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314 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/05/11(金) 01:56:00 ID:Nqnf7ECO

あの後、僕は北方さんの家に行くと、例の庭に面した客間に通され、茜色に照らされている庭先の木々を眺めたり、彼女の作った僕の好物でもあるプリンを食べながら、取りとめもない話をしていた。
しかし、理沙と一悶着あった後だから、話しているうちに妹の理沙の話になっていった。
当然のことながら、彼女にとって見れば世間話などどうでも良いことであって、理沙に関してのほうが耳寄りな情報であろう。
彼女が僕に聞いてきたことはこれといって特別なことはなく、彼女の性格や趣味、休日は何をしているか、
等といった当たり障りのないことであった。

僕はこの日帰りが遅くなることを放課後に理沙に告げてから、北方邸に向かったので、三十分ほどかけて自宅まで歩いて帰ることになった。
家に着くと旅行から帰ってきた母が理沙といろいろ話していたようだったが、
僕が帰ってきたのを見るといろいろと旅行中の武勇伝を聞きもしないことを話し出した。
第一なんだって、旅行から帰ってくるなり、途中の何々を値切って買っただの、なんだのと、バーゲンセールで買いたいものをすべて買ったような顔をしておられますか、この母者は?

理沙は僕の帰りが遅いと非常に心配するのだが、同性ということもあって母がいるときは例外だ。
だから、今日は平然とラノベとネット三昧できるわけですよ、これが。
こういう甘い汁を全国の一人っ子は日夜吸っているかと思うと、少子化反対などと思ってしまう。
父は出張のときは一週間位、行ったきり帰ってこないことがよくあるが、今回もそれ例にたがうことないだろう。

それから一週間、特に代わり映えのない日々をすごしていった。
ただ、変わったこととしては、今まで接触のなかった北方さんの家を何度か訪れた事、それともう一つ、理沙が僕の分の昼食を毎朝、作ってくれることくらいだろう。



315 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/05/11(金) 01:56:56 ID:Nqnf7ECO
金曜日の帰りのHR―。
僕の通う学校は私立にしては珍しく、週休二日制で随分ゆとりがある。
そんなわけで金曜のHRというのは各々が開放感に満ち溢れ、週末の予定に思いを馳せる。
映画館に映画を見に行くことになっていたので、僕もそういった生徒の例に漏らさず、こみ上げてくる喜びに浸っていた。
まあ、そんな感じでみんな気が抜けているから、必然的に月曜日の忘れ物や遅刻、更なるツワモノならば休んだりするものが増えてしまうのだが、その程度は許容範囲の必要悪ですな。

「じゃ、これで金曜もおしまい。週末はお前ら生徒の顔を見ないので先生も骨休めになります。」
おお、田並先生、実に思い切った発言を何気なくしているぞ。
満面の笑みを浮かべながらそういったので、先生も週末は何か楽しい予定でもあるのだろう。
「号令な。」
「起立、礼。」
「ありがとうございました。」

それでは今日もひとっ走りすることにしましょうか。僕の席は窓際にあるので教室の出入り口からは最も離れているのだが、そこで縮地法でも使ったのか、とでも思わせるように迅速に、狭小な隙間をするりするりとうなぎのようにすり抜け教室から出る。これで第一関門を突破。
広がる廊下は未だに人で埋め尽くされていないので、他の教室も含めて、生徒が部屋から出てくる前に矢のように走り抜ける。
それから、一階の昇降口まで直通になっている最後の砦である、階段を二段抜かしで降りていく。この方法はリスクも大きく、頭から転がり落ちて、天性の運動能力のなさ故に、かつて骨にひびが入ったことがあったが、毎日の積み重ねで慣れきっている僕はそんな真似はしない。



