495 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/07/28(土) 02:25:44 ID:W2cxRr6O
眼前の鏡に映る自分の顔は最悪だった。
既に夜着から制服に着替えてしまっているので、規格に従った、整っている印象の制服にたいそう似つかわしくなかった。
目は真っ赤に泣き腫らしており、一睡もしていない疲労からか、目の下にはうっすらとくまができている。
昨日の夜は泣いて過ごしてしまったようなものだから、それは当たり前のこと。
寝起きということも重なってか、平衡感覚がなく、ふらふらしている。さらに悪いことに、さっきから寒気がとまらない。
単に寝不足からくる体調不良という気もしたが、風邪を引いているかもしれないので、後で体温を計ってみることにしよう。

目覚めが悪さをごまかすように洗面台で顔を洗う。
ざあざあと流れていく水の音がやけに耳に響いて聞こえたので、少し目が覚めたのかもしれない。
そして、顔を事前に取り出しておいたタオルで拭い、そのまま居間にむかい、救急箱の役割を果たしている
桐箱の上から二段目の引き出しから、体温計を取り出し、脇に当てる。
それから、テーブルの上にそれとなく視線をやると、一枚のわら半紙が乗っていた。
達筆でありながら、一文字一文字が小さい為にどこか、書き手の気弱そうな性格を彷彿とさせる字は父の字の特徴だ。

そこには、自分は仕事で何日か山口に向かうことと、基本的には家をはずす三日間の間、
契約しているお手伝いさんに家にいてもらうことになっているので、特に心配することはない、などといった内容だった。
その内容をどこか明晰さを欠いたままの状態で一通り読み終えた頃、電子音がした。
脇から電子音の音源を取り出すと、35.8℃。普段、低血圧で低体温な私からすれば平熱といったところのよう。



496 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/07/28(土) 02:27:48 ID:W2cxRr6O
お手伝いさんはこの時刻には来ていないので、自分で用意できる範囲でごく簡単な朝食を作る。
私は基本的に料理は得意なほうなので、特に困ることはない。
寧ろ、料理は食べるほうも作るほうも好きである。
実際に、入院する前は松本君にもかなりの回数、昼食を作っていたりしている。
……失敗した。昨日、あれだけ嘆いていたのも松本君に関してであるにも拘らず、
こんなことを悠長にも思い出して一人、悦に入っているなんて…。
そう、今は彼については何もかも想像することしか許されないことを忘れていた……いや、むしろ忘れてしまいたいのだろうか?
いずれにせよ、現状は不変のもの。だから、そんな想像はもはや妄想とでも言うべき、無意味なこと。仮に一心に『想像』したところでそれが報われることがないのだから。

それならば、いつまでも嘆いていても仕方がないではないか。
とにかく現状を受け入れること。私はあの信じがたかった自転車事故という現実を受け入れたではないか。
それで、私は彼により近づくことができたではないか。
こんなところで躓(つまづ)いてしまうような私ならば、あの時にいっそのこと死んでしまえばよかったのだと思う。
とにかく、昨日、私はあれだけ悪辣な罠や態度に憤慨し、寂寥感に涙したのだ。
もう、感情に流されるのは十二分のはず。
報われない想像をするよりは、より現実的な次善の策を考えることにしよう。
私と彼がよりよくあるために―。
だから、所詮は第三者である、クラスメイトという名の傍観者ごときが何を言ってきたとしても、私は気にしないことにしよう。
例え耳に痛いことが聞こえようとも、今までどおり、相手にせず取り澄ました表情をしていればよい。
仮面舞踏会で仮面をするくらいなんということはないのだ。



497 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/07/28(土) 02:28:54 ID:W2cxRr6O
一時間目は基本的に受動的な動作のみになる、中年の女教師が教える、いかにも型に嵌った英語である。
だから、予習さえすれば問題はない授業なので問題はない。
例によって、始業時間よりも数十分単位で早く学校に来た私は既にノートと教科書といった勉強用具を机の上に広げている。
特別に勉強が好きなわけではないし、英語に思い入れがあるわけでもないのだが、話し相手がいない今の私のする事といえば妥当すぎる選択としか言うよりほかない。
こう言うと、どこか突き放した感じに取れるかもしれないが、こうしているのが一番無難であることを私は知っている。
簡潔な部分と冗長な部分とがアンバランスに積み重ねられている、傍から見ても退屈な教科書の文章をいつもそうしているように、ノートの左半分に写していく。
十分もあればすぐに終わってしまう作業。
ノートの左の黒々とした横文字の羅列と対照的な右の空白部分に、今度は日本語を連ねていく。
電子辞書を片手に長ったらしい単語の意味を見開きの右ページに書いたりもした。



