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533 :平和は数え役満の夢を見るか ◆wzYAo8XQT. [sage] :2008/08/07(木) 13:05:56 ID:yAP5bJLv
「ねえ、私の名前覚えてる?」
 学科での飲み会のとき、クジで偶然となりになった女からそう尋ねられた。
「何言ってんだよ、当然覚えているさ」
 なぜならコイツは同学科の同級生。覚えてないはずがない。……顔だけならば。
 ……正直、俺は人の名前を覚えるということがとても苦手だ。顔だけならば覚えているのだが……ごめん、撤回する。正直言って顔もちょっと似ている人を見ると本人か疑ってしまうこともあるし、逆に本人と偶然すれ違っても、似ている人かと思ってしまうこともあるくらいだ。
 しかしここは飲み会の席。似ている人という可能性はないので、そこは勘違いしていないことは確実。
 多分近藤か澤田のどちらかだったと思うんだが……どっちかが自信が持てない。正直、ここで間違えたら心証最悪というくらい、俺でも分かる。だって人の名前覚えていないくせに、実際に自分自身が間違うと傷つくもん。
「じゃあ俺の名前覚えてる?」
 なので質問返しで対応することにした。俺が相手の名前をはっきりと覚えていないんだから、相手も俺の名前をはっきりと覚えていない可能性は大だからだ。
「水橋くんでしょ?」
 平然と返された。ああそうか、普通同学科の人間の名前くらい覚えているもんだもんな……。
 しかしここで下がっては俺は危ない橋を渡ることになる。ならば追撃だ。
「下の名前は?」
 どうだ! 俺は下の名前なんて自己紹介の時以来言った記憶がない。そして彼女とはアドレスの交換をしていない。つまり彼女が俺の名前を知っている確率はかなり低いだろう!
「晋太郎君だよね? 間違うはずないじゃない」
 彼女は微笑みながら澱みなくそう返答した。
 バ、バカな! コイツの記憶力は化け物か!
 秘策をあっさりと打ち破られたことに俺は驚きを隠しきれない。この学科でアドレスを交換した人間でさえ、俺の名前をフルネームで言える人間は少ないだろう。俺だってこの学科でアドレスを交換した人間の大半は名前をフルネームでは言えない。
「話そらさないでよー。私の名前は?」
 あばばばばば。彼女はその質問をスルーしてくれる気はないようだ。しかも俺の前の質問で、フルネームで言わなければならない感が漂っている。
 俺は自分でハードルを上げてしまったらしい。せめて苗字! 苗字だけ言えればこの場は丸く収まるはずだ。苗字さえ言えればそれ以上は誤魔化してみせる!
 どうする? そもそも普通に言ったって二者択一、確率は五割だ。さらに俺の記憶を追加すれば六割くらいにはなる。
 つまり元々勝機のほうが大きい賭けだ。大丈夫、これならいける! 俺を誰だと思っているんだ! 神算鬼謀(と言われたい)の水橋様だぞ! やれないはずがない!!
「こ、近藤さん……だよね?」


534 :平和は数え役満の夢を見るか ◆wzYAo8XQT. [sage] :2008/08/07(木) 13:07:13 ID:yAP5bJLv
「……違うよ」
 ああああああああああああああああ……あああーああーあーあー。
 やってしまった。彼女の表情は一瞬で曇ってしまった。勝率の高い賭けを外すことほど凹むものはない。
「ご、ごめん間違えた……澤田さん……だよね」
 もはやフォローにもならないが、一応言っておく。
「……それも違うよ」
 ……何だと? 完全に予想外だ。じゃあ俺は最初から勝率六割の賭けをやってると思わされていたがその実、勝率零割の賭けをやらされていたというのか!
 は……嵌められた! 畜生! よくもやりやがったな! 誰だこんなひどいことをしたのは! ……俺ですよね。
 ……オワタ。完全にオワタよ。俺は今後女子のネットワークで「人の名前も覚えられない童貞」として広められ、からかわれていく運命にあるんだ……。俺の大学生活がドブ色か男色以外の色を失ったといっても過言じゃないよ。
「ご、ごめんね……」
 もはや弁解の余地もない。こんなことなら事前に、俺は人の名前を覚えられない人間だから、と予防線を貼っておくべきだった。全ては手遅れ。今更言っても何の意味もあるまい。
「……どうして私はあなたの名前を覚えているのに、あなたは私の名前を覚えてくれないのかな」
 彼女はうつむいてボソボソとつぶやく。
「すみませんでした……」
 俺に用意された選択肢は「謝る」ということのみになってしまった。いや、あやまるという選択肢の中にも、謝り方という選択肢が色々あるんだが。最悪、奥義である「稲妻十字空裂刃土下座」をやらねばならないかもしれん。それは避けたいものだ。
「そうだ! 分かったよ!」
 彼女はうつむいていたかと思うと、目を見開いて、笑顔でそう言いながら顔を上げた。
「コンドウとサワダなんていう雌豚がいるカラ水橋君が私の名前を覚えてくれないンだよね! 分かっタよ! 豚は屠殺シナイトネ!!」
 その表情は歓喜そのものである。周りが騒がしいので直接相手に聞こえはしないだろうが、彼女は完全に周りが見えていない……いや、見えているのだが「取るに足らないもの」として思考すべきことに入れていないのか?
 ああ……まいったな。彼女はかなり電波な性格だったようだ。
 「よく覚えておきなさい。突然『雌豚は殺さないと!!』みたいなことを言い出す女は、絶対に名前を間違えちゃいけないよ。平和で数え役満できてしまうくらい大変なことだからね」とじっちゃんが言ってたのを思い出す。
 当時は麻雀のことなどまったく知らず、その言葉の意味を理解できなかったが、今なら分かる。我々の常識ではありえないことが起こってしまう、そういう意味だったんだね、 じっちゃん。
 今俺は平和で数え役満が出来てしまった瞬間を目撃してしまったのかもしれないよ、じっちゃん。
 じっちゃんもこれを見たのかな。見たんだろうな。もし俺が生きてこの飲み会を帰れたら、今度どうやって生きて帰ったか教えてよ、じっちゃん。
 俺は燃え尽きそうな思考回路で、必死に彼女を止める方策を考える。
「こ、殺しちゃダメだよ!」
 こんな普通のことしかいえない自分が情けない。しかしその言葉に反応したのか、天を仰いでいた彼女の首がキリキリと音を立てて俺のほうに向き直った。
 彼女はその細い両手を俺に伸ばすと、そのまま俺の顔を固定する。彼女の細腕からは想像もつかない怪力で、だ。彼女はそのまま俺の顔を彼女の顔のすぐ前まで引き寄せた。吐息すら感じられるような距離だ。
「ホントに? なら私の名前を覚えてよ、水橋君。私の名前は住本絵梨。す、み、も、と、え、り。覚えてね、忘れちゃ、ヤダ、よ?」
「は、はい! 覚えます! たとえ記憶喪失になって全ての記憶を喪失したとしても忘れません!」
「ホントに1? 嬉しい!!」
 たとえ記憶喪失になって全ての記憶を喪失したとしても忘れません! この言葉が彼女のツボだったのだろうか、彼女――ああ、住本さんね。忘れないようにしないと――、住本さんの顔は笑顔に戻って、そのまま俺に抱きついてきた。周りの視線が痛イヨ。
 こうして俺は生き残ることができた、と思った。だがこれは全ての序章に過ぎなかったことを――いや、俺を無視してすでに物語は始まっていたことを、俺は後に知ることとなる。