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55 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/04/23(月) 01:50:22 ID:jt1jcRSu
第九話~姫~

・ ・ ・

 俺の足元には、なにやら高そうな絨毯が敷かれている。
 かなりの人数が同じ空間に集中しているというのに、コツコツ、カツカツといった靴の音さえしない。
 部屋の壁には、ところどころに絵画や美術品のようなものがあった。
 どれもこれも美術のセンスも感性も持ち合わせていない俺には理解できないものばかり。
 ど派手に飾られた花の群れを収めるのは、これまた高そうな花瓶だった。

 そして俺の周囲に居る人間達は、いずれもタキシードやら着物やらドレスやらを着込んでいる。
 仕事着にも使えそうなスーツを着ている人間など俺しかいないのではなかろうか。
 そう思うと、周囲の視線が自分に集まったような気がした。
 もちろんそれが錯覚だということは分かっている。
 だが、俺がこう思ってしまうのも無理ない話なのだ。

 どれほど有名なのか想像できないような家の当主のパーティなど、初体験だ。
 ついでに言うならば、こんな映画に出てきそうなパーティなど参加するのも初めてだ。
 俺の家は誰がどう見ても平凡な日本の家庭だから、俺にそんな経験があろうはずがない。
 だというのに、なぜ24歳になった今さらこんな場所にいるのだろうか。

 原因は二つある。
 まず。
「雄志君はまともな礼服というものを持ち合わせていないのかい?
 どう見てもそのスーツはオフィスでぐちぐち愚痴をこぼしながら仕事をして、
 帰ったら妻と娘にないがしろにされることを分かっているがそれでも働くしかない、
 と絶望しているサラリーマンにしか見えないよ。
 さらに悪いことに今の雄志君は名刺も持ち合わせていない。
 それではサラリーマンとは言えないね。サラリーマンへの冒涜だよ。
 今すぐ君のお父さんに謝った方がいい」
 一方的にまくし立ててくる十本松が一つ目の原因。
 この宝塚女がかなこさんから招待状なんぞを受け取って持ってきたのが悪い。
 
 次に二つ目。
「おにいさんの格好については、私も同感です。
 どうしてそんなしわの入ったのスーツしか持っていないんですか。
 さては収納するときにクリーニングに出さずに畳んでからしまいましたね。
 これだから一人暮らしの男性は……」
 場違いだと思い、参加する気を無くして部屋でくつろいでいるところに華が飛び込んで来たのが悪かった。
 目ざとく招待状を見つけた華は、一緒に参加しようと言い出した。
 そのせいで俺は今夜7時に行われるパーティに参加することに相成った。
 
 十本松はタキシードをばっちりと着こなしている。もちろん男物。
 華は薄いブルーの、胸元がフリルで飾られた落ち着いた印象のロングドレスを着ている。
 なぜお前らはそこまでパーティへの備えが万端なのかと問いたい。
 もしや、近頃の日本ではパーティというものが密かなブームだったりするのだろうか。
 最近は新聞もテレビも読まないから世間のことに疎いのだ。
 そんな世間に疎い俺が、いかにも社交的な人間達に混じってこの場にいるのは明らかにおかしい。

 なんだってかなこさんは俺をこの場に呼んだのだろうか?


56 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/04/23(月) 01:52:03 ID:jt1jcRSu

 十本松いわく。
 今菊川家で行われているパーティは、菊川家当主である菊川桂造の誕生日が主旨である。
 菊川桂造という男は、傾きかけていた菊川家の事業を立て直した功績を持っているという。
 同時に、代々続く菊川家の歴史の中でも前例の無いほどの繁栄をもたらしたそうだ。

 その後もその手腕を発揮していくかと思われたが、7年前に手を引いて、
現在は悠々自適な生活を送っているという、うらやましい人間でもある。
 7年前に桂造氏が引退する時点で菊川家の携わる事業は放っておいても大丈夫、
というほどに潤っていたらしいから今でも彼の名前は一人歩きしているらしい。
 そのためこの場には直接的に彼と関係の無い、今日が初対面の人間――俺とか――も
このパーティに参加している。
 
 どう考えても俺はこの場にふさわしい人間ではない。
 さっきから聞こえてくる会話には、「株主」「先生」「総理」という単語が頻繁に飛び交っている。
 そんな単語にふさわしい返事のボキャブラリーと発想は俺の頭の中には入っていない。
 今俺の頭を占める思いは、「帰りたい」。それだけだ。
 