316 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/05/11(金) 01:58:01 ID:Nqnf7ECO
そうして、三学年共通で使用する昇降口に到着したら、右端の二年理系クラスの方へ向かう。
が、その刹那、強い衝撃を全身で感じた。
と同時に聞こえたのは、よく聞きなれた声、目に入ったのはブロンドの短い髪・・・。
「いたたた・・・、誰ですか?危ないですよ。」
僕が正面衝突したのは図ったように妹の理沙だった。
理沙は年不相応に小柄なので、家でも時々ぶつかってしまうことがある。
「あー、お兄ちゃん。今日は用事あるの?ないなら一緒に帰ろうよ。」
ぶつかった箇所を軽くさすってから、そう言った。
ニコニコと屈託のない笑みを向けてくる。やはり、理沙も週末だから少しばかり浮かれているのだろうか。
「そうだな。じゃ、たまにはそうしようか。」

昇降口に程近い、二年F組というプラカードが掲げられている駐輪場から自転車を出し、校門の前で理沙を待つ。
一年の駐輪場は昇降口から遠いので少しばかり時間がかかるので、
廊下や教室で抜かしていった連中が、少しばかり脇の校門を出て行くのが見えた。


317 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/05/11(金) 01:59:06 ID:Nqnf7ECO
「あら、誰を待っているのかしら?てっきりいつも通り全速力で帰ったと思ったのだけれど。」
他のクラスメイトにはないような清冽な声。少しばかり慣れたとはいえ、
不意にこの声で後ろから声をかけられるとうろたえかねない。
そう、それは北方時雨さんの声だった。

「驚かせたみたいね、ごめんなさい。でも、あんなに急いでまで誰を待っているのか、不思議に思うでしょ?」
訂正する、うろたえかねない、ではなく狼狽している、だ。
「え、あ、ははは、そうだね。」
そんな狼狽しているが故の、気のない返事をするとおもむろに僕と三歩の位置にまで近づいてきた。
い、いかん。図書館の片づけをさせられた時の怖さを超越している。
当然こうなってしまうと、わが軍は極端に不利なのに戦線離脱できません・・・。
しかも、この構図だと僕が北方さんに叱責を受けているようにしか見えない。
「そんなに、おびえてどうしたのかしら?私が怖いのかしら?」
サンドイッチを屋上で食べたときも、彼女の家にたびたび訪れたときも、こんなに怖さを感じたことはなかった。
今日の授業中も普段となんら変わったことがなかったというのに、いったいどうしたことだろう。
「い、いや、そ、そんなことはない、よ。」
「・・・そう。まあいいわ。今からまたうちに来てくれないかしら?」
「え、まあ今日は・・・」

今日は理沙と帰って週末の計画を立てるから不可能、と断ろうとした時に、
「あれ、北方先輩、お兄ちゃんに用ですか?」
という、理沙の不機嫌そうな声が自転車を転がす音と一緒に聞こえてきた。
おお理沙、ナイス・タイミング!
ちょっと例は悪いが、ハブに睨まれているところへマングースがやってきた、みたいだ。いや、例が悪すぎか・・・。


318 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/05/11(金) 02:00:01 ID:Nqnf7ECO
不機嫌そうな声を歯牙にもかけずに、北方さんは短く答えた。
「ええ、少しばかり。」
「そんなにお兄ちゃんに近づかないでいただけます?お兄ちゃんを苛めているように見えますよ。」
理沙は理沙で、おざなりに答えた北方さんに対し真っ向から、機嫌を逆なでするような発言で報いた。
北方さんに理沙の話をしているときにも思ったが、何故こんなに険悪になるのか僕には理解できない。

「くすくす、本当にあなたは松本君が好きなのね。でも、依存しすぎるのはどうかしら?」
その発言で完全に理沙は切れた、そう確信した。
「私たち、もう帰らせていただくので。」
「あら、さっきも言ったでしょう?松本君に用事があると。」
「先輩は随分と勝手なんですね。先輩が用事があってもお兄ちゃんは先輩に用事がないかもしれませんよ?」
怒気を含んだ声で躍起になって言い返した。空気がぴんと張り詰めていて、
かなりいただけない状況なのは重々承知だが、何をしたら良いのか分からない。
何かしても、結局どちらかにとっては良い状況に、もう片方にはそうでなくするのは目に見えているからだ。
「松本君、あなたは約束、きちんと守る人よね?」
こちらに向けられた北方さんの声は清冽さをたたえていた。
が、それと同時にほのかな柔らかさがにじみ出ているように感じた。
おそらく、北方さんは僕が彼女の思うように答えてくれる、と期待して、
いや、寧ろ確信に近いようなものを持っているから生じる柔らかさなのだろう。



