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64 :上書き ◆kNPkZ2h.ro [sage] :2007/06/30(土) 23:27:41 ID:Vw45L8oY
 ”本当の恐怖”を感じると、体は微動だにしてくれず、頭は悪い方向へどんどん想像を
膨らませていく――そんなことを聞いたことがある。
 正直それは違うと思っていた。恐怖を認識したらすぐにそこから逃げようとするだろう
し、必死に状況を打破する策を考える為に思考を巡らせもするはずだと信じていたから。
事実今まで加奈には結構”見られちゃマズイもの”を目撃されてきたけど、その度に俺は
何とか乗り切っていた。保健室での一件は島村の助け――今となってはそれが本意だった
のかは定かではないが――を借りて丸く収められたし、体育館裏でのことも島村に対して
敵意を露わにしていた加奈を結果的に宥められた。それは、それらの状況が全て言い訳や
最善の行動でとりあえずはどうにかなる程度のものだったからだ。逆に言えば、そのこと
がわかっていたからこそ、心に巣食う畏怖を騙しながら行動を起こすことができた……。
 ――つまり、俺が加奈を見据えたまま立ち上がることができないのは、今までのような
生温かいものじゃない”本当の恐怖”を覚えているからなんだろう。
 加奈に『上書き』されている時に似た冷え切った思考がそんな結論を導き出していた。
 俺が島村に”傷付けられている”という現実を目の当たりにして、加奈がどんな行動を
取ってくるかなんてわかっている。加奈は俺に掠り傷ですら付くのを許しはしなかった。
放っておけばすぐ治るような本当に小さい傷を”汚された証”と称し、”自分が付けた”
ということに『上書き』してくる。自分の好きな人に他の人間が触れてほしくないという
当たり前の欲求を歪に肥大化させてしまった、俺の唯一無二の想い人――城井加奈。その
彼女が、俺の体が屈折した手段で汚し続けられているのを見れば、”それ以上に屈折した
手段で、それ以上に浄化する為に、それ以上に傷付ければいい”と考えるのは目に見えて
いる。ただでさえ気を失いそうなほど暴行を加えられているというのに、それを更に凌駕
する苦痛を与えられたとしたら、俺は多分――。
 そんな末路をも冷静に受け止めることができるのは――受け入れるのを拒否して感覚が
麻痺しているだけかもしれないが――俺が諦観しているからだ。言い訳しようのない事態
を前にして、もう何をしても無駄だと心が訴えかけているんだ。今までと違い今回は加奈
に事の一部始終を見られてしまっている。どんなことを言ったとしても、それは加奈の耳
には届かないだろう。”今まで”と同じように。そして俺は『上書き』”される”……。
もしかしたら加害者の島村に対して何かするかもしれないが、だからといって俺の運命が
変わる訳でもない。結局俺の小ずるい努力なんて、二人の女の子を傷付けて、挙句の果て
は自身を破滅させるだけ……。滑稽過ぎる。何だか急に虚しくなってきた。今まで上手く
やっていけていたつもりだったが、それは俺のただの思い込みでしかなかったって訳か。
 視線の先で肩を震わす加奈の存在が、俺に奇妙な絶望感を煽ってきた。
 自分が恐い状況にあることはわかっているはずなのに、不思議と恐怖という実感が全然
湧かない。あまりにも大きい恐怖を感じることを心が拒否したということなのであろう。
俺、無意識下でも逃避している……。――そんな人間がどうして人を幸せにできるんだ?

「はは……」
 自嘲気味に笑いながら、せめてもの意地で加奈から目を逸らすことはしない。今逃げて
いる分際で下らない自尊心なんかを持ち合わせているからこんなことになったのかな、と
思いながらほぼ生気を失った視線を加奈に投げ掛け続ける。機能としてだけは見ることの
できる加奈の表情は、予想通り”受け入れ難い現実”を突きつけられたことで色を失って
いる。それが嵐の前の静けさということを知っているだけに穏やかな気分にはなれない。
 そんな顔を眺めていると――『上書き』してくる時もそうだが――、一つ疑問に思う。
 ――加奈はどうして俺のことが好きなんだ?
 こんな『幼馴染』ってだけしか接点がなく、目立ったような美点もないような俺なんか
の為に、どうして”そんな顔”をしてくれるんだ? どうして『上書き』してくるんだ?
 こんな疑問に答えなんてないのはわかっている。俺だってどうして加奈が好きなのかを
訊かれたら答えられない。だって、加奈とはずっと昔から一緒にいたし、それが当たり前
だと思っていたから。だが、俺の加奈への想いが思い込みなんかではないってことだけは
絶対に断言できる。
 そう、理由なんてあってないようなものだ。どんなに探したって、絶対だと言い切れる
ような解答がある訳がない。


