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152 :狂人は愛を嘯く.Case2 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/08/16(木) 01:39:26 ID:wmy+g0B6


  †


 これから話すのは、少しばかり奇妙な体験談だ。といっても、私の身に起きた
ことじゃない。お話の中に私は登場しないし、したとしても物語の本筋に関係の
ない脇役、語り手、通行人、そういった役くらいのものだ。あくまでも主人公は、
私の友人である『彼』で――これは彼の物語で、彼の体験談だ。
 他人の体験談を、私が語ることぉお許して欲しい。こればっかりは仕方のないこ
となのだ。なにせ、彼はあまり語ることを好まなかったし、そもそも彼の言葉は嘘だ
らけで語り手としてはあまり良くはなかったのだから。
 当事者は、もう、此処にはいない。
 だからこれは、嘘吐きのお話だ。体験談で、昔話で、法螺話だ。
 どこか遠くでおきた、いつかちかくでおきた、ほとんどが嘘で、わずかばかりに真実を
含んだ、愛情の話だ。
 だから、語りだしは、自然とこうなる。
 すべての御伽噺は、こうして始まるのだから。



 昔々、あるところに――――――





■ 狂人は愛を嘯く.Case2






153 :狂人は愛を嘯く.Case2 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/08/16(木) 01:49:13 ID:wmy+g0B6

「君は好きな人がいるのかい」
 コーヒーカップを机の上に置いて、《彼》は唐突にそう話を切り出した。しばらくの間話が途切れていた
だけに、私はいきなりの彼の言葉に面食らってしまう。何を言うのだ、と言い換えそうと思ったが、途中で
馬鹿馬鹿しくなってやめた。
 同じように、自分の前にあるカップをすする。
 美味くもなく、
 不味くもなく。
 苦いだけのコーヒーだった。
「藪から棒に」
 唇を離し、突き放すように私は言う。まさか彼が、そんなことを言ってくるとは思わなかった。
 似合わない。
 正直にそう思った。その反面で――彼が真顔で愛を語る姿がありありと想像できた。彼は心に微塵
も思ってない愛を、さらりとすらりと、まるで言葉のように愛を口にするだろう。
 私に向かってでなければ、それもまた構わないのだが。
「蛇が出てきたらどうする気だい」
「それはそれで――」彼は言葉を切って、ゆっくりと、膝の上で手を組んだ。微かに膝を組みなおそうと
して、すぐにとりやめた動作が見えた。足が悪いのかもしれない。指を一本一本組み合わせながら、彼は
どこか穏やかな口調で言う。「――面白いと思うよ」
「……ふぅん」
 もう一度、彼の姿を上から下までゆっくりと見る。半袖のポロシャツにスラックス――ただしその色は
八月の炎天下に似合わない黒一色。髪も瞳もまた黒く、外を歩けば熱中症にでもなりそうな格好だった。
 もっとも、まあ。
 それは私とて、他人のことを言えないので黙っておく。少なくともコーヒーショップの中はクーラーが
きいていて、熱射病になる心配はない。僅かな奇異の目が気になるだけだ。
「……君はどうなんだい?」
 僅かに興味をひかれて、私は問い返した。
 彼――名前も知らない彼に、好きな人がいるのか、気になったのだ。
「僕?」
 彼は子供のように首を傾げて、それから、しばらくの間考え込んだ。考え込まなければ
出てこないようならば、間違いなくいはしないだろう。彼が考えているのは人名ではなく、
言い訳の言葉なのだろうから。
 私は興味を失い、視線を彼から窓の外へと映す。日中の気温は三十度をこえ、コンクリート
からは湯気が立ち昇っているように見えた。
 真夏日。
 どうして私は此処にいるのだろう――そんなことを、今更ながらに、ふと考えてしまう。



154 :狂人は愛を嘯く.Case2 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/08/16(木) 01:58:56 ID:wmy+g0B6

