349 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/05/14(月) 00:10:05 ID:Phq6Y94j
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第十一話~前世の否定~
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 目隠しをされたうえベッドに長時間縛り付けられていると、無性に不安な気分にさせられる。

 もしかしたら目隠しを隔てた向こう側には刃物を持った殺人鬼がいて、俺をどうやって殺そうか
考えているのかもしれない。
 身じろぎをしただけで殺されるかと思うと、うかつには首を動かすこともできない。
 それとも、どこか人目につかない場所にベッドごと閉じ込められているのかもしれない。
 もし誰も来なかったら、この惨めな状態のまま死んでしまうだろう。

 不意に、ベッドの下や天井を這うムカデやゴキブリの姿を想像してしまった。
 無数の足を持った黒い虫たちがベッドの足を登って、または天井から落下して俺の体にやってくる。
 奴らはうじゃうじゃと体中のあらゆる穴へと入り込んでいくが、手足の自由を奪われている俺は
成す術もなく害虫たちに蹂躙し尽くされてしまい、やがてショック死を迎えるだろう。

 もちろん全部が俺の想像だが、何十分、何時間も横になっていれば無駄なことを考えてしまう。
 暇だったら歌でも歌って気分をごまかそうかと思ったが、近くに誰かいたら恥ずかしいし
他人から同情を買ってようやく褒められるくらいの歌唱力しか持っていない俺は沈黙していた。
 無駄な想像や馬鹿な行動以外にも、頭を使って考えるべきことはある。
 俺をこんな状態にした張本人、菊川かなこさんについて。

 彼女は俺のことを以前から、というよりもかなり昔から関係があったかのように言う。
 それもただの知り合いや友達では無く、まるで恋人だったかのように。
 俺が誰にも話していないようなこと(俺の体の弱点や、口でアレをされるのは好きじゃないという性癖とか)
を彼女は当たり前のように、確信に満ちた声音で口にした。
 そのせいで、過去にかなこさんと付き合っていたのではないかと自分を疑ってしまった。

 しかし、最初の記憶にある幼稚園の送迎バスに揺られているところから、頭脳と身体にアンバランスな
パラメータ振り分けがされていった10数年の回想を何度繰り返しても思い当たるフシが無い。
 俺の記憶が渡り鳥に乗って日本を飛び出してアジアのどこかへ向かっていったのかもしれないが、
そんなものを抱えて越冬しようなどとはニワトリの脳でも考えまい。
 つまり、俺がかなこさんと会ったのは、図書館で顔を合わせたときが初めてで間違いない。

 ここまで考えて、俺の脳の回転は停滞した。
 最後に辿り着くのは、俺はかなこさんと顔見知り程度の仲でしかない、という現状認識。
 その程度の仲だというのに彼女は俺を部屋に連れ込んで犯したうえ、このベッドに縛り付けた。
 何度考えてもそこで止まり、その先にあるはずの動機を掴み取れない。

 まったくわけがわからない。
 俺の偏った審美眼が10点満点をつけて賞賛するいかにもなお嬢様な雰囲気を纏った女性が、
知り合って間もなくどこの馬の骨ともしれない――自分でも言うのも変だが――男を監禁する、
という喜ぶべきなのか嘆くべきなのか迷うこのシチュエーション。
 かなこさんが俺を監禁した理由は、彼女は俺を好きだからだ、ということで納得できる。
 しかし、何故惚れられたのか、それがわからないのだ。



351 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/05/14(月) 00:12:28 ID:Phq6Y94j
 ガチャリ、と音がして誰かが部屋に入ってくる気配がした。
 足音はしなかった。聞こえてきたのは、トン トン トン、という空気を伝わる軽い音だった。
 その音が自分の方に近づいてきて、みぞおちの辺りにもどかしい不安を感じとったところで音は止まった。
 続いて左側にベッドが軽く傾くと、陶器のカップにスプーンを入れたときの音がした。
 チィン、とも、チン、とも表せる小さな音。

 その音の正体が物騒なものでないことを祈っていると、視覚を覆っていた目隠しの布が外されて
閉じたまぶたの向こうに光の気配を感じられた。
 数秒かけて目を光に慣れさせてから開くと、なんとなく予想していた通りにかなこさんが目の前にいた。
 ベッドの左縁に腰掛けて俺の顔を緩やかな笑みで見つめている。
「おはようございます、雄志様。よい夢をご覧になれましたか?」
 おはようございます、と言ったということは今は朝か。
 でもパーティの翌日の朝なのか、それとも何日も経ってしまっているのかはわからないな。

