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531 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/24(土) 03:22:52 ID:oGdBaGgB
・十七話


 発狂しそうな三日目と、圧死しそうな四日目が過ぎた。
 正確に言えば六度の食事と二度の排泄だ。正確な日付も、正確な時間も、もう忘れてしまっ
た。食事の回数を――いや、神無士乃が地下室を訪れる回数を数えることしかできない。『外』
をしる手段は、それ以外には何もない。
 何もない地下室で、暗闇の中で、独りきり。
 普通ならば、発狂しているだろう。
 普通でないのならば、最初から発狂しているに違いない。
 どちらにせよ狂ってしまいそうな空間。
 いずれにせよ狂ってしまいそうな世界。
 意識が白く消えてしまいそうな地下室。
 そんな中で、わずかにでも正気を保てたのは。

「元気そうだね、冬継」

 姉さんが、いたからだ。
「…………」
 地下室には明かりがない。時折神無士乃が持ってくる蝋燭の炎は消されているし、電灯のス
イッチは遠すぎてつけることにもできない。時折開く上への扉は、いまは完全に閉じている。
 それでも、はっきりと見えた。
 ――姉さんの姿が。
「てっきり、死にかけてるかと思った」
 三つ編みを三つつくったような髪型。如月更紗のそれと同じ制服。狂気倶楽部に入ってから
見せるようになった笑顔を見せている。思えば、こんな口調になったのも、あの頃からだ。
 どことなく――マッドハンターに似た喋り方。
 どっちがどっちに似たのか、僕は、分からない。
 それでも、姉さんのそんな喋り方を見るたびに、如月更紗のことを思い出してしまった。
「……どうにかね。正直、参ってるよ」
「そうだろうね」
 姉さんはそう言って、僕の正面、反対側の隅に腰掛けた。何もなかったはずなのに、姉さん
は椅子に座っている。心の中に、記憶の中にしかいない存在だからこそできる芸当だ。
 今、そこにいる姉さんは、生きている姉さんでも、幽霊でもない。
 僕の心の中に残る姉さんだ。
「姉さんが、いてくれたからだよ」
 僕は言う。嘘偽りなく。
 暗闇の、何もない地下室で……けれど僕は独りではなかった。
 姉さんがいた。
 姉さんがいてくれた。
 独りでは、なかった。それだけが正気を保つ手助けになった。神無士乃がいないときを見計
らって、僕は姉さんと会話をし続けた。喉が痛くて声が出なくても、心で思うだけで、姉さん
とは会話ができた。それだけが、暗闇の中で正気を保つ手段だった。
 ――いや。
 死んだ姉と会話をしている時点で――それはもう、正気ではないのかもしれない。
 けれど。
 今、ここでこうして考えている『自分』がある。
 それで十分だった。
 話し相手がいる。姉さんがそこにいる。それだけで、どうにか自己を保てる。
 けれど。



532 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/24(土) 03:23:33 ID:oGdBaGgB


「本当に?」
 椅子に座る姉さんは、微かに微笑みながら言った。
 僕を、からかうように。
 僕を、うたがうように。
 姉さんは、そう、問いかけてくる。
「……本当?」
「何が――『本当』だろうね」
「…………」
「真実が何か、冬継は知ってる?」
 意味の分からない、意図の分からない姉さんの問い。本当。真実。そんなものは――知らな
い。考えてこともない。何かを考えようともしなかった。
 今は、姉さんがいれば、それでよかったから。
 そんな僕の心を読んだかのように。
「冬継が――」
 微かな微笑みを消さないままに、姉さんは言った。

「冬継が、本当にいてほしかったのは、私なのかな」

 一瞬だけ。
 その微笑みが――酷く、寂しそうなものに思えた。
「どういう……意味だよ」
 手足をつながれたまま僕は問う。本当は、今すぐに近寄って、姉さんにキスをしたかった。
姉さんを抱きしめたかった。けれど、神無士乃によって拘束されている今、そうするためには
姉さんのほうから近寄ってくる必要がある。
 姉さんは、近寄ってこない。
 僕と距離を置いたまま、話し掛けてくる。
 まるで、心の距離を、そのまま表しているように。
「冬継はさ、」
 椅子に腰掛けたまま、立とうとしないままに、姉さんは言う。
「私のこと、好き?」
「好きだよ」
 質問の意図は、分からないままだった。
 それでも、僕は即答する。
「士乃と比べて、どっちが好き?」
「姉さんの方が好きだよ」
「士乃のこと、好き? 嫌い?」
「好きでも嫌いでもないよ」
「他の誰と比べても、私のことが好き?」
「他の誰と比べても、姉さんのことが好きだよ」
 矢継ぎばやに繰り出される質問に、僕は悉く即答する。
 そんなことは、分かりきっていることだった。
 訊かれるまでもない、ことだった。
 じゃあ、と姉さんは前置いて、