 十本松の昨晩の話では上等な料理や酒が振舞われるということだったが、
とてもじゃないが自分のペースで食べられるような雰囲気ではない。
 俺が自分のペースで食べるときは一言も話さず、ひたすら料理を口に運び、
その味に感動するという庶民的な行動をとることになる。
 周囲で行われているような片手にグラスを持ち片手でジェスチャーをするようなことはしない。
 この場では食べることが優先されるのではなく、社交的な会話が優先されるのだ。

「だから来たくなかったんだよ、俺は」
 誰に言うでもなくぼやく。
 すると、それに華が反応した。
「いい機会じゃないですか。
 せっかくですからこの場で社会人の社交術を思い出してください。
 いずれはおにいさんだってフリーターを脱却するつもりでしょう?」
「もちろんそのつもりではいるけどな。この場で行われている会話が役に立つとは思えないぞ。
 それに何を話せって言うんだ。俺に話せるのはコンビニ弁当を美味しく食べられる期間についてしかないぞ」
 この場にいる人間達がコンビニ弁当について熱く語ってくれるはずがない。
 某コンビニエンスストアの代表取締役でも来ていれば話は別だが。

「固くなる必要は無いよ。ただ愛想笑いを浮かべてへこへこしながら話しかければいいんだ。
 話なんて適当に相槌を打っていればいい。
 ここに居る人間たちは皆寛容だから雄志君が粗相をしても気にしたりしない。
 それにヘマをしたところで私の記憶中枢にその光景が刻まれるだけだ。
 堂々と偶然を装って淑女のバストに飛び込むがいいさ」
「……そんなことしたら社会的に抹殺されそうだからパスだ」
 なぜ十本松はここまで落ち着いているのだろうか。
 もしや、こいつもお嬢様なのか?
 かなこさんとも昔から知り合っていたみたいだし。



57 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/04/23(月) 01:53:01 ID:jt1jcRSu

「とりあえず、誰かに話しかけてきたらどうだい?
 ほら、そこにいる黒いドレスを着て、これまた黒いその髪をアップにした女性などはどうだい?」
「ん……」
 十本松が差した方向を見る。
 肩の開いた黒いドレスを着て、艶やかな髪をアップにまとめた女性がいた。
 彼女は初老らしき男性の数人と会話をしている。
 それだけならこの場でよくある光景に過ぎないが、やけに男の腰が低いように思える。
 物理的な意味でなく、彼自身の、彼女に対する立ち居振る舞いが。
 
「……無理言うな。あんなえらそうなおっさんがかしこまる相手だぞ。
 もし話しかけてとんでもないところのお嬢様だったりしたらどうする」
 その光景から目を反らし、十本松の顔を見る。

 奴は、なぜか口を固く閉ざしたまま、目をぱちくりとさせていた。
 俺の顔を珍奇な動物を見る目で見つめてくる。

「どうした? 俺の顔に何かついてるか?」
「……今の君に私が問いたいことは一つだけだ。君の目は、節穴なのかい?」
 いきなり何を言う。
 これでも人を見る目はそれなりにあるつもりだぞ。
 どう見ても俺が話しかけていい相手じゃないだろう。

「華。この男気取りの無礼な女に何か言ってやってくれ」
「あの……今の、冗談じゃなくて本気で言ったんですか?
 あの人を見ても誰だかわからないんですか?」
 華までが十本松と同じ種類の顔をしていた。
 ただし、こちらの顔には多少非難する色が滲んでいる。
「おにいさんは服と髪型が変わっただけで誰だかわからなくなるんですね。
 ああ、そういえばこの間久しぶりに会ったときからそうでしたね。
 私の顔を見てもすぐに気づかなかったですし」
 そう言うと、呆れた様子で嘆息した。

 なんだっていうんだ二人とも。「あの人が誰だか分からないのか」?
 そんなことを言われてもな。
 昔お嬢様だったらしい親友はいるが、現役のお嬢様なんて、俺の知り合いには居ない……?