「なぜ、不安な表情をしておられるのですか? 何一つ心配などしなくてもよろしいのに」
 かなこさんの嬉しそうな顔が俺の視界を寡占すると同時に、一度唇が触れ合った。
 俺がここにいることを、その行動で確かめるように。
 くちづけの後で彼女は頬に薄紅を浮かび上がらせて、感嘆したようなため息をついた。
「ああ……本当に、雄志様がわたくしの傍に来てくださっている……。
 そして、もう引き離されることがないなんて。なんという幸せものなんでしょう、わたくしは」
 そう言いながら彼女は俺の体を跨いで上に乗り、ベッドに縛り付けられた俺の体を抱いた。
 真上に乗られているのに、布団か何かであるかのように重さを感じない。
 ちなみに俺は全裸の状態で、白いシーツを体の上にかぶされている。
 彼女の手が俺の背中から胸までを余すところなく撫で回し、かろうじて胴体を隠していたシーツを捲りとった。
 俺を見下ろす彼女の口からは透明な液体が垂れていて、荒い息が一定間隔で吐き出されていた。

「辛抱、たまりませんわ。……雄志様、お食事の前にもう一度体を重ねましょう」
 食事とはなんのことだ、と思って左に視線を向けると、ベッド脇に置いてあるテーブルの上にトレイが
置かれていて、その上にはサンドイッチらしきものとコーヒーカップが1つ乗っていた。
 かなこさんは俺のために朝食を持ってきてくれたのだろうが、どうやらその目的すら忘れてしまっている
ようで、身に着けている上着に手をかけて脱ごうとしていた。
 その先に何が行われるのか予測できていた俺は、
「待ってください!」
 と、何も考えずに声を出した。

 だが、きょとんとする彼女を制止してから、二の句を継げなくなった。
 なんと言えば、彼女の興味をそらすことができるんだ――?

「わたくしを、拒むのですか?」
 言葉を探しているうちにかなこさんの表情が険しくなってきた。
 緩やかな変化ではあったが、彼女の目は数秒前と比較すると明らかに違う色に変わっていた。
 とろけるように潤んだ瞳から、俺を射抜くような冷たい瞳へと。
 まずい。何か言わないと――



353 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/05/14(月) 00:13:44 ID:Phq6Y94j
「えっと……あの、なんで俺はベッドに縛られているんですか?」
 間抜けな質問だとは思う。だが咄嗟に出せる質問はこれしかなかった。
「決まっているではありませんか。雄志様を一生お世話するために、ですわ」
「へ……」
「そして、二度とわたくしのもとから離れさせないため、でもあります」

 また、口にした。俺は知らないのに、かなこさんは知っている俺の過去の断片。
 二度、と彼女は言った。それはつまり一度目があったということだ。
 そうだった。俺が彼女に聞いておかなければいけないことは、過去のことについてだった。

「これから俺がする質問に、真剣に答えてもらっていいですか」
「ええ、もちろんですわ」
 即座に返答された。その躊躇いの無い返答から鑑みて、彼女が嘘を吐かないと確信した。

「俺と初めて会ったのは、どこでしたか?」
 図書館で初めて出会った、と俺なら答える。しかしかなこさんは、
「その頃のわたくしはとても幼かったからはっきりとは覚えておりませんが、城内だったことは覚えていますわ」
 まったくの予想外の返答をしてきた。
 いや、予想外の返答をしてくること自体は予想していたのだが。
 城内?それとも場内?今の発音からすると城内、だったように思うが……。
 それに、幼かったころだって?いったい何歳ごろのことを言っているんだ。

「……俺との付き合いは、どれぐらいになりますか?」
「初めてお会いしたときから数えれば、今日で34年10ヶ月と3日になりますわ。
 雄志様は覚えておられないのですか? わたくしは3つの頃からずっと数えてきたというのに」
 34年!?それに3つの頃から?
 だとしたら、かなこさんは37歳になるが……どう考えてもそれはないだろう。
 何より俺はまだ24だ。37になるまで13年ばかり足りない。

「城内にいた頃に13年、この時代で21年を過ごしました。
 しかし、この時代では1ヶ月もお会いしていないので正確には13年、となるかもしれませんが」
 ……何か、おかしい。
 かなこさんの返答がおかしいというのもあるが、俺と彼女の間に何か大きなものが隔たっていて、
それが俺の理解を妨げているような気がする。

