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95 :黒の領域 ◆mxSuEoo52c [sage] :2007/02/28(水) 23:37:22 ID:4cDItwUT

 目が覚めると古ぼけた屋内の中に僕はいた。
中古のアパートで建物の老朽化があちこちに目立ち、自分が住んでいる家とは全然違う。
田舎に帰った頃に感じられる懐かしいの樹木の匂いがする。余程、このアパートが建築されてから随分の歳月が経っているのであろう。 
それはともかく、僕は両足両腕をしっかりと縄で縛られていた。
いかにも、僕は一体どこの誰かわからない人間に拉致か誘拐をされてしまったのだろうか? 
恐らく、後者だろう。こんな高校生になったばかりのガキを拉致する変態よりも、誘拐して多額の金を両親に請求する誘拐犯の方が
この不景気の世の中では当たり前だと思ったのだ。
 狭い家に閉じこめられているが、犯人らしき姿はどこにも見当らない。両親に多額の身の代金を請求している最中だろうか。
見張りも置いていないし、単独犯による犯行なのだろうか? 僕は冷静に物事を考えていた。
今の状況に不安や怯えなど感じないと言えば嘘になるが、誘拐されたことを僕にとってはいい機会だと思っていた。
 両親同士は不仲であり、父と母は互いに口を合わせず、顔を合わせない日々が長い間ずっと続いていたからだ。
そんな間に生まれた息子は可愛いはずもなくて、愛情を注ぐどころか、名前さえ呼んでもらった記憶もなかった。
常に放任されて、自分はただ家族の中で孤独を背負って生きていたのだ。
 もし、誘拐されたことによって僕の事を想っていてくれるなら。助けだそうと身の代金を払うか、
それなりの行動を表に出してくれるはずであった。だから、今だけは誘拐犯に礼を述べよう。ありがとうと。

 意識を取り戻してから、しばらくすると。玄関のドアが開く音が確かに聞こえてきた。
僕を誘拐した犯人が襖で塞がれた間を躊躇なく開けた。
「ただいま……」
「あっ……」

 僕は自分が予想していた事が裏切れて茫然としていた。誘拐犯だと思っていた犯人は、若い女性であった。
黒い髪を長く伸ばしすぎて、陰気な印象を感じさせる。その白い肌は陽に焼けたこともなく、容貌は端正に整っていて美人だと言ってもいい。
ただ、彼女を包み込む暗い何かが全てを台無しにして、近寄りがたいオーラーを全身に発していた。
 その彼女はスーパーの袋を片手に持って、僕の方を嬉しそうに見つめていた。

「えへへ……今日から私は一人じゃあないんだね」

 その女はスーパーの袋をその場に置くと縄で縛られている僕の体を抱き締めた。
腕に強い力を込めながら、彼女の体は震えていた。温もりを求めるように、僕の体が望むように。
彼女は僕に何かを求めていたが、そんなことは知ったことじゃなかった。
誘拐犯だと思っていたが、実は全然違うようだ。これは誘拐ではなくて、拉致だったのだ。

「き、君の名前はなんていうの?」

 僕の顔を頬で擦り合いながら、首に腕を回した彼女が優しく微笑んで聞いてきた。
教えてやる義理もなかったが、今の自分に陥っている状況を理解していると彼女を邪険するしかなかった。

「僕は河野京介(こうの きょうすけ)って言います」

 礼儀正しく僕は拉致した彼女に挑むように刺々しく言ってやった。
気を悪くした様子が見えない彼女は僕の頭を撫でながら……可愛らしく媚びるように言った。

「お姉ちゃんの名前はね……。須藤 英津子(すどう えつこ)って言うんだよ。京介君。これから、ずっと私と一緒に暮らすんだよ。よろしくね!!」

 僕は全身に悪寒が走って行く。余りにも居心地の悪さに抱き締められているだけでこの場所から逃げ出したくなった。
年上の女性が舌足らずの口調で甘えてくる光景は年下の僕にとっては悪夢に近い。
まだ、これが同世代の女の子なら頬を赤面させて照れているだけで済むのだが。彼女はちょっとだけ痛い。