498 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/07/28(土) 02:30:14 ID:W2cxRr6O
"hallucination"という聞き覚えのない単語の意味を電子辞書で引いている途中、教室のドアのガラス部分に、一瞬間だけかなり小ぶりな頭が見えたかと思うと、すぐさま見えなくなり、
左右に開閉する形式の教室のドアの片方が右へと動き、そのドアの半分よりかろうじて高いかどうか、という感じの少女が視界に入った。
………。
その少女の顔には見覚えがあるものだった。相手が何をしに来たのかわからないので、出方を伺うようにしてその小柄な少女に焦点を合わせる。
黒板の拳二つほど上に掲げられている、白い文字盤をやや塗装が剥げている黒い秒針が律動的に回っていく、時を刻む音が妙に耳につき、心を着実にかき乱していく。

「あ、あの…、北方先輩…ですよね?」
怯えた表情が私の警戒心丸出しの態度にあることがなんとなく察せられたが、まだ警戒心を緩めるつもりはない。
「そう、ですけど。」
なぜなら、その少女はつい先日会ったばかりで、例の手紙入りの便箋を持ってきた少女だったから。
「こ、この前は……あの、その、お気の毒なことをしました。」
咄嗟に何を言い出すかと思えば、唐突にも謝罪の言葉が出てきたため、疑問符が頭を埋め尽くしそうになる。


499 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/07/28(土) 02:32:02 ID:W2cxRr6O
「…………。」
「あの手紙にあんな内容が書かれているなんて、知らなくて…。」
「そう。」
特別に彼女に対して思うところはない。しかし、本人がこういっていても彼女自身はあの害物の伝書鳩をするくらいなのだから、当然親密な関係にあるのだろう。
だから、呪詛の言葉の一つでも投げかけてやりたい気分ではあった。
そんな直情径行気味な自分の感情をとどめ、とにかく相手の話を最後まで聞くことにする。
「ええと、私は、ただ単に理沙ちゃんからこの手紙を渡してくれと頼まれて、先輩に渡しただけなんです。」
「理沙ちゃんは私の仲良くしてる友人の一人で、疑うことなく、先輩に渡しただけです。本当にあのときの理沙ちゃんの態度は、私といつも話しているときと変わらない感じだったので、何も気づかなかったので……すみません。」
「そう。」
機械的に聞いたことを把握した、という意味合いでそう、という語を用いたが、彼女が話している内容は、自分はこの件に関して何も関係する所がなかった。
だから、私のことをうらむような理不尽なことはやめてくれ、という所だろうか。
「言うことはそれだけかしら?」
彼女が私の発言を欲しているのは、とっくに洞察してはいた。けれども、ここで彼女に優しくしてやる謂れはないので、思った疑問をさらりと口に出した。


500 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/07/28(土) 02:33:29 ID:W2cxRr6O
「あの、お、怒っていますか?」
「私の言っていることが聞こえないのかしら?言うことはそれだけかどうか、ということを私は質問しているのよ。」
再び一瞬の沈黙が二人の間に壁となった。
沈黙のせいか教室の外、校庭のテニスコートに面している窓を通じて、テニス部が練習をしながら発する掛け声が耳に入った。

少ししてから彼女は口を開いた。
「す、すみません。」
見るからに申し訳なさそうな心持ちがその恐々とした動作から窺い知れた。
が、それは私を不快にする以外の効果をもたらさなかった。
それで私はため息をついてから、再び口を開く。
「本当にそれだけなら、あなたの言いたいことは理解しましたから、それで結構でしょう?」
早く去れ、というニュアンスの言葉を解りやすいようにアクセントをつけて言うと、わずかに震わせていた肩の振幅が大きくなった。
「わ、私、理沙ちゃんがあんなことをするなんて、思わなくて!」
が、息を吸うと彼女は意を決したのか、ややどもりながらも感嘆符がついた発言をした。
「だから、私もスタンガンで襲うなんてショックでした。と、ともに正直なところ、嫌気が差しました。」
「それで、私自身としてはとにかく先輩に謝りたいと、そう思ったので、僭越でしたが申し訳ありませんでした。」
気づけば、小ぶりなランドセル風のバックを持った彼女はその震えが止まり、はきはきと発言していた。
「わかったわ。あなたが私に悪意を持っていないことは理解したわ。」
彼女自身が私に害意を持っているか否かは本心ではどちらでも良かった。


