494 :向日葵になったら ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/05/23(水) 23:24:25 ID:hSICfvPU
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 僕の知り合いに、近所に住む仲のいい年上の女の子がいた。
 過去形にすべきではないのだけど、もう会おうとは思わないから過去形にすべきだろう。

 彼女の名前は橋口さつきといって、僕よりも3つ早く生まれていた。
 僕と、僕の同年代の友達はさつき姉、と彼女のことを呼んでいた。
 さつき姉と僕は、昔からとても仲が良かった。
 僕とさつき姉の家は、小さい子供が1人で歩いて行っても迷わずにたどり着けるくらいの
距離しか離れていなかった。
 だから、自然にお互いの家に行き来して遊ぶようになった。

 さつき姉が言うには、昔はよく僕の方から訪ねていっていたらしい。
 僕はよく覚えていないのだけど、たぶん真実なんだろう。
 さつき姉は僕のことで嘘を吐くような人ではなかったから。

 小学校に通っていた頃は、当然のようにお互い手を繋いで登校した。
 3年生の頃までは手を繋いで歩くことに抵抗が無かったけど、いつからか僕は
クラスの友達にからかわれるようになって、さつき姉と手を繋がなくなった。
 さつき姉は僕と無理矢理手を繋ごうとしてきたけど、手を繋ぐことを恥ずかしく
思っていた僕は、つい走って逃げてしまった。
 だけど、僕とさつき姉の仲が悪くなることはなかった。
 学校が休みの日と、学校からの帰り道ではよく一緒に遊んでいた。
 僕が持っている小さい頃の楽しい記憶のほとんどには、さつき姉が一緒だった。



495 :向日葵になったら ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/05/23(水) 23:27:05 ID:hSICfvPU
 よくやった遊びは、おいかけっこだった。
 さつき姉が鬼で、僕が逃げる役。
 僕の家の中と庭、さつき姉の(僕の家より大きい)家の中と広くて綺麗な庭、
学校から自宅までの帰り道、僕の家の裏にある雑木林の中、子供の足で入り
込めそうな場所は、ほぼ全てが追いかけっこの舞台になった。

 おいかけっこを始める前に、2人のどちらが勝ったらなにをする、という罰ゲーム
を毎回設定した。
 罰ゲームの内容はよく覚えていない。
 よく覚えていないということは、きっと身の危険をおびやかすほどのものは罰ゲームに
設定していなかったということだろう。
 もし危険なものであったら、僕の体にはもっと傷の跡がついているはずだ。
 僕と比べて、さつき姉の走りは圧倒的に上だった。

 僕がさつき姉を避け始めたのは、高校1年生のころだった。
 高校1年生の冬、僕はクラスメイトの女の子から告白されて付き合いだした。
 さつき姉は大学に通っていたけど、平日は相変わらず僕と一緒にいたし、
休日には僕の家へ遊びに来て部屋に居座った。
 クラスメイトの女の子は、家へ来るたびに僕の部屋に座っているさつき姉を目にした。
 僕に出来た初めての恋人は、ひと月もしないうちに自然消滅した。
 ちなみに、初めての恋人は僕が中学校の頃から好きで、彼女を目当てに一緒の
高校へ通うほど、強く想っていた女の子だった。



496 :向日葵になったら ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/05/23(水) 23:29:53 ID:hSICfvPU
 高校2年に進級した頃には、僕はさつき姉を無視するようになった。
 親の手前どうしても話さなければいけないときもあったけど、そんなときは
居心地の悪さを感じながらも、さつき姉とにこやかに会話した。
 高校3年生になってからは、受験勉強に忙しいという理由でさつき姉から逃げ回った。
 それでも僕の部屋のドアをノックするさつき姉に対抗して、僕は塾という安全な
逃げ場へと避難した。
 勉強の甲斐あって、僕は実家から遠く離れた大学の受験に合格した。

 1人暮らしを始めるアパートに引っ越す前日、僕はさつき姉と久しぶりに街へくりだした。
 さつき姉は、お店に入ったときは突き抜けるほど晴れ晴れとした笑顔を浮かべて、
公園のベンチで会話したときには自身の胸のうちを明かしながら涙を落とした。
 僕の人生で、寂しかったという単語を何度も繰り返し使われたのは、その時が初めてだった。

 翌日、僕は朝早くからバスと電車を乗り継いで新生活の舞台となる町へ向かった。
 本当は、前日にさつき姉と一緒に遊びにでかける約束を結んでいた(約束しなければ帰して
もらえなかった)のだが、僕は約束とため息を一緒にして、見知らぬ風景の空気へと吐き出した。