65 :上書き ◆kNPkZ2h.ro [sage] :2007/06/30(土) 23:28:46 ID:Vw45L8oY
 それでも俺がそのことを追究したいと思うのは、自責の念に駆られているからだ。この
ままではこんなにも俺のことを好きでいてくれている加奈に申し訳が立たない。何もして
やれずただ膨張した独占欲の赴くまま『過ち』を犯させてしまった。誰よりも加奈のこと
を知っているはずだった俺が――確実に狂気に蝕まれている加奈の様子を見てきたこの俺
が――、一番近くにいた存在であるはずの俺が何一ついい方向に事を進められなかった。
 もう、この『罪』を抱えたまま死にたい。……いや、これから死ぬんだったっけ……。

「加奈さん……ッ!」
 近くから島村の声が聞こえる。顔こそ俺は見ていないが、さっきまでの不気味なまでの
冷静さはどこへやら、動揺を隠し切れていないのが声色からわかる。そんな不安定な声を
聞いていると嫌でも、二週間前俺が島村に”遅過ぎる告白”をした時の様子を思い出す。
 そこで不意に島村が俺のことを好きだという事実が脳裏に過ぎった。思い返せば、島村
も加奈と同じくらい俺のことを愛してくれていたのかもしれない。方向性こそ違えど、俺
を好きであるという点では加奈と同じ。そして今になってようやく気付いたが、結構加奈
と島村は似ている。二人共どっちかと言えばサディストなところとか、俺の為には形振り
構わないところとか――俺のせいで狂ってしまったところとか。
 俺は加奈だけに止まらず、島村のことも滅茶苦茶にしてしまったんだ。島村は俺のこと
を好きになった『きっかけ』があるようなことを匂わせていたが、どんな理由にせよ普通
彼女持ちの男を手に入れようと思うか? それほどの理由ってのは一体何なんだ……?
 興味はあるが、訊くほどの気力は最早残っていなかった。島村に痛みつけられた箇所の
苦痛のせいもあるが、何より心が後ろ向きな考えしかしてくれないのが一番辛い。恐怖を
感じることさえ放棄した完全な無気力状態――それが俺の結末だ。周りの人間を散々掻き
回した挙句、地面の上で無様に転がっているクズ男――俺に相応しい『最期』だったな。

「来ないで下さい……! まだ駄目なんです……まだ……まだ……」
 頼りなさそうに震える島村の声が耳に入ってくる。そこから感じ取ることのできる露骨
に動じた様子は、正直かなり人間味に溢れている気がした。今までの島村の周りへの対応
には殆ど『素』が感じられなかった。ただの無意識的な行動なのか、それともトラブルを
避ける為に他者と壁を隔てる手段なのか、理由はわからない。しかし、俺に怪我をさせて
しまって何度も心配をして声を掛けてきた時や、クラスの人間に自分と俺の関係を知られ
そうになって赤面していた時の島村には”それ”が感じられる。何の歪みもない、純粋な
一人の女の子としての一面を垣間見ることができる。それが、島村の真の姿なんだろう。
 ……あれ? そうなると、俺はとんでもない勘違い野郎ってことになる。
 俺は今まで危害を加えてくる島村の姿を『本性』として受け止めていた。しかし、実際
の島村は、いい意味で”普通の女の子”であって。俺は島村のことを理解せずに、自分の
都合に合わせて”良かれ”と勝手に思った道を選んでいた訳か。――最低だな。

「誠人くんは渡しません……! あなたになんか渡しません……絶対に」
 突如首に腕を絡まれたと思ったらそのまま体を起こされた。そして俺の体は島村の体へ
と引き寄せられる。痛いほど強い力で島村は俺を離すまいと言いたげに抱き抱えている。
その力に反して押し付けられた島村の体は柔らかい。ずっと嗅いでいたいと思えるほどの
いい匂いもする。そこに『性』の違いを改めて感じる。島村は普通の女の子だ。きっと俺
なんかに惚れさえしなければ、他の男と付き合って真っ当な幸せを歩んでいたんだろう。
そう思うと罪悪感を覚える。島村は俺のことをこんなに好いているというのに、俺は今の
今まで島村に対して『勘違い』をし続けていたのだ。愛を受ける資格なんて俺にはない。
 それでも島村の温かみに快楽を感じている自分に嫌悪しつつ、加奈に”最悪の光景”を
披露し続ける。今までの俺ならこんな状況を加奈に見られたらだとか色々考えて、すぐに
島村から離れていただろうな。それは自分の保身の為であり、加奈の為でもあった……。
 手遅れな現実を享受し、俺は諦観と共に目を瞑ろうとする――刹那。