 私は彼の名を知らない。否、それ以外の何もかも知りはしない。
 私が此処にいるのも、
 彼が其処にいるのも、
 ただの偶然だ。
 私の待ち合わせの相手が《不幸な事故》――これもまた、話すと長くなることなので
割愛させていただく。機会があれば、また別の時に――にあって来られなくなり、独りで
暇を持て余していなければ。
 あるいは《彼》が、滑稽にも迷子になっていなければ、こうして向かい合って茶を飲むこと
はなかっただろう。あくまでも、ただの偶然だ。私も彼も暇を持て余していたから、とりとめ
のない会話を交わして――その挙句に、今のような質問が出たのだ。
 この街の人間ではない、と彼は言った。
 その言葉に嘘はないだろう。彼には街のにおいがない。この街の臭いが、という
意味ではなく、どこかに居住する人間の、ある種の生活感のようなものが存在しない。
 旅をしてきたのか、
 あるいは、旅をし続けている最中なのか。
 どちらにせよ彼は余所者で、別れてしまえば二度と出会うこともないだろう。彼が幾つか
もわからないが、見た目からすればまだ学生で通じる顔立ちだった。夏休みを利用しての旅行――
そう考えるのが、適切なのだろう。
 そう考えることができないのは、
 彼の持つ――雰囲気のせいなのかもしれない。
「好きな人、か」
 彼は繰り返すように言って、それから一度、大きく嘆息した。
 疲れを吐き出すような、
 哀れみさえ満ちた、
 深い深い――ため息だった。
 そして息が途絶えた頃に、彼は平然と、当たり前のように言った。
「好きになってくれる人ならいたんだけどね」
「……ふぅん」
 伊達男のような、取り様によっては酷く気障ったらしい言葉。
 けれど――その言葉は。
 酷く疲れて、
 惨く感想した、
 乾いて砕け散りそうな、声だった。



156 :狂人は愛を嘯く.Case2 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/08/16(木) 02:07:41 ID:wmy+g0B6

「恋人に死なれでもしたのかい」
「そんなところかな」
 私が嘯くと、彼は飄々と返した。嘘にしか聞こえなかった。嘘だと思う信憑性すらなかった。
嘘でも真実でもなく、ただ言葉を吐いているような――無意味な声だった。
 空っぽだ。
 言葉が反響している。
 経験上――自慢ではないし、全く自慢にならないが、七月の例を出すまでもなく私は『厄介な人種』と
めぐり合うことが多い。決して当事者にはならないのだが――こういった種類の人間は、総じてろくでもない。
 ろくでもない、ひとでなしだ。
 ・・・・・・・・・・
 私がそうであるように。
「……ふぅん。傷心旅行?」
「さぁね」
 彼は肩を竦めた。仰々しく、演技ぶった態度が心地良く感じられるのは、私だけなのだろうか。
「傷ついたかどうかも、よくわからないから」
「そういうものかい」
「そういうものだよ」
 それは嘘なんだね、と言おうと思ったが、やめた。言うまでもないことだった。私が言わなくても
彼は自分が嘘を吐いていることを知っているだろうし、指摘せずとも彼は認めているだろう。
 心は傷つかない。
 そんなものは、ありはしないのだから。
「いい子だったのかい」
「もう忘れてしまったよ」
「そうだろうと思ったよ」
 私は嘯いて、それからコーヒーを空にした。ほどなく給仕が代わりを注ぎにくる。その間中、彼は黙って
私を見ていた。私もまた、黙って彼の黒い瞳を見ていた。
 忘れたよ、と彼は言った。
 それは果たして、本当なのか、嘘なのか。
 そもそも――そんな恋人がいたのかどうか。
 私にはわからなかったし、詮索するつもりもなかった。ただ静かに、代わりが注がれたコーヒーカップを
傾けるだけだった。美味くもなく、不味くもなく、苦く、熱い。
 紅茶のほうがよかったかもしれないと、私は今更後悔する。
 後悔するのは、いつだって後になってからだ。
 終わってからでしか、気付けない。




157 :狂人は愛を嘯く.Case2 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/08/16(木) 02:23:46 ID:wmy+g0B6

「ふぅん……それで、君」
「うん?」
「今はいるのかい?」
 恋人がかい? と彼は問い返し、私は片思いでも結構だよ、と答えた。他人の色恋沙汰に興味はないが、
《彼》の色恋沙汰には、少しばかり興味があった。初対面の相手にしては珍しいが――逆に、初対面で、
これきりの出逢いだからこそ興味が沸いたのかもしれない。
 あとくされがないというのは、良いことだ。
 クーラーの中で呑むコーヒーと同じくらいには。
 彼は私の質問に、間をもたせるかのようにコーヒーをすすり、ゆっくりとカップを元に戻して、
 かちん、と皿とカップが触れる音がして。
 その音に被せるようにして、彼は言う。
「好きになってくれる人なら、いるけれどね」
 冗談のように、そういった。
 それが先の言葉を踏まえての韜晦なのか、それとも真実なのか――まったく関係のない嘘なのか。
 真実のように、聞こえた。
 なぜなら彼は、自身がその相手をどう思っているかとは、言わなかったのだから。初めの質問である
「好きな人がいるのか」という問いに、彼は微塵たりとも答えていない。はぐらかすような
嘘の返事は――ただの事実でしかないのだろう。
 となると、彼はその相手と旅行にきたのかもしれない。
 はぐれて迷子になっていたと言っていたから――そのはぐれた誰かが。
 彼を好きになった人間なのかもしれない。 
 興味はあった。けれどその興味は、《彼》に対しての興味よりは薄いものだった。わざわざ
それを確めようとも思わなかった。余計なことに巻き込まれるくらいならば、早々に立ち去る
つもりだった。
「そうかい……結局、君は誰のことも好きではないないというわけか」
 肩をすくめ、ため息混じりに私は言った。話はこれで終わり。そろそろ立ち去るべきか、私はそう思い、
 けれど、彼は。
 私を見たままに。
 薄い微笑みを浮かべ。
「――君のことを今好きになったといったら?」
 嘘か本当かわからない言葉を、口にした。
 私は驚く。
 突拍子のない彼の言葉に、ではない。
 真剣みのない、彼の言葉に答えるようにして。

