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蕩けるような余韻から覚め、雪香は我に返った。心地よい倦怠感が身体を支配している。朧はまだ眠っている様子だ。壁に掲げられた時計を見る。
時刻は午前四時二十五分。どうやら六時間近く眠っていたらしい。窓を見やった。外はまだ暁闇だった。あと二時間もすれば朧も眼を覚ますだろう。
警察が使用する安全装置無しの硬化スチール製手錠を両手に嵌める。最初は後ろ手にしようかと思ったが可哀想なので止めた。
双腿をぐいっと開き、臀部を少しだけ突き出させる。全てが雪香の目前に曝け出された。ペニスを口腔内に埋め、蟻の門渡りを指で弄ぶ。
その雪香の様子を薄目を開いて朧は静かに観察していた。
78 :ラック ◆duFEwmuQ16 [sage] :2007/03/27(火) 00:02:22 ID:9shiYSb+
かつて悪魔が私にこういった「神もその地獄を持っている。それは人間に対する彼の愛である」と。
そして、私は悪魔がこういうのも聞いたことがある。「神は死んだ。人間に対する同情ゆえに神は死んだ」と。
                       ──ニーチェ『ツァラトストラはかく語りき』
ヒッコリー製のアンティークな本棚に並べられた書籍に朧は眼を通した。本の表紙に触れる。表紙も古いものから新しいものまで実に様々だ。
オスカー・ワイルド、ジャン・ジュネ、サルトル、ボードレール、バルザック、アポリネール、ニーチェ、ヘーゲル、マンディアルグ
ユイスマンス、バロウズ、ケルアック、稲垣足穂、三島由紀夫、川端康成、その他にも文学、哲学系の作品が揃えられていた。
昨日はオスカー・ワイルドの『サロメ』を読んだ。今日は何を読むべきか。本を眼で追いながら思案する。
朧の視線が止まった。本を取り出し、タイトルと作者名を眺める。ホコリが指を汚した。ふっと息を吐いてホコリを飛ばす。
(カポーティの『冷血』か。面白そうだな)
机に置かれた手錠を朧は自分で掛けなおした。鍵の部分が簡易な作りの手錠は、ヘアピンの一本でもあればいつでもはずせた。
朧は雪香の居ない時だけ、こうして手錠をはずして羽を伸ばした。短い時間ではあったが、手首の感覚を戻すには充分だ。
本を持つと朧は書斎を出て、雪香の寝室に戻る。本を読み始めたのは単に暇だったからだ。雪香との奇妙な生活が始まって二ヶ月が過ぎた。
最初の二週間は部屋から出られないようにベッドにくくりつけられた。足にも錠をかけられて身動き取れぬ有様だった。
食事に混ぜられた筋弛緩剤と睡眠薬。睡眠薬の効果は失せていたが筋弛緩剤のほうはそうはいかなかった。
頭の中ははっきりしていたが、身体の自由がほとんど利かないのだ。この少女は何故、自分にこんな仕打ちをするのか朧は考えた。
雪香に恨みを買ういわれはなかった。
澱のようなものが腹の底に沈み、怒りが沸々と煮えた。自由を奪われた獣の怒りだ。
そして、こんな罠にひっかっかった間抜けな己自身に対する怒りでもあった。憤怒が脳髄を灼いた。
筋弛緩剤の効果が薄れるとともに、怒りが燎原の火の如く燃え広がった。両腕をめちゃくちゃに動かす。手錠が肉に食い込み、皮膚が裂けた。
血飛沫が舞った。傷口から溢れる鮮血が手首を汚した。かまわずにベッドで暴れ続けた。痛みなどどうでもよかった。
『はずせっ、はずせっ!』
叫んだ。無言で不安そうに気弱な眼でこちらを見やる雪香の姿──ぶっ殺してやりたかった。
顔面がザグロになるまで拳を叩き込んでやりたかった。血みどろになるまでぶちのめしてやりたかった。
『そんなに暴れないで。手、怪我しちゃったよ……』
『ふざけるな。さっさと手錠をはずせッ!』
傷ついた朧の右の手首に雪香が労わるように手を伸ばす。雪香の頬に朧の唾が飛んだ。雪香は黙って掌で唾をぬぐうと部屋をでていった。
室内に独り取り残された朧は冷静さを取り戻そうと瞼を閉じた。闇が視界を覆う。脳内で渦を巻く冥い殺意を腹に押し込んだ。
