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142 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/07/07(土) 23:03:00 ID:ersBxxDh

   †



 これから話すのは、少しばかり奇妙な体験談だ。といっても、私の身に起きた
ことじゃない。お話の中に私が登場しないし、したとしても物語の本筋に関係の
ない脇役、語り手、通行人、そういった役くらいのものだ。あくまでも主人公は
私の友人である三角・徹で――これは徹の物語で、彼の体験談だ。
 他人の体験談を、私が語ることを許して欲しい。こればっかりは仕方のないこ
となのだ。なにせ、もう私以外に、あの事件について詳しく語るものはいないの
だから。
 当事者は、もう、どこにもいない。
 だからこれは、終わってしまったお話だ。体験談で、昔話で、御伽噺だ。
 どこか遠くでおきた、いつかどこかでおきた、少しだけ奇妙で、僅かばかりに
おぞましい、愛情の話だ。
 だから、語りだしは、自然とこうなる。
 すべての御伽噺は、こうして始まるのだから。



 昔々、あるところに――――




■ 狂人は愛を嘯く.Case1





143 :狂人は愛を嘯く.Case1 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/07/07(土) 23:19:47 ID:ersBxxDh

「これ、恋人」
 五月に入ったばかりの暑い日に、炎天下の下で三角・徹は前触れも前置きもなく、
いきなりそんなことを口にした。
 暑さのあまり、蜃気楼でも見たのかと思った。
 暑さのせいで、ボケてしまったのかと思った。
 それくらいに――唐突で、脈絡のない、話だった。
「……ふうん」
 それ以外に私にできる反応はなかった。むしろ、「ふうん」と返事を返せただけ
まともだったといえる。実際、私は「ふうん」の後に続く言葉を、何一つとして思
いつくことができなかった。
 私の返事が気に喰わないのか、それとも十分だと思ったのか、徹は何も言わない。
 徹の横に立つ女も――やはり、何も言わない。にこにこと笑って、傍に立っている。
「…………」
 二人が何も言わないので、私は黙ったままに視線をめぐらせた。まだ五月だというのに、
直射日光があたる場所は暑い。大学のキャンパスには人が溢れていて、大多数は日陰を選択
して歩いていた。日向にぽつんと立っている私たちは、少しばかり奇異に見えただろう。
 徹――さして古くもないが、そこそこの付き合いである彼はいつもと変わらない格好だった。
洒落っけはないが、清潔な格好。短く刈り込んだ髪と相まって、何かのスポーツをやっている
ように見える。
 彼がこの上なくインドアな趣味を持つのだと、見た目からでは想像はできない。常に浮かべて
いるほがらかな笑みは、同人誌即売会よりはテニスコートのほうが似合っていそうだった。
 人それぞれ、だ。
 そちらのほうはさして問題はない。問題があるとすれば……
「……恋人?」
 ようやく、私はそれだけを言えた。視線は、徹ではなく、その隣に立つ少女へと向けられている。
 少女。
 キャンバスにいる以上、年齢は多少前後する程度で、「女」と呼んだほうがいいのだろうが、私には
彼女を「女性」と呼ぶ気にはなれなかった。少女、と言葉がいちばんしっくりきた。それは、ただ単純に
背が低いというだけでもなく、どこか少女趣味な服を着ていたからでもない。
 目だ。
 子供のように純粋で――少女のように危うい目をしていた。取り出して磨けば、ガラス球のように向こ
う側が透けて見えるだろう。
 経験上、こういう目をした相手は、大概が忌避すべき相手だ。
 できるかぎり目をあわせないようにする私を、けれど、少女は見てはいなかった。その透明な瞳は、た
だ一点、徹にのみ注がれていた。
 恋をする少女の熱心さで。
「ああ、恋人」
「……ふうん」
 再び、徹は言った。話がまったく進んでいない。
 仕方なく、私の方から、もう一歩だけ踏み込むことにした。
「付き合っているのかい」
「まあね」
「男女交際?」
「男々交際に見えるか?」
「さてね」私はそらとぼけて、ちらりと少女を見た。もちろん彼女は男には見えないし、
徹が実は女だということもない。健全な――健全かどうかは知らないが――男女交際だろう。