 俺の目に映ったのは――。

 俺に背を向け、走り出していった加奈の姿だった。


66 :上書き ◆kNPkZ2h.ro [sage] :2007/06/30(土) 23:29:49 ID:Vw45L8oY
「加奈……!?」
 自然と呆けた声が漏れた。
 全く意味がわからない。加奈は俺を『上書き』する為に一目散に俺の下へ向かってくる
はずなのに、実際は俺に背を向けて行ってしまった。”今までの”加奈なら俺が傷付く様
を黙って見ているだけだなんて理性的な行動が取れる訳がない。それなのに何でなんだ?
 ほぼ事実だと認識していたはずの推測が引っくり返ってしまって、俺は戸惑っている。
 だけど、今俺の胸をじりじりと焼き焦しているのはそんな『疑念』だけではない。俺の
心を掻き回し、心臓を跳ね上がらせている真の要因――それは、『焦燥感』だ。
 加奈に『上書き』されることを半ば諦め気味に享受しようとしていた――腹の底では、
傷付くことを恐れていた――その俺が抱くにしては明らかに矛盾している感情だ。だって
このままおとなしくしていれば自分に危害を加える存在である加奈から離れられるのだ。
なのに、既に視界から消えてしまった加奈の姿を追いかけたいと思っているのは何故だ?

 ――馬鹿野郎。そんなの、加奈が好きだからに決まってるだろ。

 今まで呆れるほど痛感させられ続けたこと。俺はどんな加奈だって好きなんだ。たとえ
狂っていたとしても、そんなこと些細な問題でしかないと思えるくらいに。加奈を愛して
いる。だから失いたくない。離れていってほしくない。
 初めて俺を拒絶するかの如く逃げ去っていった加奈を見て、どうしようもない不安が俺
の心中を支配している。このままでは加奈を失ってしまうのではないかという恐怖が余計
に俺の焦燥感に油を注ぐ。早く行かないと、二度と元に戻れない気がしてならない。
 一緒にいるのが当たり前だった幼馴染を――加奈と離れてしまう。

 その最悪の光景が脳裏に過ぎった瞬間、泥沼の奥底へと沈み続けていた『力』が完全に
奮い起こされた。有り余るほどの『意志』が爆発して、数分前までの自分を死ぬまで殴り
続けてやりたい気分だ。俺は何をやっていたんだ? ”何をやっても無駄”と勝手な憶測
で無気力という逃避手段への理由を作って『努力』を怠たる、なんてふざけ過ぎた話だ。
 一番傷付いているのは、加奈なんだぞ? 『上書き』してくるのだって、俺が他の人に
傷付けられたことに――穢されたことに傷付いて、自分でその罪を被ってまで俺のことを
守ろうとしてくれているからだ。だけど、俺は油断が原因で傷を増やし続けた。それらを
何度も『上書き』していく内に、段々と制御が利かなくなっていて今の加奈が存在する。

 ――ということは、加奈を狂わしたのは、俺か?

 最低最悪の解答だった。加奈の狂気の循環を助長していたのが自分だってことくらいは
わかっていたが、加奈が奇行に走るそもそもの原因は加奈の内に秘める大きい独占欲だと
思っていた。だが実際は、根源すらも俺が作り出していたんだ。俺が加奈を無意識の内に
煽って、それに反応した加奈をまた煽って、の繰り返しだ。『罪』を被っているのが加奈
なのをいいことに、俺に『上書き』してくる加奈を”狂っている”と解釈して、”救う”
だとか最もらしいことほざいて正当化してたんだ。自分の『罪』から目を背けてたんだ。