「マッドハンターのこと、好き?」

 そう、訊ねてきた。




533 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/24(土) 03:24:40 ID:oGdBaGgB

「…………」
「それとも冬継には、如月更紗と言った方がいいかい?」
 姉さんの顔からは、あくまでも微笑みは消えない。微笑んだままに、そんなことを、僕に訊
いてくる。
 僕は、その問いに。
 答えることが――できない。
 即答、できない。
 如月更紗。僕のクラスメイト。
 マッドハンター。姉さんの『仲間』。
 如月更紗は、マッドハンターで。
 マッドハンターは、如月更紗だ。
 じゃあ。
 僕にとってのマッドハンターは、何だ?
 狂気倶楽部の一員ならば、敵だ。姉さんを殺した奴の仲間なのだから。けれど、姉さんを殺
した奴は、姉さんの仲間でもあった。僕を殺そうとしてきた奴も狂気倶楽部の一員なら、僕を
守ったマッドハンターも狂気倶楽部だし――こうして僕を監禁している神無士乃は、狂気倶楽
部でも何でもない。
 パラドックス。
 何が大切で、何がいらないのか。
 誰が敵で、誰が味方なのか。
 分からない。
 分かるのは――いつからか。
 あの昼の屋上からか。
 あの朝の部屋からか。
 あの夜の路地からか。
 いつからかは、分からなくても。
 神無士乃の存在が――深く心に焼き付いて、離れないということだけだ。
 それだけは、ごまかしようのない、事実だった。
「私じゃなくてマッドハンターを待ってたんじゃないの? 助けにきてくれるって」
 姉さんは、確信に満ちた口調で言う。
 それは、僕が姉さんに喋らせているのか、姉さん自身が喋っているのか。曖昧で、判別がつ
かない。
 かつて、冬継は私のことを好きだよね、と言ったその口で。
 姉さんは、それと正反対のことを、口にする。

「あの子を信じてたから――耐えられたのかい」




534 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/24(土) 03:25:56 ID:oGdBaGgB

「そんな――」
 わけがない、と言葉が続かなかった。
 まるで物語の中のヒーローのように、アリスから救ってくれた如月更紗。
 今また助けに来てると、心の中で思っていなかったと、どうして断言できるだろうか。
 もし、それが本当なら。
「……みっともねぇ」
 心の底から悔恨の響きを載せて、僕はそう吐き出した。姉さんの片眉が微かに動く。
 気にせずに、僕は続けた。
「情けない……僕は攫われた御姫様かよ」
「そのままだね」
「姉さん、そんなにばっさり言わないでくれ……余計に悲しくなる」
 この状況。
 口に出してしまえば、生殺与奪の権を他人に握られているこの状況が、ひどく滑稽なように
思えた。幼馴染に監禁されて、物騒な鋏を持つクラスメイトが助けに来てくれるのを待つ、復
讐に燃えるシスコン。
 情けないやら、みっともないやら、複雑な気分だった。
 楽観視できるような状況じゃない。
 楽観視できるような状況じゃないのに――笑えてしまう。
 思えば。
 鋏を喉元に突きつけられたときでさえ、僕らは、笑っていた。あの状況に比べれば、まだこ
れは『笑い事』なんじゃないかと、そう思えてしまう。
 それもこれも、あのとんでもない女のせいだ。
 人の迷惑も考えず、人の困惑も考慮せず、ずかずかと人の心の中に入ってきた――あのトン
デモ女のせいだ。
「たまには、ヒーローの側に回ってみたいもんだよ」
「冬継は似合ってないよ」
「知ってるよ……竜にさらわれた御姫様を救いにいくなんて、ガラでもない」
 正義で救いにいくのなんて似合わない。
 嫉妬で竜の元へ僕に、ヒーローの役なんて似合うはずもない。
 認めよう。
 この四日間、暗闇の中では考えることしかできなかった。考えて続けて、はっきりしたこと
がある。
 僕は、姉さんを殺した奴に、復讐がしたいんじゃない。
 姉さんを救った奴に嫉妬して、そいつに救われた姉さんに嫉妬して、置いていかれたことに
嫉妬して影を追っているだけだ。
 救われてしまった姉さんが羨ましくて――救われずに置いていかれたことが、悲しいだけだ。
 その一心で、周りも見ずに、復讐に走っていただけだ。
 考えるのを、放棄して。
「……まあ、分かったところでどうにかなるもんじゃないけどな」
 何を今更、というやつだ。
 そんなことが分かったところで、やるべきことが変わるわけじゃない。
「姉さんの死の理由は――知りたいしな」
「そうだね。この私は、それは知らないから」
 何せ、『私』は君の知らないことは知らないんだから――姉さんはそう言って笑った。