 城内にいた頃と、この時代でのかなこさん。
 この時代以前に存在していた、もう1人の俺。
 ――そういや、結構昔に読んだ本に似たような設定があったな。
 前世で引き裂かれたカップルが再会して、結ばれるとかいうご都合主義のストーリーだった。
 そういえば、かなこさんが図書館で探し求めていた本に登場する殺された姫と護衛役は、その本の
主人公とヒロインに繋げようとすれば繋げることができる。
 まさか、そんなはずが。いや、もしかしたら……。

 こんな頭を疑われるようなことは聞きたくない。聞きたくないが――聞かなければ話が進まない。
「もしかして前世で俺がかなこさんと知り合っていたとか、無いですよね?」
 俺は、今の言葉を聞いたかなこさんが俺をかわいそうな人を見る目で見ていることを期待した、が。



354 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/05/14(月) 00:14:54 ID:Phq6Y94j
「やはり、覚えていらっしゃったのですね……」
 彼女は目に涙を一杯に溜めて、震える両手を組み合わせて胸の前に持ってきていた。
「その通りです。わたくしと雄志様は、前世で将来を誓い合っておりました。
 雄志様はわたくしの護衛であると同時に、恋人でもあったのです」
 唖然とした俺の顔を見つめながら、かなこさんは涙を流しはじめた。

 彼女の流す涙はとめどなく流れだしていて、止まる気配を見せないところから嘘泣きだということは
考えられないが、それはつまり彼女の言葉が嘘ではないことの証明でもあった。
 かなこさんの嗚咽はその頻度を増していて、今にも泣き声へと変わろうとしていた。

 両腕が動けば彼女の涙を拭ったりしたのかもしれないが、あいにく今の会話のやりとりで明らかにされた
前世云々の設定を理解することに必死で、そうはできなかっただろう。
 それほど頭が混乱していた。同時に呆れてもいた。
 かなこさんと初めて会った日に連れて行かされた料亭で聞かされた前世を信じるかどうか会話を、
まさか本気でされるとは思わなかった。
 ましてや俺にあの本の武士役を俺に当てはめられるなど、予想外の極みだ。
 それだけの理由で監禁されていたのか、俺は。

 かなこさんは俺がその護衛役の武士だったころの記憶を思い出した、とでも思っているのだろうが、
俺の頭の中は曇り空が広がっていてその中をカラスが飛び回っているところだった。
 三点リーダしか浮かばない。なんだ、これは。
 何故俺の知らない間に俺に関する奇天烈な設定がかなこさんの頭の中で展開しているんだ?
 目の前で涙を流す女性には悪いが、前世の記憶など何も呼び起こされない。
 これがご都合主義な本ならばここで俺の頭に電流でも流れて、お姫様との関係を育んでいって、
障害に遭いながらもハッピーエンドへと邁進していくのだろう。
 かなこさんの脳内ではすでにその光景が広がっているに違いない。

「雄志様は、これからずっと……わたくしと一緒にいて……愛してくださるのですね。
 本当に思い出して……くださるなんて。わたくしの想いが、伝わるなんて……」
 かなこさんは俺がそう思っていることに気づくことなく、涙を流している。
 まずいぞ。初めて会った日からどこか彼女は変わっていると思っていたが、さすがにここまで
いくともはや危険すら感じる。
 どうする。逃げようにも四肢をベッドに固定されていては逃亡不可能だ。
 だが、このままでは俺は前世で恋人同士だったからという理由でかなこさんと結婚でもさせられかねない。

 かなこさんと結婚する――もしそうなったら俺の人生がいい方向に進むことは保証されるだろう。
 政治的な影響力まで持っているらしい菊川家だ。そこの長女と結婚すれば、親類同士のいざこざは
あっても裕福な暮らしを送れるのは間違いない。
 今のように六畳一間のアパートに住むフリーターから、一気に資産持ちへとランクアップだ。
 その結婚に両親は反対などしないだろう。
 基本的に俺を放任している人たちだから、俺が誰と結婚しても反対などしないだろうし、その相手が
大金持ちであったらむしろ結婚を推すに決まっている。
 かなこさんを受け入れてしまってもいいんじゃないのか?
 誰も反対などしないだろうし――香織と華はどうするかわからないが、あの2人も俺が自分の意思で
かなこさんを選んだと知れば何も言わないだろう。

