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新宿御苑前にある深夜営業のレストラン──当たり前だが客はほとんどいなかった。
水商売風の格好をした女が三人ばかりグループになって雑談をしているだけだ。
日頃の鬱憤を晴らすかのように愚痴を言い合っているのが耳に届いた。ふたりは互いの名前を名乗ると窓際の席に座った。


200 :「生き地獄じゃどいつもイカレてやがる」 ◆duFEwmuQ16 [sage] :2007/05/04(金) 03:21:26 ID:OHkXmc5V
朧は爪楊枝の先端を前歯で齧りながら食事が運ばれてくるのも待った。腹の虫が騒がしい。
最初は迷ったが飢えには勝てず、また一度は断ったものの巴の懇願に根負けして朧は食事を奢られることにした。
二人用のテーブルの向かいの席に座っている巴が紅茶をすすりながら朧にたずねる。
「朧さんは普段は何をなさってるんですか?」
「フーテン」
「フーテン……ですか?」
「そう。自由人さ。風の吹くまま気の向くままに生きてる」
爪楊枝をへし折ると灰皿に捨てた。笑顔を浮かべたままの巴を見て何がそんなに面白いのかと朧は不思議に思った。
愛想の良さそうなウエイトレスが注文のマルゲリータピザを持ってきてテーブルの上に乗せた。
朧はピザを鷲づかみにすると二つに折って口腔内に突っ込んだ。
口をモゴモゴさせながら必死になってピザを平らげようとする。
力任せにピザを口の中に押し込む朧を一瞥しながら巴は紅茶のおかわりを頼んだ。
「そんなに急いで食べると喉につまっちゃいますよ」
食べる事に集中している朧に巴の言葉は全く届いていなかった。端の部分まで食べ終わると朧は満足そうにゲップを漏らした。
「ごちそうさま」
イスにもたれかかり、朧はグラスの水を飲み干ほした。空になったグラスの中の氷をガリガリと噛み砕く。
「そういえば、その……服を着てないんですか?公園でコートがめくれた時に見えちゃったんですけど」
「コートしか持ってないんだ」
「よろしかったら、着る物を一緒に買いにいきませんか?」
「いらない。それにこの時間に洋服屋が開いてるとは思えない」
先ほどと同様に朧はにべもなく言う。着る物も今のところはコート一枚で充分だった。欠伸をしながら朧は窓際に視線を向けた。
とりつくしまもない朧に巴はどうすればいいのか思案した。思案しても頭には何も浮かばなかった。巴が何気なく朧に訊ねる。
「その……恋人はいらっしゃるんですか?」
「いない」
巴の瞳が輝いた。脈ありと睨んだのだ。恋人がいるかどうかはこの際関係ない。
重要なのはいないと答えた点にある。自然と顔の筋肉がほころんだ。巴は知らなかった。
雪香という朧を心から深く愛する狂人の存在を。
                 *  *  *  *  *  *
赤、青、緑のまばゆいディスプレイの光が雪香の瞳の奥で反射した。雪香は唇の端を歪めた。凄艶だった。凄艶であり悲愴な顔貌だった。