535 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/24(土) 03:26:51 ID:oGdBaGgB

 姉さんは、此処にいる。
 僕がそう望んだからだ。僕が望んでいる限り、死んだ姉さんはこうして現れる。どこだろう
と。いつだろうと。望む限りに。
 だから。
 姉さんがいなくなったときこそ――全てが、終わったときだ。
 姉さんを必要としなくなって、一人で生きれるようになったときだ。
 過去を成算するか。
 未来を会得するか。
 姉さんの死の真相をしるか――姉さんよりも大切なものを見つけるか、それしかない。
 嫉妬も、復讐心も、消えたわけではない。はっきりと心の中に残っている。燻ったそれは、
どう足掻いても消せないものだ。
 だからこそ、立ち止まるわけにはいかない。
 こんな場所で、監禁されている場合じゃないのだ――
「……とは分かってても、自分じゃどうしようもないんだよなあ」
 はぁ、と僕はため息を吐く。手足が封じられているので、それくらいしかできない。
 意気込んだところで、囚われの身であることには変わりはない。神無士乃に屈服すれば外に
出れるのだろうが、屈服してしまっては何の意味もない。
 ぎりぎりの寸止めを繰り返す神無士乃。
 その意図は痛いほどに分かっている。神無士乃は、僕を抱こうとしているのではない。
 僕に抱かれるのを待っているのだ。
 僕の方から手を出して――僕から一歩踏み出すのを、誘っているのだ。無理矢理に襲っては
意味がない。無理矢理に襲われなければ、神無士乃の目的は達せられない。
 愛情を手に入れるという、その目的は。
「どうするかな……本気で助けを待つだけって情けないよな」
 四日。
 本当に四日もたっているなら、外でも少しは噂になっているだろう……いや、それは楽観的
な観測なのかもしれない。家には僕と姉さん以外には誰もいないし、学校でも目立つタイプじ
ゃない。如月更紗と似たようなものだ。ふらっといなくなっても、誰も気にしないだろう。
 気にするのは、それこそ如月更紗くらいか。
 ……。
 …………如月更紗が助けにこなかったら、誰もこない?
 ちょっとだけ悲しくなった。



536 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/24(土) 03:28:14 ID:oGdBaGgB

「あいつ、身の安全保証できてないよなこれ……」
 屋上で誓った言葉を思い出しながらぼやいてしまう。全てを頼るのはアレだと知りつつも、
ぼやかずにはいられない。
 まあ、勝手に飛び出した僕が悪いんだから、自業自得か。
 つながれたままうな垂れる僕を見て、姉さんはくすくすと笑う。
 笑って、
「もし――」
 笑ったままに、冗談でも言うかのように。

「マッドハンターが、私を殺したのだとしたら、どうする?」

 わかっていて、考えないようにしていたことを、姉さんは隠すことなく口にした。
 さらりと、あっさりと吐き出された言葉が、何を意味するのかすぐには分からなかった。
 いや。
 正確に言えば――わかりたくなかったのだろう。
 好きか嫌いかはわからなくとも、心の中に深く存在が根付いてきた如月更紗。
 彼女の言っていることが全て嘘で、如月更紗自身が姉さんを殺した可能性だって――零じゃ
ないのだから。
 限りなく少なくても。
 決して、零じゃない。
 そのことについて、僕は、何かを言おうとして――


「――ひゃん!」


 天井が開くと同時に堕ちてきた神無佐奈さんの悲鳴によって遮られた。
「……!?」
 文字通りに、堕ちてきた。天井が開くと同時に、降り注ぐ光と一緒に神無佐奈さんのふくよ
かな身体が落下する。梯子が下ろされるよりも早い。どん、と、むき出しの床にぶつかって痛
そうな音を立てた。
 痛そうですむのか、今のは……?
 受身が取れているとも思えない。そう高さはないとはいえ、下手に落ちれば、皹くらい入り
かねないぞ。
 そもそも、神無佐奈さんも上にいたのか。一度も姿を見ないから、すっかり存在を忘れてい
た。
 いや、そもそも。
 この人は、僕がここにいることを、知っていたんだろうか。
「悲鳴がうるさいですお母さん」
 次いで、言いながら降りてきたのは、他の誰でもない神無士乃だった。神無佐奈さんとは違
い、梯子を使って丁寧に降りてくる。かつん、かつんと、足音が狭い地下室に響く。
 姉さんの姿は、もういない。光が入ると同時に、消えてしまった。僕が意識しない限り、僕
が必要としない限り、姉さんは現れることはない。
 だから、今――地下室にいるのは、僕と、神無佐奈さんと、神無士乃だけだ。