144 :狂人は愛を嘯く.Case1 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/07/07(土) 23:28:13 ID:ersBxxDh
 とはいえ、徹が何を言いたいのか、まだわからない。
 まさか、ただ単純に自慢しにきただけだろうか。徹がそういう人間だとは知らなかったが、初めて
男女交際を味わえば、人間が代わってもおかしくはないのかもしれない。
 愛情とは、そういうものなのだろう、多分。
「いつからだい」
 胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけながら私は聞いた。こんな話、素面でしたくなかった。酒
があればそちらのほうがいいのだが、生憎、真昼間から酒を持ち歩くほど不健康な生活はしていない。
 ゆっくりと立ち昇る紫煙は、けれどゆるやか風に流されていってしまう。
「先月のイベントで出会ったんだ」
 へえ、と私は頷いた。少しばかり興味がわいた。イベントで出会った、ということは、彼女はご同類
ということになる。書き手なのか読み手なのか、少しばかり気になった。
 が、その僅かな興味は、徹の次の言葉に掻き消された。
「俺の本を――気にいってくれたらしい」
「…………」
 危うく、煙草を取り落とすところだった。
 今の私は間抜けな顔をしているに違いなかった――それだけの驚きを、徹はその言葉で与え
てくれた。
 ――本を読んで気にいった?
 私は三度、少女を見た。いまだに名前も教えてもらっていない少女は、じっと、徹を見ていた。
徹以外の何も見ていなかった。その眼球の中に、私の姿は映っていなかった。
 そういう出逢いがあることは知っていた。
 けれど。
「……あの本を?」
「あの本を」
 徹は頷く。彼も彼で、私しか見ていなかった。隣に立つ少女を、見ようとしていなかった。
 ようやく――私は悟る。どうして彼が、恋人が出来たことを報告するように、私のもとへと
訪ねてきたのかを。
 理由はわかった。
 何がしたいのかは、わからないが。
「ふうん……」
 私は灰を落としながら思考を一ヶ月前へと飛ばす。三角・徹が出した本というのは、
複数人のライターによる小説本で――ようするに、文芸サークルの身内本だ。地元の
即売会にも参加しているが、当然のようにほとんど売れない。同じようなサークルと
売りあったり交流するために参加しているようなものだ。
 そのことについては、別にいい。
 問題は――
「君の――話かい?」
「そうだ」
 念を押すように言うと、徹は頷いた。かすかに、視線が泳いでいた。
 仕方のないことだ。視線をそらすくらいはするだろう。なにせ、先月の本は、徹は――
原稿を落として、代筆を私に頼んだのだから。
 あれは徹の本だが、
 私の話なのだ。




145 :狂人は愛を嘯く.Case1 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/07/07(土) 23:43:12 ID:ersBxxDh
 友人に代筆を頼むことはそう珍しいことではない。この場合ただ一つ問題なのは、
作品が徹の名前で出ていることだ。私は自身の名前が出るのを疎ましく思ったし――
徹は自身の原稿を落とすことを拒んだ。そういう利害の一致で、徹の名義であの作品
は出されたのだ。
 そして、
 この少女は、それを読んで気に入ったのだと言う。
「あの本は――面白かったのかい」
 徹にではなく、私は未だ名を知らない少女に向かって言った。
 反応は、遅々としたものだった。
 始めの五秒、少女は自分に向かって話しかけられているのだと、気付いていなかった。
私は辛抱深く待ち、十秒ほど過ぎた頃、少女はゆっくりと、言葉を咀嚼するようにして、
私の方を振り向いた。
 視線が、あった。
 あわなければよかったと――そう思う、瞳だった。
 少女は、透明な瞳で私を見て、