319 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/05/11(金) 02:00:45 ID:Nqnf7ECO
僕はなぜか、その彼女の期待ないし確信を裏切ることができなかった。
「理沙、ごめん。今日は北方さんに英語を教わることになっていて、用事が入っていたのを忘れてた。本当に悪いけど、先に帰っていてくれないか。」
ゆっくりと一語一語をかみ締めるように言った。
「お兄ちゃん・・・・そんな・・・・分かりました。」
思いもよらぬ僕の回答が理沙を苦しめるのは分かる。・・・本当に悪いことをしているのは分かる。僕の一言で我慢して潔く身を引いたために、それがより、僕に罪悪感を感じさせる。
「・・・お兄ちゃん、でも何かあるといけないから、なるべく・・・・なるべく早く帰ってきてね・・・。」
そう最後に一言だけ言うと、理沙は転がしていた自転車に乗り、車輪を走らせた。

理沙が行ってしまうと北方さんが口を開いた。
「・・・ごめんなさい。悪いことをしたのは、私にだって分かる。でも、意地を張ってしまって・・・。」
「・・・まあ、いいよ。理沙には後でフォローしておくから。それよりも用事って何?」
「この前、私の家に来たときに忘れ物があったので、それを取りに来てもらおうと思って。」
ああ、そういえば前回、家についてから何かないと思ったが、彼女の家で忘れ物をしていたのか・・・。




320 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/05/11(金) 02:01:42 ID:Nqnf7ECO
松本理沙は悲しみと悔しさにさいなまれながら、自転車を走らせていた。

何でこうなってしまったのだろう。
私は久しぶりにお兄ちゃんと一緒に帰りたかっただけなのに―。
最近の学校生活についてやこの前読んだ本について、とか取りとめもない内容を話していたかっただけなのに―。
そうする事をお兄ちゃんも選択してくれましたよね。
いきなり、ぶつかってきてとても痛かったけど、
そのぶつかったのがお兄ちゃんだったから、私ね、うれしかったんだよ。
一緒に帰る段取りができたのに、それを横から入ってきて、いきなり根拠のない『用事』を持ち出してきて・・・。
それを排除して、一方的に迫っているのを排して、帰ろうとすることは間違っていないのに―。
これほどまでにお兄ちゃんのことが大好きなのに―。
何故、どうして、お兄ちゃんは失礼な先輩との約束を重んじたの?

お兄ちゃんはずっと私だけのお兄ちゃんだった。私が小さいときからずっと。
だから、こんなことになるとは露ほども思っていなかった。
いつだったか、雌猫の存在について考えていたけれども、そんなことは絶対にないなどと、勝手に心のどこかで錯覚したまま置き去られていた。
だから、北方先輩の存在を知ったときも、当然癪な感じはしたが、数あるクラスメイトの一人でお兄ちゃんの周りにいあるお兄ちゃん引き立て役、程度の認識で済ませていた。

でも、私は大きな勘違いをしていた。
彼女がうわべだけは清潔だが実際は汚らわしい雌猫である、という事実を誤解していたのだ。
雌猫は私をうまく出し抜いてお兄ちゃんを自分の玩具にでもしようと思っているに違いない。
でも、そんな奇襲が通用するわけがないよ。だって、お兄ちゃんが私を捨てるなんてことはありえないから。
お兄ちゃんは私の胸の中で眠ることはあっても、わざわざ猫の家に入るはずがない。
さっき、私はお兄ちゃんに何かあるといけないから、と言ったけれども、問題の温床になるのは雌猫さんなんだよ?
今、お兄ちゃんは悪い悪い雌猫さんにだまされているだけだよね?
当然、お兄ちゃんの本意からの行動じゃないはずだよね。
心優しく良識的な、お兄ちゃんだもの、きっと相手を傷つけないために気を遣っているだけのはず。
もし、もう既に毒気にあてられているなら、解毒剤を作って、猫さんを駆除する薬をすぐに作ってあげるからね。
そうすれば、いつもの優しい、私だけを見続けてくれる、『お兄ちゃん』になってくれるよね?


