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450 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/08/30(木) 00:55:38 ID:PLj8WAU4
僕の取るべき行動は唯一つ―。

北方さんに理不尽で無意味な自殺を思いとどまらせる事だ。

彼女に自殺などさせるわけにはいかない。
賢明な彼女だから、この自殺の企てが愚かしいことであることくらい解っているだろう。
そして、彼女自身、死にたいという感情の濁流に流されていながら、心のどこかで助けて欲しい、そう願っているはずなのだ。
それは、彼女の遺書が雄弁すぎるほどに物語っているではないか。

ここで死んでしまっては、彼女は何の為に生まれてきたのであろう?
母親の虐待だけではなく、父親の無視、使用人の無関心を幼い時分から一心に受け続けた。
そして、母親が目の前から姿を消し、父は彼女の為に心を砕く事によって、やっと幸福な日常に期待をもてるようになった。
しかし、今度は彼女のクラスメイトが彼女を虐げ、再び心を閉ざそうとした。そして、今まさに、命までも捨てようとしている。
ごく平凡な家庭環境に育った僕には、彼女の受けた虐待による心の深い傷も、自分の価値観を共有する相手とだけしか関わらないようにしてきた、彼女の生き方も知る術は無い。
しかし、そんな僕にもその痛みをわが身を抓って推し量り、少しでも苦痛を和らげる為にしてあげられることがあるはずだ。
茨の道を通り抜け生きるべきか、苦しみからの解放を求め、死すべきか?
そんなことは簡単だ。
彼女にだって幸福を享受する権利はあるのだ。
生きる、ということは苦しみだけなのではない。
そして、彼女は苦しい思いをした分だけ、幸福な経験をするべきなのだ。



451 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/08/30(木) 00:58:10 ID:PLj8WAU4
当然、理沙の存在が気がかりでないわけではない。
肉親でありながら、僕の生活を監視し、愛する人を貶めたからとはいえ、憎むつもりは毛頭ない。
しかし、僕はここで、理沙か、北方さんかを選ばなければならないのだ。
たとえ、選択した彼女が僕の思うようにならなかったとしても。
僕は今まで、そうしなければならないことは解っていた。
この問題が二律背反、相容れざる者同士の問題であることを。
しかし、僕は今まで、その現実から目を背けてきた。
どんなに深刻な状況になっても、今ならまだ戻れると信じて、選択の義務を放棄してきただけに過ぎないのだ。
だから、それに気がついた僕は、放棄せず、彼女を探し出さなければならない。そして、彼女が運命と決めてかかる理不尽な選択を破壊しなければならない。

そして、震える手でペンを握りしめ僕の担当医でもある院長に手短に状況を伝え、自転車を借りる旨をメモに書き記し、
ナースステーションの看護婦に手渡すと、自転車置き場に駆けていき、自転車に跨った。
そして、足にあるだけの力をかけてペダルをこいで北方邸へと向かう。

ただ、運命という名のもとに引き起こされる悲劇を防ぐ為に―。


452 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/08/30(木) 01:00:04 ID:PLj8WAU4
運命、そんな言葉に翻弄されてきた私の人生はあまりに滑稽。
私は何かと苦しい思いをするたびに、全てこの運命なんだと割り切り、理屈で自分を納得させてきた。
しかし、そう思うと同時に、淡くではあるがその運命という名の呪縛から解き放たれるだろう、という無意味な期待を抱いてしまっている自分がいた。
自分から何らかの行動に出れば、何か変わっただろうか。
結果的に苦しみを生む結果しか待ち受けていなかった。
そして、今になって考えると、その抵抗は終着点へとより早く到着させる効果があったよう。
それを傍らから眺める人からすれば、喜劇に過ぎないのだろう。
そう、結局は全て、喜劇に過ぎないのだ。
だから、そうであることを悟った私はもうこんな自分が生きる事など、どうでも良くなった。
おそらく、私はその運命によって定められた通りに生きていくことをこれからも強要されるのであろうから。
そう思うと、いい運命に生まれつくか、悪い運命に生まれつくかは文字通り運命なのだろうと思う。