「加奈……! 待ってくれ、加奈ッ!」
 恥も外聞もなく、対象のいない情けない声を張り上げる。行き場を失った音が静寂の中
に溶け込む虚しさに孤独感を感じつつ、そんなことを気に掛けている時じゃないと自らを
叱咤する。
 幸いにも俺は腐り切ってはいない。何故なら今の俺は、はっきりと思っているからだ。
”謝りたい”と。今までの過ちを受け入れそれを悔い改め、その被害者となってしまった
加奈に謝罪をしたいと心から思えているからだ。”とりあえず”なんて軽いものでなく、
誠意を以って加奈に自分の好意を示したいという想い。それを俺は感じられているのだ。
 後先なんてどうだっていい。加奈にとって最善であると思えることを遂行するまでだ。
 俺は体中から漲る力を使って起き上がろうとする。が、
「! ま、誠人くん!? どこに行く気ですか! まさか……」
 ほぼ本気で動こうとした俺の力は、それと同等かあるいはそれ以上の力によって虚しく
相殺されてしまう。そこでさっきまでの朧げな記憶が、俺が島村に抱き抱えられていると
いう事実を突きつけてきた。慌てて離してもらおうと島村の方へ顔だけを向ける。
「まさか、加奈さんのところへ行くんですか? まさかですよね、誠人くん……!?」
 今まで加奈のことだけで頭が一杯だったせいか、懐かしく感じさせた島村の顔は、余裕
の笑みで塗りつぶされていたものから、涙が悲嘆を彩るものへと様相を変えていた。


67 :上書き ◆kNPkZ2h.ro [sage] :2007/06/30(土) 23:31:26 ID:Vw45L8oY
「行かせませんよ……!」
 抱きつかれる力が急激に強まる。細い腕から出てるとは到底思えない強い力でより一層
拘束の手を強めてくる。言葉通り、絶対に逃がさないという意志が痛いほど感じ取れる。
 とはいっても女の子の力だ。本気を出せばすぐに腕の中から抜け出せるだろう。しかし
そうすることを俺が躊躇してしまったのは、涙に濡れた島村の顔を見てしまったが為だ。
その涙は俺が流させたものだ。誰も傷付けたくないと思いながら自分の保身も絶対に念頭
に置いていた、そんな利己的な俺の押しの弱さが招いた最悪の結果だ。そのことに対して
俺は責任を感じたいと欲しているのだ。”今すべきこと”から逃げ出す為の手段として。
 それだけは絶対に、死んでもしてはならないことだ。
「ちょっと待ってくれればいいんです。すぐに私は『加奈さん』になります。そうすれば
わかりますよ! 私と加奈さん、どっちがいいかってことが! 私は”今は”誠人くんに
痛い思いをさせてしまっていますが、誠人くんが私を愛してくれるというのであればもう
何もしません! ”それ以上のもの”は望みません! 私は加奈さんとは違うんですよ!
幸福を噛み締めることも知らずに、子供のように欲を露わにするあんな人とは違います!
だから! だから……!」
 島村が加奈を貶める発言をしていることに怒りはない。そんなことを言っているのは、
全て俺が原因なんだから。理性が理不尽な本能を押さえ込んでいる。今回だけはいつもの
呆れるくらい冷静な思考に感謝するしかないなと思いつつ、俺は体を思い切り捻る。
 その勢いで、島村はいとも簡単に俺の体から放り出される。女の子にそんな対応をして
しまうなんて申し訳ないと思いながら、自由になった体に溢れる力で即座に立ち上がり、
そのまま島村から数歩距離を取る。精神的動揺から来る動悸を抑えつつ島村を見下ろす。
 一瞬視線を泳がせた後俺を見つけて安堵したかの如く息を吐いた島村は、しかし緩んだ
口元とは裏腹に目を”信じられない”と訴えかけるように見開かせていた。制服を肌蹴て
涙を目の淵に溜めながら見上げてくる島村のその凄惨な姿を前に、またしても心中に常時
用意されている自堕落な道への一歩を踏み出しそうになるのを何とか堪える。
「島村……聞いてくれ」
 そして、優柔不断な過去の自分への決別の為に、俺は言葉を――紡いだ。
「俺はどんなことがあっても城井加奈を永遠に愛し続ける――それを、”お前に”誓う」
 ”最善にして最悪の手段”で、俺は島村を守り、そして傷付けた。
「……聞きたくない……聞きたくない……」
 体を震わしながら耳を塞ぎだした島村に、俺は更に残酷な仕打ちを続ける。
「頼む。聞いてくれ、島村。俺が好きなのは――」
「加奈さんなんですよね!?」
 地面に座り込んでいた島村が瞬間の内に立ち上がり、精一杯の声を投げかけてきた。腹
の底から、そして心の底から搾り出しているような嗚咽混じりの声は、俺の心を揺さぶる
には十分過ぎるほどのものだった。
「だから私は加奈さんになるんですよ! その私を誠人くんが好きになってさえくれれば
誠人くんは幸せになれます! してみせます! 姿形が同じ人間がいたとして、常に暴力
を振るうような人と相思相愛になれば愛情を注ぐ――その二人のどっちを取るんですか?
お願いですから正気になって下さい。”あの人”じゃ誠人くんを幸せにはできません!」
 捲し立てるように語り終えた島村は、胸の内にあった感情を全て吐き出したからか、肩
を上下させ怯えるような目線を俺に送っている。俺も視線を外さない。
 島村の言っていることは正しいのかもしれない。加奈を選べば俺はこれからもその狂気
に身震いしながら生活しなければならないのかもしれない。それよりは島村のような女と
普通の恋人生活を送った方が客観的に見れば幸せなのかもしれない。だが、幸せは個人の
問題だ。――俺の幸せは、俺が決める。
 一歩”前に”進みたい衝動を寸でのところで抑え、俺は一歩”後ろに”下がった。その
意図を理解した島村は、今まで天秤のように微妙な割合で揺れ動いていた表情を完全に黒
の絶望に歪ませた。そして俺は、その島村に追い討ちをかける。
「俺の幸せは――加奈を好きであり続けられることだ」
 膝を地面につけて崩れ落ちる島村を見つめ続けながら、最後に、最低の一言を告げた。