321 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/05/11(金) 02:02:18 ID:Nqnf7ECO
これまでにも既に何回か訪れた北方さんの家だが、視界を完全に遮る高い壁、重厚で威圧感あふれる威風堂々とした母屋、落ち着いた佇まいの中に季節を感じさせる整った純和風の庭。
この物々しさには一般庶民の自分には馴染めるものであろうはずがなく、ただただ圧倒されるばかりであった。
「松本君。来ないのかしら?」
いやはや、圧倒されるを通り越して呆然としているようにでもとられましたかね?

今日はいつもの客間には通されずに北方さん自身の部屋に通された。玄関の靴箱にいくつか大人用の靴があったから、おそらく彼女の両親の仕事の関係なんだろう。まあ、僕には関係のないことだが・・・。

北方さんの部屋は和室で几帳面に片付けられており、本棚には所狭しと活字の本が埋め尽くされており、どれもラノベと漫画で長年熟成されてきた脳の思考回路ではオーバーヒートしてしまいそうな内容の本だった。
その部屋からは、よくある女の子女の子したそれではなく、非常に瀟洒な印象を受けた。
部屋の状態が頭の中身、だと物の本で読んだが見事にそんな感じだ。



322 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/05/11(金) 02:02:58 ID:Nqnf7ECO
テーブルの近くには腰掛が二つしつらえてあり、そこに腰掛けるよう北方さんが勧めてきた。
「はい、この前の忘れ物よ。クスクス、悪いけれどもそのラノベ、読ませていただいたわ。」
例によって、唐突に忘れ物の話が振られたのですぐに何のことを言っているのか分からなかった。
忘れ物は読みかけのラノベだったのだが、内容としてはかなり脱力系の内容だったはずだ。
いかん、僕のキャラが頭の軽いやつ、ということになってしまうではないか!

「え、そんな本、北方さんには物足りないのでは?」
「いいえ、いろいろなジャンルの本を読むことは良いことだわ。」
この程度ならわざわざ北方さんの家で帰さなくてもいいのでは、という至極当たり前な疑問が今頃になって浮かんできた。別にこの程度なら、学校で帰してくれても良かったのに。
そんな事を考えていると、北方さんはお茶請けを用意するといって、部屋を出て行ってしまった。

もう一度、部屋の中を見回してみた。本棚には名前しか知らない哲学者の本、心理学、歴史やら政治やらの本が収納されていた。
次に目がいった飾り棚には掛け軸が掲げられ、茶道具がおいてあった。庭に面した窓の近くに机があり、その周辺に学校の教科書や参考書があった。
この部屋に入って、部屋の主が女の子という以前に学生から逸脱しているような気がするのはおそらく僕だけではないだろう。
机の端のほうに置かれていた写真立てに彼女が家族と写った写真があったが、こういうところを見るとやはり彼女も普通の女の子らしい一面もあるのだな、などと思い片頬を緩ませる。
それから、机の上に置かれていた真紅のハードカバーの本に目がいった。
本の題名は”Albtraum”となっていて、英語とは違う感じなので意味が分からなかったが、その豪華な装丁から普通の本でないことは分かる。