私が今の父と母の元に生まれついたことも運命。
母が嫉妬に狂い、私が虐げられたのも運命。
父が母を恐れ、何もできず逃げるように仕事に没頭していたことも運命。
あの頃の使用人が私に都合よく合わせ、裏で陰口を叩いていたことも運命。
私が学校に上がっても友人をろくに作ることができなかったことも運命に他ならない。
……きっと、私が松本君と出会い、一縷の希望を抱かせておきながら、
こうして絶望の淵に立たされたまま自らの命を絶つという選択も、きっと、運命、なのだろう。


453 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/08/30(木) 01:01:51 ID:PLj8WAU4
それならば何故、私はこんなにも未練がましい遺書を書いたのか。
それならば何故、私は彼の元に、村越さんを使って、その遺書を届けさせたのか。
そして何よりも何故、どうして、私は今、涙を流しているの?
最良の選択を取ろうとしているのに、涙なんて流さないと思っているのに、どうして目頭がこんなにも熱く、涙もあふれてくるのだろう。

わからない。わからない。

運命に翻弄される人生であるということがわかったのに、どうしてそんなことがわからないというのか。
あれほど無意味な勉強を続けてきたというのに、どうしてそんなことすらわからないというのか。
もし、こんな疑問を抱き、絶望の淵に立たされたまま、自殺しろという運命があるのならば、その結末を決めた神を私は恨む。

けれど、それがわからなかったとしても、彼の為にはこの選択が一番。
それが正しいか、何故であるかを考えた所で詮無きこと。
私がおめおめと彼に依存して生きる事によって、松本君にまで迫害の手をむけるわけには行かない。
それこそ、いつか私が松本君の妹を形容した寄生虫、に他ならない。
仮にあの学校を卒業したとしても、私と一緒に生きていくことは多大な苦しみを彼に与えてしまう。
それは、彼のことを思う人間ならば、絶対に選択してはならない選択肢だろう。
今でも、彼のことを愛しているからこそ、私はここで見事に死に花を咲かせるのだ。
光のようにどのような存在も受容してきた松本君。
だけれども、ここで私がうまく死んでしまえば、優しくて、優しすぎるきらいのある彼とはいえ、私の存在が彼の心から消えてしまうのは時間の問題。
目の前に置かれた、松本君の写真―。
私の存在が彼の心から消え去ったとしても、私の心から彼の存在を消したくはない。そう思って、眺めていたその写真を胸ポケットに入れる。
それが報われることはないだろうが―。

昨日、綺麗に整頓した私の部屋を見回して、ゴミが落ちていないことを確認すると、廊下に面した襖を閉じる。
そして、庭に面した障子を閉め、畳二枚を裏返した。
それから、祖父がこよなく愛し、その死の前に父に託したという脇差を違い棚から拾い上げる。
夏の昼間故に、ミンミンという蝉の大合唱が騒がしい。
こうしてミンミンと鳴いている蝉の内、どれほどが今日の夕方死んでいるのか。
蝉も私の命も所詮、運命の前には鴻毛よりも軽いに違いない。



454 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/08/30(木) 01:03:31 ID:PLj8WAU4
急ぎに急いで、ただ自転車のペダルをこぐことだけに集中させてきた僕の身体は、息があがりはじめ、足も痛み出してきた。それでも、ただ自転車の車輪を転がし、ただただ進むだけだ。
北方邸の門がようやく見え、邸宅がいつもどおりの静けさをたたえている様子を見て、僕はもう間に合わないのではないか、という諦念と怠惰な感情が沸きあがった。
しかし、こうしている間にも彼女は死に就こうとしているのかもしれない。
だけれども、それはまだ死んでいないということに他ならないのだ。
だから、助けなくてはならない。