 どうする。かなこさんを受け入れるのか、それとも否定するのか。



355 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/05/14(月) 00:15:41 ID:Phq6Y94j
 ………………。
 俺は――やっぱり嫌、というよりは無理だな。
 前世で恋人だったという理由で恋人になり結婚するなど、俺は御免だ。
 なにより、俺の前世が武士だったりすることなどありえない。かなこさんの勘違いだ。
 仮にかなこさんの言うとおりだったとしても、俺は結婚などしたくない。
 そう思うのは前世の記憶が無いからかもしれない。
 だが事実無根である以上、彼女を受け入れることなどできない。

 そう結論付けたところでかなこさんを見ると、彼女の口から漏れていた嗚咽は止まっていた。
 そして俺の顔へ目を瞑って接近してこようとするが、
「待ってください」
 と、俺は本日二度目の制止の声を上げた。今度は否定の意思を込めて。
「……俺は、あなたが想っている人物じゃないです」
 目前にあるかなこさんの顔から、喜びの色が減り始めた。

「勘違いですよ。俺が前世でかなこさんと恋人だったなんて、ありえません」
「ぇ……冗談でございましょう?
 雄志様のお姿も、性格もすべてあの頃のままで……」
「それが勘違いなんですよ。
 きっと他人の空似です。だって、俺には前世の記憶なんて無いんですから」
 諭すような口調で言ったつもりだった。
 しかし、かなこさんは俺の言葉を信じていないようで、小さくかぶりを振っていた。
「勘違いしているのは、雄志様のほうですわ。
 間違いなく、雄志様はわたくしと前世で恋人だったのです。
 その事実は、絶対に覆ることなどありえません。
 あ……わかりましたわ。わたくしをからかっているのでしょう?」
「いえ、ですから」
「焦らすのはおやめください。もう、わたくしは我慢などできませんわ」

 目の前にあるかなこさんの顔が再び近づいてきたので――俺は、無言で彼女の唇をよけるように顔をそらした。
「いまさら恥ずかしがらずとも。昨夜は一晩中まぐわった仲ではありませんか」
 彼女には、俺の行動の真意など伝わっていないようだった。
 彼女を傷つけまいと今まで言うことを躊躇っていたが、このままでは同じことの繰り返しだ。
 ――もう、終わりにしよう。



356 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/05/14(月) 00:16:26 ID:Phq6Y94j
「こんなの、やめてください。
 前も言ったでしょう。俺は運命とか前世とか、そんなことは信じていません。全部嘘っぱちです。
 そんなもの、人の幻想で――」
「雄志様っ!!!」
 言葉を途中で遮られると同時に、彼女が俺の首に手をかけた。
 喉を強く圧迫され、呼吸を、血の流れを強制的に止められた。
 悪寒が脳に、体に走る。

 両手の動きを封じられた俺には彼女を止める術などなく、その苦痛を受け入れることしかできない。
 かなこさんの瞳には俺の顔どころか一切の光も映していなかった。輝きの無い瞳。
 その不穏な眼差しから読み取れるものなどなかったが、それが彼女の行動の目的を際立たせていた。
 ――かなこさんは、俺を殺そうとしている。

 呼吸ができない。たった今も締め続けられている喉は空気を通さない。
 かろうじて動く口でやめてくれ、と言ったつもりだったが声など出るはずもない。
 かなこさんの目は淡々と、まっすぐに俺を見つめたままだ。
 彼女の手の力が緩められなければ、間違いなく俺は死ぬ。

「以前、お食事をご一緒したときにわたくしは伝えたはずです。
 運命から目をそらし逃れようとしたものは、その運命に押し潰される、と。
 雄志様は、わたくしからは逃れられないのですよ」

 鼻と目から血が噴き出しそうだ。息を吸いたい。頼む、呼吸をさせてくれ。
 
「これで雄志様は永遠に、わたくしのものですわ――――」

 目の前が霞む。体が冷たくなってきた。もう、だめか――



357 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/05/14(月) 00:17:57 ID:Phq6Y94j
 と思った瞬間、いきなり首が開放されて、呼吸が自由になった。
 息を大量に吸い込むと、体中の感覚が復活した。
 それと同時に、目の前にあったはずのかなこさんの顔がなくなっていたことに気づいた。
 いや、顔だけではなく、体の上に乗っていたはずのかなこさんの体までがどこかへいっていた。