 ――はい、大好きなんです。


 細い声で、そう言った。
「……そうかい」
 私は頷き、煙草を携帯灰皿へと捨てた。足元へと捨てたかったが、学生課に注意されて
以来慎むようにしている。少女はすぐに私から徹へと視線を戻し、私もまた、徹へと視線
を戻した。
 彼は、私を見ていた。
 私を見る彼に、私は言った。
「よかったじゃないか」
 ――つまりは、そういうことだ。
 少女はあの話を読んで、徹と付き合うことを決めたのだろう。徹ではなく、本を大好き
だと言った少女の態度は、無言でそう告げていた。
 ならば、
 徹にとって、『真実』など疎ましいものに違いない。
 言葉の裏に真意をこめて、私はよかったじゃないかと言ったのだ。
 ――黙っていてやるよ、と。
 そう、意味をこめて。
「ああ、有難うな」
 私にだけ通じる真意を言葉に込めて、徹は答えた。別に、有難いことだとは思わなかった。
わざわざ真実を口に出すつもりもないし、彼の幸せを壊そうとも思わなかった。
 ただ、
 徹がその少女に惚れていることが、少しばかり意外だった。彼の趣味は今まで知らなかったが、
こういう儚げな子が好きだったらしい。


146 :狂人は愛を嘯く.Case1 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/07/07(土) 23:54:34 ID:ersBxxDh
「それで、今日は自慢でもしにきたのかい」
 完全に興味は失っていたし、彼が私に釘をさすという用事も終わっていたが、一応言葉を
続けてやった。そのくらいの甲斐性は、私にもあるつもりだった。出来ることならば、今す
ぐ話を切り上げ、次の講義を休み、どこか昼間から開いている居酒屋で酒を飲みたいとそう
思ったが、実行はしない。
 徹はかすかに安堵したように笑って、それから、
「いや――果敢那がさ」
「ハカナ?」
「ああ、こいつの名前」
 言って、徹は隣に立つ少女を指さした。指をさされてもなお、少女は微動だにしなかった。
果敢那、というのが彼女の名前なのだろう。下の名前を呼ぶ程度には、仲が良いらしい。
「それで?」
 話の続きを促すと、徹は「ああ、」と前置き、
「うちのサークルに入りたいっていうから――部長のところに、連れていくところだ」
「成る程」私は意味もなく形だけ頷き、「そのがてらに見かけたから、自慢をしにきたという所かい」
 彼が話しやすいように誘導すると、案の定、徹はにやりと笑って、
「まあ――そんなところだ」
 と、言葉をしめた。
 これで、表向きにも、裏向きにも、用事は終わった。
 これ以上この暑い場所にいる必要もない。私は「馬に蹴られる前に、退散することにするさ」と
だけ告げ、踵を返そうとした。
 その私の背に、予想外の言葉が投げかえられた。
 徹のものではない。
 少女の――果敢那のものだった


「――さようなら」


 ただ、一言だった。
 その言葉が、どういう意味を持ったのか私にはわからなかった。とくに考える気もなかった。
振り返らずに、そのまま去る。振り返っていれば、彼女が私を見ていただろう。けれど、振り返
らなかった私には、彼女がどんな表情をしていたのか、最後までわからなかった。
 振り返って、あの瞳と目があうことを考えると、それは正しい判断だったのだろう、きっと。



147 :狂人は愛を嘯く.Case1 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/07/08(日) 00:11:11 ID:7Iqx920E