自転車を擲って、内側から閂が下ろされている門の横の壁をよじ登る。
壁を越え、庭の木々の間をすり抜け、北方さんの部屋に面している庭に躍り出た。
障子に人影が映っている。
おそらく、北方さんであろう。
きっと、まだ、生きているに違いないのだ。
だから、僕はすぐさま縁側に上がり、障子を勢いよく開け放ち、その部屋にいるであろう北方さんに声をかける。
「北方さん!僕です!松本弘行です!話さなければならな…」
目の前に広がっていた光景に気がつき、僕はかけた声を止めた。
もとより几帳面な彼女の部屋だったが、今のそれはものがなさ過ぎて、殺風景と言ったほうがよいくらいだった。
広々とした部屋の中央の畳二枚を裏返してあった。
そして当の北方さんは裏返された畳の上に正座し、いつもどおりのポーカーフェイスで佇みながら、脇差の刃の一部を布でくるみ、その上を握っていたところであったからだ。
「そんなことをしては駄目だ!すぐにその物騒な脇差を置いて!」
そういって、脱ぎかけていた靴を放って、部屋に上がり込み、僕の存在を確認して、あわてて刃を喉元につき立て死のうとした彼女の腕を握る。
そして、掴んでいるもう一方の手を使って、必死に彼女の持つ脇差を取り上げると、少し離れた彼女の机に置かれていた鞘に収め、机の上に置いた。


455 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/08/30(木) 01:05:24 ID:PLj8WAU4
脇差を取り上げられた彼女は、ただ俯いたまま、ぶつぶつと何かを言っていた。
それは歯が取れたオルゴールの音色のように不規則に、ところどころしか聞き取ることができなかった。
「……どうして………。」
「………私は……苦しめて……。」
震える唇の間からかろうじて聞き取れる程度の言葉を紡ぎだし、肩を震わせ、裏返された畳に血のしぶきではなく、涙の滴りを落とす。
目の前の彼女はもはや、冷厳に仮面の自分を守ろうとせず、ただこみ上げる悲しみという奔流に翻弄される一人の不運の人に他ならなかった。
そんな彼女の様子が哀れに思えた。
まるで、僕があの忌まわしき自転車事故の顛末を知ったときのようで―。
そして僕はあの時、彼女が僕にしてくれたように、今にも崩れてしまいそうな彼女を抱擁した。
「………っ!」
「良かった、北方さんが死なないですんで……。」
「……どうして?どうして、私なんか…」
「どうして、って、理由なんて簡単。北方さんに苦しみを抱いたまま喜びも感じることなく、ただ絶望の中で死んでほしく無いからだよ。」
「あの自転車事故の顛末を知ったとき、北方さんだって悲しむ僕をこうして抱いてくれて、慰めてくれた。
僕はそうされて絶望から立ち直ったんだ。だから今度は僕が北方さんを立ち直らせる番なんだよ。」
「……。」
鳴き咽ぶ北方さんが落ち着くまで、強く抱擁し続けることにした。
すぐ傍に感じる北方さんの温もり。
僕はあの日、理沙を拒絶したが、あの時求め、守りたいと思ったものはまごう方なくこの北方さんの温もりなのであろう。


456 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/08/30(木) 01:07:37 ID:PLj8WAU4
この家の前に差し掛かったとき、僕が諦めていれば、遺書を発見した時、彼女を守ると決めていなければ、
そして何よりも理沙を拒絶し、彼女を守る決意を持たなければ、この温もりは失われ、僕は後悔してもしきれない人生の汚点を作っていただろう。
それにしても、僕は北方さんが本当に呆れてしまうほどに、愛しているのだと確認する。
どれだけ時間がたったであろうか。この部屋に備え付けられている時計など眼中になかった。
しかし、随分と時間が経ち、日差しが非常に強くなったとわかった頃、ようやく北方さんの涙は引き、落ち着きを取り戻しつつあった。
落ち着いてきた頃を見計らって、彼女から離れて、北方さんに自分と生きて欲しい、とそう切り出そうとした。