 アパートの住所は、さつき姉には教えなかった。
 両親にも、住所のことはさつき姉には教えないでくれ、と頼んでおいた。
 僕はさつき姉を忘れたかった。
 初恋の相手だった人に対して、これ以上冷たくあたりたくなかったからだ。

 そうして新しい生活が始まり、大学生活と1人暮らしの生活に慣れだしてそろそろアルバイトを
始めようかと考えているうちに、大学は夏季休暇へと移行していた。



497 :向日葵になったら ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/05/23(水) 23:31:23 ID:hSICfvPU
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 コンビニで求人情報誌と一緒に、缶コーヒーを購入する。
 自動ドアを通り抜けて外へ出ると、眩しい日差しと体にまとわりついてくる熱気が
額にじっとりとした汗を浮かび上がらせた。
 コンビニから自宅へ向かう途中には、小学校のグラウンドと同じぐらいの広さの公園がある。
 公園を取り囲むようにして緑の葉っぱを広げた木が立ち並び、公園の中心にある大きな木の周り
には芝生が広がっていて、芝生の上には犬と散歩をする人や色つきのボールを蹴る子供達がいた。

 公園の入り口近くにあるベンチに腰を下ろす。
 後ろに生えている木は太陽の光を上手に遮り、僕とベンチの周囲を暗くして、同時に地面から
立ち上る熱気を抑えてくれた。
 歩いているときとは違う風の心地よさを味わってから、まだ冷たい缶コーヒーを開けて口にする。
 微糖のコーヒーは乾いた喉にひっかかることなく流れていった。

 求人情報誌には、僕の住むアパートから歩いていっていける距離で働ける場所があった。
 めぼしい条件のページに折り目をつけながらコーヒーを飲んでいると、携帯電話に着信があった。
 見知らぬ番号ではあったが、090から始まる番号だったので通話ボタンを押して電話に出る。

「もしもし」

 と言っても、相手からの返事がなかった。
 一呼吸してから同じことを言おうとしたら、ツーツー、と音が聞こえてきた。
 間違い電話だったのだろう。僕は携帯電話をジーンズのポケットに入れて、コーヒーを飲み干した。



498 :向日葵になったら ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/05/23(水) 23:35:41 ID:hSICfvPU
 僕が住んでいるアパートは、公園から歩いて10分ほどの場所にある。
 10分とはいえ、今日の気温はこの夏の最高気温を記録しようかというほど高く、
Tシャツと下着は汗に濡れて、手に持ったハンカチは汗で重くなってしまっていた。

 僕の住む201号室は2階にあり、当然のように階段が立ちはだかっていた。
 階段を4つ登るごとに、僕は1回ずつハンカチで額の汗を拭う。
 階段を登る間に、額を4回拭った。2階に着いてから、もう一度額を拭う。
 201号室という名前のくせに、階段を登ってすぐの位置には203号室があり、
突き当たりまで行かないと僕の住む201号室はなかった。

 僕が向かう201号室の前には、女性が立っていた。
 女性は長い髪の上に白い帽子を被り、白いワンピースと白い靴を身に着けていた。
 肌の色も白で、違う色をしている部分といえばつややかな黒髪と薄紅の唇と、
ほっそりとした指に包み込まれた赤い携帯電話だけだった。

 女性は親指を動かしてから、携帯電話を持ちかえると耳につけた。
 途端、僕のポケットに入っている携帯電話が振動した。
 携帯電話を開いて画面を見ると、公園で着信のあった番号と同じ番号が表示されていた。
 呼吸を止めてからその場で立ち止まり、電話に応対する。

「……もしもし」

 なんとなく、慎重に声を出してしまった。
 僕が立ち尽くしていると、携帯電話の音声と共に女性らしき肉声が耳に届いた。

「ふふ、やぁっぱり、惣一の番号だった!」

 目の前にいる女性が僕の方を向いて、大声を出した。
 ちなみに惣一というのは、僕の名前だ。北河惣一、それが僕のフルネームだ。
 僕の名前を知っているのは、この町では大学の友達だけだが、目の前にいる女性は
大学でできた友達のいずれでもない。
 当然だろう。だって彼女は。

「久しぶりね、惣一。元気そうじゃない。
 てっきり私がいなくて寂しい生活を送っているんじゃないかと思ってたんだけど」

 懐かしい笑顔と、聞きなれた声と、変わらぬ容姿。
 携帯電話を切らずに、僕に語りかけてくる。
 女性の空いた手には、携帯電話会社から送られてくる料金案内の封筒が握られている。

「惣一のところに、遊びにきちゃった!」

 さつき姉――本名、橋口さつきが、1人暮らしを送る僕のところにやってきた。 

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最終更新:2008年08月23日 13:23