537 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/24(土) 03:29:18 ID:oGdBaGgB

「神無士乃。食事か? それにしては間隔が早すぎるが」
 皮肉の意味を込めて、痛い喉を駆使する。
 床に降り立った神無士乃は、どこか優雅な仕草で僕を見て、
「おはようございます先輩」
 なんて、とんちんかんなことを口にした。
「いつだっておはようだな」
「いつだって世界のどこかは朝です」
「知ってるか神無士乃、朝日に向かって走れば一日中朝なんだぞ」
「知ってますよ。それより知ってますか先輩、朝日と逆走したら昨日に戻れるんですよ?」
「それは知らなかったな」
「ただし、光より早く走る必要がありますけど」
「その時点で無理だと気づけ……」
 いつも通りのやりとりだった。
 いつも通り過ぎる、やりとりだった。
 僕はこういう状況になれている。姉さんもそうだったし、如月更紗もそうだった。如月更紗
と異常な状況で普通に喋ることに違和感を感じるはずもない。
 けれど、日常の象徴だった、《幼馴染》である神無士乃とこんなやり取りをするのには――
どうしても違和感を覚えてしまう。
 こんな状況に陥った今でさえ、心のどこかで神無士乃が『まとも』なのではないかと、望ん
でいる部分があった。
 全て狂っていたなら――姉さんの苦しみに、意味はなくなってしまうから。
 せめて、ここだけでも、まともであって欲しかったのに。
 淡い希望を打ち砕くかのように、神無士乃は電気をつけ、倒れたままの神無佐奈さんと僕を
見比べて、薄く微笑んだ。
「ああ、『これ』ですか?」
 神無士乃は、堕ちた衝撃で身を起こすことのできない実の母親を一瞥し、
「お仕置きの最中なのです。先輩は気にしなくていいですよ」
 笑ったまま、蹴り飛ばした。
 無造作な、一撃だった。造作もなく、爪先が神無佐奈さんの腹に突き刺さる。あまりにも自
然すぎて、何をしたのか理解できなかった。
「ぎゃん!」
 飼い主に蹴られた犬のような悲鳴を、神無佐奈さんがあげる。痛みに身体を九の字にまげて、
げほ、げほと幾回か咳き込んだ。鳩尾にでも刺さったのかもしれない。見た限り、蹴った足に
手加減の様子はなかった。
 急きこむ神無佐奈さんの身体を、神無士乃は、サッカーボールのようにもう一度蹴り飛ばす。
「いた、痛い士乃ちゃん、佐奈さん痛いの、やめて士乃ちゃん――」
「煩いですよ」
 さらに一度。三度目の蹴りを神無士乃が放つ。胸板よりもすこし上にぶつかり、声が無理矢
理に中断された。げほげほと、咳き込む声だけが狭い地下室に満ちる。
 なんだ――これ。
 何が起きているのか、全く分からない。事態が人を放って勝手に進行している気がする。い
ったい何がどうなって神無士乃が母親を蹴り飛ばしてるんだ。
 何よりも。
 なぜ、神無佐奈さんが――それを当然のように、受け入れてるんだ。
 痛い、という神無佐奈さんは、けれど決して逃げようとはしない。甘んじて、神無士乃の蹴
りを受けているようにも見えた。それが分かっているからなのか、神無士乃は四度目の蹴りを
いれるべく脚を振り被り、
「神無士乃! 何やってるんだお前は」
 さすがに、止めた。
 止めてしまった。
 止める必要があるのかとか、そんなことは意識しなかった。ただ、目の前で起きている異常
な行為を止めさせたかった。それだけの一心で、制止の言葉を投げかける。
 功を労したのか、神無士乃の脚が止まった。両足を地面につけ、倒れ伏して動かない神無佐
奈さんを無視するように振り返る。



538 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/24(土) 03:30:44 ID:oGdBaGgB