「北方さん。」
「松本君。」
同時に相手の名を呼んだ。
北方さんに思うところを聞くことで、彼女がどう考えているかを把握することができる。
その上で彼女を納得させたほうが賢明だろう。

「北方さんからどうぞ。」
「え、ええ。」
北方さんの宝石のような光沢をたたえた瞳が真剣な眼差しで僕を見つめる。
「…松本君、私……」
「私は…私は、気づいてしまったの。自分が想像している以上に弱い、ということに。松本君と離れている間、ずっと私は悪くなる状況を座視しているだけだった。」
彼女の細く白磁のような繊細で白い腕に二箇所ほど紫がかったあざがあることに気がついた。
「私、あなたの傍にいたい、って前に言ったの覚えている?」
「う、うん。もちろん。」
彼女の腕の青あざに気をとられながらも応答する。
「でも、あれは私の弱さをあなたと一緒にいるという事で隠していたのだと思う。」
「やはり、あなたは私から離れて、もう私の存在など忘れ去ってしまうほうが良いわ。
これは簡単な事で、私が今ここで死んでしまえばいいだけの事。あなたには面倒にはならないはず。」
「それは、絶対に僕は、僕はできない。北方さんに死んで欲しいなんて、僕が死んだとしても思わない。」
「北方さんもどんな意味があったにせよ、僕の傍にいたい、そう言った。それと同じように僕も北方さんの傍にいたい。」
「…………。」


457 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/08/30(木) 01:13:06 ID:PLj8WAU4

彼女の性格の事だ。彼女が生きていて、僕が北方さんに協力的な行動を取ることで、迫害が僕にまで及ぶことを恐れての発言なのだろう。
でも、それは僕にとっては些事でしかない。
それに、クラスメイトを焚きつけたのが理沙やその友人だとすれば、僕に対して攻撃することがあるわけが無いという考えもあった。
第一、多対一で人を攻撃する構図が出来上がってしまっている以上、僕が彼女を見捨てたとしたら、彼女はどうするというのだ。
当然、自殺に帰着するだろう。
自分が弱い、ということをこうして告白している時点で、助けて欲しいというサインと取るべきなのだ。

「僕は、言ったことを弊履のように破り捨てる人間じゃないつもりだよ。」
「傍にいたい、愛している、そう言った人間がちょっとした問題にぶつかったからといって見捨てるなんておかしいと思うよ。
だから、北方さんは生きなければならない。そして僕はそれを応援する責任がある。」
「でも、それだと、松本君にも…」
「大丈夫。いつだったか北方さんも言ったよね?僕の痛みはあなたのものだと、ね。もし、そうなら逆も成り立たなければおかしい、そうは思わないかな?」
「それでも、あなたは…どうしても、私の傍に居ては…ならないの。」
「私は弱くて、何でも松本君に依存してしまうと思う。それに、依存し続ける為にあなたに独占欲を抱き、
それがあなたを傷つけたり苦しめることになるのよ?それに、今もそうだけれども迫害の手があなたにも及ぶのよ。
これらはあなたにとって、迷惑以外の何物でもない。」

「じゃあ、うぬぼれたことを言わせて貰うけれども、君はいったい誰に依存できると言うんだい?
苦しいときは『傍にいて欲しい人』に依存してしまうのは、当然じゃないか!それとも、僕はそういう対象でないということですか?」
その後、彼女が否定の意を表す言葉を口にしたのはわかったが、こらえていた嗚咽と混じってしまい、なんと言っているか解らない。
「よく、聞こえなかった。」
「あなたは………では…ないです…。」
「そう、それなら、北方さんはそんなどうでもいい人に傍にいて欲しい、それ以上は望まない、なんて冗談で言える人なんですか?
また、あなたの傍にいたいと心底願っている今の僕に届けられたあの遺書の中にもそう書いてあったけれども。」
こんなことを言っていると自分が心底嫌な奴だと思えてくる。
けれども、このまま一度自殺を試みようとした北方さんを一人にしたらどうなってしまうか解らないから、そう言った。