501 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/07/28(土) 02:34:52 ID:W2cxRr6O
けれども、彼女自身がこちらに罪悪感を持っており、あの害物に親しい、という二点の特徴から、私はあることを思いついた。
「理解はしたけれども、これから私が言うことをあなたは聞いてくれるかしら?」
「は、はい。」
考えなしに、即答したようだ。ということは、それなりにこちらの要求を聞いてくれるかもしれない。
「単刀直入だけれども、あなた、松本さんの友人なんですよね?」
「は、はい。よく、話していますが。」
「それなら、私に彼女について、何か変わったことや疑問に思うことがあったら、私に知らせてくれるかしら?」
「………あの、それは、私にスパイになれ、ってことですか?」
「……嫌なら無理に、とは言わないわ。」
「………わ、解りました。気づいたことがあれば、伝えたいと思います。」
しかし、そうは言っても相手は名前すらわからない相手なので、名前とクラス、住所、電話番号くらいは聞いておくことにする。
すると、彼女はテレホンカードほどのやや固めの紙に氏名や住所と言った項目を書き連ね、それを手渡してきた。


502 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/07/28(土) 02:36:02 ID:W2cxRr6O
そのカードに書かれている内容を一瞥してから、背丈が著しく低い彼女に丁度良いように手を差し出して、握手を求め私は言った。
「ご協力ありがとう、……村越、智子さん。」
「……は、はい。」
相も変わらずどもっていたが、差し出された手を握り返す彼女の手に込められている力は、協力の意思があると十分にみなせる、確固たるものだった。
次に彼女は返す刀で一つ要求を提示してきた。
「できれば、できれば、ですが、先輩も松本先輩の状況を教えていただけませんか?」
私の要求を呑んだ上なので、わたしがこの条件に逆らわない、そう思っていたのであろうか。
これを交換条件とみなす、と解釈するならばこの条件に私は抗うことはできない。
何故、松本君と何にも関係がないはずの彼女がそのような要求をしてくるのか、それを理解することができなかった。
しかし、彼が退院するまでの間は協力できる人間は他学年であっても、一人でも多くいたほうがいいかもしれない。
「わかりました。よろしいでしょう。」
すると、私に話しかけてきたときから、否、おそらく私に話かけようと決意したときから、緊張し収斂していたであろう肩を一気になでおろし、大きな偉業を成し遂げたかのような満足感が醸成されていた。


503 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/07/28(土) 02:38:00 ID:W2cxRr6O
本当にこうまでも、線を引いたようにわかりやすい子であることに驚き、呆れに近い驚きを感じた。
しかし、本当に彼女がこちらから情報を得ようとする真意が計り知れない。
そう考えると、彼女特有のあのおどおどとした、頼りなさげな印象を見る人に植え付ける、その言動の一つ一つすら疑わしく思えてくる。
この子が天然でなく、全て計算のうちで動いているという確証になりえるほど、今までに彼女について何かを知っているわけではない。
けれど、このとき私は直感的になぜかこの眼前の付和雷同、協力者としては心もとない、不安この上ない茫漠とした彼女が恐ろしい存在になるのでは、
という既視感のような何かに支えられたはっきりとした予測ができた。

訳もなく人を疑い続ける、という心の闇は私は紛れなき悪徳だと思う。けれども、どんな状況にも転びかねない私の置かれている今の状況を背景とすると、それを私は悪徳と断じることができない。
そんな事を考えていると、ランドセルのような学校の規格外の洒落たバックを持つ、村越という名の少女の姿はどこにもなかった。

時計の刻む音はもう耳につくこともなく、教室は静謐としていた。
……そして時計を覗くと、針は始業十五分前を指していた。
にも拘らず、教室は依然として静けさの中にあり、微動だにしない。外のグラウンドでは運動部の連中が練習している姿もまばらなものとなっていた。


504 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/07/28(土) 02:40:42 ID:W2cxRr6O
ふと、私はあることに気がついた。
そして、並べられている机を教室の後ろから全体的に見回す。
いつもなら運動部の人間は一二限目の授業道具やら、休み時間の話しの種になるものやらを机の中や上に置いておいたり、
単純に鞄を横のフックにかけていたりしている。
しかし、今日は一人としてそうしているものがいない。また、部活が終わったはずの連中がこのクラスに一人もいないのもおかしな話。
私のクラスだけならばそのようなことがあると言えるかも知れないが、他クラスも同様のようだ。