「先輩? こんなものを気にしないでください。私だけを――気にしてください」
 微笑んだまま――神無士乃は、そう言った。
 心からの、本心のように。
「……さすがにこれを気にするなってのは無理だろ」
「いえ、先輩ならできますよ」
 妙に、断定するような口調だった。
 断言するような言葉だった。
「だって――ずっと、気にしてなかったじゃないですか」
 お姉さん以外のことを、そう神無士乃は付け加える。
 その言葉に、反論できるはずもない。
 見られている。
 見透かされている。
 長年側にいたのは、伊達ではないのだろう。僕は神無士乃を見てこなかったけれど――神無
士乃は、僕だけを見てきたのだから。そのことに気付かれていてもおかしくはない。
 いや。
 そのことに気付かれているからこそ――こうして、監禁されたのか。
 ようするに、自業自得だ。
 ……自業自得で監禁されるのって嫌だなおい。
「ならいまからちょっとだけ気にしてやる。お前、何やってんだよ」
「見ての通りです」
 言って、四度目の蹴りを神無士乃は放つ。今度のは振り被っていない分だけ威力はなかった。
肩口を蹴られて、神無佐奈さんの体がひっくり返る。仰向けになった腹を踏んづけて、踏みに
じるように神無士乃は言う。
「お仕置きの最中です」
「……お仕置き?」
「士乃ちゃん、痛い、痛いよ……お願いだからもうやめて、痛い、痛いの、佐奈さん、痛いの
嫌なの……」
「黙っててください」
 ぐい、と脚を踏み込むと、神無佐奈さんはうぇ、と呻いて沈黙した。腹を踏みつけられて、
言葉を出すこともできないのだろう。
 ないがしろにされている。
 親子とは思えない行為だった。それとも、親子だからこそ、するのだろうか。
 家の中で行われていることは、家族にしか分からないのだから。
 僕と姉さんだって――外側から見れば、ただの仲が良い姉弟だ。



539 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/24(土) 03:31:52 ID:oGdBaGgB

 とはいえ、気にならないはずがない。僕はもう一度、「お仕置きって、何がさ」と質問した。
「お仕置きはお仕置きです。このヒトが、あんまりにも使えないからこうしてお仕置きしてる
んです」
「士乃ちゃん、で、でも、佐奈さんちゃんとやったの……士乃ちゃんの言うとおり、佐奈さん
、ちゃんとやったよ? 士乃ちゃんがいない、って、冬くんに教えにいったし、冬くんのご飯
だって、佐奈さん、ちゃ、ちゃんと造ってる、じゃない。士乃ちゃんのしたいこと、全部、佐
奈さん、し、してあげてるでしょ?」
「だから――黙ってください」
 途切れ途切れの神無佐奈さんの言葉を、神無士乃はさらに脚を踏み込むことで遮った。
 ……というか。
 今さらりと、とんでもないこと言わなかったか、この人。
 いつも通りの弱々しい、悪気なんて、悪意なんて一切感じないような声で――なにか、看過
できないようなことを言ってのけた気がする。踏みつけられているインパクトで流しかけたが
、流していいことじゃないぞ、絶対。
「なあ神無士乃、今のって――」
「気にしないでください」
 きっぱりと、断言された。
「……。あの日お前、ずっとあそこにいたんじゃなくて――」
「気にしないでください」
 繰り返し断言された。
「気にしないで、ください」
 さらに念押しされた。
「…………」
 ここまでやってしまえば認めているのも同然だが、神無士乃はどうしても肯定したくないら
しい。
 勝手に想像をするならば――あの日、神無士乃は一旦家に返り、盗聴器で家の話を聞いた後
で――待ち合わせ場所に向かって罠をしかけた、ということだろう。
 多分、如月更紗と引き離すためにだ。
 あの物騒な女と僕を引き離して――監禁するためだろう。ある程度、僕の行動は神無士乃に
読まれているから……神無佐奈さんが家を訪れた場合、どういう反応を返すかも、神無士乃の
思惑通りだったに違いない。
 我が事ながら、神無士乃の手の平の上でくるくると踊っているな。釈迦の掌から抜け出せな
い孫悟空といい勝負だ。
「気にしないのは得意分野だからいいんだけどさ。神無士乃、何のお仕置きなんだよ。いくら
お前が非力でも――やりすぎると、死ぬぞ」
 人は、簡単に死ぬぞ。
 蹴られた体の痛みじゃなくて。
 蹴られた心の痛みで。
 そう、僕が神無士乃に忠告すると、神無士乃は「知っていますよ」と笑った。神無士乃に満
面の笑顔はよく似合う。こんな状況でもなければ、それは見る人を魅了する笑顔だった。
「こんな役立たずは、死んじゃってもいいんです」
「役立たずって、何が」
「言い換えれば不能ですね」
「それは言い換えるな!」
「勃たない役立たず……」
「うまいこと言ったつもりか! うまいこと言いやがって!」
 叫んだら喉が痛かった。
 馬鹿か僕。
 馬鹿なんだろうな、僕。
 監禁されてて馬鹿だなんて、ちょっと救いがない。
「ああ……喉痛い」
「大丈夫です先輩、あとでシロップあげますから」
「ドロップですらねえのかよ」
 シロップで喉の痛みが和らぐか。
「頼むからシリアスに行こう――神無士乃、一体何があったんだ?」