「俺のことが好きなら、その幸せを――叶えさせてくれ」

 そして――
「いやぁあああああ!!!!!」
 発狂の如き叫び声を発す島村に背を向け、俺は走り出した。
 一言だけ言わせてもらえるなら言わせて欲しい――”ごめん”って。


68 :上書き ◆kNPkZ2h.ro [sage] :2007/06/30(土) 23:32:23 ID:Vw45L8oY
 走る。頭の中でひたすら加奈の名前を連呼しながら。多分その様を”俺が”見たら非常
に無様なものに映るだろう。先程までのことを思い返せば、それは俺が泣かしてしまった
少女から逃げているようだから。勿論そんな気は全然ない。”加奈を追いかける”ことを
大義名分にして島村から逃げるだなんてことは絶対にしていない。そのことは断言できる
のだが、自分を好いてくれていた娘に対してあんな対応をしてしまったことに関しては心
を痛めずにはいられない。あれほど残酷な言葉をぶつけることが彼女にとって最良の対応
になってしまうまでの過程は俺が作り出したのだから、それに罪悪感を感じるなんて失礼
極まりないことだとはわかっている。だけど、それでもこんなことを思ってしまうんだ。
 ――二人共傷付けずに済む方法はなかったのか、って。
 今でもこべりついている”中途半端な優しさを振りまく偽善者”な俺がそう語りかけて
くる。しつこく言い聞かせていたはずの答えを無理矢理捻じ曲げようとする未練たらたら
な自分が未だに存在することが恥ずかしい。人間、どんなに表層的な余裕の態度を装えて
もそう本心をリセットすることなんてできないもんだ――そんな風に開き直れたらどんな
に楽なことか。当然島村に大きな傷を残してしまった俺なんかにはできないことだ。何年
もの間培ってきた甘ちゃんな俺がそれを許すはずがない。そう、俺が島村を傷付けたのは
事実だ。それでも――俺は”正しい道を歩めている”。自尊心や自己満足や、そういった
身勝手な感情に振り回されながらも、やっと正解への一途を辿っている。
 ――それでいい。
 たとえ心がついていけなくても、実際に周囲の人間に影響を及ぼす『行動』として俺は
頑張れている。今まで『自分』を軸にして考え行動してきた俺が、行動で以って他者への
労りを示せている。それは加奈が幸せになる為に俺が大いなる成長を遂げている証拠だ。
加奈の幸せを願う俺自信が良い方向に進めている。小さなことだがそれは重要なことだ。
 だから走る。もっと『正解』に近付く為に。

 ――ただ、一つだけ気掛かりなことがある。今は加奈を探すことに専念していて冷静に
思考できないからなのかもしれないが、さっきの島村の発言が妙に引っ掛かているのだ。
警鐘のように繰り返し聞こえてくるその言葉を整理してみるが、中々答えはわからない。
何か素通りしてはならないことを聞き落としているような気がしてならない。喉に小骨が
刺さっているようなその感覚に不快感を覚える。
 思い出せ。島村は何て言ってた?