201 :「生き地獄じゃどいつもイカレてやがる」 ◆duFEwmuQ16 [sage] :2007/05/04(金) 03:23:50 ID:OHkXmc5V
怒っているとも、笑っているともつかぬその表情──その類まれなる美貌はこの世の者ならぬ気配を感じさせた。
馥郁とした清純な色香は腐臭となって雪香の身体にまとわりつき、孤独によってもたらされた心の苦痛が燃えてたった。
中年の酔っ払いが雪香の姿を一目見るなり、横に顔をそらす。アルコールで麻痺した脳が酔っ払いに危険を発したのだ。
(寂しいよ……寂しいよ……朧、どこにいるの……)
幽鬼の如きおぼつかぬ足取りで雪香は朧を探した。人通りがまばらな路上、アスファルトにこびりついたチューインガムが眼に映った。
表面が靴底で踏まれ、汚れてはいるが吐き捨てられてそれほど時間は経っていないようだ。
雪香は焦点のあっていない瞳でガムを静かに見やる。屈みこんでガムに顔を近づける。靴の痕を見た。見覚えがあった。
匂いを嗅いだ。親指と人差し指で挟み、真っ赤な舌先でガムを舐めた。鮮明ともいえる朧と交わしたキスの情景が浮かび上がった。
雪香の前頭葉が朧の噛んだガムだと告げた。脳裏に横切る朧との思い出──絶対に朧を……幸福を取り戻したかった。
(そう遠くへはいってない……絶対に見つけ出してあげる……雪香と一緒に早くお家に帰ろうね、朧……)
身体が重い。溶けた鉛を流し込まれたように身体が重かった。何度も胸を撫でた。不安と焦りが広がる。
背筋に浮かぶ汗がべとついた。警告するかのように心臓が早鐘を打つ。胸騒ぎがした。
激しい衝動持て余しながら、朧の唾液の味を思い浮かべると雪香はガムを口の中に放り込んでゴクリと嚥下した。
                 *  *  *  *  *  *
喫茶店で巴に買ってもらったガムをクチャクチャ噛みながら路上の空き缶をつま先で蹴飛ばした。
コーンと音を立てて車道の方向に吹っ飛ぶ。
巴は黙り込んだまま、朧の手を握った。頬が紅潮している。身体を密着させながら巴は朧をそっと盗み見た。
相変わらずガムを噛んでは吐き出し、また新しいガムを噛み始めている。その表情からは何も読み取れない。
完全なポーカーフェイスだ。それでも嫌がっている素振りではない。
羞恥と自意識をかなぐり捨てて巴は朧に対して積極的にアプローチを試しみた。
巴はコートを少しだけ割り開いて朧の下腹部──柔らかいペニスを軽く握る。朧の体温を感じ、巴は熱く昂ぶった。
「こうされると……男の人ってよろこぶんですよね」
雑誌の受け売りを見よう見まねでやってみる。それでも朧のペニスは反応を見せなかった。だらけたままだ。巴に狼狽が生じた。
「気持ちよく……ありませんか?」
「よくわからない。気持ちいいっていうよりもくすぐったい」
あたし、いったい何をしてるんだろう……気まずくなった巴はコートから手を引いた。
こみ上げる自己嫌悪──巴は顔色が沈む。そんな巴を朧が覗き見る。


202 :「生き地獄じゃどいつもイカレてやがる」 ◆duFEwmuQ16 [sage] :2007/05/04(金) 03:24:58 ID:OHkXmc5V
表面では無表情だったが朧は内心では面白がっていた。巴のころころ変わる表情が見ていて退屈しないからだ。
少なくても悪い人間ではないのだろう。朧が巴の額をベロリと舐めあげた。
「きゃっ」
突然額を舐められ、驚いた巴は声をあげた。朧の唾液にまみれた額がテカテカと光る。
「しょっぱい」
「い、いきなり何をするんですかっ」
「最初にちょっかいをかけてきたのはそっちだ」
巴は唾液をハンカチでぬぐった。犬か猫そのものだ。それともこれがこの少年──朧の愛情表現なのだろうか。
(もしそうならすごく嬉しいけど……)
千駄ヶ谷を横切り、ふたりはいつのまにか東郷神社の近くまで来ていた。空は暁闇に包まれてほの明るい。
軽い疲労を覚え、巴は足を止めた。朧に向かって振り返り、巴が東郷神社を指差す。
「私達が初めて出会った場所ですね」
「それがどうかしたか」
朧がそっけない返事をする。巴は苦笑を浮かべた。急に朧がソワソワしはじめ、首を後ろに回して眼を細めた。
朧の肩に手を置き、巴が耳元で何かを呟きかけたその刹那──激しい怒号が鼓膜を貫いた。
「雪香の朧からその薄汚い手を離してよッ、この泥棒猫ッッ!」
声のしたほうへ反射的に巴は振り返った。凄まじい形相でこちらを睨む少女の姿に一瞬、恟然となった。
少女の右手には刺身包丁が握られていた。元の造作が美しいだけに烈火の如く怒り狂う様は凶貌すら通り越し、醜い。
「雪香」
朧が少女に声を放った。雪香と呼ばれた少女は朧に向かって穏和な笑みを浮かべた。そして巴に視線を戻すとまた憤怒の表情に戻る。
朧と少女が知り合い──よりも親しい関係である事は巴にも容易にわかった。
「待っててね。いまそこの泥棒猫片付けちゃうから」
刺身包丁を逆手に持ちかえ、雪香が刃を水平に構えた。
ヤクザ同士がドスで喧嘩をする場合、相手を傷つけるだけならば刃を縦に命を奪う場合は刃を横にしてしまうのだ。
刃物を縦にして相手を刺せば肋骨が阻み、刃を通さない。斬りつける時も急所が少ないので殺すのは難しい。
逆に寝かせた刃は肋骨の間を通れば心臓を、首筋を狙えば動脈を切り裂く。
腹部を狙って体重をかけて突き刺すのも有効だが、人間は物体と違って避けるのでよほど手馴れていない限り突くのは至難の業だ。
雪香の憎悪と殺意が迸った。猛然と巴に向かって飛び掛る。素早い動きだった。刃が巴の首筋を襲った。