そんな事を確かめた所で、急に教室の後ろのドアが開放された。
私のクラスの学級委員のめがねをかけた女子が私の存在を確認すると、語気荒く私に怒鳴りつけてきた。
「北方さん!今日は、が、学生総会ですよ!いったい、あなたは何をしているんですか?
議員のあなたには学校の問題点に関して指摘と質疑を行う役割が割り当てられているんですよ!
あなたが来ていないことで、議事が進まないなんていうことは許されない!
それに、あなたは議事に際して、質疑の内容を記した討議用紙を先生に提出していませんよね!
とにかく早く体育館に来なさい!」
私にはいったい何のことを言っているのか、全く解らなかった。
学生総会の存在自体は知っていたものの、討議用紙の存在はおろかそんな重要な仕事をなさなければならないことなど、露ほども知らなかった。
おそらくこういったことはLHRの時間に決めたのであろうが、私は全くそんな事を聞いていない。
私が知らない間に私が面倒な仕事をすることが決められている、という予期せぬ事態に戸惑いを隠せない。


505 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/07/28(土) 02:42:46 ID:W2cxRr6O
手を万力のような強さで学級委員に引かれながら、体育館に連行されていった。
既に同学年のクラスの人間はほぼ全員揃っているようで、それぞれのクラスの議員は既に準備を完了していることも察するることができた。
学級委員は私を連れてくる、という独善的な自己満足と言ったほうが正しい、義務を果たして得意な表情をしていた。
それが非常に癇に障るものであったが、それに私が狼狽するのも馬鹿馬鹿しい。
そもそもこの議事に関しては松本君の為に私が休んでいた際に決められていたものであるらしく、
私への連絡不十分であることを知り、担任の田並先生は憤怒の形相を呈していた。
なみなみならぬ怒気を帯びた担任の声が響く。そして、多くのクラスメイトは顔を伏せて嵐が過ぎ去るのを待っていた。
が、多くのクラスメイトの敵意ある視線を私にちらちらと向けてきていた。
理不尽だ。私が話したこともないような連中の罠にかかって、こんな風に敵意を向けられるなどと―。
当然、納得はいかない。しかし、私は彼ら大多数とは違って、スケープゴートとなってしまっているため、ただ田並先生の嵐が過ぎ去るのを待つだけでは解決しない。
まさか、私に決められていた議員役を他人にすることなどできまい。

一番の良策は私のクラスは議事を放棄する、ということであろうが、私が言ったところで認められまい。
またしても崩れてしまいそうになる。
仮面、寧ろ、鍍金に近いのだろうか、その鍍金がはがれてきてしまいそうだ。きっと、私がこんな理不尽な仕打ちを受けたとしても松本君が傍にいてくれれば、私は自分を保つことができる。
彼だけは、彼だけは私を理解してくれるはずだから。
理不尽な目に遭っていてどうしようもない事態であった、ということが聡明で思いやりのある彼ならば気づかないわけがない。しかし、ここには私の味方が一人もいないから―。
だから、貴金属に見せかけた卑金属は鍍金がはがれて、脆くもその存在する意味を失ってしまう……。


506 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/07/28(土) 02:44:41 ID:W2cxRr6O

そうこうしている内に、何か良い方策を考えつくことなく、議事開始の時刻を迎えた。
田並先生は私に思いつくことを言うだけでよいから、と言ってきたが、本来、生徒による自治を創立以来何よりも尊んでいるこの学校の学生総会の議論は異常なレベルにまで白熱することがある。
思いついたことだけならば、簡単に揚げ足を取られかねない。

体育館内、ステージ前に数脚配置されている議員の定位置である長机のうち一年のクラスの議員の中に、あの名前を出すのすら忌まわしい害毒がいることに気がついた。
相手は既に、私の存在に気がついているようで、こちらを凝視していた。

それから二時間もの間、学校内に関しての議論が繰り広げられた。当初は最低限の発言だけ済ませて、じっとただひたすらに、嵐の過ぎ去るのを待とうとしていた。
しかし、この作戦もあの害毒によって封じられた。
概して生徒はこういった学校内の細々とした議論には興味がないものなので、何とかやり過ごすことができるかと思ったが、執拗な個人攻撃に近い揚げ足取りと、
事前に協力していたと思われる一年と二年の他クラスの三人から、つまり四対一の集中攻撃を受け続け、どのように発言しても、必ず否定してきた。
私の論に対して反証をしようというのではなくあくまでも私に対する反対であった。
この様子を見ていた私のクラスメイトは怒りをあらわにするどころか、私を嘲笑の対象としていたようだ。
全く予想できなかった状態ではなかったが、私にとってその苦しみは今まで経験した、母の虐待と同等に辛いものであったとすら感じる。
価値観を共有しない彼らの言うことなどに耳を貸さないつもりでいても、当然のことながら無傷ではいられなかったのだ。


507 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/07/28(土) 02:46:53 ID:W2cxRr6O