540 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/24(土) 03:32:52 ID:oGdBaGgB

 僕の問いに神無士乃は。
「だからですね、この人が、よりにもよってとんでもない失敗しちゃったんです」
 踏んづけていた脚を離し、離したその勢いのままで五度目のけりを放った。一際強い一撃に
、神無佐奈さんの体がごろごろと壁際まで転がる。壁に詰まれた箱にぶつかって、ようやくそ
の動きは止まった。
 ちょっとだけ、死んだかと、思った。
 すぐに「ううう……」とか細いうめき声が聞こえてくる。かろうじて死んではいないらしい。
蹴ったのが非力な神無士乃だからだろう。
 今は神無佐奈さんのことよりも、神無士乃の言葉の方が気になった。
「失敗……?」
 失敗。
 失い敗北すると書いて、失敗。
 それは、不都合なことが起きたということだ。
 僕を監禁している神無士乃に不都合なことが起きたということは――それは即ち、僕にとっ
ては好機が訪れたということなんだろうか……?
 いや、わからない。もし警察がここにきたら、色々な意味で危なすぎる。
 僕だって、潔白の身というわけではないのだ。
 今、ここで中断するわけにはいかない。
 一度始めたことを簡単に中断できるほど――器用な人間ではないのだ、僕は。
 姉さんへの思いが真実であれ偽者であれ、死の真相を知りたいのは事実だ。それに、アリス
なんてものが関わってきている以上、もう事態は他人事でもなんでもない。
 それを、警察の介入なんてオチで締めくくるわけにはいかなかった。
 考え込む僕を無視するように、神無士乃は、倒れ付す神無佐奈さんを蔑むように見て。


「言いましたよね――尾けられるなって。言われたことも守れないから、お父さんに捨てられ
るんです」

 そんな、突っ込みどころを満載した言葉を、口にした。
 前者を追求するか後者に突っ込むか僕は迷い、
「ううう……」
 迷った僕が何を言うよりも早く、神無佐奈さんが、唐突に泣き出した。
 子どものように、頭を抱えて、泣き始めた。 
「そんな、そんな酷いこと佐奈さんに言わないでよ……佐奈さんだって、佐奈さんだって捨て
られたくて捨てられたんじゃないもん……士乃ちゃんだって、お父さん、欲しいでしょ? 佐
奈さんも欲しいのに……でも、あの人、佐奈さん、捨てて、捨てていっちゃって――う、うわ
あ、うわああん……」
 泣き始めたどころか、大号泣だった。
 子どものように、泣き叫んでいる。そんな神無佐奈さんを、神無士乃は、やはり蔑む目つき
で見下ろし、見下している。
 ……後者に突っ込む必要はなかったみたいだ。
 神無士乃の父親は見たことがなかったが――そうか、そういう理由があったのか。正直、ま
ったく気にしていなかったから知らなかった。偶然会わないんじゃなくて、会う可能性が零。
 まあ、たとえ気にしていても、捨てられたとまでは分からなかっただろう。
 外から見ただけでは、中のことなんて分からない。
 神無士乃と神無佐奈さんの関係を知るためには――もっと深く、中に踏み込む必要があった。
 けれど僕は、その選択肢を選ばなかった。
 神無士乃に歩む道を、選ばなかった。
 だから――この話は、それまでだ。
 僕の、気にすることではない。



541 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/24(土) 03:33:41 ID:oGdBaGgB