458 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/08/30(木) 01:16:04 ID:PLj8WAU4

「あなたなんて、嫌いです。」
横を向いたまま静かにそういった。
「それなら、北方さん、同じことを僕の目を見て言えますか?あなたも分かると思うけれど、僕はあなたと違って愚かな男です。
だから、あなたの目を見て本当にそう思っているのか、きちんと確認したいから。」
「……そんなことする必要なんて無いわ。」
「それは残念ながら、僕が判断することだよね。」
そう言うと観念してか、こちらに顔を向けたが、既に彼女は涙を流しているようだった。
「…松本君なんて………き、」
そう言いかけた所で僕は遮った。
「もう、いいよ、わかりました北方さん。あなたが僕が嫌いだと言うことがわかりました。」
「けれど、それならば、今どうしてあなたは泣いている!」
「嫌いだというならば、泣く必要は無いはずだ。ましてや、価値観の違う相手ならばいくらでも冷徹に突き放すことができたはずだ!」
「泣いてなんか…」
すぐに反論するが、流れ落ちていく涙の滴りがその反論を無意味なものとしてしまっている。
「これほどまでに北方さんは涙を流しているのに!」
「僕は北方さんを拒んだりしない。今までだって拒んだりしたつもりは無かった。
今になってみると自分の今までの優柔不断な行動がどれだけ北方さんを苦しめたか、わかっているつもりだ。
だから苦しめた分だけ……あなたを守りたい。」
「でも…私があなたに与える苦しみは……あなたの与えてくれる喜びよりも、はるかにはるかに、大きいものよ?」
震える声でそう返して来る。
「けれど、北方さんをそれだけ大きな喜びを与えられるというこの裏返しでもあるわけ。」
「馬鹿げた希望的観測かもしれないが、悠久に続いていく苦しみなんて一つとして存在し得ない。少なくとも僕はそう思っている。
だから、この悪夢の夜もいずれは終わりが来る。そのときに二人が喜べるなら、そのための痛みならば、僕は我慢できるはずだと思う。
そうすれば、北方さんは今の時点ではわからないかもしれないが、死ななくて良かった、そう思えるに違いないと思うよ。」
「これだけ言っても北方さんが僕に別れて欲しい、自分は死ぬ、というならば、女々しいかもしれないが、あなたの目の前で死んで死ぬということがどういうことか、
北方さんがさっきまで持っていたこの脇差で見せるつもりだ。」
「!」
「僕だって、死ぬのはごめんだよ。だけど北方さんがそうするというなら、露払いをしてその意味を示すさ。それで、あなたが生きてくれれば結構。」


459 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/08/30(木) 01:18:35 ID:PLj8WAU4
思い切ったことを言ったが、彼女にはこれ位言ったほうがちょうど良いだろう。
彼女は僕を苦しめないように考えているのに、自分の目の前で死ぬ、と言ったら卑怯な手かも知れないが、彼女も考え直してくれるとそう思ったからだ。
もう、自分が打てる手は尽くした。あとは彼女の判断に任せよう。
「……あ、ありがとう…。きっと、私が間違っていたのね、松本君。私、松本君に助けられてばかり、これまでも、これからも。
でも、私にはあなたしか……だから、ずっと…」
そう言うと、静かに僕に口付けてきた。
それを僕は受けとめ、暫くの後、ゆっくりと彼女の身体を離す。
しかし、本当に彼女が建設的な判断をしてくれてよかった。彼女がその決断を下さなかったら、当然この畳や障子紙にしぶいていた血潮はおそらく僕のものであることは確実だった。しかし、それが僕一人のものとも限らない、そう踏んでいたのだ。だから、本当に良かった。
そして、その喜びをかみ締めつつも、自分の決意を改めて彼女に伝える。
「ずっと、ずっと傍に居続けるよ、時雨。」
「わ、私の事、初めて、初めて名前で呼んでくれた…。」
「ずっと、その名前で呼んでもらいたかった。うれしい…弘行さん。」
そう言うと再び、口付けをした。
時雨は今日何度目になるかわからない涙を流していた。
しかし、それはようやく、喜びの意味を持つ涙だった。