 お話は、だいたいそんな風に始まった。徹と果敢那が付き合い始めたことは一気にサークル
の中に広がった。徹のような人間が交際を始めた、という驚きのせいかと思っていたが、話を
聞いていると、どうやらあのあと二人は、サークルの人間に手当たり次第に挨拶に回ったらし
い。新入生の挨拶というよりは――恐らくは、牽制のような意味で。その証拠に、後で知った
ことだが、あれは徹からではなく、果敢那の方から言い出したことらしい。
 ――付き合い始めたのですから。
 ――皆さんに知ってもらいましょう。
 ――私たちが付き合っているということを。
 つまりはそういうことだ。彼らはカップルとなったのだ。無理矢理に、自他ともに
認められることによって。そして果敢那は、徹を自身以外の誰にも渡したくはなかっ
たのだろう。
 その独占欲は、嫌いではない。好きでもないが、嫌いでもない。
 よくあることだ。
 ただし、辟易したことが二つある。一つは、彼らの『交際宣言』から半月ほどたった
日のことだ。私の家に、徹が菓子折りと酒を持って訪れてきた。
 似合わぬ手土産に、嫌な予感がした。
 案の定、用件は、予想したとおりだった。
「――次も頼む」
 五月分の原稿も頼む、ということだった。果敢那があの作品を気に入ったということは、
それはつまり――徹の作品ではなく、私の作品を気に入ったということに他ならない。
 徹の作品では駄目なのだろう。
 私が書いたものでなければ、駄目なのだろう。
 だからこそ、徹は私に頼みにきたのだ。締め切りを落としたわけでもないのに、代筆を
頼む、と。
 辟易した。
 代筆を頼まれる行為に、ではない。その理由にだ。
「そんなに彼女のことが好きかい」
 下手をすれば土下座でもしそうな勢いの徹に、私はやる気のない声をかけた。確かに果敢那は
可愛かったが、それはどこか病的なものを含む可愛さだった。球体間接人形がおぞましさと美しさ
を備えているようなものだ。見て楽しむのは良いが、手に入れたいとは思わない。
 が、徹は手に入れたがっているだの。
 そして、手放したくないのだ。 
 だから、私に頼みに来たのだ。果敢那を手放さないためには、作品が必要だから。そのこと
を、徹はすでに気付いている。彼女の愛の本質がどこにあるのかを。
 ――作者は出力装置に過ぎない。
 そんなことを言っていた人がいたなと、ふと思い出した。
「――ああ」
 力強く。
 嘘偽りのない強さで、徹は頷いた。果敢那のことが好きだと、彼は肯定した。
「……ふうん」
 人の趣味に、それ以上とやかく言うつもりはなかった。書けるのならば、そして私の前に山
とつまれた土産をもらえるのならば、書く以外に道はなかった。
 私は頷き、
 徹は歓喜して返っていった。
 その時点で――私はすでに結末が見えていたような気がしたが、それでも一応、締め切りまでに
作品をしあげて出した。作品は本となり、サークル内に配られ、果敢那の手にも渡った。
 その結果。
 二つ目の、辟易する事態が引き起こされた。