 僕の気にすることは、ただの一つだ。
「神無士乃。尾けられた、って、何のことだ――誰に、だ?」
 どこか確信を持って、僕は問う。
 尾けられてた、と神無士乃は言った。
 誰かに、この場所の位置を探られたということだ。
 その誰かは、囚われている僕を探し出そうとしているのだろう。
 思い当たるのは、一人しかいない。
「ええ、先輩の、想像している通りです」
 神無佐奈さんから僕へと視線を戻り、苦々しい口調で神無士乃は言う。声の苦味を隠そうと
もしていない。心の底から、嫌そうな声。
 その声が、僕の予感を、確信に変える。
 本当に、如月更紗は。
 主人公のように。
 ヒーローのように。
 僕を助けにきたと、言うのだろうか――
「あの女に――この場所を、突き止められました」
 苦々しい口調のままに、神無士乃は、そう吐き捨てた。
「…………」
「先輩を、私から奪い去るためにです」
 しくしくと響く神無佐奈さんの泣き声をBGMに、神無士乃は吐き捨て続ける。
 呪詛のように、言葉を吐く。
「きっとすぐに、あの女はやってきます。だからお願いです先輩、それより早く、私を、」
「……私を?」
 ぐ、と言葉を呑み込んで。
 覚悟を決めるように、神無士乃は間を置いて。
 呪詛でも怨嗟でもない、純粋な瞳で、僕を見つめて――懇願した。
 

「私を――抱いてください」


 散々の絡め手から、打って変わったような正攻法だった。
 真正面から、嘘偽りなく、神無士乃は言った。
 ――抱いてください、と。
「…………」
「奪われる前に――私のものに、なってください」
 神無士乃は懇願を繰り返す。昨日までの、からかうような、小悪魔のような余裕はない。必
死の懇願とさえいっていい態度だった。
 きっと、予想外の展開なのだろう。
 予想よりも、ずっと速かったのだろう。如月更紗が動き出すのが速すぎたに違いない。
 予想よりも、ずっと遅かったのだろう。僕が、誘惑と暗闇に屈するのが遅すぎたに違いない。
 一つだけなら、問題なかった。
 二つ重なったせいで――致命的な、時間のロスになってしまった。
 だからこそ神無士乃は、真っ向から僕に懇願してきたのだ。
 抱いてください、と。
 私だけのものになってくださいと、そう、言っているのだ。



542 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/24(土) 03:34:20 ID:oGdBaGgB

「私のものになってくれるなら、私も、先輩のものになります。私も、この人も、先輩の好き
にしてもらって構いません」
 神無士乃は、泣き続ける神無佐奈さんを指差した。いきなり名前を出されても、神無佐奈さ
んは反応しない。
 肯定も、拒否もしない。
 決定権は自分ではなく娘にあるのだと、そのすすり泣く背中が物語っていた。
「先輩と一緒にいられるなら、私はどんなことだってします。どんな人にだって、負けません。
だから――お願いします。先輩は、私たちに、必要なんです」
 監禁されている僕に対し。
 神無士乃は脅迫ではなく、懇願する。
 これじゃあ……どっちが場の決定権を握っているのか、分かったもんじゃない。
 自由な身である神無士乃のほうが、よっぽど不自由で。
 今にも、泣き出してしまいそうに見えた。
「頼れる人が、必要なんです」
 涙を瞳に携えて、神無士乃は言う。
 捨てられた小犬が、主人を求めるように。
 神無士乃と、神無佐奈さんは、懇願する。
 僕は。
 僕は。
「僕は――」
 僕は、泣く二人に対して。


「――お前の、父親にはなれない」


 突き放すように、言った。
 言うしか、なかった。
 僕は、神無士乃を選ばなかった。
 僕は、神無佐奈を選ばなかった。
 僕の狭くて小さな、歪な心を占めるのは、一人しかいない。
 それは、かつては姉さんで。
 今はきっと――違う人だ。
 姉さんでも、神無士乃でも、神無佐奈さんでもない。
 今、僕を助けにきているという――物騒な鋏を持った、あの女だけだ。
 僕は矮小な人間だから。
 神無士乃と、如月更紗の、両方を抱きしめることなんて、できやしない。



543 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/24(土) 03:35:11 ID:oGdBaGgB