「あ」
 しかし、漏れた自身の呆けた声が過去への回帰を中断させた。知らぬ間に上がっていた
息を整えながら、前方を見据える。
 いた。
 学校中至るところを探したが見つからなかった。友達に「帰ってた」と言われて荷物も
持たずに慌てて学校を飛び出した。いつもの通学路を隈なく見渡した。
 俺に”そこまで”させるほど大きい存在である――城井加奈がいた。
 俺と加奈が幾度となく談笑しながら登下校を繰り返した通学路の途中にある簡素な土手
の真ん中で佇んでいた。俺に背を向けているから表情はわからないが、俺がすべきことは
決まっている。再確認するまでもない。俺は躊躇なく一歩踏み出しながら叫ぶ。
「加奈ァーーッ!!」
 土手に響き渡る俺の声。加奈に届ける為に体中から搾り出した声。加奈はすぐにその声
に反応するように小さく体を震わした。そしてゆっくり体を九十度俺の方へ向けてきた。
それでも俯いたままの顔と長い黒髪が邪魔して、表情を見ることは叶わない。右半身だけ
をこちらに見せつけながら、加奈は無言でその場から動こうとはしない。俺までつられて
動くことが許されないような気がして数秒固まっていたが、すぐに業を煮やして重い足を
上げる。土手の急な傾斜を足早に下っていき、平地へと体を落ち着ける。
 俺がいる坂の末端部と、その反対側にある川との間にいる加奈との距離は十メートルも
ない。同じ間違いをし続けて、それでもここまで詰めた『正解』との距離。手を伸ばせば
届きそうな、それでいて果てしない距離。しかし”見えている”。道標があるから絶対に
迷うことのない光明への一本道。手放さない。貪欲で純粋な決意を胸に秘め、口を開く。
「加奈、俺――」
「――誠人くん」
 加奈と向き合ったらまず最初に言おうと思っていた謝罪の言葉。それは加奈の小さくも
聞き逃しようのない澄んだ声によってかき消された。俺に断ることなく、俯いたまま加奈
は続ける。
「あたし、守ったよ。『約束』」


69 :上書き ◆kNPkZ2h.ro [sage] :2007/06/30(土) 23:33:13 ID:Vw45L8oY
「――約束? 何言ってんだよ……」
「誠人くんが言ったんだよ。『誰も傷付けちゃ駄目だ』って」
 加奈のその言葉が、”あの日”のことを思い出させた。加奈を俺の家に泊めてお互いに
相手への愛を再確認し合った夜のことを。あの日、確かに俺は加奈にその約束をさせた。
それは加奈に自身の狂気を認めさせ、戒めとさせる為にやったことだ。それは理解できる
が、何故今そんなことを言い出すのかがわからない。その約束と加奈の行動とに一体何の
関連があるのかが全く見えてこない。加奈のことで”わからない”ことがあるという事実
が太い杭となり俺の胸に突き刺さる。その傷口から漏れ出す歯痒さに心が苛まれる。身を
焦がしながら、無言に徹するしか術のない自分に怒りを覚える。今まで如何に自分が加奈
との年月を無駄に垂れ流していたのか痛感させられる。それでも、深い自己嫌悪の闇の中
で無責任に感情を吐露し、自暴自棄に陥るなどという今までと同じ過ちを犯しはない。今
すべきことはそんな下らない自省なんかじゃないのだから。”わからなければ、知ろうと
すれば良い”――奇しくも今問題になっている”あの日”に俺が加奈に誓ったことが思い
起こされた。そう、”わからない”ことを嘆いていても前進はない。”わかろうとする”
ことの方がそれよりも大切なのだ。そのことを、自分本位に行動してきていたはずの過去
の俺は知っていた。
 そういうことを思えていたから完全に腐食し切らずに済んだのかと一人で納得しつつ、
視線を前方に固定したまま固唾を呑んで加奈を見守る。長い沈黙が俺と加奈だけの世界を
徐々に作り上げていくような妙な感覚を覚えていること数秒――その世界は壊された。

「だから何もしなかった。誠人くんが傷付いているのを見ても、『上書き』したくても、
我慢したんだよ。何度も何度も、言い聞かせたんだよ――『我慢できなかったら誠人くん
から嫌われちゃう』って……。そんなの耐えられない……誠人くんから嫌われちゃったら
あたし生きていけない。それでもあたしの中の汚い心は誠人くんを傷付けようとするから
……『上書き』したいしたいって騒ぐから……逃げるしかなかった。傷付いた誠人くんを
直視しないようにすれば”あたしの中のあたし”を抑えられると思って。誠人くんから、
逃げるようになっちゃったのはごめんなさい……。でも、”そうすれば”何とかあたしは
平生を保てる。誠人くんを傷付けずに済む……。”離れれば”いいんだよ……」