 待てよ。そういえば一人居たな。
 とんでもない有名どころのお嬢様で、この場にいてもおかしくない人間で、
さらに黒い髪を伸ばしている、場の空気を変えてしまいそうなほどの美人が。
 
 再度、先ほどの女性を見る。すると、いきなり目があってしまった。
 反射的に目を反らそうとしたが――できなかった。
 ただその女性から視線を向けられているだけだというのに、射竦められたような感覚を覚える。
 つまり、俺はその女性から目が離せなくなったのだ。

 女性がこちらにやってくる。
 そして、俺の一歩手前の距離で立ち止まった。
「こんばんは、雄志さま。パーティに来てくださって、とても嬉しいですわ」
 その人は、パーティの主役の娘であり、とんでもないところのお嬢様であるところの、菊川かなこさんだった。



58 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/04/23(月) 01:56:08 ID:jt1jcRSu

 華と十本松が呆れたのも頷ける。
 事実、今の俺は二分ほど前の俺に対して呆れかえっている。
 ただ髪型を変えてドレスを着ているだけなのに、かなこさんのことがとっさに思い浮かばなかったのだから。

 頭の中でさらに自分にダメ出しをしようとしていたら、、かなこさんから話を切り出された。
「今日はスーツをお召しになっておられるのですね。お似合いでございますよ」
 褒められてしまった。
 さっきから俺の両脇を固めていた女二人は俺をけなしていたというのに、
かなこさんはなんて気配りのできる人なんだろうか。
 ……いや、同じ台詞を十本松に言われたところで嫌味にしか聞こえないということを
考えると、あそこでけなされていて正解だったか。

「かなこさんこそ、よく似合ってますよ。そのドレス」
「ありがとうございます」
 俺の言葉を聞いて、微笑を浮かべるかなこさん。
 思わず俺の口の端が上がる。
 この、明らかに俺の立場と嗜好とはかけ離れた場所でこんな落ち着くやりとりができるとは。
  
「あら? そちらにいらっしゃるのは……」
 かなこさんが俺から目を反らした。
 彼女の視線の先には、どこか固い表情をした華がいた。
「こんばんは、かなこさん」
 不機嫌であることを物語るかのようなぶしつけな口調だった。
「こんばんは。華さんのドレスも素敵でございますよ」
「……ありがとうございます」
 明らかにそうは思っていない、棒読みの台詞だった。

 かなこさんは、俺との少ない顔合わせの機会のいずれとも変わりない表情だったが、
華は長い付き合いをしている俺以外の人間が見てもわかるほど、機嫌が悪かった。
 どうしたことだろう。
 昨日の大学の中庭で起こった一件が尾を引いているのだろうか。
 
 華はつい、と顔を背けると無言でその場から立ち去ろうとする。
「おい、どこ行くんだ」
「少し外の空気を吸ってきます」
 と言い残すと、振り返らずにすたすたと歩き出し、重そうなドアをこじ開けて外に出て行った。
 
 俺が華を追いかけようと一歩踏み出したら、十本松が手を突き出して俺を制止した。
「私が行こう。君が行っても華君の機嫌をさらに損ねるだけだよ。
 そんなことより、かなこと話をしてやってくれ。
 かなこが君と話をしたい、というから雄志君をここに呼んだんだから、
 恋人に自分以外の男を近づけるという寝取られを覚悟しなければならない状況に
 あえて自分の身をおく私の厚意をありがたく受け取りたまえ」
 ……お前の厚意など受け取りたくもないが、かなこさんが俺と話をしたいと言うならば、
あえて受け取ることにする。

 俺の無言の意思を受け取ったのか、十本松は華の後を追いかけてその場から立ち去った。

------
連投規制を避けるため、前編のみ。一時間以内に続きを投下します。


59 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/04/23(月) 02:42:20 ID:jt1jcRSu

 かなこさんは、ドアへ向かっていく十本松の背中を見送っていたが、
その背中が見えなくなってから俺に顔を向けた。
 そして、そのままじ……っと俺を見つめてくる。

「……」
 この沈黙は俺だ。
 かなこさんも沈黙しているが、彼女の視線が何か言っているような気がしたため、
沈黙だけが俺の聴覚を占めている。
 彼女の端正な顔に張り付いている瞳が何を言っているのか、これが華や香織であれば
的中率が低くともなんとか当たりそうな気がするが、かなこさんにそれは通用しそうにない。
 彼女が何を俺に伝えたいのか、全くわからない。

 俺が立ち尽くしていると、突然右手を掴まれた。
 白い手の持ち主である、かなこさんはさらに左手を添えると、俺に向かってこう言った。
「雄志さま。少々ご一緒していただいてよろしいですか?」
 断る理由などあろうはずもない。

 首肯する。と、かなこさんに手を引かれた。
「あの、どこに行くんです?」
 手を引かれて歩かされながら、問いかける。
「わたくしの部屋ですわ。
 ここではゆっくりお話ができませんので」

 ここで話してもいいのではないかと思ったが、ちらりと右を向いただけで考え直すことになった。
 やけに会場の視線が向けられている。
 主に、俺に向けて。

 左を向くと、俺の顔を指差しながら何かをささやいている人までいた。
 文句を言ってやりたい気分になったが、この状況を分析してみれば
なぜ後ろ指を差されているのかが理解できた。