323 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/05/11(金) 02:03:49 ID:Nqnf7ECO
何とはなしにページを送っていると、北方さんが部屋に戻ってきた。
その本を僕が読んでいるのに気がついて話しかけてきた。
「その本に興味を持ったのかしら?」
「まあ、少し。でも、僕に理解できるわけがない。」
「その本の題名はアルプトラウム―。ドイツ語で『悪夢』って意味よ。」
「アルプト・・・?」
本の内容を分かりやすくかいつまんで僕に話してくれた。何でも、
ドイツのグリム童話の一つである、髪長姫とかいう話のアンソロジー的内容で、グリム童話といえば、白雪姫に出てくる王子のネクロフィリアのようにアンダーグラウンドについても深い内容だといわれるが、この本もそういった方面に目を向けた小説だった。

そんな本の話やら、彼女の趣味の話やらをしているといつものように日が暮れてしまっていた。
そろそろ帰ろうかと変える頃合を見計らっていると、誰かが部屋の扉をノックしてきた。
北方さんがどうぞ、と言うとやや白髪が混じってごま塩頭になっている男が入ってきた。
写真に写っていた人にそっくりだったので、おそらく彼は彼女の父親だろう。
「どうも、君の名前は・・・松本君、だったかな?」
「ああ、はい。松本弘行です。お邪魔してます。」


324 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/05/11(金) 02:04:52 ID:Nqnf7ECO
そういうと、僕は彼に連れられて自身の書斎に入っていった。
基本的に部屋の内装は時雨さんのものと同じようだ。
お茶を僕に勧めると、彼は取りとめもない世間話を始めたが、暫くすると彼女の話になった。
おそらく、これが本題であろう。
「いつも学校で、娘がお世話になっているそうだね。」
「そうでもないですよ。僕なんかは逆に迷惑をかけているかもしれないです。」
そういうと彼は、ははは、と静かに笑った。
「時雨は君も知ってのとおり、人付き合いが苦手でね、今まで同性の友人ですら連れてこなかったものだった。」
「でも、君が良くしてくれるようで、最近、娘が家でも明るくなってきたようで、本当に君には感謝している。」
同性の友人すら家に呼んだことがない、そう確かに彼は言った。それはやはり尋常ではない。
いったい何があって、彼女は人付き合いが苦手になってしまったのだろうか。
「本当にこれからも娘と仲良くしてやってくれ。あの子の話し相手は君だけなのだ。情けないことだが、私は時雨に嫌われているようでね。あの子には母もいないし、話し相手が必要なのだよ。」
うなるような声でゆっくりとそう述べた。

しかし、母もいないし、というところは驚きであった。
そんな話を彼女から一度も聞いていないし、こちらから聞いてもいないのだから、
知らなくても当然といえば当然だが。ふと机の上の写真が反芻される。
あの写真には確かに母親らしき人物は写されておらず、父親とも微妙な間を置いて写真に写っていた。
もし、それが昔からの彼女の家族の状態だというのなら、これほど悲しいことはない。



325 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/05/11(金) 02:05:44 ID:Nqnf7ECO
「母がいない、とは?」
「ああ、娘から聞いていないのか。時雨の母、まあ私の妻だが、妻は恥ずかしい話なのだが、私が家庭をないがしろにしたせいで精神をわずらっていてね。長らく、精神病院に入院していたが、二年前に他界したよ。
さらに妻は、実の娘でありながら時雨のことをひどく嫌っていた。
時折ひどい折檻を時雨は受けていたのだが、私自身知っていながら、どうすることもできずに、放っておいた。
それで時雨に嫌われているのだから、当然の報いなのだが・・・。」


それから、彼はにぎやかに夕食を三人で取りたいと提案したので、せっかくなのでご相伴させてもらった。
北方さんは父と一緒に食事をすることに難色を示していたが、僕も一緒であることを知って承諾した。
食事は非常に良いものであったのだろうが、あまり美味しく感じられなかったのはさっきの話が原因だろう。
北方さんにこんな辛く、悲しい過去があったとは知らなかった。
僕などは家族内にこれといった問題もなく、これがごくごく普通の家族だと思っていたが、実際はそうではないのだ。
彼女のような不運な例も世の中には山ほどある。
自分がいかに非力とはいえ、自分から僕にアプローチして立ち直ろうとしている、時雨さんの助けになりたいと思った。