148 :狂人は愛を嘯く.Case1 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/07/08(日) 00:42:35 ID:7Iqx920E
「…………」
 さすがに――辟易した。
 呆れ果てた。
「よぉ」
 3号館の果てにある部室の扉を開けると、三角・徹は気軽に手をあげた。他にも幾人かが
部屋の中にいて、彼ら/彼女らは、一斉に助けを求めるように私を見た。
 ただ一人、私を見なかったのは。
 徹の膝の上に座る、小柄な果敢那だけだった。
「……やぁ」
 私は恐らくは曖昧な笑みを浮かべて手を上げ返した。内心では部室に入ったことを後悔
していたが、今更引き返すわけにもいかなかった。助けを求めるような目にも納得がいく。
一目見ただけで、どういう状況なのか分かってしまった。
 悪化したのだ。
 多分、恐らく、間違いなく。
 恋愛という病が。
「仲がよさそうじゃないか」
「そうだろう」
 皮肉混じりに言った言葉に、徹は真顔で答えた。皮肉が通じていない、というよりは、
皮肉だと理解もしていないらしい。成る程、病は平等に進行しているらしい。果敢那だけ
でぇあなく、徹の方も、蝕まれているというわけだ。
 ――おめでとう、君達は両思いだ。
 心の中でささやかに祝福して、私は空いた席――徹の正面に腰掛ける。そこだけ空いて
いる理由は単純で、そこに座れば、べたべたとしている二人を思い切り視界に治めなけれ
ばならないからだ。
 ここは禁煙ではないので、思い切り煙草が吸える。私は煙草を咥え、火を灯す。部屋に
充満していた紙の匂いに、煙草のにおいが混じる。部屋の両側には本棚があって――それ
が物理的・心理的に問わず、部屋を圧迫していた。ほとんどが市販の本で、一角を発行し
た本が占めていた。
 そのうちの一冊を手にとって私は広げる。一番手前にあった本は、つい先日出したばか
りの本だった。
『三角・徹』の名で書かれた話を開き、私は徹へと語りかける。
「いつもそうなのかい」
「まあな」
 徹は即答した。いつも――ずっと、こうなのだろう。
 文字通りに、ひと時も離れず。
 恐らくは、この本を読んだときからだろう。それ以前は、此処までは酷くなかった。
 一作目を読むことで、果敢那は徹と付き合い始めた。
 そして、二作目を読むことで――更に仲が深まったのだろう。
「…………」
 徹の胸元にすりつくようにして座る果敢那を見る。至極、幸せそうな顔をして、徹の
手を握っていた。小説を書く手を、大切な宝物のように握り締めて、果敢那は徹に甘え
えていた。
 何も言わない。
 それだけで、彼女は満たっていた。
 取り返しのつかないほどに。
「徹の話は、面白かったかい」
『徹の話』にアクセントをおき、私は興味半分で訪ねた。果敢那は、ゆっくりと、ゆっくりと、
私の方を見た。
 眼球が、私を見る。
 一ヶ月前よりも――更に透き通って、見えた。
 反対側に、私が映って見えるほどに。

 ――はい、大好きです。

 変わらない、細く儚い声でそう言って。
 ふうん、と私が頷くよりも早く。
 果敢那は、付け足すように、こういったのだった。

 ――次の本が、待ち遠しいです。


149 :狂人は愛を嘯く.Case1 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/07/08(日) 01:08:13 ID:7Iqx920E
 六月の初めに、徹から一通のメールが来た。
 題名はなく。
 本文は、簡潔だった。

『次は、自分で書く』



 ――そうして物語は、坂を下るようにお終いへと加速する。





151 :狂人は愛を嘯く.Case1 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/07/08(日) 01:17:27 ID:7Iqx920E
 日付はゆっくりと進み、梅雨が始まり、梅雨が終わった。蒸し暑いだけの日々が過ぎると、
からっと晴れた夏がやってきた。あまりにも暑すぎて、空調のきいた部屋からは出たくなかった。
自宅にいるよりも、大学へと出てきたほうが涼しいので、私はもっぱらそこで時間を潰していた。
 だから、七月分の本を受け取ったのも、部室ではなく教室でだった。部室にはクーラーがついて
おらず、講義が行われている教室だけ空調は動いている。外は炎天下にも関わらず、私は汗ひとつ
流していなかった。
「……ふうん」
 部長から受け取った本を、私は流し読むようにして目を通した。大きな節目の本ということだけ
あって、さすがに厚い。
 一通り目を通すと、部長のほうから話を切り出してきた。
「どうだい、今回の出来は」
「そうですね、悪くないと思いますよ」
 嘘ではなかった。さすがに新入生のそれは拙いが、それでも気合が入っているのは読めばわかる。
在学生のそれも、読み応えのあるものだった。
 中でも、
「特に――徹のが良いですね」
 素直に、率直に、そう言った。
 君もそう思うか、と部長は言った。私は「ええ」と答え、もう一度、三角・徹が書いたものを読んだ。
 二ヶ月ぶりに読んだ徹の小説は面白かった。彼は、彼なりにこの話にかけていたのだろう。自分が出せ
るものを全て出し切っているのが、読んでいるだけでわかった。恐らくは、今回のこの本の中ではもっと
も高い評価を得るだろう。
 それだけに――惜しかった。
 彼の努力が、恐らくは、報われないであろうのが。
「君も書けばよかったのに」
 徹の本を読む私に、部長が心底残念そうに言った。
 ――そう。
 私は今回、小説を書いていない。本当は書きたかったのだが、自制して書かなかった。
 なぜならば。
「……徹が書いてますからね」
「ん? どういうことだい?」
「いえ――なんでもないですよ」
 適当にはぐらかし、私は胸ポケットをまさぐり、そして舌打ちする。そこに煙草はなかった。
部長は吸わない人間なので、貰うわけにもいかない。今から買いに行くのも面倒だった。
 何かを咥えていないと、口が軽くなって困る。
 意識して私は話さないように口を閉じた。
 そう、話すべきことではない。
 書くわけにはいかなかったのだ。
『三角・徹』が書いたものが二つあっていいはずが――ましてや、別人の名前でかかれては――
それはまったく違う結果を、まねくことに他ならない。
 それだけは、避けたかった。
 ああいうものに深入りする趣味は、私にはないのだから。