461 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/08/30(木) 01:19:49 ID:PLj8WAU4
そして、その頃、服毒自殺を図った松本理沙の搬送された大村病院では、弘行以外の全ての家族が見守る中、応急処置がなされ、既に成功し完了している頃だった。
彼女が自殺に用いた薬はアトロピン―。あの地下室で作られたものの一つに相違なかった。
しかし、彼女の部屋にはさらに強力な毒である青酸があった。
彼女が青酸を取らなかったことと、アトロピンも致死量ぎりぎりしかとらなかったことが、彼女が奇跡的に死なずに済んだ要因であった。
しかし、息子に引き続き、娘までもが病院に入院する大事に巻き込まれることになったため、その奇跡を両親は喜ぶことは当然できなかった。
そして、今日、退院するはずの弘行が自身の妹の理沙のもとに来なかったことにも、怒りを感じていた。
「きちんと連絡を3時間程前に連絡したのですが、息子さん、いらっしゃりませんでしたね。」
「………。」
「連絡したのですがね、やはり、息子さん、退院が先送りになったのではないですか?」
「いや、そんなことは無いはずだ。もう、退院したと連絡を受けたが用があるとかで、すぐに来られないと聞いた。」
「そうですか―。」
そうですか、という医師の言葉の裏に、自殺を試みた娘、非常識な行為を取った息子への嘲笑が含まれていることに気がついて、父親は顔をしかめた。
それよりも、自分が手当てをされていたときに、誰よりも好きであった兄が傍にいなかったことを知ったら、理沙はどう思うのだろうか、そう考えると父は気が気ではなかった。
そして、妹が死ぬかもしれないときに、それよりも重要な用事があるのかという息子への怒りがより強いものとなって、こみ上げてきた。


462 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/08/30(木) 01:21:37 ID:PLj8WAU4
前に使っていたものよりもより大きな電子音を立てる目覚まし時計。
寝ぼけながら無意識のうちに時計を止めてしまうことがデフォルトであった。
しかし、病院での規則正しすぎるきらいがある生活に慣れ、病院の窓よりもはるかに大きい作られている窓から差し込んでくる、
刺すような日差しが差し込んでくるため、今日は普通に起きることができた。
寝ぼけ眼をこすりこすり、鼻眼鏡をかけながら、制服に着替えているところだ。そして、日によっては学校に行く支度を済ませておらず、
あれが無い、これが無い、と右往左往していることが多かった。
しかし、今日は完全に学校へ行く支度もしてあった。
3日前は、時雨に別れを告げた後、自転車を入院していた病院に返し、すぐに妹のいる大村病院へ向かったが、両親は既に帰っていると連絡を受け、家に帰った。
家で僕が父と母から受けた言葉は勿論、退院を祝う言葉ではなく理沙の所に来なかった理由を問いただすものだった。
時雨の事を話すわけにも行かないので、適当に理由をつけて話した為、2時間程の説教を食らってしまった。
父曰く、今後は僕を息子とも思わない、だそうだ。
確かに僕の取った行動は何も知らない人からすれば、決して褒められた行為ではない。
しかし、結果として、北方さんも理沙も、そして僕も、誰も死なずに済んだ。
さらに、僕は二律背反を克服した。
ただこれだけが真実なのだ。