 ねぇ、と続けながら、加奈はようやく顔を上げた。そして、俺と目が合った瞬間、堰を
切ったように涙がその両目から零れた。顔だけでなく体もこちらへと向け、言葉だけでは
なく加奈は悲壮感を露わにした表情で俺に主張してくる。

「頑張ったよねあたし? 誠人くんの”望む通り”になれたよね!? 偉いよねあたし!
……だから、嫌わないで……。これからも誠人くんの言う通りにし続けるから、何だって
するから……だからお願い。あたしを嫌いにならないで……他の娘のとこ行っちゃったり
しないで……誠人くん。あたしを……あたしを彼女のままでいさせてっ!! お願い!」

 俺の両目を逃がすまいと見つめ続けてくる加奈。長い独白を終えた彼女は、全てを吐き
出した反動から感情の代わりに涙を流し続けながら咳き込むように嗚咽を漏らしている。
 その姿を見ながら俺は――打ちひしがれるしかなかった。
 俺はまたしても知らぬ間に罪を――それも、死に値する大罪を踏んでいた。俺が加奈に
させた約束は、彼女との未来を心配してのことだった。事実この約束が果たされれば、俺
の身の安全は保障されるし、加奈が過ちを犯すこともなくなる。二人の幸せの為ならば、
良い事尽くめの選択だ。だが、やはり過去の俺は『自分』を軸でしか物事を考えられては
いなかった。だから気付けなかった。その約束が加奈にとって――『鎖』になるってこと
に。
 それは残酷な『鎖』だ。加奈が俺の為なら何だってするなんてことはわかり切ってた。
だから、俺が「傷付けるな」と言えば加奈はそれに従う。でも、その無理矢理加奈の狂気
を抑え込む手段では、当然反発が返ってくる。その反発――俺を『上書き』したいという
衝動――を誤魔化す為に、加奈は「俺から離れればいい」と言った。確かにそうすれば、
加奈は限界ギリギリのところで理性を保っていられるのかもしれない。