 息を吸えるありがたさを実感しながら乱れた呼吸を鎮めていると、左に誰かの気配を感じた。
 おそるおそるその人物を確かめる。
 そして、驚いた。思わず、ゲッ、と言ってしまうところだった。
 なぜ、こいつがここにいるのだろうか。
 この場に誰が来ても納得などできなかっただろうが、だからといってこいつがここにいることへの
疑念がなくなるわけではない。

 昨晩までパーティ用のドレスを着ていたはずだが、今は藍色と白で構成されたエプロンドレスを着ている。
 心配に思えるほどに細い腰のラインがよくわかる。
 普段は眼鏡をかけているが、今はかけていない。もしかしたらあの縁無し眼鏡は伊達だったのかもしれない。
 リボンでまとめられていた髪の毛は、今は結構長めの三つ編みになっていた。三つ編みも悪くないな。
 普段は化粧をしていないそいつの唇が赤くなっているのを見て、こいつの格好がいつもと違うのは
変装しているからか、ということに気づいた。

 家政婦に変装したその女は、ゆっくりと振り返くとまず俺の両手足の縄を解いてくれた。
 久しぶりに自由になった体を起こす。その女に声をかけようとしたら、いきなり服を投げつけられた。
 顔を背けたその女の頬は、普段より朱がさしていた。

「早く服を着てください、おにいさん。この部屋から逃げますよ」
 俺のことを「おにいさん」との呼称で呼ぶ人間は現時点で1人しかいない。
 従妹であり、幼馴染である、この女――現大園華だけである。



358 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/05/14(月) 00:19:41 ID:Phq6Y94j
 華に背を向けて下着、シャツ、スーツの順に身に着ける。ネクタイは外しておこう。
 服を着ていると安心感が生まれて落ち着くものだ、と初めて気づいた。
 命の危機にさらされると今まで当たり前にやっていたことの何もかもが貴重なものに思えてくる。
 この感覚は大事にしたいが、もう二度と首を絞められたくはない。

「よし、もう着替え終わったから、こっち向いていいぞ」
 そう言って振り向くと、すでに華の顔が俺に向けられていた。
「なぜ、顔が赤くなっているんだ」
「なんでもないです。別に着替えを見ていたりとかはしていませんから、安心してください」
 ……そういった蛇足はむしろ相手の疑念を強くさせるだけだと思うのだが。

「ところで、なんでお前がここにいるんだ。もうパーティは終わっているんだろ」
「十本松先輩に忠告されたんですよ。かなこさんがおにいさんを監禁しようとしている、って。
 この屋敷の中にある十本松先輩の部屋に泊まって、変装してここに来たってわけです。
 まさかこの人がそこまで強引な手をとってくるとは思わなかったんですけど」
 そう言って後ろを向いた華の視線の先には、倒れ伏したかなこさんがいた。
 おそらく俺が解放された瞬間からあの状態なんだろうが、ぐったりとしたまま動かない。
「おい、大丈夫なのか?」
「気絶しているだけですよ。私はただ放り投げただけですから」
「放り投げたって、お前……」
「首に手を回して空中に投げました。首から着地しないかぎり死んだりはしませんよ」

 成人女性を放り投げたのか、こいつは?
 小さい頃から俺の後ろをついて回っていた幼馴染は、いつのまに武闘派へと成長をとげたんだ。
「私としては、あのまま一生目を覚まさないでほしいんですけどね」
「それはまずいだろ、さすがに……」
「まずいって、何がどう、まずいんですか」
「そりゃ、お前……?」
 なんだ、この違和感と、居心地を悪くするプレッシャーは?
「死んでもいいじゃありませんか。あんな女は」

 ……これか。華の体から放たれる不穏な気配と突き放すような声がその正体だ。
「おにいさんを監禁したんですよ、あの女は。
 昨晩何があったかなんて、私にだってわかりますよ。だからあえて聞きはしませんけどね。
 ですけど、私はそのことを許すつもりなんてありませんよ」
「華、お前、何を言って――」
「当たり前のことを言っているだけですよ。
 自分の好きな男性を寝取られて、心中穏やかでいられますか? 少なくとも私にそんなことはできません。
 憎しみしか覚えませんよ、あの女に対しては。
 女性に甘いおにいさんを部屋につれこんで、無理矢理行為に持ち込んで、そして奪い取ろうとする。
 そんな卑怯な手をとる女を許せるわけないでしょう!!!」