96 :黒の領域 ◆mxSuEoo52c [sage] :2007/02/28(水) 23:40:31 ID:4cDItwUT
「お姉ちゃんねぇ……ずっと一人で寂しかった。私は孤児院で育ったからお父さんもお母さんもいなくて……孤独だったの。
こんな暗い性格だったから親友と呼べる人もいなかった。孤児院を出てから社会人になっても、私は一人だった。
でもね、会社の仕事の帰りに一人で歩いている寂しそうな男の子を見つけたの。私と同じ、温もりに餓えている京介君を」
「だから、僕を拉致してきたというのか?」

 だんだんと意識を失う前の記憶が戻ってきた。そう、僕は拉致される当日はいつものように友人の家で陽が沈むまで遊びまくっていた。
それは僕にとっては日常茶飯事であり、あの家に戻りたくないという意志の表れであった。
その帰り道に僕の背後を歩く足音をはっきりと聞こえていた。そして、僕は……誰かに頭を何かで殴られた。

「うん。そうだよ」
 焦点の合わない虚ろな瞳で英津子さんは僕に微笑する。
「夕食のおかずにしようとした大根で京介君の頭をぽかんと殴ったんだよ。
幸い、私の家から近かったことだったし。私の家で監禁して調教すれば私のモノになってくれるはずだから。
だから、こうやって縄で両手両足を縛っているんだよ」

 殴った凶器は大根だったんですか……と僕は口から空気の読めない言葉を溢れだしそうになったのを必死に留めた。
 ただ、拉致を躊躇なく実行した英津子さんは狂ってる。
更に僕を監禁して調教するという言葉にさっきとは違う恐怖を覚えた。
自分の心の隙間を埋めるために同じ空気を持っている僕を利用する。僕の都合を考えずにだ……。

「う、嘘でしょう……本当の誘拐犯なんでしょう?」
「どうして、京介君を誘拐しなきゃいけないのかな。身の代金を要求する金額を貰ったとしても、
私の暗闇と底無しの絶望から解放されるはずがない。
独りぼっちの恐怖に打ち勝つことができないよ。でも、京介君が傍に居てくれるなら。私は救われるんだよ」
「僕は……帰りたい。昨日まであった僕の居場所に」

 確かに両親の仲は不仲で僕の居場所なんて存在していないかもしれない。
でも、僕の家以外の居場所はあったんだ。学校に通えば、心を許せる友人たちが居る。
笑い合ったり、喧嘩したりといろいろ友情を深め合った仲間たちがいる。
 英津子さんとは異なるのは僕にはまだ救われるモノがあるからだ。
それと反対の位置にいる英津子さんが居る場所は、完全なる破滅。
 独りぼっちの恐怖に負けて、孤独の辛さに我慢できずに手を出しては行けない禁断の果実を手にしてしまった。
それは、犯罪という甘い誘惑だ。
 一時の温もりが欲しかったために英津子さんは犯罪に手を染めてしまったのだ。

「だ、ダメっっ!! 京介君はお姉ちゃんとずっと一緒にいるんだよ。もし、京介君がここを出て行くと言うなら……私は死ぬんだからっっ!!」
 抱き締めていた僕の体から離れると台所から鋭利な刃物を取り出した。
それを英津子さんは自分の首に当てていた。少し力を入れているのか、血の雫が首筋を伝ってぽつりと零れ落ちて行く。
「あっつははっは……京介君京介君京介君っっっ!!」
 僕は弱かった。こんな電波女を突き放す言葉を言えば、勝手に自滅して死ぬかもしれない。
そうすれば、僕は助かって元の居場所に帰れるはずだった。
 でも、一人の女性の追い詰めようとするのは間接的に僕は殺人を犯したことになる。
僕のせいで誰かが死ぬのは到底耐え切れるものじゃなかった。
 抗うこともできずに、僕は全面降伏するしかなかった。
「ご、ごめんなさい。僕が悪かったです。だ、だ、だから、死ぬなんて言わないでください」
「き、京介君っっっ!!」
 凶器を力なく落として、泣きながら英津子さんは再び僕の体にしがみつく。身動きできない僕は彼女の温もりを感じていた……。
抜け出すことができない狂気に絶望することしかできなかった。



 これが、僕を拉致した電波女と全てを失った僕との奇妙な共同生活の始まりであった。