朧は隙を窺うことにした。問題はどうすれば逃げ出して雪香を殺せるかだ。朧は思索した。こういう手合いにはどう対処すればいいのか。
朧は雪香に対し、徹底的に無視を決め込んだ。飲食物を一切取らず、何をされようが一言も喋らなかった。
朧の態度に雪香は柳眉を逆立て、罵詈雑言を浴びせた。ヒステリックに朧の脇腹に爪を立てて胸を痣が出来るまで叩いた。
『なんで雪香を無視するのッ、お願いだから何か言ってよ……ッッ』


79 :ラック ◆duFEwmuQ16 [sage] :2007/03/27(火) 00:04:04 ID:RI+ri3es
朧の頬に平手打ちを浴びせながら雪香が大声を喚いた。鼓膜が振動で震えた。切れた唇から血が滲む。
雪香に殴られ、罵られても朧は石の如く口をつぐみ、無反応を通した。完全なる拒絶を示し、眼をそらそうとさえしなかった。
その態度が雪香の苛立ちを募らせ、雪香はさらに手酷く朧を打擲するという悪循環だった。
十日間が過ぎたあたりで雪香は狂ったように泣き喚いた。髪を掻き乱し、喉が張り裂けんばかりに叫び声をあげる。
『お願いだよっ……お願いだから何か食べてよ……っっ』
躍起になって朧に食事を摂らせようと自分の口にミルクを含ませ、雪香は朧に口移しで何度も飲ませようとした。
それでも、朧はミルクを飲まずに吐き出す。雪香の口に含んだミルクを飲むくらいなら、朧は餓死したほうがマシだった。
それよりもあと何日持つか。せいぜいが一週間以内。それ以上経てばまず動けなくなるだろう。
頬骨がこけ、肋骨が浮き出た肉体。眼窩は窪み、初雪のように白かった朧の肌は栄養失調で灰色にくすんでいた。
ただ、黒い瞳だけがいつまでも変わらなかった。朧は掠れた声帯から搾り出すように呟いた。
『死んじまえ。このキチガイ女……』
雪香に向かって罵りの言葉を吐き捨てる。
それっきり朧はまた口を閉ざして、天井の一点を瞬きもせずに見続けた。飢えの苦しみはすでにない。
人間の身体はうまく出来ているのだ。三日間食事を摂らなければ、脳内麻薬が分泌されて飢餓の苦痛を取り除く。
持久戦だった。衰弱して死ぬのが先か、ベッドから開放されるのが先か。二週間目の朝、雪香はついに根を上げて朧の拘束を解いた。
──俺が衰弱してると見て油断してるのか。それでも首を絞めるくらいの力は残ってるぞ
体力の擦り減った身体は動かすたびに悲鳴を上げた。筋肉はその柔軟性を失い、硬くなった関節がギシギシと軋む。
空中を飛んでいるような感覚だった。身体に力が入らない。そのくせ、やけに意識だけは明瞭だった。
網膜の奥に映った雪香の首筋。青白い静脈を皮膚の内部に張り付かせている。スローモーションな動きで頤に手をかけた。
親指と人差し指に力を込める。雪香は抵抗も、振りほどこうともしなかった。朧はじわじわと力を強めた。
指先に伝わる柔らかい肉を掴む生々しい感触──何の感慨も涌かなかった。復讐の達成感が感じられないのだ。
『なんで抵抗しないんだ』
朧は不思議でしょうがなかった。恐怖を感じるわけでも、憎悪を現すわけでもない雪香の反応に朧は眼を細める。
雪香の相貌を見た。どこか夢見心地だ。雪香は死を厭わなかった。この少女は朧から与えられる死を歓喜を持って迎え入れようとしたのだ。
胸裏深くに沈んだ記憶が、小波を打つ水面のようにゆらりと揺らめく。
瞳に灯った慈愛の輝き──無意識に朧は手を離した。雪香のその聖母の如き明眸を見た瞬間、怒りも憎悪も消えうせていた。
思えば哀れな少女だ。
『どうして止めちゃったの……雪香を殺したい殺してもかまわなかったのに?』
キョトンとした表情を浮かべて雪香が朧に尋ねた。雪香の頬を撫で付けながら朧は言った。
『あんた変わってるな……』
雪香が笑みを浮かべて答えた。
『朧だって変わってるよ』
朧の拳が飛んだ。病み上がりにしてはキレのある良いフックだ。雪香の顎に命中した。脳が震盪し、雪香はあやうく意識を失いかけた。
『とりあえずそれで許してやる』