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196 :「生き地獄じゃどいつもイカレてやがる」 ◆duFEwmuQ16 [sage] :2007/05/04(金) 03:11:42 ID:OHkXmc5V
      『おれはあいつが好きなのに、あいつのふるまいなおらない 
       すごいピストル買ってきて、あいつを墓に埋めてやる』 
                  ──リロイ・カー「日の出のブルース」

彫菊自身も女だてらに我慢(刺青)を背に入れている。弁財天女の刺青だ。彫師だからこそ、背負える代物だった。
極道社会において、天女の刺青は不吉なものとされている。
かの『ベラミ事件』において、当時の三代目山口組々長田岡一雄を襲撃した鳴海清もまた、その背に天女の刺青を彫っていた。
鳴海の放った凶弾が首に命中し、致命傷を負ったものの田岡組長は奇跡的に一命を取り留めた。
その後の山口組の報復により、六甲山の山中で鳴海清は惨殺体として発見された。犯人は不明、現在では時効が成立している。
天女の刺青は死の刺青なのだ。それゆえにヤクザの中には天女の刺青を忌避する者も存在する。
頭の芯に疲れが染み込んだ。ウイスキーグラスの氷をカラカラと鳴らし、彫菊が喉に水割りをゆっくりと流し込む。
彫菊はため息をついた。天井に吊るされたシャンデリアが淡いブルーの光りをグラスに注いだ。
アイスピックで氷を砕きながら、マスターが彫菊に尋ねた。しわがれているが温かく深みのある声だ。
「──彫菊さん、なんだか今日はお顔の色が悪いようですね。何かありましたか」
「ちょっと疲れが出てきてしまって。いや、心配をおかけして申し訳ありません」
「疲れが溜まっているんですね。それならもうこのまま家に帰ってお休みになったほうがいい。今日のお代は私のオゴリです」
「いえ、そういうわけには」
彫菊がハンドバックから財布を取り出すのを制して、マスターがにっこりと愛嬌のある笑みを浮かべた。
普段は無愛想だが、こういう時の微笑み方を心得ている。長年、客商売をやって身につけた微笑だ。
微笑むときの間の取り方が実に良いのだ。プロの笑みだった。
「今日は私におごらせてください」
「そうですか。じゃあお言葉に甘えて」
マスターに嫣然と微笑みかけ、軽く頭を下げると彫菊は店を出た。春も終わりだと言うのに風が冷たい。
酔った肌にはその冷たさが心地よかった。
(今頃どうしているのかしら……)
                 *  *  *  *  *  *
爪を噛んだ。肉ごと爪が千切れた。心臓が破裂せんばかりに激しく暴れまわり、胸壁をめちゃくちゃにぶっ叩く。
脳髄が憤怒に灼熱した。眼球が沸騰した。頭蓋骨をアイスピックで突き刺されたような凄まじい衝撃。


197 :「生き地獄じゃどいつもイカレてやがる」 ◆duFEwmuQ16 [sage] :2007/05/04(金) 03:13:26 ID:OHkXmc5V
脳みそがショックに激しい勢いでシャッフルする。雪香はどうにかなってしまいそうな頭を両手で押さえた。
青い血管の浮き上がったこめかみが疼き、食道から熱い胃液がこみ上げた。
朧の姿──家中を探した。叫んだ──返事は返ってこなかった。
脈拍が飛び跳ねるように上昇した。寂寥感が頭を打った。濁音混じりに雪香は朧の名前を繰り返し叫んだ。
逆流する胃液が食道を灼いた。黄色みがかった粘つく胃液──口腔内から吐き出した。それでも雪香は叫び続けた。
生酸っぱい異臭が室内に充満し、鼻腔を突き刺す。己の叫び声が脳内で反響した。
瞼の裏に浮かんだ螺旋状の渦が激しい唸りを上げて理性を呑みこんでいった。
「あああああぁぁぁぁッ、どこにいるのォォォ!朧ッッ、朧ッッ!」
叫ばなければ頭がどうにかなってしまいそうだった。拳を握り締めた──指関節がギリギリと軋む。
半狂乱になりながら雪香は壁に頭を叩き付けた。額が裂けた。傷口からこぼれる真っ赤な鮮血が雪香の顔を濡らした。
(なんで……なんで……雪香の前からいなくなっちゃったの……ひどいよ……ひどいよ……)
雪香の双眸が煌々とした光りを放ち始めた。ベッドのシーツをたぐり寄せ、雪香がシーツに染み付いた朧の残り香を嗅ぐ。
(ああ……朧……)
青臭いザーメンの匂いが鼻腔をくすぐった。情事の後には必ず漂う匂いだ。シーツを舐めた。しょっぱい汗の味が舌腹に触れた。
幾分落ち着きを取り戻した雪香は身支度を整えた。朧を探しにいくためだ。台所に飛び込むと鈍色に輝く刺身包丁を引っ掴む。
雪香は眼を細めながら包丁をタオルで包んだ。もし朧に悪い虫がついていたらキチンと駆除をしなければならない。
そして朧が家に戻るのを拒んだらやはり殺してしまい、その場で自分も腹を裂いて死んでしまえば良い。
地面に流れる互いの血が混ざり合い、切り裂かれたふたりの腹腔からこぼれる桜色のハラワタがきつく絡みつくのだ。
永久の愛を誓うかのように。扇状に広がっていく幾条もの血液、鮮やかな臓物の色彩、雪香はビジョンを垣間見た。
鮮血と生暖かい臓腑によって彩られた愛執と死のビジョンを。
嘔吐を催すが如き異様な妄執に憑りつかれ、雪香は全身をブルブルと打ち震わせた。顔全体に恍惚の表情が浮かぶ。
神にかしづき、祈りを捧げる殉教者のように雪香は包丁を胸元に抱いて眼を閉じた。雪香の眦から一筋の涙が頬を伝った。
(死んじゃったら……小さな骨壷に朧と一緒にはいりたいなぁ……)
                 *  *  *  *  *  *
ひやりとした夜風が頬を横切った。運命的な再会──やっと捜し求めていた少年に出会ったのだ。巴の心が揺れた。


