防備な香織の表情。
 今、右手を振り下ろせば――――簡単に香織を壊せそうだ。

「香織」
「なに?」
「悪いんだけどさ、扉の外で待っててくれないか? 後で行くから」
「え……だめだよ! まだ寝てなくちゃ!」
「いや、平気だって」
 今のところは。
「本当に平気なんだ。頼むから……な?」
「わかった。けど、起きるのが無理そうならすぐに言ってね」
 香織はそう言うと、腰掛けていた椅子から立ち上がり、ドアの方へと歩いていった。
 体から力を抜く。倒れていく胴体をベッドが優しく受け止めてくれた。
 ドアの開く音が耳に届いた。しばらく間を置いてドアの閉まる音とともに、部屋が静かになった。
 
 自分の手を見る。どこも変わったところはない、20年以上を共に過ごしてきた手だ。
 つい最近負った傷から心当たりのない傷まで、全てが刻み込まれている。
 だというのに、さっきの俺は香織を殴ろうと一瞬だけ考えた。
 どうなってるんだ?
 まるで、頭が痒かったから頭を指で掻いた、というぐらいに自然に行動に移そうとしていた。
 考え事をしている今だって、知らないうちに指先が頭皮の痒い部分を掻いている。
 それだけ自然に、当たり前のように、香織に手を出そうとしていた。
 危害を加える寸前に手をどけられたのは偶然だ。運が良かった。それだけのことだ。
 また香織が目の前に現れたら、今度こそ暴力を振るってしまう。
 その後は、どこまで俺の行動がエスカレートするかわからない。
 今は香織に会わない方がいい。少なくとも、俺の異常行動の原因がはっきりするまでは。



527 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/08/31(金) 01:37:23 ID:u4NqwWR8
 その時、部屋の扉の向こうから人の声が聞こえてきた。
 女の声、しかも叫んでいるような激しさだ。
 ベッドから下りて、扉の方へ向かう。扉へ一歩ずつ近づく度に、声の調子がはっきりと耳に届く。
 扉の前で目を閉じて、声を聞くことに意識を集中する。
 扉の向こうにいるのは2人だ。女が2人廊下にいる。
 片方の女が、もう片方の女を問い詰め寄っているようだ。
 豪奢な装飾の施されている扉、それに付いている鈍い金色のドアノブをひねる。
 扉が開くと、女の声はよりはっきりと聞きとれた。

「なにをなさっていたのですか! わたくしの居ない隙に部屋へ忍び込んで!」
「……だからさっきから言ってるでしょ。何もしてないよ。ただ雄志君を看てようと思っただけ」
「雄志……君?! なんと馴れ馴れしい……!」
「かなこちゃんこそなんなの? そんなに必死になって」
「そんなもの、決まっております! わたくしは雄志様を……あら?」
 部屋から廊下へ一歩出た場所で、俺は2人の言い争う声を聞いていた。
 俺を見て動きを止めたのはかなこさんだ。向かい合うようにして香織がいる。
 そういえば、この2人は父親関係で繋がりがあったんだった。
 昔何度か会っている、と聞いたことがある。誰に聞いたのかは覚えていない。
 かなこさんがいることで、ここは菊川邸の中だと今更に気づいた。
 かなこさんは香織を押しのけると、俺の目の前にやってきた。
「雄志様、もう起きても大丈夫なのですか?」
「はい。どこにも怪我なんかしてないんで」
「そうでございましたか……」
 俺の顔に向けて、かなこさんが手を伸ばしてきた。
 そのままじっとしていると、白い手が頬を撫でた。
「よかったですわ。本当に……あの時に、もしかしたら命を奪われていたのかもと思うと、わたくしは……」
「あの時? なんのことです」
「覚えておられないのですか? 昨日の出来事を」
 昨日、俺はここ、菊川邸にやってきた。
 それから地下室に行って――それから、どうした?
 何かがあったような気がする。だけど思い出せない。そっくりそのまま抜け落ちている。