これまでの事など、短い悪夢を見ていた程度に笑い流せる日がいつか来ることだろう。
もちろん、理沙にだって理解してもらえる日がきっと来るはずだ。
そのために、僕は努力しなければならないが―。
そう思うとふと閉じた瞼の裏に、また僕が前のように下らない冗談を言っていられる平和な日々が映し出されてくる。


464 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/08/30(木) 01:24:17 ID:PLj8WAU4
今日は父も母も今日は朝早くから用事と仕事が入ってしまっている為、僕はこの家にただ一人。
そして、僕は階下に学校の荷物を片手に降りていく。
病室の中でずっと、じっとしていて動いていなかったからか、体が異常に重い。
時雨の自殺を思いとどまらせるように自転車を必死にこいでいたときの事が嘘のようだ。
そんな事を考えると、無理をして筋肉痛になってしまった太ももの裏に鈍痛を感じた。
そしてゆっくりと歩いているにも関わらず、何かに躓いてその場に転んでしまった。
荷物を放り出してしまったので、それを拾う為に、立ち上がった先にその躓いたものの存在に気がついた。

それは、薬瓶だった。しかも、そこには『アトロピン・チョウセンアサガオから抽出』と縮こまった理沙独特の字で記されたラベルが貼ってあった。
僕が以前入っていた、化学部が廃部になった際に、いろいろと器具やら薬品やらを回収して、地下室にまとめて、半ば実験室のように整えたことがあった。
そのときに興味を示した理沙にいろいろと教えた。いろんな溶液から結晶を作る実験を一緒にしたり、僕が本を片手に薬品の精製するのを手伝ったり、かなりいろいろな事をした。
この実験室は最近では専ら、理沙が篭っていることが多かったと聞いた。
そして、この薬瓶からいって、理沙が同じような薬品を作っているような気がして地下室にもぐりこんだ。
地下室には理沙が錠を設置したようで、当然の事ながら鍵がかかっていて、開けられなかった。
しかし、一度、この実験室の中身について理沙に聞いてみる必要はあるかもしれない。

理沙の部屋に入って鍵のありかを探してみようと一瞬思ったが、僕が盗聴を受けていたときの気持ちを思い出し、
そして時間が無いこともあって、おとなしくダイニングで朝食をとることにした。
まな板の上の野菜サラダの大根を慣れない手つきで包丁を使って、刻んでいく。
しかし、こういうこともなかなか楽しいものだ。
こん、こん、こん、という大根に包丁が入っていく感覚が妙に楽しい。
そして次にウインナーを冷蔵庫の中から取り出し、それに切れ目を入れようとしたが、大根と同じノリで手元をよく見ずに、包丁を下ろしてから引いたので、ぷつりという嫌な音と、痛みと言うよりは何か強い衝撃が指に走った。
うわ、大根でもウインナーでもなくて指に切れ目が入った。
いかん、血がぼたぼたと出てきたせいで、切って端においておいた大根にかかってしまった。
彩の問題でトマトをつけようと思ったが、これでは必要なさそうだな、などという馬鹿な事が咄嗟に思い浮かんで、笑ってしまった。
まあ、そんな馬鹿な事を考えられるくらいだから、傷はたいしたことが無く、まともか。
その時、インターフォンがなったことに気がついた。
その音にびっくりして、三本のウインナーを血のついた包丁で一刀両断にしていた。
それをなるべく見ないようにしながら、絆創膏を急いで傷口に貼り、急いでインターフォンの受話器を耳に当てる。


465 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/08/30(木) 01:25:48 ID:PLj8WAU4
「もしもし?どちら様ですか?」
「弘行さん?私です。北方です。」
彼女が迎えにくるような時間だったかと時計を見るが、いつもより30分ばかり早い。
いずれにせよ、両親がいない中、彼女が来てくれて良かったのだろう。
しかし、例の料理の惨状を彼女に見せたら、おそらく僕は笑われるところだろう。
少し待っててもらって、あの料理の残骸を片付けなくては。
「ちょっと待っててください。」
「どうかしたのかしら?」