152 :狂人は愛を嘯く.Case1 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/07/08(日) 01:22:52 ID:7Iqx920E
「話は変わるのだけれど」
 口を閉ざした私を慮るように、部長は自ら話題を変えた。
 が、変わった先の話題は、私にとっては、あまり変化していないものだった。
「最近、徹を見ないんだが――君、知らないかな。あいつ、講義にもきてないみたいなんだ」
「……ふうん」
 気のない返事を、私は返した。
 もちろん、そのことを、私は知らなかった。
 もちろん、そのことを、私は予測できた。
 両方の意味をこめて、適当な返事を返し、私は想像する。
 今、三角・徹がどこにいるのかを。
「大方、修羅場なんでしょう」
 揶揄するように言うと、部長は苦笑いを浮かべた。
「締め切りはまだ少し先だよ」
「良いものを書くためには、缶詰になる必要となる場合もあるということですよ」
 言って、私は立ち上がる。暑いのは嫌いだが、これ以上話を続けたいとは思わなかった。部長
は不思議そうな顔をしたが、私を引きとめようとはしなかった。その潔さが気に入ったので、私
は一つだけ、部長へと手助けをだす。
「部長。果敢那は部室にきていますか?」
「いや――彼女もきていないけれど、どうして?」
「いえ、特には」
 それだけ答え、私は教室を抜け出して、暑い外へと脚を踏み出した。


153 :狂人は愛を嘯く.Case1 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/07/08(日) 01:31:04 ID:7Iqx920E
 教室の外は想像以上に暑くて、扉を開けるだけでむっと熱気が襲ってきた。ただ立っている
だけで汗が流れてくる。しかし、湿っぽい気持ちの悪い暑さではない。本格的な夏が間近に迫
ってきている証拠だった。
 あの日と同じように、木陰ではなく、日向を歩きながら私は想像する。
 三角・徹のことを。
 そして果敢那のことを。
 確かに――嘘偽りなく、三角・徹の書いた小説は面白かった。今回の本の中で最も面白く、
今までに彼が書いた作品の中で最高のものだった。それは自他ともに求めるだろうし、徹は
そういうものを書こうとして、見事に書きあげたのだろう。
 果敢那に気に入ってもらうために。
 果敢那を自分の手元に置き続けるために。
 最高傑作を――書き上げた。
 けれど。
 それでは、駄目なのだ。
 問題はレベルではなくクラス。技巧ではなく属性なのだから。
 果敢那という少女が恋していたのは、
 君ではなく、
 君の作り出す小説でもなく、
 あの日、『あの即売会で読んだ三角・徹の小説』なのだから。
 だから。
 君がどんなに傑作を書き上げたところで、
 果敢那は、決して満足はしないだろう――