「昨日、雄志様はわたくしを助けに来られたのですよ」
 そう。そうだった。俺はかなこさんと香織を助けに来たんだ。
 でも、助けに、って……何から助けるつもりだった?
「そして、雄志様は身を呈して十本松あすかの魔の手からわたくしを守ってくださいました」
 十本松……そうだ。あいつが、香織をさらって、かなこさんと一緒に地下室に連れ込んだ。
「守ったんですか? 俺が、かなこさんを?」
「はい」
「どうやって?」
「助けに来てくださいました。それだけで十分ですわ」
「助けにきただけなら、意味がないんじゃ……」
「いいえ。もし雄志様が来られなければ、こうしてお話しすることもできたか――」
 ここで、突然香織が目の前に割り込んできた。俺を背にしてかなこさんと向かい合っている。
 かなこさんは台詞を途中で遮られたせいか、顔をしかめていた。
 俺は香織から距離をとるために一歩後退した。ついさっき殴りかけたことを思い出したからだ。



528 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/08/31(金) 01:38:45 ID:u4NqwWR8
「かなこちゃん。あんまり雄志君にくっつかないで」
「……わたくしと雄志様の会話の邪魔をしようと?」
「うん」
「いったい何の権利があってそのようなことをなさるのですか」
「権利なら……あるよ」
 香織が振り向いて、俺の顔を見た。そしてまたかなこさんと向き合う。
「ボクは、雄志君の彼女だから」
「……彼女?」
「恋人って言いかえてもいいよ」
「なにを馬鹿なことを。雄志様は前世にてわたくしの恋人だったのですよ?
 その絆は今になっても切れることなく、わたくしたちを繋げているのです」
「それで? それがどうかしたの?」
「わからないのですか。わたくしと雄志様は必ず結ばれる運命にある、ということが」
「前世なんか信じてるの? 本気?」
 後ろからは香織の顔が見えないが、わかる。今の香織は笑っている。
「本の読み過ぎなんじゃないの。前世なんかあるわけないよ」
「……香織さんに言ってもわかりはしませんわ。前世の絆の強さというものは。
 雄志様ならば、わかるはずですわ。……そうでしょう?」
 かなこさんが同意を求めるように見つめてきた。
 頷きは返さない。俺自身、今はそのことがよくわからなくなっている。
 以前ならすぐに否定していたが、どこかにひっかかっている何かが、否定させてくれない。

「百歩譲って、雄志君とかなこちゃんが前世で恋人だったとするよ」
「ええ」
「かなこちゃんは雄志君のことが好き。だけど雄志君はかなこちゃんのこと、好きだと思う?」
「ええ。はっきりと口にはされませんが、雄志様はわたくしのことを愛しておられます」
「はい、それ間違い」
 きっぱりと、香織が否定した。
「雄志君はボクのことが好きなんだよ」
「それこそ間違いです。雄志様があなたのような小娘を好きになるはずがありません」
「一応ボクの方が年上なんだけど……ま、いいや。雄志君はね、ボクを好きだって言ってくれたんだよ」
「……戯れ言を」
「二人っきりでデートに行って、その日同じホテルに泊まって、好きだって言ってくれて……キスしてくれた」
 かなこさんがまた見つめてきた。
「嘘でしょう? 雄志様」
 香織の言ったことが嘘か真か。考えるまでもなく真実だ。
 あの夜はキスだけでなく、その先までしようとしていたのだ。
 結局はキスどまりだったが、もし香織が気絶しなければ間違いなくその先へ進んでいただろう。

 何も答えずにいると、かなこさんの瞳が悲しげに揺れ始めた。
 そんな目で見ないでほしい。裏切ってしまった気分になる。
 かなこさんの顔が伏せた。続いて、香織がしゃべり出す。
「わかったかな、かなこちゃん。だからもう雄志君に近づかないで――」