「もしそうなら――兄さん。私はこの人を殺します」

 蕩けるような声が後ろからかかると共に、私の首筋に添えられたナイフの光に――私は漸く、驚愕したのだった。
 

 


158 :狂人は愛を嘯く.Case2 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/08/16(木) 02:39:52 ID:wmy+g0B6

 言葉と同時に、重く重く重く体がのしかかってくる。全身を預けるようにして――椅子ごしに
誰かが後ろから抱き付いてきたのだと、すぐに気付く。その誰かが声の主であることも、ナイフ
をつきつけた相手であることにも。
 わかっていても、動くわけはいかなかった。抱きついてきた誰かは悔しくなる程に手際がよく、
ナイフの刃先を一瞬たりともはなさなかったのだから。それどころか、抱きつきながら逆手に持ち
直すようにし、腕で隠すようにして私にナイフを当てた――傍から見れば、無邪気に後ろから抱き
つかれているようにしか見えない事だろう。
 言葉も、
 行為を挟む暇もない。
 流れるように――完璧な。
 恐ろしい程に、手馴れた動作。
「ああ」
 けれど《彼》は、その行為をすべて眼前にしていたにもかかわらず、眉一つ動かすことなく。
「いたのか」
 日常のように――そう言った。
 日常の続きであるように。
「探しましたよ、兄さん。何処でお茶を飲んでいたのですか」
「此処で飲んでいたんだよ」
 少女のように幼い声も、彼と変わりなかった。私に凶器を突きつけながら、淡々とした
口調で会話を続けている。突きつけられているナイフさえなければ、私はこの二人の会話を、
仲の良い兄妹の会話としか思えなかっただろう。
 否。
 そうではないのかもしれない。
 彼が異質であるように、
 彼女もまた、歪なのだと――私は気付いている。
「……はじめまして」
 言いながら、私は唯一動かせる瞳だけで彼女を観察する。私に抱きついている腕は少女のそれで――
ただしセーラー服の袖口から覗く左腕は、作り物だった。肩口から、彼女の黒い髪が垂れてくる。
 抱きつかれているせいで、少女の香りがする。
 甘い、香りが。
 腐り落ちる――果実のような。
「はじめまして――」
 返事は期待していなかったのに、少女は、律儀にも答えた。
 動作と共に。
「――さようなら、誰だかわからないあなた」
 ちり、と。
 僅かに――肌が避ける感触が、胸元からした。シャツの隙間、隠すようにあてられているナイフが、
わずかに体側にめり込んできている。刃先が皮一枚を破り、肌の上に薄く血が流れる。
 彼女は、本気だった。
 どこまでも――日常のように。
 言葉の通りに、理由もなく意味もなく、一瞬の後には私へとナイフをつきいれるのだろう。
 そうならなかったのは。



159 :狂人は愛を嘯く.Case2 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/08/16(木) 02:57:55 ID:wmy+g0B6