 ――ポケットに突っ込んでいた携帯電話が、無言でメールの着信を告げた。

「…………」
 振動するそれを、私は取り出す。誰からのメールかは、想像するまでもなかった。着信欄には、
想像していたとおりに、『三角・徹』の文字があった。
 携帯を開き、メールを読む。題名はなく、本文に、簡素に内容が書いてあった。
『書いてくれ』
 たった五文字の、SOSだった。ついに根をあげたな、と私は思った。
 彼は今頃――どこかで。彼の部屋か、彼女の部屋で。今までずっと、小説を描いていたに違いない。

 彼女が望む小説を書くことができるまで、ずっと、書かされ続けていたに違いないのだ。

 私は左手だけで携帯を操作し、徹にメールをかえす。題名はなく、本文の欄に簡素に書く。
『自分で書け』
 五文字で返して、私は携帯の電源を切る。
 木陰を歩いて、煙草を買いにいこうと、そう思った。



154 :狂人は愛を嘯く.Case1 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/07/08(日) 01:44:55 ID:7Iqx920E

 ……とまあ、ここで唐突に、お話は終わる。
 当事者たちは私の付き合いきれない遠い遠い彼岸へといってしまった。其処に辿り
つけるのは、常人ならざる者たちだけなのだろう。
 だから、もはや語るべきことはそんなに残っていない。あの時にメールの返事次第では
また別の展開へとなっていたのだろうが――そうはならなかった。
 その時点で、このお話は、終わりを迎える。
 その少しばかり語れることを、ここに語っておこうと思う。後日談のようなものと捉え
てもらって構わない。
 彼と彼女が、どうなったかということだ。
 三角・徹との交遊はなくなった。私は彼のアドレスを携帯から消したし、彼から二度と
連絡はなかった。ただし――一度だけ、彼の姿を見た。
 七月の、一番暑い日だった。
 炎天下の中、コンクリートから湯気が立つような暑い真昼に、私は蜃気楼のように彼の姿を
見た。夢遊病者のように歩く、面影がかすかにしか残らない、死人のような三角・徹を見た。あ
まりもの変貌ぶりに、声をかけることすらできなかった。
 彼は、私に気付いていなかった。
 否――
 ガラス球のように透明になった彼の瞳には、何も映っていなかった。彼は何も見ずに、ふらふらと、
ふらふらと、ふらふらふらと、どこか遠くへ去っていった。
 彼について、語れることはそれだけだ。私はそれ以降、彼の姿を見なかったし――他の誰も、徹の姿
を見ていない。それが、最後の目撃だった。
 そして。
 私は手元にある、八月分の冊子を開いた。ぱらぱらと頁をめくると、ある一点で視線が停まる。
 そこには、こう書かれている。

『題:ある愛の話   作:三角・徹』

 いなくなってしまった徹の名で、小説が書かれている。私はそれを読む。幾度となく
読んだそれを、もう一度読む。何度読んでも、何度読み直しても、そこに書かれている中身は変わらない。
 小説だ。
 紛れもなく、それは――四月のような、五月のような――私が三角・徹の名で書いた小説と、同一の存在
だった。
 三角がいなくなった今も、毎月のように、『三角・徹』の小説は冊子に載っている。私の書いた徹の小説が、
私の知らないうちに冊子に載っている。
 ――小説は、手で書くものだ。
 夏の日に出会った徹は、両腕が肘の先から消滅していた。切り取られたかのように。
 あの部室で、果敢那は、徹の手を愛しそうに握っていた。小説を書く、徹の手を。
 あとは、蛇足だ。
 物語は、ここで終わる。終わらざるを得ない。もはや私も、徹も、当事者ではない。
 彼女は、彼女で完結している。
 少しばかりゆがんでいて、おぞましくて、奇妙でも。

 ――彼女は、彼女の望む愛情を得たのだから。

END