198 :「生き地獄じゃどいつもイカレてやがる」 ◆duFEwmuQ16 [sage] :2007/05/04(金) 03:15:30 ID:OHkXmc5V
時刻は午前二時三十六分、ここは深夜の新宿中央公園だ。朧の羽織ったトレンチコートが風ではためいた。
声をかけようとした巴の眼に朧の露出した純白の素肌が、突然飛び込んできた。少年はどうやらコート一枚だけのようだ。
この少年は露出狂なのだろうか──巴はいぶかしんだ。
(そういう趣味の持ち主さんなのかな……だけどすごく綺麗な肌をしてるのね)
身頃を過ぎた桜の花びらが地面にぱらりと舞い落ちる。ハッと我を取り戻した巴は雑念を追い払うと朧に駆け寄った。
不思議そうに朧が巴を見やる。あたしの事、忘れちゃったのかな……巴が胸の内で呟いた。
少しだけ悲しかった。気を取り直した巴は朧に笑みを投げかけながら「こんばんわ」と小さな声で挨拶をした。
朧は無言だった。不思議に思いながら巴は朧の視線を追った。警戒するかのようにゆっくりと朧が一歩下がる。
「お前の右手から微かにだが血の匂いがする」
鼻をヒクヒクさせながら朧は巴の右腕を凝視していた。動物並の鋭い嗅覚だ。巴の皮膚が粟立った。
やはりこの少年こそ私の運命の人──常人なら決して嗅げ分けられないはずの血の匂いに反応を見せた朧に
巴は胸中からこみ上げる熱い思いの丈を声を張り上げて打ち明けたくなった。
(駄目よ……そんなはしたない事なんてできない……)
自分の世界にひたり切っている巴を朧はつまらなそうに眺めていた。少なくても相手に敵意が無さそうだ。
朧は空腹だった。何か食べ物が欲しかった。
巴に背を向けて朧が歩き始めようとした瞬間、巴は朧に慌てて声をかけた。朧が振り返る。
「あのッ……三ヶ月前の事を覚えてませんか?あたし、東郷神社であなたに助けてもらったんです」
朧は自分の記憶を手繰り寄せた──記憶の中にあったのは睡眠を妨げた六人の男達に襲い掛かったことくらいだ。
二日ばかりロクなものを口に入れずに過ごしていたので気が立っていた。
空腹を紛らわせる為に寝ていたのだが邪魔された。
頭にきたので男達を血祭りにしてやった。不意に怯える女の姿が脳裏をよぎった。
ああ、そうだ。確かに自分の目の前にいるこの女だ。


199 :「生き地獄じゃどいつもイカレてやがる」 ◆duFEwmuQ16 [sage] :2007/05/04(金) 03:17:58 ID:OHkXmc5V
「そうだ。いま思い出した。確かお前は男たちに追い掛け回されてた女だ」
「思い出してくれたんですね。そうです。あの時は本当にありがとうございました」
ドギマギしながら礼を述べる少女──白百合のように楚々とした美しい顔立ちの女だが、どことなく気弱そうな印象を受けた。
雰囲気が昔の雪香に似てるなと朧は思った。朧は少女の顔をじっと見つめた。途端に巴が赤面する。巴は奥手だ。
十八歳を過ぎているのに未だにキスすらしたことがなかった。
それは彼女が持つ忌まわしい性癖も理由のひとつであったが、
もうひとつは自意識が邪魔をして好きな異性を意識すると引っ込み思案になってしまうのだ。
それでも今はそんな事を言っている時ではない。
そんな邪魔なものは捨てなければならない。呼吸を落ち着かせようと大きく息を吐いた。
「その……お礼をさせて貰えませんか」
「いらない」
巴の申し出を朧はこともなげに断った。面食らう巴に対して眠たそうに欠伸をしてみせる。
朧は瞼をこすりながら別の場所へと移動しようとした。
「ま、待ってくださいッ」
不意に巴の右手が伸びて朧の左手首を掴んだ。無意識にとった行動だ。掴んでから巴自身も驚いていた。
「離せ」
「いやですッ」
朧が邪慳そうに手を振り払いながら怒鳴った。眉間に皺を寄せて巴を睨む。
「離せッ」
怯むことなく、朧の鋭い眼差しを巴は確然と受け止めた。自分でも信じられなかった。
普段なら小学生にも睨まれれば竦んでしまう自分がこうして平然としていられる事に。
まして相手は複数の暴漢を血反吐を撒き散らすまで徹底的に痛めつけるような獰猛な男だ。
「礼はいらないって言ってるだろうッ、離してくれッ」
間が悪かった。朧は空腹のせいで苛立っていたのだ。腹部が空腹のあまりグウゥッと唸った。巴がキョトンとした顔になる。
「お腹……すいてるんですか?」
朧は頷いた。その仕草があまりにも子供じみていて可笑しい。巴は思わず吹き出してしまった。
「じゃあ、一緒にお食事しませんか。勿論あたしがおごりますから」
この機会を逃してしまえばいままの苦労が水の泡と化してしまう。巴は腹部を引き締めた。
(このチャンス、絶対に逃さないんだから……)