 このパーティに来ている人間達はいずれも菊川家当主の誕生日を祝うことを目的にしている。
 俺の手を引いているかなこさんはその当主の娘である。
 彼女の恋人がいるとしたら、少なからず興味を抱くはずだ。
 もし彼女と親しくしている男がいたら、そいつを恋人と邪推してもおかしくない。

 そこまで考えると、周囲の人に文句を言う気もなくなってしまった。
 もちろん、俺がかなこさんの恋人であることなどありえないし、
三度しか会っていないのだからただの顔見知りに過ぎないわけだが――悪い気はしない。



60 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/04/23(月) 02:44:21 ID:jt1jcRSu
・ ・ ・

 とはいえ、部屋に連れ込まれても甘い空気にならない事実は変わりない。
 この屋敷に集まっている人間達の反応から鑑みるに、かなこさんの恋人になるであろう男は
余程人間ができていなければ、彼らに向けられる嫉妬と羨望の視線に堪えられなさそうではある。
 もし俺がそんな状況に置かれたら耐えられないかもしれない。
 が――

「お茶をお持ちしました。……どうぞ」
 カップに透き通った紅茶を注ぎ、嬉しそうに俺の前にカップを置くかなこさんを見ていると
他人の視線などものともしない自信が湧いてくるから不思議なものだ。
 まったく、彼女の好意を独占できる男が羨ましくてたまらない。

 鼻腔を柔らかく刺激する匂いを堪能しながら、紅茶の味を味わうスキルを持ち合わせていない
俺はちびちびと唇をカップにつけていた。
 かなこさんの背中を見やる。
 彼女はペン立て以外何も乗っていない机の前に立っている。
 俺の座っている場所からは何をやっているのかは分からない。
 だが、ドレスを身に纏い髪をアップにしているその後ろ姿はよく見えた。
 髪を下ろした普段の髪型とは違い、うなじが丸見えになっていて、
さらに肩を丸見えにしているドレスと相まって、目に毒にしかならない。
 毒は毒でも、たちまちのうちに中毒にしてしまいそうな類のものであるが。

 俺がその背中をじっと見つめていると、かなこさんがゆっくりと振り返った。
 胸の前で大事そうに本を抱いている。
 テーブルの向かい側にやってきて椅子に腰を下ろすと、本をテーブルの上に置いた。
 既視感を覚えた。
 彼女と初めて遭遇したあの日、料亭になかば無理矢理連れ込まれて
食事をしたあとにもこんな光景を目にした気がする。

「話したいことというのは、この本のことですわ。
 この本の内容を、まだ覚えてらっしゃいますか?」
 かなこさんはそう切り出した。
 忘れるはずがない。以前何度も読み返したからな。
「もちろん覚えていますよ」
「……では、何か思い出されましたか?」
 …………。
 え?

 質問の意味が掴めない。
 目の前にある本の内容は覚えている。
 だが、何か思い出したか、と言われてもわからない。
「ぁ……申し訳ありません。言葉が足りませんでしたわ。
 言い直します。その本に記されていた出来事が起こったとき。……そのときのことを思い出されましたか?」



61 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/04/23(月) 02:46:32 ID:jt1jcRSu
 
 さらに質問の意味が不明になった。
 からっぽの頭のなかにピンポン玉を放り込まれたように、思考が落ち着かない。
 「記されていた出来事」。これはわかる。
 姫さまが刺客に狙われて、最後は殺されてしまう。
 簡単に言えばそれがこの本の内容だ。

 「そのときのことを思い出したか」。
 そのときというのは、この本を読んだときのこと……では無いように思える。
 かなこさんの口調は、その場に居合わせたときのことを問うようだった。
 
 そんなこと、わかるはずがない。
 俺は生まれてきてからまだ20数年しか経過していないわけで、
その頃に武士や姫と呼ばれる人間が存在するわけはないし、
それ以前に俺の記憶に欠陥が無い限り人が死ぬ現場を目にして忘れたりはしない。
 
「……あの、もしかして俺のことをからかってますか?」
「? なぜそう思われるのですか。わたくしは真剣に言っておりますが」
 かなこさんの声には怒りが少し混ざっただけで、冗談を言っているようではなかった。
 とりあえず、質問に答えることにする。
「……覚えていませんよ。俺は人が死ぬ現場に居合わせたことは一度も無いし、
 それ以前に武士や姫らしき人間と会ったことも無いです」
「え……」