二時間目が終わり、休み時間になると、私の姿を見てヒソヒソと話していたクラスメイトの刺すような視線が耐えられなくなり、考えることなしに屋上に向かった。
少し風に吹かれたかった、ただそれだけである。
不快だったが、終わりがなかなか来そうにない梅雨の湿って生暖かい空気が頬をなでていく。グラウンドからみえる新緑が目にしみるほどに美しい。
しかし、私は視線をそこから離し、グラウンドを離れ、校門を出て、住宅地を飛ばし、やや小高いビルを望んだ。
そこは、私にとっての唯一の心の支えとなってくれる人がいる場所―。
しかし、今の私は会いに行くことができない。そこに行き、逃げてしまいたいという欲求は強い。しかし、その奔流を理性をダムとして抑える。
相手は約束を守らないだろうが、そうなると私は尚の事、その約束を反故にすることはできないのだ。

私はそう思いながらも、ある事実が心に引っかかっていた。
曰く、父は三日間の間、家を離れてしまっているため、私の行動を把握できない、ということ。
もし、それを生かすとしても、この三日間という限られた時間だけ。
ならば、行動に移るのは極力、早くしなければならない。

しかし、私には約束を破ることに臆したわけではないのだが、その行動に踏み切る気が起こらなかった。
私の問題を彼に波及させて余計な心配をさせてしまうわけにはいかない、と思ってしまったから。
私は以前、私は自分を癒してくれた彼にとってのオアシスとなりたい、そう決意した。
そのため、私は踏み切ることができなかった。



508 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/07/28(土) 02:48:02 ID:W2cxRr6O

放課後、小高いビルの中にある一階の狭小な部屋は一人の来客を迎えていた。
それは、この部屋の主の妹であった。
「ねえねえ、お兄ちゃん。」
「うん?どうしたんだい?」
年上の兄は身体に傷を負っていたが、妹に優しく問いかける。
「お兄ちゃん、この本はどうしたの?」
テレビの近くに置かれていた、真紅の本の金文字を上から指でなぞりながら、妹は兄に尋ねる。
無粋なこの部屋のしつらえと乖離し、浮き上がってしまっているその本を妹が見つけ出すのは容易なことであった。
「………。」
兄は何かを案じるように顔色を一瞬だけ歪めるたが、すぐにいつも通りの表情に直し、自分がかつて買ったものである、と妹に告げた。
それを聞くと、妹はその本を取り上げ、愉快そうな表情を浮かべながらページをめくっていった。
しかし、妹は知っていた。

その本が自分の敵の本であることを―。
その本を自分の兄が既にいくらか読んでいることを―。
その本の内容が自分たちの状況にいくらかでも似通っている、ということを―。

だから、彼女はその本の中に登場する人物と自分とを重ね合わせて微笑んでいたのだ。
本の中途にしおりが挟まっていることに気がついた。
自分の兄がしおりを使っていることをあまり見たことがないため、妹はそれをいぶかしんだ。落ち着いた色合いの洒落ているこのしおりが兄のものでないことがわかった。
そして、この本の所有者が自分の敵であることから類推して、このしおりの所有者が誰であるかも、想像がつく範囲であった。



509 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/07/28(土) 02:49:26 ID:W2cxRr6O

それは一瞬のことであった。ビリビリという厚めの美しい紙でできたしおりがあっけなく破れていく音が生々しかった。
そのしおりは兄にとって特別なものであったらしく、唖然として間が抜けた表情のまま、兄は動かなくなっていた。
「どうしたの?お兄ちゃん。」
「このしおり、だったら気にしなくていいよ。私が持っているもので、もっと良いしおりがあるからそれをお兄ちゃんにあげるし、そんなものは必要なくなる。何でだと思う?お兄ちゃん?」
「………。」
あはは、と笑い声にしてはやや乾いたような印象の笑い声を上げると、まじめに考えてよぉ~、と妹は兄に甘えた。
それから、ややまじめな表情に妹は立ち直ってから言った。
「私が傍にいて、本は読み聞かせてあげるから何もしおりなんか、使う必要なんてないんだよ、お兄ちゃん。」
そう言い放った後、妹は兄の傍にじりじりとにじり寄っていった。
その妹に兄は少なからず恐怖感を覚えたのか抵抗していたが、身体が本調子でない兄は妹の思うがままであった。
やがて、妹はベットの上に正座し、そのひざの上に兄の頭を乗せた。
膝枕をしながら、妹は兄の為に自身と登場する人物とを重ね合わせている特別な本を読み始めた。
そう、それはあたかも、自分が敵である北方時雨を倒して、自分だけが兄の傍にいられるということをはっきりと宣言しているようだった。
最終更新:2019年01月15日 10:19