 腰がくだけそうだ。俺を見る華の目が、怖い。
 こんな風に考えたことなんか一度もないのに、俺は――心の底から華に恐怖していた。



359 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/05/14(月) 00:21:33 ID:Phq6Y94j
「さっき、あの場に1分でも遅れて到着していたら、おにいさんは死んでいました。
 私はおにいさんを守るって誓っていたのに……もう少しでその誓いを破るところでした」
 ベッドの右側にいる俺のもとへ、ベッドを迂回して華が近づいてきた。
 普段から華は無表情をベースに俺と会話をする。このときも無表情のままだった。
 だが、今ばかりは感情を読み取らせないその表情から、抑え切れていない怒りが噴出していた。
「でも、もう大丈夫ですよ。二度と他の邪魔者につけいる隙は与えませんから。
 だから、早くこの部屋から出てあの女から離れましょう、おにいさん」
 華の言葉を聞いて、悪寒と一緒に俺がさっき殺されかけたことを思い出した。
 かなこさんが起き上がる前にこの部屋から出ないと、また彼女に襲い掛かられるかもしれない。
 そうなる前にこの部屋から脱出しなければ。

 華が右手を俺の前に差し出した。俺がその手を握ろうとしたとき、唐突に空気を切り裂く音が聞こえてきた。
 反射的に手を引っ込めると、一瞬前まで手を伸ばしていた空間を何かが通り過ぎて、間を空けてくぐもった音がした。
 その音がした方を見る。右側の壁にかけてある油絵が、縦にまっすぐ伸びた線を入れられて台無しになっていた。
 油絵の下では、床の上に落ちた銀製のトレイがぐわんぐわん、と音を立てながら動き続けていた。

 トレイが飛んできた方向を見ると、斜め下へ向けてだらりと右手を伸ばしたかなこさんがベッドの向こうにいた。
 彼女の足元にはサンドイッチやカップが散らばっていて、こぼれたコーヒーが絨毯にしみをつくっていた。

「――逃がしませぬぞ、雄志様。いざとなれば、四肢を切り落としてでもこの部屋からは出しませぬ」
 その言葉が冗談じゃないということは、さっき俺を殺そうとした事実が証明している。
 どんな方法で切断するかはわからない。だが、彼女はやると言ったら本当に実行してしまうだろう。

「そんなことを、私が許すと思っているんですか」
 そう言った華の瞳はかなこさんの姿を捉えて、視線で焼き殺そうとしているようにも見えた。
 俺にその視線が向けられていたら、一言も声を発することなどできないが、
「この、泥棒猫が。わたくしから雄志様を奪おうとするなど……身の程をわきまえろ!」
 対峙するかなこさんの気は、一歩も引こうとしていない。
 空気が重くなっていくのを感じられる。息を吸うことすら躊躇いそうになる。



360 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/05/14(月) 00:24:45 ID:Phq6Y94j
「――おにいさん、先に部屋を出てください」
 華は俺に背を向けて、かなこさんの方へと歩き出した。
「待て! お前、一体何をする気だ!」
「あの女を、終わらせます。二度とおにいさんに近づけないようにしますから」
 終わらせる?まさか、殺す気か!?
 殺す、なんて簡単に使う言葉ではないけど、この場の空気では殺人がたやすく行われてしまいそうだ。
 いけない。人殺しなんて誰もしてはいけないけど、華がそれをするなんて絶対に駄目だ!

「お前も一緒に逃げよう! そうすればそんなことしなくてもいい!」
 華の肩に手を置いて歩みを止める。しかし、すぐにその手をはらわれた。
「止めないでください。あの女に、これ以上おにいさんの周りでうろちょろされたくないんです」
「だから、待てって言って――」
 もう一度手を伸ばしたとき、かなこさんの叫び声がした。
「雄志様にっ! 触れるなぁぁ!!」
 呪詛の言葉を吐きながら駆け出す女性の顔は、般若のように目が開いていて、白い歯が牙のようにむき出しになっていた。

「おにいさん、離れて!」
 華に強く突き飛ばされて、しりもちをついた。
 見上げたときの華は握り拳をつくって、腰を落としていた。
 この体勢から起き上がっても、もう2人を止めることはできない。
 ――間に合わない!
 目を瞑って下を向き、2人がぶつかる音が聞こえてくるのを覚悟して待った。


 しかし、聞こえてきたのは人がぶつかる音でもなく、
また2人のうちどちらかの声でもなく――鼓膜を破られそうな爆発音だった。

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最終更新:2011年05月26日 11:20