何か、見透かされているような気がするが、気にしない。
あわててまな板の大根とウインナーの残骸を皿に盛って、ラップをかけて、冷蔵庫にしまう。
そして、まな板と包丁についた僕の血を水道の水で洗い流した。
計1分37秒という短時間の内に効率的に片付けることができた。
それから、玄関を開放し北方さんを招き入れる。

「どうぞ、入って結構ですよ。」
「ふふ、さっきの時間は何をしていたのかしら?」
そういう傍から、僕の指先の絆創膏に目がいっているようだ。
「その傷、どうしたのかしら?もしかして、朝ごはんまだかしら?」
「い、いや、昨日帰ったときに切っちゃって…ははは」
おお、なんという鋭い攻撃、かわすだけで精一杯。
「そう、それなら朝食は取ってしまったのね。それにしては、台所の洗い物が少ないようだけれども?」
ダイニングに目を向けた後、妙にニコニコしながら聞いてきた。
「え、まあ片付けたからね。」
「くすくす、弘行さん。包丁とまな板だけはしまわない性格なのかしら?
そうじゃなくて、きっと朝ごはん、作るのに失敗してしまったのよね?」
「え?」
「やっぱり図星だったかしら。ご両親はどうなさったの?」
「え、仕事でもういないから、ご飯作ろうと思って…。」
「それなら、私が朝ごはん、作ることにするわね。冷蔵庫のものを適当に使わせてもらって構わないかしら?」
「いや、面目ない…。」


466 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/08/30(木) 01:27:50 ID:PLj8WAU4
「時雨が作ってくれた朝ご飯、とっても美味しいよ。」
「どうもありがとう。そう言ってもらえると光栄よ。」
朝食に舌鼓を打ちながら、いろいろな話をしていた。
何よりも、時雨自身がいじめを受け始める前の僕に対する位の明るさを取り戻しているようで、何よりもうれしかった。
「そうね、あの真紅の装丁の本、病院に置きっぱなしだったわね。」
「うん。あの髪長姫を時雨に重ね合わせながら読ませてもらいました。」
「あのお話の中ではバットエンドだけれども、グリム童話の中に収められている原作の結末は良い終わり方なのよ。」
「へえ、そうなんだ。それで、あの本は誰が…」
「確かにあんなにひどい終わり方なら、誰が書いたか気になるわよね。あれは私の母が書いたもの。それを結婚前に父に贈った。それを私が父から貰ったものよ。」
そんな虐待していた母の本をどうして読んでいるのか、そういう疑問が沸き起こったが、今はあまり触れてはならない気がしてやめておくことにする。
「それよりも、妹さん。大丈夫だったのかしら?」
「ああ、うん。昨日の夜に意識が回復したらしい。」
「それにしても、あなたは大切な妹を放ってまで、私なんかのところに来なくても…。」
「なんか、って言わないで欲しい。僕はどちらも死んでしまいそうな状況で時雨をより助けたい、そう思っただけで、理沙をないがしろに思ったわけじゃない。だから、時雨も自分の事を卑下しないで。」
「え、ええ。でも、少なからず、私にも責任があることだから。」
「それでも、時雨は理沙から迫害を受けて、それはまだ解決していない。だから、僕こそ謝ることはあっても、時雨が謝ることは無いよ。」
「さ、折角作ってくれたのにご飯が冷えてしまうよ。それに、学校にも遅れる。」
そして、朝食を取り終わると、以前のように僕は時雨と一緒に自転車に乗って、学校に向かった。

しかし、このとき二人は気づいていなかった。
理沙の実験室にしまわれている薬品がたくさん入った棚から、青酸とクロロホルムの薬瓶がいくつか消えていることに。