 俺の言葉を聞くと、かなこさんは目を見開いた。
「そんな……なぜ、なぜ忘れておられるのですか!」
 次の瞬間、かなこさんはテーブルに両手を叩きつけて身を乗り出してきていた。
 すぐに下を向いたので、彼女の表情は見えない。
「わたくしが…どれほどの間、このときのことを待っていたか……。
 貴方さまに会う日を、焦れながら……心を締め付ける切なさに耐えながら、
 待ち続けていたというのに……何故…雄志さまは……」

 呟きが止まり、かなこさんの顔がゆっくりと上がる。
 
「ぅっ……」
 思わず息を呑んだ。
 後頭部から背中にかけて一気に冷たいものが駆け抜ける。
 ナイフを眉間に突き立てられて、そのままえぐられているような気分さえする。
 
 この感覚を与えているのは、目の前にいる女性である。
「……忘れた振りをなさっているならば……許しませぬ………」
 白い顔に張り付いている恨めしげな眼差しと、彼女の放つ威圧感が俺に向けられていた。



62 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/04/23(月) 02:48:49 ID:jt1jcRSu

 何と言って切り出せばいい?
 言葉の選択を間違うだけで飛び掛られてくびり殺されそうな雰囲気だ。
 かなこさんの瞳から放たれる眼光はまったく緩みそうにない。
 だが、何も言わないわけにもいくまい。
 彼女は俺が何かを忘れているから怒っているらしい。
 一体、俺に何を期待している?

「あの、かなこさん」
「なんでございましょう……」
 かなこさんの目がさらに吊り上る。
 まばたきの一つもしないその瞳は充血して紅くなっていた。
 声を絞り出そうとしてもなかなか出てくれない。
 喉に空気の塊が溜まっているようだ。もどかしい。

「俺が、何を忘れているって言うんですか」
 慎重に選んだ結果、出てきたのはそんな言葉だった。
 
 次の瞬間、かなこさんがテーブルを飛び越えた。

 肩を掴まれ、勢いそのままに椅子ごと押し倒される。椅子の背もたれが背中を強く打つ。
 衝撃を受けて喉からうめき声が吐き出された。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 かなこさんが叫び声を上げながら俺の首に手を伸ばしてきた。
 このとき、咄嗟に腕を動かして白い手を掴まなければ、首を絞められていたに違いない。

「ぐっ……」
 全力で押し返そうとするが、びくともしない。
 親指と人差し指がしっかりつくほど掴んでいる手首は細いというのに、
信じらないほどに彼女の力は強かった。
「わたくしのことを忘れるなど……許しては置けませぬ!」
「だからっ……なんのことだって言ってるだろ!」

 かなこさんの腹に膝を滑り込ませて、巴投げのように放り投げる。
 即座に前転して、その場から離れる。
 振り向くと、かなこさんはまったく変わりない様子で立ち上がっていた。
 そして、ゆっくりと歩み寄ってくる。
 それを見て危険を感じ、立ち上がろうとするが――力が入らなかった。



63 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/04/23(月) 02:54:30 ID:jt1jcRSu

(なんだ、これ)

 体のどこを怪我をしているわけでもないのに、どんどん力が抜けていく。
 力が絞り出せない。――いや違う。眠い。
 何故だ。
 こんな状況で眠れるほど俺はアホじゃない。
 
 ふと頭に閃くものがあった。
 もしや、さっきかなこさんが淹れた紅茶に睡眠薬でも入れられたのではないか?
「うふ、ふふふふふ」
 睡魔におかされたまぶたは上手く開いてくれない。
 歯を食いしばって耐えようとしても、そもそも力をいれることすらかなわない。
 
(くっそ……)
 耐え切れずに目をつぶると、いままで手加減をしていたのか睡魔が一斉に侵攻を開始した。
 自分が倒れていると分かったのは、顔の皮膚に絨毯の感覚があらわれたときだった。
 
 心地よさに触覚まで手放したとき、暗い世界の中で透き通る声を聞いた。

「雄志さまが何を忘れているのか、教えてさしあげます。
 わたくしの護衛として尽くしていたときのこと。
 わたくしを守ることができず、涙を流したときのこと。
 そして、わたくしと過ごしたときの思い出。
 ですがご安心を。すぐに思い出させて差し上げます――」

 ――もう少しわかりやすく言ってください、かなこさん。
 脳内でぼやいた後、抵抗することを諦めて頭のスイッチをOFFに切り替えた。


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