「恋人にだって無理だ。お前だけじゃない、お前以外の誰だって無理だ。僕は誰かを助けれる
ほど――立派でもまともでもねえんだよ」
 できるとしたら。
 共倒れに依存して倒れるか。
 手を繋いで――歩いていくか。
 きっと、そのどちらかでしか、ないのだろう。
 神無士乃を、神無佐奈さんを助けることだって、きっと出来たに違いない。そう望めば、た
とえ道の先ががけっぷちでも、助けることはできただろう。
 選びさえすれば。
 そして僕は――選ばなかった。
 それが、全てだ。
 それしか、ないんだ。
「お前は幼馴染で、幼馴染でしかないんだ。馴染むだけで――同じにはなれない」
 同じ穴の狢に馴染む。
 同病相憐れむ。
 脅威的な共依存。
 どんな言い方をしても、それは同じことだ。僕は狂っているかもしれないが、そういう狂い
方は、きっとしていない。
 それは、姉さんの狂い方だ。
 それは、姉さんが僕に対してやった狂った愛情だ。
 姉さん以上に――同一になれるものなど、ありはしないのだ。
「だから神無士乃。僕は、お前の思いに応えられない」
 ごめん、とは言わなかった。
 謝るべきことではない。
 これは誤りのない、僕の本心なのだから。
「――――」
 神無士乃の瞳から、涙が消える。
「――――」
 神無佐奈さんの泣き声が途絶えた。
 虚ろな。
 涙が消えて、感情が消えて。
 虚ろになった神無士乃の瞳が――僕の瞳を、覗き込んでいた。
 ――殺される。
 一瞬、そう覚悟した。
 殺されるような状況に僕はいて。
 殺されるような瞳を、神無士乃はしていたから。
 けれどもその口から出たのは、呪詛でも殺意でもなく。


「――――――――――――――――――――――――――――――――――――そっか」

 納得したような、呟きだった。
 納得してしまったかのような……呟きだった。
「…………ッ、」
 思わず息を呑む僕に対し、神無士乃は、笑った。
 けたけたと。
 けたけたけたと。
 神無士乃らしくもない、壊れたような笑みを、浮かべた。
 いや。
 壊れたような、笑みじゃない。
 けたけたけたけたけたけたけたけたけたけたけたけたと、完全に壊れた笑いを、神無士乃は
吐き出した。
「あの女がいるから――先輩は、私のものにならないんですね」
 けたけたと笑いながらそう言って、神無士乃がゆらりと揺らめいた。幽かに風が揺らめく。
人魂のような動きで、神無士乃はふらふらと、踵を返した。
 僕を見ずに。
 動かなくなった神無佐奈さんを見ずに。
 ゆらめきながら、戸口へと向かう。



544 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/24(土) 03:35:57 ID:oGdBaGgB

 その背中に声をかけようとして――声をかけることが、できなかった。
 怖い。
 神無士乃が、振り返るのが怖い。
 今声をかけて彼女が振り返ったら、彼女がどんな表情をしているのか、見てしまう。
 けたけたと笑う神無士乃の瞳に、見られてしまう。
 今度こそ、殺される。
 神無士乃の背中は、そう確信付けるだけの気配があった。
 完全に、常軌を逸している。
 かろうじて存在していたものが、ぐらぐらと、揺らいでいる。
 こんな神無士乃を、僕は知らない。
 まるで狂気倶楽部の一員であるかのような神無士乃なんて――知らなかった。
 知らない人にかける言葉を、僕は持たない。
「なら――答えは一つです。応えは、簡単だったんですね、先輩」
 ぞくり、と。
 背筋に怖気が走るような、低く平坦な声だった。そのまま振り返ることなく、天井へと、上
へと繋がる梯子に脚をかけながら、神無士乃は言う。

「私が――――――――――――――――――――あの女を、殺してしまえばいいんです」

 ――そうすれば、先輩は、私のものになるから。
 振り返ることなく、そう言って。
 かん、かん、かん、と、神無士乃は、上へと昇り始めた。
 あの女を、殺すために。
 あの女――如月更紗を殺すために。
「――待て、神無士乃!」
 ようやく。
 ようやく声が出た。神無士乃を引き止める制止の声を喉から絞り出す。けれど神無士乃は止
まらず、かん、かん、かんと音は連鎖して。
 か、という、途切れるような音を最後に――神無士乃の姿が、上へと消えた。
 そのまま、戻ってこない。
 きっと、戻ってこないだろう。
 如月更紗を、殺すときまで。
 そう、思った瞬間。
 

 じゃきん、と上から音がした。


 開いた扉の向こうから、そんな金属同士をかみ合わせる音がすると同時に、ぼん、と物が落
ちてきた。サッカーボール大のそれは、先に神無佐奈さんが落ちてきたときと同じように、地
面にぶつかって――跳ねた。重量が軽いせいか、液体を撒き散らしながら一度跳ね、二度目は
跳ねずに床に転がった。
「…………」
 開いた天井から降り注ぐ蛍光灯が、ソレを照らし出している。照らし出されたソレが、僕の
顔を、真っ直ぐに見つめていた。




 神無士乃の、生首だった。