「おいで」
 一言だった。
 それだけだった。それ以上でもなく、それ以下でもなく。たったの一言だけ、《彼》は言った。
私にではなく、今にも私を殺そうとしている、彼女の妹に向かって。
 効果は絶大で、即効性だった。
 私の肉を抉ろうとしていたナイフが止まり――抱きつく彼女が、顔をあげて彼を見る
気配があった。彼女の中で、私という存在の重要性が、瞬く間に塗り替えられていくのを感じる。
 彼女の世界では、
 兄こそが全てなのだろう。
 そう、感じた。
「……でも、兄さん。私は兄さんにすりよる女を、殺さないといけないんです」
「おいで」
「……兄さん……ですから……」
「おいで」
 物騒なことをあっさりと言う彼女に対し、彼は同じことを三度繰り返した。そして、三度までが
限度だとでもいうように――彼はコーヒーを空にして、口をつぐんだ。
 真上で、気配が惑っているのを感じた。
 彼女は私と、彼を交互に見て。
「……もう、兄さんは、卑怯です」
 どこか拗ねたような、可愛らしい声でそういった。
 同時に――すっと、ナイフが遠ざかる。体にかかっていた圧力が瞬く間に消える。するすると、彼女の手が、
体が離れていく。あとには一筋、胸から血が流れるだけだった。
 自由になってようやく――私は顔を動かして、初めて彼女を見た。そのときにはもう、彼女は机を杖がわりにして
反対側へと移動している最中だった。黒いプリーツ・スカートがひるがえる。ナイフはいつのまにか姿を消していて、
彼女はつい先まで私にそうしていたように、《彼》に後ろから抱きつく。
 私の傍には、折りたたみ式の車椅子。左手だけでなく、彼女は、両の脚も作り物だった。
 まるで、
 作り物の人形のように。
 現実味のない――兄妹だった。ともすれば、作り物を身につけた妹よりも。生身にしか見えない
兄のほうが、作り物めいているというのは皮肉な話だが。
 そんな私の視線を気にすることなく、彼女は彼に抱きつき、後ろからキスをした。《彼》は拒むことなく
それを受け入れる。兄妹、という言葉が頭に浮かんだが、それこそ意味のない言葉だろう。
 二、三度ついばむようなキスを交わして――ようやく、《妹》は唇を離した。そうして、陶器のように白い頬
をわずかに赤く染めて、
「兄さん、私心配したんですよ」
 恋をする少女のように、そういった。
 彼の言った『好いてくれる相手』とは、彼女のことなのだろう――私は確信を持つが、それ以上詮索する気にはなれなかった。
 否。
 これ以上、此処にいる気にはなれなかった。
 ここは――異界だ。
 私の世界ではない。
 彼の世界だ。
 彼らの世界だ。
 彼はともかく、
 彼らは、語り手を必要としていない。
 一つの世界で――完結している。閉じきった環に、語り手は必要ない。
 暇潰しも、これで終いだ。



160 :狂人は愛を嘯く.Case2 ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/08/16(木) 03:17:36 ID:wmy+g0B6
 それは彼もまた同じことだったのだろう。妹を抱きつかせたままに、彼は椅子から立ち上がった。
後ろから抱き付いていた彼女が、吊るされるようにして地から脚を浮かす。その彼女の脚が再びつく
よりも早く――彼はまるで王子様のように、《妹》を抱きかかえた。
 御姫様抱っこ。
 不思議と、似合っていた。
 彼は妹を抱きかかえたままに、私の横を通り過ぎ、

「――ばいばい」

 それが、別れの言葉だった。彼は妹を車椅子へとおろし、車椅子を押して、去っていく。
 あっけないほどに、あっさりと。
 私は。
 私は――
 一つだけ、彼に聞いておかなければならないことがあった。
 私は座ったままに振り返り、今にも立ち去ろうとしている《彼》の背に向かって、質問を投げた。
「どうして――私を助けた?」
 そう――
 もし彼が言葉で妹を止めなければ。
 ここが人前であるとか、ここが喫茶店の中であるとか、そういったことにまるで関係なく、彼女は
私を刺し殺していただろう。《兄》を奪いかねないという、それだけの理由で。
 狂的な愛。
 病むほどに一途で、儚い愛情。
 妹は、それを持っている。けれど――彼がそれを持っているとは、思えなかった。
 だから、訊ねた。
 私の質問に、彼は脚を止め。
 けれど、振り返ることなく――今までと何一つ変わらない口調で、言い切った。

「退屈しのぎになったから。それだけだよ」

 それは。
 それはきっと――彼が初めて口にした、嘘以外の言葉だったのだろう。
 韜晦でも、
 比喩でも、
 皮肉でもなく。
 彼の本心、だったのだろう。
「……そうかい」
 私はそれだけを言う。それ以外に、言うべき言葉はなかった。彼も、彼女も、何を言おうともしなかった。
 止めた脚を、再び動かしながら。
 彼は、歌う。

「雨に――唄えば――」

 退屈しのぎのように唄いながら、古ぼけた唄のサビの部分だけを繰り返しながら、名前も知らない彼と、
名前も知らない彼女は、私のもとから去っていく。

「雨に――唄えば――」

 そうして、
 彼らは、
 恐らくは二度と会うことはない、近くて遠い世界にいきる彼らは――去っていった。
 その歌声だけが、彼らの姿が見えなくなっても、私の耳から離れることはなかった。
「……雨に……唄えば……」
 彼が口ずさんでいた歌詞を口の中で弄びながら、私は。
 遅まきながら、気付く。
「ひょっとして……彼の代金は、私が払うのかい?」
 答えるものは、誰もいなかった。
 
   了