529 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/08/31(金) 01:40:20 ID:u4NqwWR8
 破裂音が廊下に響いた。
 香織は途中で言葉を遮られていた。顔は右へ向けられていた。
 かなこさんは右手を広げて、左へと振り切っていた。その右手が、香織の頬を打ったのだろう。
「いったいな! 何すっ」
 また頬を叩く音。香織の顔が反対側に向いた。
「雄志様を……雄志様を……!」
 かなこさんの手が、香織の首を掴んだ。指先が香織の首筋に食い込んでいる。
 香織は手から逃れようともがいている。だが、かなこさんの手はまったく揺るがない。
「ぁ…………う……」
「よくも、雄志様を穢したな! ただの小娘が! わたくしの雄志様を!」
 ふと気づいた。香織の身長が伸びている。
 いや――違う。香織の足が床に着いていない。床から浮いている。
 かなこさんが香織の首を掴んで持ち上げているんだ。
 駆け出す。横からかなこさんの手を掴む。
 香織の首から手を離させようとするが、なかなか動かない。女性とは思えないほどに力が強い。
「やめてくれ! かなこさん!」
「この女が……雄志様を誑かした! 唇を穢した! 絶対に許すわけにはゆきませぬ!」
「お願いですから、手を!」
「いいえ! たとえ雄志様の頼みといえど、それだけは聞けませぬ!」
 香織の口からはすでに息も声も漏れていない。顔色はすでに青くなっている。
 早くかなこさんの手をふりほどかないと、死んでしまう。

「この女も十本松あすかと同じ目に! 殺してやるのです!」
 ……え。
「かなこさん、今、なんて……?」
「わたくしから雄志様を奪うものは、全て! 全て殺さなければならないのです! 十本松あすかと同じように!」
 殺した? かなこさんが、十本松を殺した?
 地下室、壁を染める赤黒い血、額に空いた黒い点。
 思い出した。昨日地下室で十本松は死んでいた。気絶していた俺が目を覚ましたときには死んでいた。
 室田さんから預かった拳銃は無くなっていた。かなこさんが拳銃を借りたと言っていた。
 かなこさんが借りた、殺した。十本松が撃たれた、死んでいた。
「そんな…………」
 嘘、嘘だろ。俺は十本松のことが■■なのに。■■だったのに。
 この、目を剥いている女が十本松を殺したんだ。俺から奪ったんだ。

 脳に電流が走った。脳から体へと熱が流れ込んだ。
 右拳を固める。いくらでも速く、どこまでも強い力で殴れそうだ。
 力任せに拳を振った。拳の先に重量感。
 見ると、髪の長い女の体が浮いていた。自分の拳は女の脇腹にめり込んでいた。
 女は驚愕の表情を浮かべていた。口からは苦悶の声が漏れていた。
 拳を振り切る。女の体は拳から逃れて吹き飛び、頭から窓へ突っ込んだ。
 窓ガラスが割れた。女の体は窓の向こう側へと消えていった。



530 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/08/31(金) 01:42:54 ID:u4NqwWR8
 激しく咳き込む音が聞こえた。はっ、として視線を下に向けると、香織がうずくまって背中を上下させていた。
 さっきまで香織の首を絞めていたかなこさんの姿はどこにもない。
 いや――待て。
「今、俺……殴った?」
 よりによって女の人を殴ったのか? 
 かなこさんを止めようとは思った。だが、殴って止めようとまでは思っていなかったはずだ。
 それなのに、殴った。廊下の窓ガラスが割れている。おそらく――いや、間違いなく俺がやった。
 かなこさんを殴って、窓の向こうへ吹き飛ばした。
 まさか……さっき部屋の中で香織に暴力を振るおうとしたときと同じ?
「……あ…………ぁ……」
 震える足が勝手に後ずさりする。
 こんなはずじゃない。俺は、香織もかなこさんも殴るつもりじゃ。
「げほ、けほ……ごほごほ! ……っは、はあ……雄志君……どこ……?」
 香織が床に伏せたまま、俺に向けて手を伸ばした。俺の足はまた一歩下がった。
 香織の手は俺の足を探るように右へ、左へ、ゆっくり動く。
 今の俺が香織と一緒に居ると、さっきかなこさんにしたみたいに。

 きびすを返す。そしてこの場から立ち去る。
 ここに居たら駄目だ。香織にも、かなこさんにも、手を差し出してはいけない。 
 何がきっかけでタガが外れるかわからない以上、何も出来ない。
 振り返る。香織は床に伏せて咳き込みながらも、まだ俺の足を手で探っていた。
 恋人が苦しそうにしているのに、助けてやれない。
 ――最低だ。今の俺は。



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最終更新:2011年05月26日 11:24