 だが、これは明らかに本末転倒なことだ。

 だって、二人が幸せになる為に――、一緒になる為にやろうとしたことなのに、その為
に離れるだなんて、馬鹿げているにも程がある。


70 :上書き ◆kNPkZ2h.ro [sage] :2007/06/30(土) 23:35:29 ID:Vw45L8oY
 何でこんな矛盾が起こってしまったんだ?
 自問自答の答えはすぐに導き出された。簡単なこと。わかってしまえば何てことない。
 ――俺は、”変わろうとしなかった”。
 今まで俺は加奈を普通の女の子にしようということばかりに目を取られていた。しかし
加奈を変えようとしてはいたが、自分が変わろうとは一度もしなかった。表面では何度も
気合いを入れ直したようなフリして、実際は自分では努力せず加奈を自分の都合良い様に
変えようとしていた。自覚なしで。最も性質の悪い、無意識下の行動で。「加奈の為なら
何だってする」だなんて意気込んでおきながら、今まで一度も”狂気に呑まれた加奈”を
受け入れようとしていなかったのが何よりの証拠だ。肉体的な苦痛に意識を持っていかれ
て、俺への愛故に狂った加奈を愛しいと思えなかった。加奈の”いいところ”だけを見て
それだけを『加奈』だと認識していた。上辺だけで加奈を”決め付けていた”……。
「ふざけんじゃねぇ!!」
 気付けば叫んでいた。必死に我慢し続けていた自身への怒りがここにきて遂に臨界点を
越えてしまった。加奈は俺から嫌われない為に苦渋の選択をしようとした。加奈だけじゃ
ない。島村だって、自分を捨ててまで変わろうとした。皆、”手に入れる為”に最大限の
努力をしてきている。なのに俺は一人何をしてきた? 何もしなくても自分を好きでいて
くれる娘たちに依存して、俺は生意気に踏ん反り返ってたんじゃないか。
 そんな自分が情けなくて、許せなくて。
「ま、誠人くん? どうしたの? 泣いてるの?」
 加奈のその言葉を受け目を擦ってみると手に涙が付着した。どうやら本当に泣いている
ようだ。格好悪いと思いながら、俺はその涙を止めようとするようにに天を仰いでみる。
もう夕方らしく、空は茜色に染まっている。その澄み切った空模様を見ていると、何だか
心が浄化されていくような錯覚に陥る。そんなことはしてはいけなことだとわかっている
が、”今だけは”そう思わせて欲しい。
 ――これからすることを、せめて綺麗な心で終えたいから。
 一縷の願いと共に、俺は歩き出す。一歩一歩、加奈へと近付いて行く。
「誠人くん、駄目」
 加奈が目と言葉で俺のことを止めようとしてくる。その強い意志に満ちた力に屈すこと
なく、俺は歩を進めて行く。
「駄目だよ、誠人くん。そんなに近付いちゃあたし……」
 俺と歩調を合わせるように、加奈は後退りする。俺と視線を合わせたまま。その目線は
恐怖を感じているのか揺れている。俺が近付くことによって、俺が一方的に『駄目』だと
決めつけた”加奈の本当”が抑えられなくなると思っているのであろう。そして、それに
よって俺から嫌われることに、心底怯えているのだろう。
 加奈を恐がらせていることに罪悪感を感じつつも、足を止めることはない。
「来ないで……お願い、来ないで!」
 その叫びと共に加奈はゆっくりと後退っていた足を突然止め、制服のポケットから徐に
カッターを取り出した。見覚えのある形。それはそうだ。そいつは加奈が島村を切りつけ
ようとした時のものだから。
 俺を威嚇するように睨みつけながら、カッターの刃を素早く出してくる。僅かに覗く陽
の光が、その存在を際立たせるように照らし出している。簡単に人の命を奪える凶器――
それにさえ臆することなく突き進んで行く。
 加奈は驚きと戸惑いが混じったように表情を歪めながら、これ見よがしにカッターを俺
に突きつけてくる。きっと刃物を見せれば俺が止まると思ったのにそうならなかったから
状況を理解できないのだろう。だけどすぐわかる。これからその『答え』を示す。
「加奈」
 一言告げてもう一歩近付く。俺と加奈の距離は加奈の腕とその手に握られたカッターの
長さの分だけにまで狭まっていた。殺意をまるで感じさせないその刃物を一瞥してから、
俺は”これからすることへの理由”を述べた。
「ごめん……好きだ」
 そして、カッターを持った加奈の腕を掴み、それを――自分の首元へ刺し込んだ。
「え!?」
 加奈の驚いた声が聞こえたと同時に、首元に冷たさを感じた。その寸秒後、それは一瞬
で生暖かいものへと変わる。肌にべたつく気持ち悪い感覚と共に、何かが流れていく認識
を覚えた。
「誠人くん!? 誠人くん! ……」
 加奈の声が薄れかける。本格的にヤバイ。もたもたしていられない。このまま深い眠り
へと堕ちていきたい欲を抑えながら、俺はもう一頑張りする為に心の内で叱咤をする。
 もう声は出ないけど、行動で俺の気持ちを示す為に、喉下に刺さったカッターをすぐに
引き抜き――加奈にも突き刺した。


71 :上書き ◆kNPkZ2h.ro [sage] :2007/06/30(土) 23:36:32 ID:Vw45L8oY
 既に俺の返り血で制服を赤に染めていた加奈の首元から、勢い良く血が噴き出る。それ
が俺の体をも赤く染め上げていく。俺たちの周囲が俺たちの血で、俺たちの赤に染まる。

 これで良かったんだ。今まで加奈にばかり無理をさせて自分が変わる努力をしなかった
俺の、最後の思いやり――。”加奈を受け入れる”。一番簡単で、一番すべきはずのこと
を、俺はした。俺のことを『上書き』したいと願う加奈の願望を叶える為に、俺は自分の
身を捧げた。
 だけど、一時的な満足感に浸った後、加奈が罪悪感に苛まれ心を病むということは目に
見えていた。だから、加奈を将来的に苦しませない為に、加奈も殺すことにした。

 物凄く身勝手なことだってわかっている。もしかしたら加奈は生きててやり残したこと
があるのかもしれない。俺は加奈の『未来』を奪い去った。

 でも、これが間違った選択だなんて風には、微塵も思っていない。だって。

 目の前の加奈が、こんなに幸せそうに笑っているから。

 俺の血を浴びながら、共に死の実感を共有し合いながら、まるで一心同体だとでも言い
たそうな表情で、俺のことを見上げている。

 ――これこそ、俺たちが目指した『幸せ』なんじゃないだろうか?

 お互いに崩れ落ちながら先に倒れた加奈に覆いかぶさるように倒れる。加奈の温もりに
包まれながら逝ける――なんて幸せなことなんだろうか。

 きっと加奈もそう思っている。俺がそう思っているから。


「     」


 喉から息が漏れて言葉で伝えられなかったけど、きっと加奈には伝わったはずだ。俺の
言いたかったこと――理解してくれているよな?




 加奈のことを抱きながら、俺はようやく手に入れた幸せを噛み締めつつ、目を閉じた。




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